第10話 JC15 武蔵小金井
JC15 武蔵小金井
音楽の街、でもないのに、逸平太のイメージのなかでは、ここが音楽と強く結びついている。
母親に連れられて、しぶしぶ通った音楽教室。
あなたはピアノ教師でした。でも、息子には直接、指導しなかった。親が指導すると、子供が音楽、嫌いになっちゃうからって。でも、親に教えられなくても、音楽にはそんなに興味がなかったかな。部活のテニスのほうが断然、楽しかった。
母親は、宮田楽器の音楽教室と契約をしているピアノ講師で、小金井校と吉祥寺校で生徒を受け持っていた。
家は西荻窪下車だから、吉祥寺まではママチャリで行けたけれど、武蔵小金井までは数駅あったから、火曜と木曜の夜のレッスンは、自分、お供させられて、レッスン中は叔母の家に預けられた。それもまあ、小学生までだったけど。
火曜日は小金井校で三十分だけ、自分のレッスンも受けた。母親でない、ほかの先生のレッスン。
弾けたは弾けたけど、音楽の才能は、本人が好んで向き合っている時間に比例するともいうから、おれにはその才能とやらはなかったね。
でも、中学一年の時の合唱コンクールの伴奏は、ミスなくできたよ。自由曲の「HEIWAの鐘」だった。このあいだ気まぐれに、家のグランドピアノで久しぶりに弾いてみた。楽譜見ながらのつっかえつっかえ、指使いも間違いだらけの演奏で、ちょっと練習しなきゃなあって、思った。
あなたの夫、いつも帰りが遅かったし。でも、寂しそうってわけでもなかったでしょ。
レッスンの帰りは、教室から五分くらいのところに住む妹、つまりぼくにとっての叔母の家で毎回、おばちゃんの家族に混じって夕飯ごちそうになってたし。
おばちゃん、「ねえ、ふたり分の食費、払ってよ」、とか言ってたよ。払ったかどうかは知らないけど。
「おばちゃん…」
「ん?」
「母親、食費、払ってた?」
「食費? どこのっ?」
「おばちゃんちで食べさせてもらってた時」
叔母の麻里は初め、はて、という表情をして、「ああ、払ってなんかいないわよ」、と返答した。
「でもね、こっちもいろいろもらいもんしてたし。どっちにしても大所帯だから、ふたりくらいいても、なんてことないのよ」
叔母は彼女たちの母親、つまり、おれのばあちゃんとも同居している。夫と娘ひとりと息子ふたりの、六人家族。おれらは、ふたりだけになっちゃった、けど。
おばあちゃん、八十六。子供のほうが先に逝くって、どうよ。
でも、おばあちゃんも確か、八十の時、大腸がんの手術した。だからいまでも、半年に一度、とか、一年に一度、とか、一生懸命下剤飲んで、検査受けてる。おれも、遺伝性がんの対象者かも知れないな。
「ペーター、さ」
おばちゃんはおれのこと、逸平太のペーターと呼ぶ。なんでしょう、クララ。や。ハイジっぽい。
「東京霊園、行ったんだって?」
「あ。うん。春先ね。寒いころね」
「あたしらも行かなきゃって思ってるんだけど」
「大丈夫よ。今度は命日で」
「それじゃあ、クリスマスじゃない。寒いわよ」
そう言って、多磨霊園だったらすぐ下なのにぃ、と愚痴った。
「隆弘さん、どうなの? 今日、連れてきたらよかったじゃない」
「あ。親父はだめ、こういうの。ともに、悲しみを分かち合う、的なのは」
「そういう集まりじゃないでしょう。もっと、こう、範囲の広い、懐の深い…」
「行ってみないと、わかりません」
母親の在宅医だった青井先生が、東小金井のクリニックで不定期に催す「花総会」に参加しようと、逸平太は思い立って、この土曜日に小金井に出向いたのだ。ついでに、四十九日以来会っていない親戚に挨拶しようと、叔母の家に立ち寄った。
「やっぱ、ペーター、病んでるの?」
麻里おばちゃん、人を病人みたいに…。でも、まあ、半分くらい、そうなのかな。
「特段ぼくだけが、っていうんじゃなくて、なんか、周りでいろいろと、精神的にまいっちゃってるひと、多くて」
「はあ。隆弘さん」
「だからぁ、親父は…。そうね。志村けんの昔の動画見て、ゲラゲラしてたかと思うと、急に黙り込んじゃたりすることとかは、続いてるかもね」
「それ、まずいじゃない。放っておくと、抑うつになっちゃうわよ」
いや~、どうかな、と逸平太は思いつつ、確かに「病んでるっぽいのは」親父でもあり、おれでもあり、それから、それだけではないんだ、と、心のなかで思っていた。でもそんなこと、麻里おばちゃんに言っても通じないし、驚かれるだけだし。
だからまず、自分が参加してみて、そうだな。効果がありそうな、よさげな会だったら、山口さん誘って…。
ぼうっと考えていたら、麻里おばちゃんが口をはさんだ。
「ペーター。なにかあったらうちに来なさいよ。駅から近いんだから、ここ。おばちゃんはあんたがお嫁さんもらうまで、親がわりするからさ」
お嫁さん、もらうって、時代がね、おばちゃん。でも、ありがたいかな、と逸平太は、居間のソファーに深く腰をかけて、出されたコーヒーに口をつけた。
「ペーター、ピアノ続けてんの?」
「え? もうとっくにやめましたよ」
「あれ、あたし聞いてたっけ?」
言ってなかったかもね。そんなこと、どうでもよかったし。だけど、大学生の中頃くらいまでは、ちゃんと通ってはいたんだ。それから、就活だのなんだので、区切りにしたのかな。
「それじゃあ、家のピアノ、どうすんのよ」
「それなんだよ。おばちゃんち、いらない?」
「いらないわよ。アップライト、あるじゃない」
「売ろうかな、とも思うんだけど…」
と言ったら、叔母が黙った。逸平太も、叔母を前にして、ちょっとだけ軽率な発言だったのかな、と思いめぐらせ、こう続けた。
「当分は、あのままにしとく」
そのことばを聞いて、叔母の麻里はちいさく微笑んだ。
「あ。そろそろいい時間かな。行くわ」
「ヒガコまでどうやって行くの」
「歩き」
「今はアプリがあるから、道わかる?、ってよけいなお世話っぽくなっちゃうよね。あ。三原のせんべい、ありがとね。あっという間に、なくなっちゃうのよー、これ。うっふっふっ」
そうやってちょこっと気が利くの、おねえさんがそうしつけたのかしらー、と、靴をはく逸平太のうしろで、おばちゃんは言った。
安田さん、あがり? と声をかけられてえりなは、地域連携室の看護師に、お先に失礼します、と挨拶をする。
今日最後の仕事は、カンファレンスだった。
九十八歳女性の家族が、看取りは自宅でしたい、と申し出ているケースだ。主治医の荒川先生は、タイミングを見計らっているようだった。終末期が迫っていたし、このまま地域包括ケア病棟で看取り、というほうが正攻法だと、みんな思っていたけれど。
患者の家族は涙を流した。主治医とえりなと、地域連携室の看護師と、病棟のもうひとりの若い看護師、それからケアマネージャー同席のもと、家族である長女は、
「看取りには全然自信がないんですけど…」
と語りつつ、それでも、母は最期、自宅で亡くなりたいって言ってましたから、と、泣いた。
えりなはちょっとうらやましかった。そうやって家族に看取られながら、しかも自宅で、天寿を全うすることができる人たちは、もうずっと以前から、少数派になっていたから。
カンファレンスを終えてえりなは、きっと月曜にでも、介護タクシーや酸素ボンベを手配する段取りになるんだろうな、と思っていた。
酸素ボンベ、と考えて、あの人はどうしているだろうか、と、ふと思った。この、みどりまち病院に出入りしている業者さんではなかった。
みどりまち病院は、小金井街道を北方向に進み、宮田楽器を過ぎた先を右手に曲がった住宅街の中にある。
地域密着型とでもいおうか、特別養護老人ホームも併設してある。ホームは常時、入居希望者が三百人以上待ちだが、病院のほうは、近隣住民中心のため、常に赤字経営だった。
「やっぱ、間に合わないか」
表に出て、自転車置き場に並べてある自分の自転車に、鍵をさす。
日勤が四時半あがりだから、時計はもう、午後の五時をまわっていた。青井先生のところの「花総会」は、たしか三時から五時までだった。
「花総会」は、「話そう会」からきたネーミングらしい。
業務の悩みや元夫の愚痴など、たわいのないことは病院内でも消化できる。だけれどあの件は、だれか、まったくの第三者に聞いてほしかった。
まったくの第三者、といっても、青井先生はこの、みどりまち病院のホスピス病棟に勤務していた医師だった。一緒に仕事をする機会もあったので、お互い、顔も名前も見知っている。
はっきりものを言う女医だったので、誤解もされやすかったけれど、患者さんとご家族が納得できる看取りを追求したいんだろう、と、まわりは十分に理解していた。だから自身で緩和ケアクリニックを開業することになったと聞いた時は、誰も驚かなかった。
クリニックの下には喫茶室が設けられた。そこで、グリーフケアや、精神的なサポートをすることを考えたのだろう。「花総会」と銘打たれた集まりは不定期で、看取りを経験したご遺族や、今現在、闘病中の方々やそのご家族に、案内状を送付するらしい。
えりなのもとにどうして届くかというと、青井医師からの単なる営業だった。
元夫が死んだとしても、あたしそれ、必要ないかも、とは思っていた。だけど、看取りばかりじゃなく、病や健康の問題から発生する生活やお金の悩み、そういったどんなことでもはなしていい、というから、なにかの機会には利用してみよう、とは考えていたのだ。
まさか、あんな事態を経験するなんて。
青井先生、それを見越して案内状を送ってくれていたとか。そんな霊能力者みたいなこと、ありえない、けど。
えりなの通勤路は、青井医師のクリニックのある東小金井を、ななめに突っ切って、国際基督教大学の北側まで出て、
いつもならクリニックの前は通らないが、この日は東小金井駅南口をまっすぐに南下した交差点すぐ横にあるビルに向かう。
中央線と垂直の、歩道と車道の区別もない一本道を、歩行者をよけながら自転車で進む。
低めの三階建ての建物が見えてきたところで、えりなは、女性が一階のシャッターを下ろしているのを見止めた。
「会、終わっちゃいました?」
えりなが背後からそう声をかけると、五十代とみられる中年女性が、びっくりした様子で振り向いた。
「あっ? ええ。ハナソウカイでしたらかなり前に…」
「青井先生、いらっしゃいます?」
「青井先生は…。午後、一件往診があるとおっしゃって、会には出席されませんでしたよ」
なんだ。そうだったのか。
「すみませんでした。いきなり声、かけちゃって。わたし、あの、みどりまち病院で看護師してまして、青井先生から毎回おたよりいただくもので…」
女性はようやっと相好を崩して、ああ、そうでしたか、それは残念でしたね、などと、あたりさわりのない返答をよこした。
「わたし、本日の進行役の心理士、今田と申します。また、お会いできます機会がありましたら…」
えりなはその中年女性を観察した。
この人に事のいきさつを話したら、理解してもらえるだろうか。
わからなかった。だからえりなもあたりさわりなく挨拶をした。
「はい。ありがとうございます。あの、青井先生によろしくお伝えください」
「申し伝えます。ええと…」
氏名を告げていなかったことに気がついたえりなは、安田です、と名乗った。安田えりな、みどりまち病院の。
あの一件は、限られた人にだけしか伝えていない。その人たちが尽力して、ここなにトラウマが残らないよう、さまざまな機関を手配してくれた。
でも、それだけでいいんだろうか。
あの人は…。あの人こそ、大丈夫なんだろうか。
絶対に、大丈夫なわけがないから。
どんなにちっちゃいひとしずくでもいいから、どこかに、あの人が生きてゆける希望はないだろうか。
えりなは、灰色の建物を見上げて、そう考えた。
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