第4話 希望の糸

 娘さんに関して大事な話がある、と切り出せば、博親は外に「準備中」の立て看板を出し、イートインスペースでメロンパンにチョココロネ、お茶を出して話を聞いてくれた。

 だいたいのこと、たとえば莉子が精神の均衡を崩しているなどの状況を説明し終えると、博親は俯き、黙ってお茶を啜った。口を開こうとしては閉じ、何を言ったらいいか迷っている様子だった。


「お父様は、やはり莉子さんを残して亡くなったことを無念に思って、ここに留まり続けているのでしょうか」


「先生、それは今聞かなくても」


「大事なことです。ひょっとしたら、おかきがお父様の気配を感じ取って「境」にやってきたように、莉子さんもなんとなく、お父様にまだ会えるのではないかという希望を持っているのかもしれません。それがやがて、あなたが現実世界でも生きているという妄想に繋がった。だとしたら、あなたの無念を晴らし、成仏することであなたの「境」と「表」の繋がりは消え、事態は好転する可能性だってある」


 目線をレジへ向けると、写真立てが飾ってあるのが分かる。あのスリーショット写真だ。それ以外にも莉子と二人で撮ったらしい写真も並んでいる。それだけ娘のことを想っているのだろう。

 僕は黙って博親が話すのを待つ。古御門も、お茶にもパンにも手を出さず、沈黙を守り続けた。


「無念ですよ、当たり前です。莉子が幼いころに妻と別れ、それから、男手一つで育てて来たんです。パン作りだって、それ以外のことだって、教えてあげたいこと、話したいことが沢山あった」


 椅子で眠りこけていたおかきが、博親の膝の上に飛び乗り、大きな欠伸を一つした。博親はその頭をふわりと優しく撫でる。


「自分が死んだすぐ後のこと、よく覚えています。目の前に血塗れの死体があって、私はそれを少し離れたところから見つめている。おかきが動かない手を舐めて、ちょうど部活帰りだった莉子が泣きながら死体に縋って。声をかけることも、撫でてやることもできず、私は何もできない自分が嫌になって、その場を離れ歩き続けました。天国か地獄か、死んだらすぐどちらかに案内されるものかと思っていましたが、違うんですね。ひたすら歩いて、何か、ドアのようなものを開け、たどりついたのがこの場所でした。不思議な事に、ここには私が切り盛りしていた「ベーカリーかぐら」が既に存在していました。私が来るのを待っていたかのように」


 博親は顔を上げ、店内を見渡す。

 暖かな色の照明、洒落たショーケースに、一列に並ぶ小人の飾りたち。そして、17時30分から時を刻むことのない時計。


「私の願いがそのまま叶ったとでも言うのでしょうか。私がこうしてまたパン屋を開くことができたように、ここにいたらいつか莉子が会いに来てくれるのではないか。そんな風に、一つ願いが叶うと、また一つ、願い事が増えてしまう」


 博親は苦笑し、メロンパンを一つ、手に取った。


「それなら、いっそ莉子さんをここに連れてきて、話す時間を作るのはどうでしょう。突然の別れで、ショックが大きすぎて、受け入れることができずにいるのかもしれません。「表」にあなたが戻ることは無理ですが、この「境」の中なら僕がこうしてあなたと話ができているように、容易なことではないでしょうか」


「それはダメですよ、向島さん」


 僕が博親に提案すると、背後から投げかけられた声に否定される。この涼やかな声、聞き覚えがある。振り向くと、以前喫茶店で会ったユイが難しい顔をして立っていた。だが、すぐに表情を崩し、博親の元へ歩み寄ると、手に持っていた紙袋を手渡す。


「神楽さん、いつものお茶です。少しサービスで茶葉、多めに入れておきました」


「あ、ああ。ありがとう」


 博親が紙袋を受け取った後も、ユイは帰ることなく、なんなら近くの椅子を引き寄せて腰かけた。また会えたら嬉しいとは思っていたが、こんな形で早速再会すると少々複雑である。というか、どこから彼女は僕たちの話を聞いていたんだろう?


「神楽さんの事情は知っています。でも、莉子さんをこちらに案内するようなことをしてはいけません」


「それは、なぜ?」


「向島さん、あなたは見たところ、シャーマンの血が通っているようです。突拍子のないことを言ってしまうようですが、私も同じ家系の人間で、なんとなく同族の人間がわかるんです。古御門さんも、お話されたかどうか分かりませんが、同じです」


 そんな話、母から聞かされたこともない。自分は純粋な人間なのだと思い込んでいた。本来椅子から飛び上がるほど驚くことだが、今の空気はそれを許してくれなそうなので抑える。そう言われれば、昔から虫の知らせのようなものを頻繁に受信したり、なんとなくその空間に嫌なものがあるのがわかったり、霊感があるような微妙な経験をしたことがある気はする。だからといってイコールシャーマンです、と点と点が繋がるわけじゃない。

 ただ、ユイの目は真剣そのものだったため、母や伯父に一族について尋ねるぐらいはしても良いんじゃないだろうかと思った。馬鹿を抜かすな、と、雷を落とされそうな未来が若干見えるが。

 あと、古御門を睨む。なぜそこそこ大事な自分の血筋について話しもしなかったのか、と圧をかけると、古御門は視線をそらし、口笛を吹いた。


「その血筋の人間は、向島さんや古御門さんのように、霊魂と交信、さらに「境」を行き来し神楽さんのような死者となんの障害も代償もなく話をすることができます。ですが、ただの人間である莉子さんは、もし向島さんの力を借りて、鍵を使って「境」を訪れることができても、無数に存在する霊魂と同在することができず、莉子さん自身も死者へ変貌してしまいます。ほら、人間の体はお風呂とかプールとか、一定の水圧には耐えられるようになってるけど、深海に潜るとなると専用のスーツを着たり、潜水艦に乗って行ったりする必要があるでしょ? でないと、体が水圧に耐え切れず潰れてしまう。向島さんと古御門さんは専用の装備があって、莉子さんは装備がない状態なんです」


「……結局はつまり、博親氏を成仏させて、曖昧な希望を絶つことでしか莉子さんの精神状態を安定させることができないというわけか」


「うん。そうですね。莉子さんを死なせたくないのなら」


 ユイが博親を見る。

 博親はおかきが転げ落ちるのもそれどころではないように、勢いよくその場に立ち上がって叫んだ。


「当たり前ですッ! 私は、……莉子と一緒に暮らせたら、それは幸せなことだとも思っていますが、死んでまでそうなりたいわけじゃない! ただ、莉子が辛い思いをしているのが、親として不甲斐なくて、耐えられなくて……」


 皮膚を裂き、血が滲みそうなほど、強く拳を握り、言葉を絞り出す。

 その背中をユイがさすり「うん、わかってるよ。神楽さん」と博親を労わる声をかける。おかきも「にゃあ」と鳴きながら博親の足にぴったりとくっつき、彼が落ち着くのを待った。古御門は「傷になっちゃいますよ」と困ったように笑い、博親の拳を開こうと両手を彼の手に添える。

 僕はというと、何もできなかった。こんな時にかけられる気の利いた慰めの言葉すら、出てこない。人に寄り添うことのできない、その人間としての浅さを恥じた。

 それでも僕が黙って博親の成り行きを見守っていると、彼はまた椅子にすとんと腰を下ろし、震える声で言った。


「天国でも、地獄でも、行けるなら行きたいです。この店だって、体感ですが、生きていた頃と同じくらい長く、充分楽しく続けることができました。……莉子に対して、未練がないわけじゃない。でも、莉子が過去を振り切って、新しい一歩を踏み出そうとするなら背中を押してやりたい。私のパン屋を継ぐとしても同じです。とにかく、それを妨げるのが私のせいであるなら、どうにかしてやりたい。でも」


 どうしたら良いのか、わからないんです。そう、博親はぽつりと零した。

 ここまで聞いた限り、多少未練はあれども、地縛霊となって彷徨うほど現世に強い思いがあるというわけでもなさそうだ。というのに成仏できないとなると、僕としても詰みだ。さすがに何らかの儀式を行い、彼を見送る、という力も僕にはない……。


「あ。その気になったなら、俺、力になれますよ!」


 ……。…………。

 僕、博親の視線が、陽気な声をあげた古御門に集中する。ユイは何か知っているのか、重い空気を破ってメロンパンを美味しそうに頬張っていた。リスの頬袋のようで、かわいい。などと言っている場合ではない。


「力になれるというと、つまり……」


「さっき俺の事、変わった血筋の人間だって、ユイちゃん言ってましたよね? いやね、先生だから話しちゃうんですけど、俺、霊魂と会話して、お見送りの儀式がね、出来ちゃうんだな~。すごいでしょ?」


「なるほど。すごいな」


「でしょう!? だから先生の助手になれば「境」で起こった事件でもなんでもたちどころに解決……」


 へらへら笑いながら話し続ける古御門を見て、僕ははっきり言ってやった。


「……言え」


「家?」


 あまりに低音で聞こえていなかったらしい。だろうね。自分でもこんな地の底を這うような声を出せるのだと驚いたくらいなのだから。


「先に、言えぇぇぇぇぇッ!! それを! 先に! 言え! できるなら! なぜ! 今まで黙っていた!!」


「うわあ初めて聞く先生の叫び声。だって先生、俺に興味無しで全然何も聞いてこなかったし」


 いい年をしたオヤジが、指先をつんつん突き合わせて頬を膨らませている。ああ、見たくない。見たくないこんなもの。さっき少しでも良い奴だなと感心した僕の気持ちを返せ。


「ま、まあまあ、落ち着いてください向島さん。私も驚きましたが、良いじゃないですか、実はできないのに嘘をつかれるよりよっぽど……ユイさんも、のんびりしてないで向島さんを止めるのを手伝ってください!」


「良くないですよ! お父様、あなたが一番怒るべきところですからね!? 今なんの時間だったんだって! 今悩んだ時間でもっと早く莉子さんを救うことが、ああ、ああああ古御門おぉぉぉッ!」


「だって、覚悟が決まってから言った方がいいかなって思って、ちょっと、髪は掴まないでくださいって! 天パがストレートになっちゃうから! ねえ!」


 僕は古御門の髪を引っ掴み、振り回す。それを背後から回って止めようとする博親。二個目のメロンパンを食べるユイ。遊んでもらえると勘違いして僕たちの周りをぐるぐる回るおかき。

 それは誰かの目にはスローモーションのように映り、はたまた一枚の絵画のように見え、荘厳なクラシックが脳内に流れたのかもしれない。


 ……その、またも無駄な時間が数分流れた後、僕は我に返り博親に謝罪した。

 さらに、事務所に戻ってその「お見送りの儀式」を行うから、最後に悔いが残らないよう店を片づけてきてほしい、と伝え、僕は古御門とおかきを連れ、事務所へ一時退散することにした。

 その間もユイは能天気に三つ目のメロンパンを食べきり、ご満悦の表情を浮かべた。

 僕たちの去り際、ユイも博親の手伝いをすると言って残り、今後も提供する予定だったあの紙袋の中のお茶を淹れてやっていた。


「先ほどは申し訳ない。熱くなりすぎてしまった」


「いやいや。気にしないでくださいよ、ちょっとストレートになったとこもすぐくるくるに戻ると思うんで」


「そっちじゃない」


 事務所に戻って、冷静になった僕は古御門に謝罪した。だが、えらい力を秘めた人間なのだ、と頭では理解していても、その力を持つ人間が古御門なのだ、という事実を認めることが一向にできなかった。遅すぎる反抗期か。遅すぎる反抗期なのかもしれない。


「博親氏が来るまでしばらくかかりそうか。君も、儀式となると準備が必要なんじゃないのか?」


「特に。持ち歩いてるこの数珠があれば……いや、あ~、一つ果物を買ってきてもいいですか?」


「必要なことならダメと言うわけがないだろう。今の間に行ってくると良い。金は……僕が出す。探偵事務所で請け負った仕事だからな。「表」の紙幣はこっちでも有効なのか?」


「有効ですよ! わあ、ありがとうございます先生! 大好き!」


「お見送りの儀式と言うのは、覚えたら生者にも可能か?」


「倫理観が崩壊してる!? それは世の理に反するから無理です! 死神じゃないんだからそんな恐ろしい事言わないでくださいね、マジで」


 それから、僕の気が変わらない内に、と果物を買いに行く古御門に、一度「表」に出てくると声をかけた。目的は、莉子との会話だ。おかきだって返してやらなければ。


「表」に鍵を合わせ、ドアノブに手をかける。抱きかかえたおかきが、腕の中で一番寂しそうに「にゃあ」と鳴いたが、言い聞かせるようにこう言った。


「二度目の死を見るのは、きっと辛い。博親氏も、そんなおかきを見たら未練が残るかもしれない。それに」


「表」はまだ日の昇っている時間だ。扉の隙間から煌々と光が差す。


「辛い時こそ、君は莉子の傍にいてやらないと。君を大事に思う、家族二人の願いだ」


 おかきは、今度は僕に応えるように「にゃあ」と鳴いた。

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