信仰
アオキユーキ
信仰
「お前は、わしのことが見えるのか」
竹林の中、老人が座っていた。枯れた枝を削る手は皺だらけで、指先は墨のように黒ずんでいる。
「見えています。ずっと前から」
少年は足元の落ち葉を蹴った。乾いた音がし、冬の匂いがした。
「そうか。ならば、おぬしはどうしてこのわしに声をかける?」
「たぶん、呼ばれたんだと思います」
老人は細めた目を更に細め、静かに頷いた。
「名を名乗れ」
「名乗ってもいいんですか?」
「名乗る名がないのなら、帰れ」
「……では、吾一(ごいち)と申します」
老人はふっと安心したように笑った。その意味は吾一には分からなかった。
「あなたは神様ですか?」
「さてな。わしはずっとここにおる。だが、ここにおらぬ者には、わしはおらぬのと同じ」
吾一はしばし考え、それからもう一度尋ねた。
「あなたの名前は?」
「わしの名か。……ならば、"冬枯(ふゆがれ)"と呼べ」
「冬枯……」
吾一はその名を繰り返し、竹林を見回した。空は曇り、日は淡く冷たい。風が吹けば葉が揺れ、音が鳴る。
「冬枯様は、何をしているんですか?」
「木を削っておる。誰かが忘れた名を削り、形にするのよ」
老人の手元を見ると、小さな木札があった。そこには読めない文字が刻まれている。
「これは?」
「誰かの名じゃ。名は、忘れられると消えるもの。けれど、ここに刻めば、また誰かが読むやもしれぬ」
「誰の名前なんですか?」
「知らぬ。」
冬枯はゆっくりと答え、木札を握りしめたままじっと見つめた。
「忘れられたものは、わしにも分からぬ。ただ、わしは刻むのみ。」
吾一は木札を見つめながら、言葉を探した。木の表面には薄く、しかし確かに文字が刻まれている。形は不明瞭で、触れるだけで消えてしまいそうなほどだ。しかし、どこか懐かしさを感じさせる。
「冬枯様、ぼくの名も刻んでくれますか?」
冬枯はその問いに、しばし黙っていた。手のひらが木札に触れ、もう一度その名を刻むかのようにじっと見つめる。風が竹林を通り過ぎる音が、二人の間に響く。
「おぬしの名はまだ早い。」
冬枯は静かに言った。
「まだおぬしは、その名を使いきっておらぬ。」
「使いきってない?」
吾一は首をかしげる。それを見て、冬枯はゆっくりと頷く。
「名を使い切り、覚えられ、そして誰からも忘れられたその時、わしはその名を刻もう。」
吾一はその言葉の重さをじわじわと感じた。幼い頃見たあの時より小さくなった冬枯の姿。名前が持つもの、そしてそれが失われることの無情さ。だが、それがまた刻まれ、伝えられるという事実が、少しだけ希望を与えてくれる気がした。
「じゃあ、ぼくはここに来るたびに、あなたの名前を言い続けます。」
吾一は小さく呟いた。彼の声は竹の葉をかき分ける風のように、ひんやりとした空気に溶け込んでいった。
冬枯は木札を手に取り、再び削り始めた。音は静かだが、どこか力強さを感じる。少しの間、二人の間には言葉は無かった。ただ、風と葉と木の音が響いていた。
やがて、冬枯は手を止めて、吾一の方を見た。
「己の名を、覚えておけ。」
冬枯の声は低く、しんとしていた。
「またおぬしがその名を呼ぶなら、おぬしがそれを刻むがよい。」
吾一は静かに頷き、誰かの名を心の中で繰り返す。竹林の風が静かに吹き抜ける。言葉は無くても、確かに彼の中で名は生きていた。
冬枯は再び木札を手に取り、細やかな手つきで刻みを続けた。どこか遠くから、風の音と竹の葉が揺れる音が聞こえてくる。
また小さな名がひとつ、木に刻まれる。
信仰 アオキユーキ @azimibiyori
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