おはよう朝ごはん

 ここ最近、朝の食卓には惣菜パンやゼリー飲料しか並ばなくなっていた。コンビニの袋がそのままテーブルに置かれ、並ぶのは個包装のパンやドリンクだけ。

 以前は、目玉焼きの焼き加減がどうだとか、トーストの焦げ目がとか、ごはんを蒸らす時間とか、そんな何気ない会話があった気がするけれど、今はそれすらない。

 忙しさが続いているせいで、台所に立つ余裕もなく、手早くカロリーを摂るだけの日々。

 それが何日も続けば、身体だけでなく心までどこか沈んでくるようだった。

 カズはその朝も、袋入りのチョコパンを片手にソファへ腰を下ろしたが、一口かじったところでふぅとため息をついた。

 甘くて柔らかいパンのはずなのに、今日はやけに味気なく感じた。


「このままじゃ本格的にエネルギーが枯渇してしまう……」


 小さく呟いて天井を見上げる。ぼんやりと広がる白い天井の模様が、やけに遠く感じた。

 いつもなら朝でも軽く話したりする余裕もあるのに、最近はなんとなく元気が出ない。

 だるさが残ったまま起きて、そのまま機械的に食べて、着替えて、仕事して、倒れるように寝る。そんな生活を繰り返しているうちに、朝の時間がどんどん削られていた。

 それはリョウも同じだった。朝起きてきても、ぼんやりとした顔で、ゼリー飲料を手に無言でリビングに来ては、そのまま飲み干して部屋に戻る。

 声をかける気力もないほどに疲れているんだろうと思いながら、同じように黙ってパンをかじる日が続いていた。気づけば、会話も減っていた。


「……やっぱり朝だな。朝のご飯だよ。俺たちの原動力は」


 ソファの背にぐでんと体を預けながら、カズは天井を見上げて決意した。

 ただ食べればいいんじゃなくて、ちゃんと“朝ごはん”を食べたい。出来たての味噌汁や、炊飯器を開けた時のごはんの湯気、じりじりと焼けるウインナーの音。それぞれのこだわりの卵焼き。そういうのが、きっと、今の自分たちには必要だ。

 明日は早起きして、ちゃんと朝ごはんを作ろう。それも、ちゃんとした、気合いの入ったやつを。リョウもきっと、そういうのが必要だ。きっと、口には出さないけど。


 *


 目覚ましの音に体を引き剥がされるようにベッドから這い出し、まだ薄暗いキッチンの電気をぱちりと点ける。

 顔を洗ってすぐ、まずは鍋を取り出して水を張り、昆布をそっと沈める。冷たい水にふわりと広がる昆布の輪郭を見つめながら、少しだけ背筋を伸ばした。


「……よしっ!やるか!」


 電気ポットのスイッチを押すと、機械が反応して湯を沸かし始める。小さく音を立てて蒸気が上がりはじめ、それだけで部屋に少しだけ温もりが戻る気がした。

 冷蔵庫を開けると、昨夜の夕飯の残りのほうれん草がラップに包まれて静かに待っていた。ラップを外して上からたっぷりの鰹節。香りが立つ。

 ウインナーは油をしいたフライパンに並べてから火をつける。しばらくすると、表面がじゅくじゅくと音を立てて、やがて小気味よい「ぱちぱち」が始まる。転がしながら焼き色をつけていくと、皮に張りが増して期待を誘う焼き目に変わっていく。鼻をくすぐる香ばしい匂いに、思わず腹が鳴った。

 卵焼きは二種類。ボウルに卵を割り入れて、ひとつは砂糖を入れて混ぜる。もう一方は白だしで味を整えた。

 同じフライパンで順番に焼き、箸を入れてふわっと膨らむ感触に心の中でガッツポーズ。巻きすで少し形を整えると、それだけで見栄えが段違いになる。朝日が窓から差し込み、卵の黄色がふんわりと光を帯びた。

 炊飯器の蓋を開ければ、湯気がぶわっと立ち上り、つやつやした白米の甘い香りがあたりに満ちる。ほかほかの湯気に顔を包まれながら、しゃもじでひと混ぜ。

 味噌汁はシンプルに、豆腐とわかめ。ふわふわと湯の中で泳ぐような具材をそっと椀に注ぎ、刻んだねぎを少し乗せる。じんわりと立ちのぼる出汁の香りに、カズの肩の力もようやく抜けていく。


「完成〜!」


 ちょうど味噌汁椀を作り終わったところで、寝室のドアが音を立てて開いた。

 カズが顔を上げると、そこには寝ぼけ眼のリョウが立っていた。


「……何か作ってるのか……?」


 髪の毛が寝癖で跳ねたままのリョウが、ぼんやりとした目でキッチンを覗き込む。

 肩に羽織ったカーディガンが片方だけずり落ちそうになっていて、まだ夢の中のような足取りで、ふらりとキッチンの空気に引き寄せられてくる。

 おいしそうな匂いと湯気の中に漂う温かさに、少しだけまぶしそうな目をしたまま。


「おう、おはよう。ちょうど朝ごはん出来たぞ」

「……え、朝から作ったのか?」


 少し目を見開いたリョウの声に、カズはにっかりと笑って「せっかくだしな」と答えた。

 カズはせっせと皿によそい、テーブルに並べていく。


 リョウは椅子に腰を下ろし、テーブルの上に並んだ朝食を見つめた。白いごはんに、香ばしく焼き色のついたウインナー。切り口から甘い香りの漂う卵焼きが二種類、ほうれん草のおひたしは涼やかな緑を添えている。

 リョウは味噌汁椀を手に取り、静かに口元へ運んだ。具は豆腐とわかめ、小口切りのねぎがふわりと浮いている。

 最初はぼんやりとした頭と重たい身体に食欲もなかったが、味噌の香りが鼻先をくすぐるたびに、少しずつ食べる気が湧いてきた。

 ひとくち飲んだ瞬間、それまでぼんやりとしていた頭がふっと軽くなった気がした。湯気の奥にあった温かさが、舌から喉、そして胸の奥へとじわりと広がる。出汁の旨みと味噌のやさしい塩気が身体の芯をゆっくりとほどいていくようだった。

 胃が目覚めるように鳴り、背中のこわばりがゆるむ。まるで、何日もまともに休めていなかったことに、ようやく自分の身体が気づいたかのようだった。


「沁みる……」


 小さく呟いて、リョウは箸を伸ばした。卵焼きをひと口。今日は甘いほうから。じんわりと口の中に広がるやさしい甘さが、疲れた身体にじんわり効いてくる。喉を通る頃には、ほっとしたように肩の力が抜けていた。


「カズ、早起きはいいけどちゃんと寝たか?」

「寝た寝た。これもすぐ作れたよ。ほぼ焼くだけだし」

「ならよかった…明日は俺もちゃんと作ろうかな」


 早朝の光がカーテンの隙間から差し込み、湯気の立つ味噌汁椀を照らしている。

 リョウは静かに箸を進めた。ウインナーは油をまとってこんがり、表面はぷっくりと張っていて、歯を立てるとパリッと音を立てた。中から旨みがあふれ、少しだけ唇を火傷しそうになる。

 その濃さを受け止めるように、隣に添えられたほうれん草のおひたしを口に運ぶ。昨日の夕飯の残りだが、しっかり水気を切られた茹でほうれん草は口あたりがよく、少し回しかけた醤油の塩味と鰹節の風味が心地いい。

 バランスが取れた味の流れに、自然と白米を口へ運ぶ手が止まらなくなる。


「いいな、定番の朝食って感じで」


 リョウがぽつりとこぼしたその言葉に、カズは頷く。笑いながら、口の中のごはんをもぐもぐと噛みしめている。どこか満足げで、どこかほっとしたような顔だ。

 朝日がテーブルに斜めに差し込んで、湯気を金色に照らしていた。

 食卓に並ぶのは、ごくありふれた献立。だけど、味噌汁の湯気も、白米の立ちのぼる香りも、ひとつひとつが「ちゃんと朝が来た」ことを教えてくれる。


「結局こういうのが一番いいんだよな、こういうのが」


 静かな朝。箸の音と味噌汁をすする音だけが、部屋に優しく響く。気づけば、少し背中が伸びていた。

 時間は短かったが、流れる空気はゆっくりだった。忙しさの中で後回しにしてきたものが、ようやく自分たちのリズムで戻ってきた気がする。

 ほんの少しの余裕が、こんなにも違う。心と体が整っていくのが、言葉にせずとも伝わった。ふたりとも、なんだかいつもより少しだけ元気になった。

 食べ終えた食器を眺めながら、リョウが口元を緩める。その横顔に、ようやく血色が戻ってきたように見えた。


「休みって、ちゃんと取るべきだなー」

「うん。朝ごはんもな」


 そんな会話で締めくくられる、何気ないけれど確かな「整う」朝だった。



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