異言者
エキセントリカ
はじまり
佐藤麻子の違和感は、編集会議の真っ最中に始まった。
「この著者の主張は、言葉が人の思考を形作るという点に—」
スライドに映し出された文字が、一瞬だけ揺らめいた。麻子は言葉を詰まらせ、手元の原稿に目を落とした。しかし、そこに書かれていたはずの文章の一部が、見慣れない形の文字に変わっていた。
「佐藤さん、どうかしました?」
部長の声で我に返る。十数人の視線が集まっているのを感じ、麻子は慌てて微笑んだ。
「すみません、ちょっと目が疲れているみたいで…」
深呼吸をして、記憶を頼りに発表を続ける。書籍の企画意図、著者の主張、想定読者層、発売スケジュールと、一通り説明し終えたときには、汗で背中がじっとりと濡れていた。
会議室を出ると、同期の編集者・田中が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
「ちょっと寝不足で。この企画、来週が入稿だから徹夜続きで」
それは嘘ではなかった。「言葉の力」をテーマにした新書の編集は、麻子にとって特別なプロジェクトだった。言語学者の著者との打ち合わせを重ね、構成を練り、原稿の推敲に夜を明かす日々が続いていた。
「無理しないでね。じゃ、また後で」
田中が立ち去ると、麻子はデスクに戻って原稿を広げた。しかし、さっきの現象は一過性のものではなかった。ページのあちこちで、熟知しているはずの原稿の文字が、見知らぬ記号のように見える部分があった。目をこすり、瞬きを繰り返しても、状況は変わらない。
「眼精疲労かな…」
自分に言い聞かせるように呟き、麻子は早めに退社することにした。
***
地下鉄の車内で、麻子は目を閉じていた。ここ数週間、睡眠不足と締め切りのプレッシャーで限界だったのかもしれない。実際、一時的な視覚異常は過労のサインだと、ネットで調べた記事にも書いてあった。
駅に着き、階段を上がって地上に出たとき、麻子は足を止めた。目の前の商店街の入口に掲げられた看板が、おかしかった。
「歓迎 𐐄𐑂ᚗꙮ街」
看板の文字の一部が、見慣れない奇妙な形になっている。麻子は思わず目をこすった。看板をもう一度見る。変な文字は消えて、普通の「歓迎 花の街」という文字に戻っていた。
「やっぱり疲れてるんだ…」
自宅に戻った麻子は、シャワーを浴びて早めに眠りについた。明日になれば、きっと元に戻っているはずだ。
***
しかし、翌朝起きた麻子を待っていたのは、さらに悪化した状況だった。冷蔵庫に貼ってあった買い物リストの半分以上が意味不明な記号に見え、スマホに届いたメールの件名も部分的に読めなくなっていた。
会社に向かう電車の中で、隣に座った女性が読んでいる週刊誌のページが、麻子の視界に入った。記事の見出しの一部が突然変化し、「芸能人の㇌ꙮ活が明らかに」といった具合に、奇妙な文字が混じっているように見える。
職場に着くと、さらに混乱が深まった。デスクのカレンダーの日付が読めない。メールの文面が所々欠落している。同僚たちが話す言葉も、時折聞き慣れない音に聞こえる。
「佐藤さん、昨日の資料の修正ꙮ㇌ましたか?」
田中の質問に、麻子は一瞬固まった。「修正」と「ましたか」の間に、何か聞き慣れない言葉が入っていたような…。
「あ、はい、もうすぐ終わります」
とりあえずそう答えたが、麻子の頭は混乱で一杯だった。昼休みに会社の近くの眼科を受診したが、視力検査では異常なしとの診断。医師からは「ストレスからくる一時的な症状かもしれません」と言われただけだった。
***
週末、麻子は休息を取ろうと、久しぶりに本屋に立ち寄った。子供の頃から本に囲まれた環境で育ち、言葉への感性を磨いてきた彼女にとって、書店は安らぎの場所だった。
文芸コーナーで立ち読みをしていると、奇妙なことに気づいた。ページをめくるたびに、文章の中の単語がいくつか変化して、見知らぬ言葉になっている。麻子は本を棚に戻し、別の一冊を手に取った。同じことが起きる。どの本を開いても、文章の一部が理解できない言葉に置き換わっていた。
パニックが込み上げてきた。麻子は深呼吸をして落ち着こうとしたが、周囲の本の背表紙のタイトルまでもが、次々と奇妙な文字に変わっていくように見えた。
「大丈夫ですか?」
店員の声に我に返る。見ると、若い女性店員が心配そうに麻子を見ていた。
「あ、はい…ちょっと目眩が…」
「顔色が悪いですよ。イスをお持ちしましょうか?」
「ありがとう、でも大丈夫です。もう帰ります」
書店を出た麻子は、携帯で近くの総合病院を検索した。目の問題ではないとすれば、脳の問題かもしれない。CTスキャンや詳しい検査が必要だろう。
***
「身体的には特に異常は見られません」
脳神経内科の医師は、検査結果を見ながら淡々と告げた。
「でも、文字が読めなかったり、言葉が聞き取れなかったりするんです」
「それは、ストレスからくる一時的な症状の可能性が高いですね。最近、特に強いプレッシャーを感じることはありましたか?」
「仕事は忙しいですけど…」
麻子は途中で言葉を切った。医師の話す言葉の中に、聞き慣れない音が混じり始めていたからだ。
「㇌ꙮのような症状は、過度のストレス𐐄𐑂ꙮ誘発されることが…」
医師の口から出る言葉の一部が、まるで異国語のように聞こえる。麻子は恐怖で身体が凍りついた。
「佐藤さん? 聞いていますか?」
「は、はい…」
「まずは十分な休息を取ることをお勧めします。睡眠薬を処方しておきますので、規則正しい生活を心がけてください。一週間ほど様子を見て、変化がなければまた来てください」
麻子は無言で頷いた。処方箋を受け取り、病院を後にする。
家に帰る途中、電車内のテレビに流れるニュースの文字が、所々理解できなくなっていることに気づいた。
「東京都内で𐐄𐑂ᚗꙮ被害相次ぐ。警察は㇌ꙮ注意を呼びかけ」
周囲の乗客は普通に画面を見ている。彼らには正常に見えているのだろうか。麻子だけがおかしいのか。それとも…。
その夜、眠れない麻子はベッドに横たわったまま、幼い頃の記憶を思い出していた。小学生の時、友達が言っている言葉の「向こう側」に何か別の意味を感じることがあった。母親が「大丈夫よ」と言いながら、その声の震えから嘘を感じ取ったこともある。麻子はいつも、言葉にできない何かを感じる直感を持っていた。
その直感が、今になって別の形で現れ始めているのだろうか。それとも、彼女は単に正気を失いつつあるのか。
窓の外の月明かりを見つめながら、麻子は明日もまた、理解できない言葉に囲まれた一日が始まることを恐れていた。
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