毒りんごを、私に
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毒りんごを、私に(上)
第1話 愛され方が、分からない.1
人は、愛されてこそなんぼだ。
愛され、褒めそやされて、大事にされてこその人生だと私は思っている。
そのためには、周囲に愛される容姿、絶対的な力の象徴である金、名誉を一身に受けられる地位などが必要である。
もしかすると、人の中にはそれらに価値を見出すことに抵抗があるものもいるかもしれないが、そんなもの、私から言わせれば、持たざるものの僻みだ。
紙と一緒に便所へ流しても差し支えない。
つまり、私が何を言いたいのかというと――。
「あの」と後ろから声をかけられる。
緊張に満ちたか細い声だったが、その中には確かな期待も込められていた。
「どうしたの?」
私はすぐに振り向き返事をする。
その際も、振り向くときの角度、間延びした口調を忘れない。
これは大事なものだ、最早、私にとってのアイデンティティーと言っても過言ではないのだ。
私を呼び止めた自分と同年代の女子は、私と目が合うや否や赤面し、激しく視線を右往左往させた。
それは私にとって見慣れた反応で、つまらないものだったが、そんな感情はおくびにも出さず小首を傾げて相手の発言を待った。
女子は視線をやや俯けたまま、恐る恐るといった様相で言った。
「あのぉ、サイン、貰ってもいいですか?」
自分と同じ服装をした少女が言った台詞に、廊下のあちこちに寄り集まっていた少女たちがアンテナを立てるようにこちらを見た。そうして、ひそひそ話を始める。
こういう瞬間が私は大好きだった。
今やこの場における全権は私に委ねられており、暗黙の不可侵条約を破った少女の生殺与奪はこの掌の上にあった。
たっぷり十秒ほどの沈黙を横たえつつも、呆気にとられ、フリーズしている様子を演じることも忘れない。
そろそろか、とタイミングを計り、ハッと我に返ったようなふりをする。
それから少しだけ困ったような微笑を浮かべてから、少女のほうへと近づく。
両手を曲げて、右手でペンを扱う仕草をする。
「え、と…、私のなんかで良ければ」
光栄さと嬉しさを織り交ぜた、曖昧な面持ちで笑った私に対し、少女は一気に破顔した。
ありがとう、と弾ける笑顔の少女に続いて、事態を傍観していた観衆が死肉に集るハイエナのようにして近寄ってきた。
もちろん、彼女たちの要求にも嫌な顔一つせず応える。
そうすることで生じる労苦と評価の比率が、後者のほうが多いことを私は身に染みてよく知っていた。
――本当、林檎ちゃんはファンサがヤバイよね。
うん、知ってる。
――芸能人なんて、実物は大したものじゃないって思ってたけど、林檎ちゃんは本物のほうが可愛い。
いや、だから知ってる。っていうか、当たり前でしょ。
――私、知り合いに林檎ちゃんと友達だって自慢しちゃった。
へぇ、そうなんだ。ところであなた、誰だっけ?
私、
もちろん、沢山いて名前を覚えられないような大所帯じゃなくて、私のためだけの『アイドル』だ。
道を歩けば人垣に囲まれ、
学校に行けば称賛の声を浴びせられ、
メディアに出れば引っ張りだこ。
順風満帆の我が人生は、最早、一点の曇りもなく、誰もが羨む日々であった。
謙虚な笑顔の裏側で、己の人生を自画自賛していた花月の背後から、冷たく鋭い声が聞こえてきた。
その声を聞き、首だけで振り返りながら、花月は閉口しながら考えた。
そうだ。私の人生は完璧だ。
誰もが、私のことを愛し、褒め称え、大事にしている。
当然だ、それだけの容姿に加え、若くしてお金も持っている、地位だって輝かしいものを築いているのだから。
そう、誰もが…。
「邪魔なんだけど」
その一言で、すっと花月を取り巻いていた集団が、潮が引くように消えた。
声の主は、クラスメイトの中でも、飛び抜けて身長が高く、やたらに肌の青白い女子生徒だ。
ついでに言うと、まあまあの美人。
系統は違うが、私と同様に人目を引く容姿だ。まあ、私には遠く及ばないが。
流れるような黒髪が、人垣を左右に引き裂く。
ああ、私のパトロンたちが…いや、どうだろう、愛の伝道師たちと喩えたほうが適切だろうか。それとも、私という、愛され少女が放つ愛を運ぶ蜜蜂か。
ここで不服そうな態度を取るほど、花月は愚かではなかった。
それだけ自分の積み上げたものが大きく、崩しがたいということだ。
手首だけを小刻みに動かすような挨拶を彼女にする。
「おはよう、
両手を胸の前で重ね、片目だけ閉じる。
「ごめんね、邪魔しちゃって」
心底申し訳無さそうに謝罪する花月の前で、女は不快感を露わにするように舌打ちをした。
そのまま壁際に避けたパトロンたちと、花月の間を進むと、彼女は教室の中へと消えていった。
時津が花月の前でした無礼で無愛想な態度を、再び寄ってきたパトロンたちが口々に責める。
何様だよ、と罵る彼女らにも同じ言葉をそっくりそのまま返してやりたかったが、一応自分の兵隊みたいなものなので、曖昧に笑って誤魔化し、寛容さをアピールする。
時津があんなふうに怒りを表面化させた原因を、花月は分かっていた。理解した上で、それを刺激するような発言をしたのだ。
彼女は、自分の下の名前である『胡桃』という名称を用いられることを酷く嫌っていた。
…まあ、不愛想な彼女には明らかに不釣り合いな、可愛い名前だものね。
誰も彼もが神の子のように私を愛する中、たった一人、
気に入らないこともなかったが、彼女はいつも一匹狼を気取っており、何かと拗らせているのだろう、と考えることにしていた。
哀れだと思う。
私のことを愛せないのは、人間として激しい欠陥を抱えているということなのだから。
こんな私のことですら愛せない彼女は、きっと、そもそも人の愛し方を知らないのだ。
人に愛される、ということの中には多少の面倒も付きまとう。
愛されるための努力、というのが往々にして面倒を伴うものなのだから、当然のことだろう。
忙しい時間の合間を縫って登校してやっている自分に、雑用を押し付けるとはどういう了見なのだろうか、と花月は腹立たしく思った。
ただし、その感情は一ミリも表に出さず、軽やかで優雅な足取りのまま、両手に持った教材を旧館の資料室へと運ぶ。
重すぎる。あの教師、これを私一人に持たせるなんて、何を考えてるのか。
私が一言パワハラだ、セクハラだと騒ぎ立てれば、お前の人生終了なんだからな。
腹の中のどす黒いヘドロみたいな感情を丁寧にかき混ぜながら、花月は風になびく髪を抑えた。
ゆるふわ系の体現者であろうとセットしている髪は、やや赤みがかっていて、毛先がくるくると巻かれていた。
これが、今の年齢の自分に一番似合う髪型だと確信している。
旧館の人気のない廊下を進む。
一歩踏み出すごとに妙な音を立てて軋む床板が、この建物の老朽化を如実に指し示している。
こんな建物、さっさと壊してしまえばいいのにと思ったが、そう簡単ではないのだろうと考え直し、瞬きを何度かした。
開閉するシャッターの奥、古びたネームプレートの掛けられた扉が見える。
プレートには、手書きで『資料室』とかすれた文字で書き込まれていた。
多分、鍵は開いているはずだ、と口にしていた教師の顔が浮かぶ。
あまり私になびかない女教師の冷えた顔、そういえば彼女も私を愛していない。社会不適合者である。
両手がうまっているため、片足を使って開けようかという考えが脳裏をよぎる。しかし、うっかり誰かに見られでもしたらお終いだと思い、一度荷物を置いてから扉を開けた立て付けが悪くなっているらしい扉は、妙な悲鳴を上げながら横にスライドした。
室内は照明が点いてなくとも、西日のおかげでやや薄暗い程度だった。
分厚い木で作られた長方形の机がいくつも並んでおり、それを囲むように丸椅子が四つずつ配置されている。
おそらくは、元は資料室ではなかったのだろう。
こんなサイズ感が必要なのかと疑わしくなるほど大きな窓から、燦々と光が降り注いでいて、窓際はとても明るい。
誘蛾灯に引かれるようにして、何となくそちらの日向のほうに進みながら、そういえば、どこに置いておけば良いか聞いていないなと考えていた。
淡い黄色の光の中、両手の荷物の重さも忘れ、花月は立ち止まった。
天の川のように黒々と美しい長髪、それを押し潰すようにはめられた黒のヘッドフォン。
か細くもしなやかそうな手で掴んだハードカバーの本。
その頁の上に落ちる、知的で鋭い瞳。
一瞬、呼吸が止まるかと思った。いや、実際に止まっていただろう。
だが、それは驚きのためばかりではない。
確かに驚きはしたが、それを十分に上回る感動があったのだ。
人の気配のない資料室の奥、日当たりが最も良い場所の壁に、背をもたれかけて座っていたのは、時津胡桃だった。
彼女は、本に集中しているのか、それともヘッドフォンから聞こえてくる音楽に集中しているのか、花月が部屋に入って来たことには気が付いていない様子である。
時津は、ぺらりと頁を一枚捲るごとに瞬きを一つした。
その際に踊る長いまつ毛が、異様に花月の心を揺さぶる。
普段であれば、相手が誰であろうと気さくに話しかけるところなのだが、不意を打たれたような形になり、花月は自分がするはずのテンプレート行動を忘れていた。
それどころではなかったと言ったほうが正しいかもしれない。
数秒、あるいは数分の時が流れたか、正確な時間は分からない。
とにかく、冷静さを取り戻した後、花月は適当な机の上に教材を置いた。そのドスン、という鈍い音か、振動かで気が付いたのか、ようやく時津も花月のほうへと視線を移した。
みるみるうちに、その端正な表情が歪む。自分の嫌いな虫でも見つけたみたいな反応に、ほんの少しだけ口元が引きつる。
時津胡桃、何て女だろうか。この私と二人きりになれるなんて、こんな幸運、よっぽど前世で徳を積んでないとそうそう起こらないぞ。もっと、もっと有難そうな反応をしろよ。
ヘッドフォンを外した時津が舌打ちか、それか黙って去って行こうかしているのが空気を通して伝わって来たので、先制攻撃を仕掛けるつもりで花月は口を開く。
「わぁ、びっくりしちゃった。胡桃ちゃん、こんなところで何を――」
「あなたに関係ない」
こちらの言葉を遮るようにして時津が呟く。その取り付く島もない様子に、思わず言葉を失って彼女を見つめていると、時津が横目でこちらを睨んだ。
「何?」
「…何してたのかなぁ、って…」
「だから、あなたに関係ない」
コミュ障かお前、という言葉はどうにか飲み込む。
「えぇ、教えてくれても良いんじゃない?」
「見て分かることを、どうして教えなきゃいけないのか、意味不明」
時津は、ぱたんと閉じた本を軽く指の裏で叩いた。
確かに、読書していたのは見て分かる。でも、私が聞きたいのは何をしていたのかじゃなくて、何でこんなところに、というほうだ。それぐらい言わずとも普通分かるのではないか。
「じゃあ、何でこんなところで本を読んでいたの?」
「答える義理はなくない?」
結局、何も答えたくないんだろ、と心の中だけで叫ぶ。
埒が明かないので、適当な話題を振って、適当な会話だけしてこの場を去ろうと思い、花月はとりあえず視界に入ってきたものについて触れた。
「本、好きなの?」
ぴくり、と彼女が反応する。
今までは横目で花月を捉えていたオニキスの瞳が、今度は真っすぐ正面から自分にぶつかって来た。
「好きだけど」初めてまともな返しを貰えた。「へぇ、ちょっと意外」
思わず零れ出た本音に、時津がぎろりとこちらを睨む。
慌てて話題を逸らそうと、「どんな本を読むの?」と尋ねたのだが、へそを曲げたのか、次は横目ですら花月を見ようとしなかった。
しょうがないじゃないか。だって、一匹狼を気取って、誰ともつるまない不良みたいなイメージだったから、てっきり帰ったら同じような人種と騒いでいるか、反社会的な行動をしているとしか思わなかったのだ。
まさか、放課後は誰もいない資料室で読書に耽っています、なんてさぁ…。
閉じられた本のタイトルを盗み見る。
そこには、最近どこかで聞いたことのあるような堅苦しい表題が刻まれていた。
時津は、もう話は終わりだと言わんばかりに再び本を開いて読み始めた。その態度があまりにもふてぶてしくて、花月の高いプライドを刺激した。
そうか、この私と話したくないということか。
この国に、私と一言二言話せるだけで狂喜乱舞する人間がどれだけいると思っているのか。とにかく…、そっちがその気なら、私にだって考えがある。
花月は微笑みを浮かべ、ゆったりとした足取りで彼女の前に移動した。
黒々とした髪と、真っ白な頁を、黙って上から覗き込んでいると、痺れを切らした様子で時津が顔を上げた。
訝しむような、鬱陶しがるような顔つきに、ますます花月の中の負けん気が燃え上がる。
「何」と迷惑さを押し隠さずに時津が問う。
「ねえ、その本面白い?」
「面白くないなら読まないよ」
「確かに」出来るだけ自然な所作で時津の隣に腰を下ろす。
「ちょっと、何で隣に座るの」
「立ったままだと話しづらいから」
「話すことなんてない」
「そうなんだぁ、でも、私にはあるかなぁ」
相手が苛々することが分かっていて、あえて間延びした口調を維持する。
時津は、しばし逡巡するように、視線を花月の顔と虚空と行ったり来たりさせてから、ややあって諦めたように小さくため息を吐いた。
バタンと本を閉じて、無機質な数字でも読み上げるように呟く。
「手短に」
同じ目線で見つめる彼女は、本当に美しかった。
その他者を拒絶する吹雪のような美しさが、一度落ち着きを取り戻していた花月の心を、再び激しく揺さぶった。
「ねぇ、胡桃ちゃん、私のこと嫌いでしょ」
口にしてから、しまった、と内心で後悔した。
ここまでダイレクトに聞くつもりはなかったのに、私を見上げる彼女の目を覗き込んでいると、どうしてか、言葉を選ぶ余裕がなくて、頭に浮かんだものがそのまま投下されてしまった。
あからさまに怒っている人間に、『怒っているの?』と尋ねるのと同じレベルで、自分が行った質問は愚かな質問だった。
案の定、時津は苛立ちを露わにして舌を鳴らした。
「何となく、そうなのかなって思ったんだけど…」
慌ててフォローの言葉を口にするも、やはり彼女はムッとした表情のままだった。
「ごめんね、気に障った?」
「どうでもいいけど、下の名前で呼ぶのをやめてくれない?」
「あ、そっち?」彼女が苛立っていたポイントが意外であって、でも意外でなくて、花月は苦笑いを浮かべた。「自分の名前、嫌いなの?」
時津は何も答えず、立ち上がった。
「ちょっと、胡桃ちゃん」ぎろり、と時津がこちらを肩越しに睨みつけてくる。「ごめんね、でも、私は胡桃ちゃんの――」
時津は花月の話を弾き返すように顔の向きを変え、そのまま静かな怒りを込めた足取りで資料室から出ていった。
叩きつけるようにして開け閉めされた扉が、酷く哀れであった。
「――名前は可愛いと思うけど…アレじゃあねぇ」
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