或る男の讃美歌

名月 楓

或る男の讃美歌

 どこか狂っていた、そうだ、そうに違いない。鬱屈とした現実を諦観し、そこから逃げ出したに違いない。ああ、そうだ、そうなのだ。

 でなければ、この足元の肉塊はなんだと言うのだ。


 風雪が視界を遮り、白光は頭の深淵をも照らす。暗くあるはずの部分が鈍痛を与えるが歩みは止められぬ、止めてはならぬ。

 私は全てから逃げていた、ほとんど全てから。厚手のコートと滑り止めのついた長靴が今の私の中で最も価値のあるものだった。空気が震える。ああ、やつが近づいているのだ。ギラギラとした犬歯を覗かせて私を噛み切らんとしているのだ。ホワイトアウトした視界は走馬灯かと思わせるもので、やがて勘違いした思考が上映を始める。


 私は不幸であった。人に恵まれず私に恵まれず、次第に人は空虚な価値でしか時間を共有してくれなくなった。然して、その価値は彼らには沈んだ海賊船のようなものであって、返さぬならば、と私は追われる身になったのだ。借りていたマンション、避難したホテル、古びたアパート、山奥の小屋。最後にはひたすら街を歩く亡霊になっていた。



 ああ、腹が空いた。例え今にも追いつかれるという幻視をして怯えていても、この生理現象にはいかにも抗い難い。無一文の私は家々の扉を叩く。意外にも私を取り扱ってくれたのは1人の無愛想な男だった。彼は私を整理されてない机に座らせ、カップ麺にお湯を注ぎ、目の前によこした。決して丁寧な扱いではなかったが、それが心地よく、私は確かに救われたのだ。

 彼は風呂まで貸すと言ってくれた。吹雪の中を歩いた体は凍結する手間まで来ており、私はこの提案にすぐさま反応した。湯船に浸かったときの快楽はここ数日、数ヶ月のうちで最も素晴らしかった。私が上がると次に彼が風呂へ入る。私は手持ち無沙汰になり、ほんの好奇心で部屋を見て回ることにした。

 ダイニングテーブルでない整った作業机を見ると、原稿用紙が置いてあり、そこにはびっしりと文字が書かれていた。目の前のカレンダーには数日後の日付に丸がつけられ、『賞締め切り』と書かれていた。推察するにこれから作家にでもなろうという人物なのだろう。原稿用紙から最初の一枚らしきものを拾い上げる。私は物語を幸せのためのおとぎ話たちだと常々考えていたが、彼のは違った。鬱々とした曇天に赤黒い汚水、ウシガエルのような嬌声や希望を失った人々で溢れていた。私はその物語に私の人生の面影を重ねた。物語は違えど、いうならば、色が同じだったのだ。

 肩を叩かれるまで、私は数刻の時間の流れと背後に立つ家主に気づかなかった。ふと私は恐ろしくなった。あんな狂気を描く人はどんな人なのか。振り返る前に大きな冷や汗が噴き出した。そして振り返る時にはつい彼を突き飛ばしてしまった。

 そしてそこには、打ちどころが悪くぐったり倒れる人影があった。


 私は部屋を荒らし回り上等な外套だけを盗み、逃避行を再開した。私を追うものはさらに増えた。

 一体私が何をしたというんだ。

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或る男の讃美歌 名月 楓 @natuki-kaede

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