桜に彫る。
藤咲メア
第1話 桜樹
死を待つばかりの枝垂れ桜の木があった。
さる旧家の庭に、ただ一本ひっそりと佇んでいるその桜の樹齢は、いくばくか誰も知らない。
桜樹が根を下ろす庭の主人は、先々代による起業で財を成した一族だ。
旧幕臣であった先々代は、維新後、駿府•遠江の藩主として封じ込められた徳川家と共に静岡に下った。しかし、静岡での困窮する生活と旧主に見切りをつけ、東京に出て起業。商売が当たり、一代で財を成した。
東京の一等地に屋敷を構えた際、先々代はどこからか運んできた一本の枝垂れ桜を、庭へ植えさせたという。元はどこに植えられていたのか、今となっては誰も知らない。
かつて見切りをつけた旧主をしのぶため、静岡の徳川家の屋敷に植えられていた枝垂れ桜を貰ってきたのだ、と美談に仕立てて話す者もいたが、本当のところは分からない。真実を知る者は桜しかいなかろう。
見知らぬ地に植え替えられたその桜樹は、先々代が存命していた頃は夢のように美しい姿を見せていたそうだが、現在は春だというのに花も咲かせず、骨のような枝を春の陽気の中に寒々と垂らしていた。美しい花を宿すはずの細い枝は、死者の毛髪のようにザンバラに垂れ、地を這う黒々とした枝は、枯山水式の庭園を覆う白砂に遠慮するようにして、緑の島の中で縮こまっている。
その姿はいかにも哀れで、見ると陰鬱な気持ちを増幅させる。そのためか、屋敷の主人もその家族も使用人達でさえも、その木のそばには寄り付かなかった。庭に植えてあるから、手前の廊下を横切れば否が応でも視界に入るが、誰もわざわざ、美しさを損なった桜樹を見ようとはしない。
ところが、1人だけ桜樹に寄りつく者があった。その者がこの世に生まれ、一人歩きができる年になるまで、哀れな桜樹に寄りつく者は誰もいなかった。
その子が初めて桜樹の元へやってきたのは、数えて五つの時である。地面につくほど垂れ下がった枝を、その子は手で握り込んだまま、なかなか離そうとしなかった。何を主張したいのか、枝を千切るわけでもなく、握っては引っ張ってを女中に止められるまで繰り返していた。
桜樹は、その様を人よりも遥かに薄い意識の中で眺めていた。
「器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす」という言葉がこの国にはある。
おそらく、樹齢百年を越していたのだろう桜樹も、その類のものと成り果てていたのであろう。
久しぶりに人の目に触れた桜樹は、意識をその幼い子に向けた。その子は何かを感じ取ったのか、チラリと桜樹を見上げたが、その後すぐに女中に手を引かれ、屋敷の中へ入ってしまった。
それからも、幼子は幾度か桜樹の下で遊んだ。共に遊んでくれる子供はいないらしく、いつも1人で遊んでいた。
1人遊びの達人といえよう。縮こまった桜樹の根の間に小さな人形を置き、即興で人形劇を始めたと思えば、次の日には鞠をついて遊ぶ。成長してくると、桜樹に取り付いて木登りを始めた。木登りはさすがに女中に咎められたが、人目を盗んでは両手足で硬い樹皮にしがみつき、桜樹に登った。
桜樹は初めて思った。この子のために花をつけてやれたらと。春、その子が木に登る。すると、その子の視界は滝のような花の雨に包まれよう。きっとその子は笑うであろう。
その笑顔を見てみたいと、桜樹は思った。
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