第二章 兆し



太平洋の海原を、波間を抜けるように北上していく一隻の潜水艦。


白い波しぶきに濡れる黒鉄の船体。その中央から突き出た艦橋の側面には、「イ49」の白い文字が薄暮の空の下に浮かび上がっていた。


伊号第四十九潜水艦——通称「伊49い・よんきゅう」。


全長108メートルを超える巨体は、偵察機一機と80名の男たちを乗せ、はるか北方のキスカ島を目指していた。

緯度が上がるにつれ風は冷たくなり、空の色も日ごとに鋭さを増していく。

艦首を損傷した潜水艦は、北太平洋の荒波に揺られながら、重い体を前へと運んでいた。


キスカへ針路をとって三日目の夜、天候が急変した。


海は牙をむき、風がうねり、艦を翻弄し始めた——。


中央操作室を怒声が包む。


「風速二十五、波高五メートル!」

「流されています…針路維持不能!」


加納かのう副長が壁に手をつき、必死に声を張り上げる。


「艦長! 潜航しますか!?」


確かに通常なら潜航する状況だ。

荒天時は水上よりも水中の方がはるかに穏やか——それが教本にもある鉄則だった。


しかし藤堂とうどうには安易には潜航を決断できない事情があった。


魚雷室の水没により、伊49の艦首はすでに海中に引き込まれるように前傾している。このまま潜航すれば、艦首が大きく沈み込み、制御不能に陥る可能性は否定できない。


加えて、魚雷室の隔壁ハッチによって辛うじて水密が保たれている状況だ。

もし深く潜航してしまえば、水圧によって浸水が拡大する恐れもある。


いずれも沈没に直結する重大なリスクだった。


苦い顔で歯を食いしばる藤堂に、追い打ちをかけるように矢継ぎ早の報告が飛ぶ。


「ジャイロコンパスが故障! 方位が測定できません!」

「操舵に異常! 舵が効きません!」


艦内に怒号が飛び交い、計器の針が慌ただしく揺れる。

容赦ない高波が甲板を叩き、艦橋構造物が軋むように悲鳴を上げていた。


加納副長が再び叫ぶ。


「このままじゃ持ちません!潜望鏡深度まで潜りましょう、艦長ッ!」


だが、藤堂の檄が鋭く飛んだ。


「いや──、水上で耐える!」

「確かに海中は静かだ……だが、今の我が艦にとっては、そこが墓場だ。」


一瞬、加納副長が息を呑む。

そして、口元を少し緩めて同意した。


「そうですな……潜水艦は、波じゃ沈まんけぇ」


極度の緊張時につい広島なまりが出てしまうのは、加納の癖だった。


しかしその直後、突如として暴風が艦体を真横から叩きつけた。

激しい横揺れに艦内が大きく傾き、重心を失った燃料タンクが破損する。

次の瞬間、機関室で閃光が走り、火災が発生した。


中央操作室にある伝声管の蓋がわずかに震えた直後、金属管を震わせるような叫びが飛び込んでくる。


「機関室火災!!」


同時に、艦全体が大きく揺れた。

艦内の照明が一瞬ちらついたのち、暗転する。


「機関停止! 出力ゼロです!」

「電源喪失! 蓄電池に切り替えます!」


艦内が赤い非常灯に染まるが、動力計には反応がない。

推進モーターは火災の熱でやられていた。


もはや潜航能力はおろか操舵も推進力も失った艦は半没状態のまま、北太平洋を漂流し始めた。


伝声管の向こうから火災の続報が上がるなか、藤堂は冷静に状況を把握しながら指示を下す。


「隔壁は閉じるな。火点からの退避路は確保しておけ!」

「電信室、航空班──手空きの者は機関室へ応援に向かわせろ」

「全員、防毒面(ガスマスク)を忘れるな!」


艦内に怒号が飛び交うなかでも、藤堂の声はぶれることなく、素早く、的確だった。


だが緊迫していたのは艦内だけではない。


動力を失った艦は潮の流れに押され、座礁や漂流物との衝突という新たな危険にさらされていた。舵も推進力も失った今、艦は自力では何ひとつ回避できない。


それでも――

障害物を事前に察知し、警告を出すことさえできれば、艦内の被害を最小限に抑えることはできる。


「艦長、艦橋に上がる許可を!今は周囲警戒、強めた方がえぇかと」


加納の言葉に、藤堂は一瞬だけ動きを止め、静かに目を向けた。

数秒の沈黙ののち、軍帽の縁にそっと指を添え――頷く。


止めなかったのではない。加納の判断を、信じていたのだ。


「目は多い方がえぇ。観測員を数名つれて行きます」


藤堂が静かに頷くと、加納はすぐに数名の乗員を呼び、艦橋へと向かって行った。


艦橋に上がった加納副長と観測員たちは、激しい風雨に晒されながら、しきりに波間の様子を観察していた。


「よぉ目ぇ凝らせ!この海ぁ、どこに牙があるか分からんぞ!」

「了解――ッ!」


加納の一声に、観測員たちは素早く持ち場に散った。

返事は短かったが、その動きには迷いがなかった。


藤堂が決断し、加納の声が響くと、乗員たちの体が即座に反応する。

そういう時間が、この艦には積み重なっていた。


やがて、天候は一瞬だけ静けさを取り戻す。

だがそれも束の間、雲を裂くようにして豪雨が再び襲いかかった。


加納が艦内に入り込む雨水をかき出し、視界を拭うように軍帽を脱ぎ、胸の前で握った――その瞬間だった。


艦の正面に大きな白波が立ち上がり、その中から岩の塊が飛び出してきた。


もう、間に合わないッ――


観測員たちは言葉にならない絶叫とともに艦にしがみついた。

その中で、加納ただひとりが伝声管に飛びついた。


その手には、海水に濡れた軍帽があった。

加納はそれをしっかりと握ったまま、伝声管の蓋を引き開け、力の限り声を張り上げた。


「座礁する! 総員、衝撃に備えッ――!」


次の瞬間、轟音とともに伊49を激しい衝撃が襲った。


艦首で巨大な水柱が立ち上がり、すぐさま大波が艦全体を飲み込む。

その一撃に巻き込まれた瞬間、艦橋にいた加納副長の姿がかき消えた。


誰とも知れぬ叫び声が風に乗って響いた。


「副長──!」


そして、数秒後。

風は和らぎ、波が凪いだ。


観測員たちはすかさず探照灯を手にし、海に向けて光を走らせた。

だが、荒れ果てた艦橋の周囲にも、白く泡立つ海面にも、加納副長の姿は見当たらなかった。


誰かが、静かに呟いた。


「……加納さん……」


しかし、誰もそれ以上、言葉を継ごうとはしなかった。

雨と風が残した泡沫だけが、静かに甲板を洗っていた。


その後も、艦内では藤堂の指揮の下、交代で消火作業を続けられた。


重油が満載された燃料タンクに相次いで引火したため、完全な鎮火までには二時間を要した。水と化学薬剤による応急消火では焼け止まらず、煙と熱だけが艦内を蝕み続けた。


ようやく火は鎮まり、温度も煙も落ち着きを取り戻したが――

希望だけは、戻ってこなかった。


機関は、火災と水圧による致命的な損傷を受けていた。

自力航行は不可能と判明し、蓄電池がかろうじて艦内の電力を支えているに過ぎない。


何より、艦そのものが動かなくなっていた。


外の荒波にすら揺さぶられることもなく、伊49は静かに、まるで海底の何かに捕らえられたかのように、その場に沈黙していた。

艦は完全に、暗礁に乗り上げてしまったのだった。


鎮火を終えた藤堂と松岡まつおかが、ゆっくりと艦橋に上る。

そこに、もう加納の姿はなかった。


観測員たちは一様に、目頭を押さえながら、無言のまま俯いている。

海面へと向けられたままの探照灯の光が、薄く霞んだ夜の海面を、ただ静かに照らし続けていた。


藤堂が報告を受けながら、ふと水平線へ目をやる。

空が、わずかに白み始めていた。


冷たく澄んだ朝の空気が肌を打つや否や――


それは、現れた。


灰白色の霧の向こう、ぼんやりと浮かび上がる影。

不自然に盛り上がった輪郭。海面から立ち上がる蒸気のようなゆらぎ。


「……島か?」


藤堂の呟きに、背後の松岡が息を呑んだ。


「しかし、こんな海域に、島など……」


だが、それは確かに“陸地”だった。


伊49は、岩礁に乗り上げる形で座礁していた。

艦首は水面から浮き上がり、対象的に沈み込んだ艦尾甲板には波が打ち付けている。

艦を動かすことは、もはや絶望的だった。

だが、艦尾に傾いた姿勢で座礁していたおかげで、甲板を伝って海へ出ることは容易だった。


煙るように出現した、誰も知らない火山性の新島。

その正体も、名も、歴史もない島。


艦内に、鈍い地鳴りが響いた。


カタ……カタ……と、どこかで金属器具が微かに揺れる。


「地震か……」


兵の一人がそう呟いたが、疲れ切った艦内では、誰もそれ以上、気に留めようとはしなかった。


だが、その微かな揺れこそが――

この島で後に起こるすべての出来事の、最初の“兆し”だった。



***

【次回予告】


ふねを失い、仲間を失い、それでも人は立ち続ける。


次回、第三章『風に還る』。


こちらからどうぞ!

https://kakuyomu.jp/works/16818622172289019321/episodes/16818622173220803001

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