傍霊の島 伊49北太平洋漂流記
じんべえ@「傍霊の島」連載中!
第一章 孤海の門
―これは、戦いの記録ではない。 滅びゆく祖国を見つめながら歴史の狭間に沈んだ、名もなき兵士たちの航跡である―
1942年6月――
太平洋戦争の転機となったミッドウェー海戦で、日本海軍は歴史的な敗北を喫した。
開戦以来、日本海軍が初めて味わった大敗であり、太平洋の制海権を失った瞬間でもあった。
伊号第四十九潜水艦(通称・
艦長は
士官学校を卒業後、駆逐艦勤務を経て二十代半ばで潜水艦へ転属。
以後は潜水艦畑を歩み、日中戦争でも複数の作戦に従事した経験豊富な指揮官である。冷静で感情に流されることのないその采配は、乗員たちの厚い信頼を集めていた。
だが、ミッドウェー作戦の崩壊により、連合艦隊主力部隊は伊49に一切の追加指示をすることなく撤退してしまった。
通信士官の
「艦長、大和からです。ミッドウェー作戦の中止が打電されています。ただ……混乱しているようで、我が艦への具体的な指示はありません」
藤堂は短く息を吐き、視線を海図に落とす。
「……まずいな。このままでは、我々は米軍がひしめく海域で孤立することになる」
一瞬、艦内を沈黙が包む。
藤堂はしばらくうつむいた後、決意したように指示を発する。
「徐速前進、針路
トラック島――南太平洋に浮かぶ日本海軍の要衝であり、伊49をはじめ、ミッドウェー作戦に参加した多くの艦艇が作戦後の帰還先としていた。
副長・
「針路
「面舵一杯、ヨーソロー!」
ゆっくりと、艦は南西の海へと身を滑らせた。
――孤立。その言葉が現実になったのは、その晩のことだった。
陽が沈んだ後、伊49は浮上し、ディーゼルエンジンを稼働させて航行しながら蓄電池の充電を行っていた。
その時である。
切り裂くようなエンジン音とともに、伊49の上空を黒い影が横切る。
見張り員が声を上げるより早く、空中で咲いた白い閃光が海面と艦体を昼のように照らし出した。
米軍の哨戒機に発見され、照明弾が放たれたのだ。
「上空に敵機――見つかりました!」
艦橋の藤堂が即座に命じた。
「機関停止、急速潜航!」
米軍機が旋回し、攻撃態勢を取ろうとしている。
「急速潜航、用意!」副長が声を張る。
「ハッチ閉鎖よし!」
「注水、開始!」
艦が呻くように傾き、重々しく海中へ沈み込んでいく。
しかし潜航の最中、上方から水面を打つ鈍い連続音が叩きつけてきた。
「爆雷……投下!」誰かが呻くように叫ぶ。
「近い、至近弾です!」
藤堂が屈みながら叫ぶように指示を飛ばす。
「総員、衝撃に備えー!」
暗闇の海中に炸裂する爆雷。
衝撃が艦体を包み、機関室では火花が散った。
瞬時に艦内の照明が落ち、非常灯がぼんやりと赤く灯る。
鉄板を打つような鈍い音とともに、艦が大きく揺れる。
焦げた匂いが艦内に立ち込め、各所から異常を知らせる絶叫が重なった。
「魚雷室、浸水発生!排水モーター故障!!」
「バラスト異常、排水弁作動しません!」
副長が制御盤を睨み、顔をしかめた。
「深度40……45……50。――潜航、止まりません」
一瞬、艦内の空気が凍りついた。
飛び出すように駆けだした水雷長・
「魚雷室の応援に行きます!艦長、
誰もが息を呑み、中央操作室に重い沈黙が漂う。
浸水を止めねば艦は沈む。止水作業中も水は艦内に広がるため、被害を食い止めるには隔壁ハッチを閉じるしかない。
だが、一度閉じた隔壁ハッチは浸水を止めない限り再び開けることはできない――それは、退路を断って挑む決死の作業を意味していた。
副長が悲痛な声で報告を続ける。
「深度65……70……75……安全深度を越えます!」
加納の報告に藤堂は短く頷いた。
軍帽の縁にそっと指を添える――それは、藤堂が決断の前にだけ見せる癖だった。
一見冷静に見えるその所作には、苦渋の色がわずかににじんでいた。
「……高瀬、頼む。隔壁を閉じて、被害を封じてくれ。
水を止めたら、必ず戻ってこい」
「はっ!」
高瀬は敬礼して魚雷室へ駆けた。
藤堂は両手で軍帽を正しながら指揮を続ける。
「
指示を受けた乗員たちが慌ただしく艦内を行き交う。
「予備タンク、空気圧あるか?」
藤堂の問い、加納副長が制御盤を睨みながら叫ぶ。
「予備タンク、圧あり!排水弁は手動でいけます!」
魚雷室から伝声管を通じて高瀬の声が響く。
「魚雷室、隔壁ハッチ閉鎖完了!止水作業継続します!」
藤堂が小さく頷き、指示を飛ばす。
「よし。艦首バラストから順に抜け。艦尾は後回しだ」
艦内に再び指示が飛び交い、甲板のあちこちでハンドルが回る音が響いた。
重圧のような沈降感が、少しずつ軽くなる。
「深度……90……93……94……――針、止まりました!」
その報告に、小さく安堵の声がもれた。
だが、藤堂は微動だにせず、前方を見据えたまま短く言った。
「魚雷室の状況は?」
加納副長が伝声管に向けて呼びかけるが、応答がない。
伝声管の向こうから、カン……カン……という微かな金属音が響いたようにも聞こえたが、それが魚雷室からの音なのかは判別がつかない。
「返答がありません。恐らく伝声管の止水弁を閉めたのかと…」
加納副長は続けて艦内電話の受話器を取り、通話を試みた。
しかし、返ってくるのは微かなノイズと沈黙だけだった。
「念のため、もう一度……」
そう呟いて再び呼びかけるも、その声には、どこか拭いきれない諦めの色が滲んでいた。
藤堂の目元がぴくりと動くが、動揺が許される立場ではない。
振り返り、指令室の面々を鼓舞するように言葉を放つ。
「高瀬らを信じよう。気を抜くな、今の接敵で我々の位置が知られた。
じきに敵駆逐艦が来るぞ。バラストの応急修理急げ!」
その声は静かだったが、確かに艦内に秩序をもたらした。
その後、艦内では応急班が手際よく動き、破損した配線の修復とバルブ系統の切り替え作業が進められた。魚雷室の隔壁は閉ざされたまま。やがて、レンチを使った打音による連絡が試みられたが、返答はなかった。
閉ざされた鋼鉄の向こう、沈黙だけが――水雷長と水雷員たちの最期を、静かに物語っていた。
誰も無駄口を叩かず、工具の音と短く交わされる指示だけが静かに響いていた。
「後部バラスト、手動操作確認!」
「空気圧、生きてます!」
「応急回路、接続完了!」
やがて艦は、ゆっくりとだが制御を取り戻していった。
ほどなく、艦内の空気にはわずかに自信と安堵の色が戻り始めていた。
加納副長が前方に身を乗り出し、報告を上げる。
「バラストの応急修理、完了しました。ただいま深度20――潜望鏡深度です」
修理の過程で一部のバラストが抜けたことで、艦は緩やかに浮上していた。
「よし、潜望鏡、上げ」
藤堂は静かにそう命じると、席を立って艦内天井のスコープに手を伸ばした。
軍帽のつばを後ろへ回し、アイピースに両眼を押し当てる。
金属の支柱がわずかに軋み、潜望鏡の筒が静かに旋回を始める。
藤堂の目が、海面の四方を無言でなぞっていった。
夜が明け始め、白み始めた水平線にぼんやりと影が浮かび上がる。
「……北東方向、煙柱と…光点の動き。マストか。駆逐艦だな。……南にも煙。西方向に煙柱多数」
加納副長が図上を睨みながら、唸るように言った。
「三方ですな。……囲まれている」
そのとき、通信士官の松岡中尉が艦内の奥から声を上げた。
「艦長、無線……わずかにですが、受信があります」
皆が一瞬静まり返る。
松岡は、ところどころが焦げた通信機の前に座り、雑音混じりのヘッドフォンを片耳に押し当てたまま慎重に音を拾っていた。
「内容は不明瞭です。暗号化されていますが……」
一拍置いて、彼は静かに続けた。
「……交信が増えています。断続的に複数の信号が入り乱れています。各信号の識別符号もばらついている。米駆逐艦同士が何かを確認し合っているような……」
加納副長が眉をひそめる。
「我々とはまだ距離があるが…」
そのとき、
「艦長、距離およそ一万……北東方向から爆雷音、複数!間違いありません。交戦中です。」
艦内に一瞬、重い沈黙が流れた。
潜望鏡を覗いていた藤堂が、静かに言った。
「味方潜水艦と交戦に入ったか……」
加納副長が反射的に口を開く。
「援護は……」
「…できん」
藤堂の声は短く、はっきりしていた。
「魚雷室は浸水している。援護したくても…その手段がない」
悔しさを押し殺したような沈黙が続いた。
藤堂は潜望鏡から目を離し、ゆっくりと全員を見渡した。
「……このままトラックを目指せば、敵の真っただ中を突き抜けることになる。
包囲の緩い北へ出る。いま我々にできるのは――生き延び、伝えることだ」
松岡が小さく頷いた。
「キスカを目指すのですね」
キスカ島――北太平洋のさらに北部、アメリカのアラスカ州から西へと延びるアリューシャン列島の西端に位置する。つい先日、日本軍がミッドウェー作戦の陽動として占領した、日本軍にとって最北端の拠点であった。
それは、友軍が本土やトラック島へ撤退する中、伊49がただ一艦で北の荒海へと向かう決断を意味していた。
藤堂は静かに頷くと、潜望鏡をしまい、指示を下した。
「針路
艦内に伝令が走り、機関と操舵が微調整される。
伊49は音もなく、北の暗い海へと針路を向けた。
艦は深度を保ち、ゆっくりと前進する。
静寂の中で、艦体の外板がわずかに軋む音だけが耳に残る。
誰もが声を潜め、息を殺して聴音員の言葉を待っていた。
やがて、聴音員が小さく報告する。
「敵音源、徐々に遠ざかっています……距離、開いています」
緊張の糸が、わずかに緩む。だが気を抜く者は誰もいなかった。
数時間後、加納副長が声をひそめるように報告する。
「哨戒圏を離脱。周辺に敵音源は確認されません」
藤堂は短く頷いた。
「…よし、蓄電池も限界だ。浮上する」
加納副長がすかさず命令に落とし込む。
「メイン・バラスト、ブロー用意!」
「メンタン・ブロー!」
兵員が復唱しながら、圧縮空気弁のバルブを開放する。
「メーンターン、ブロー!!」
圧縮空気に押し出され、バラストタンク内の水が勢いよく排出される。
艦体がきしみながら、じわじわと浮力を取り戻していく。
やがて、伊49は夜の海面にその姿を現した。
艦橋に立った藤堂は、濃紺の空を仰ぐ。
星々が凍てつく海の彼方に瞬き、北風が静かに頬をなでていく。
藤堂は目を細め、しばらく無言で海を見つめていた。
「……この先に道があるとは限らん。それでも、進むしかない。」
視線を、波しぶきを上げる艦首へと移す。その堅い鋼板の下に、魚雷室がある。
浮上はしたものの、魚雷室の隔壁を開けることはできない。
止水に失敗した以上、一度でも隔壁を開けば艦内に海水がなだれ込み、艦全体が水没する恐れがあるためだ。
高瀬らは、今もなお浸水した魚雷室の中を漂っているに違いない。
だが、その遺体を回収できるのは、ドック設備を備えた拠点へ帰還した後になるだろう。
「……高瀬。すまないが、耐えてくれ。
お前たちの犠牲は、決して無駄にはせん」
藤堂は魚雷室へ向けて静かに敬礼する。
そのつぶやきは、誰の耳にも届かないほどに小さかったが、周囲の者たちも無言のまま帽を脱ぎ、藤堂に倣って静かに敬礼を捧げた。
そのとき、艦内では聴音員が微かな異音を捉えていた。
ヘッドフォンの奥、遥か深く――水底から這い上がるような、軋む音。呻くような音。スクリューやエンジンとも違い、爆雷の残響にも似つかない、不自然な“鳴り”だった。
音は、数十秒ほど続いたのち、ふいに途切れた。
聴音員はしばらく耳を澄ませていたが、音源は不明瞭で既知の音響とは一致しない。
異常として報告すべきか迷ったが、最終的には装置の損傷によるノイズと判断し、報告には至らなかった。
艦内に異変はない。
ただ、静かな時間だけが、深く、確かに流れていた。
***
次回、第二章『兆し』。
こちらからどうぞ!
https://kakuyomu.jp/works/16818622172289019321/episodes/16818622172760526624
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