桜花幻想(おうかげんそう)
この季節になると、私には小さな楽しみがあった
勤務先へ徒歩で向かう途中に小さな公園があり、毎年春になるとその公園に一本だけある桜の木が花を咲かせる
その桜が何と言う品種なのかは判らないが、小ぶりの花が集まって手鞠のような丸くて可愛らしい形を作る
それを道すがら、行き来しながら眺めるのが好きだった
春特有の淡くも綺麗な青い空に桜の色が映えて、柔らかな緑の芝生でくつろぐ
もし私に家族がいたら…
この日当たりの良くて大通りの喧騒からも離れている公園で、この桜を眺めてお花見でもしていたかもしれない…
(気分が良いだろうなぁ…)
そんな事を独りで想像してしまうくらい、その桜は綺麗だった
今年も桜が満開に咲き、毎日が楽しみになった頃
私は手のひらに小さな鈴のついた和物のストラップを持って、真夜中に近い時間に公園の脇を通っていた
着物の生地のような薄いピンクと紫のリボンに金色の小さな鈴が付いていて、その下に小さい桜の花が幾重にも連なって付いている布製の可愛らしいストラップだ
職場の関連で海外から訪れていた来客達に、帰国するのでちょっとした和雑貨をプレゼントしたら喜んでくれたのだけど、その時レジ横にこれがあって…あまりにも可愛らしくて眺めていたら、その店のオーナーが雑貨を沢山購入したお礼と言っておまけで私にこれをプレゼントしてくれた
眺めている私を見て、もしかしたら娘でもいると思ったのかもしれない
可愛らしいが私が持つには可愛すぎるし、職場も男性がほとんどで欲しいと言う人も出なかった
(折角可愛いのに…勿体無いなぁ)
そう思いながら、あの公園の桜の木が目に入る
深い濃紺の夜空に淡い桜色の花を咲かせて、今年も見事に咲いている
誰が待つともない家路への足を止め、暫くの間桜を愛でる
風に吹かれて花びらが舞う姿は、まるで桜が楽しそうに舞を踊っているように見えた
暫くその優美な様を眺めているうちに…
私はふと、桜の木に歩み寄ると手にしているストラップを手近な枝に引っ掛けてみた
満開の桜の花に添えられたストラップは、意外と馴染んで見える
この桜がもしも女の子だったら、きっと似合うだろう
そんなバカな事を考えてみる
風に揺れてストラップの鈴が小さく「チリン…」と音を立てる
もしかすると、ストラップに気がついた誰かが貰ってくれないか、今時ないようなそんな想像をしながら家路へと向かった…
そのひはどう言う訳かいつもと様子が違っていて、仕事が一向にうまく連携できず普段ならとっくに終わって帰宅出来ている筈がすっかり遅くなってしまった
だからと言って独り身だから、誰に迷惑がかかるともないのだが…
最後の確認をして職場を出て、あの公園でちょっと桜を眺めて行こう
春の唯一の楽しみになっている公園に差し掛かりあの桜が見えた時、いつもとは違う事に気が付いた
誰かが桜の木の下で何かしている
私はそっと公園に入ると桜の木の近くまで寄ってみた
すると…
今、まさに満開の桜の下で若い女性が一人
静かに舞を舞っている
長い黒髪を一つにまとめて花かんざしで飾り、淡い鴇色の生地に桜の花があしらわれている着物が透けるような肌と相まって、双方の美しさを引き立てている
手にした扇子を優雅に翻しながら、丁度満月の月光に照らされて…
それはさながら、桜の精霊が舞っているような…幻想的な光景だった
風が吹く度に散る桜の花びらが彼女に彩りを添えて、帯留め飾りの桜のリボンに付いている小さな鈴の音が動きに合わせて小さく鳴っている
とても楽しそうに舞うその姿に、私は時を忘れて魅入っていた
観ている私自身、優美でいて力強く…繊細でしなやかなその舞を見ていると心が満たされていくような感覚になり、この時が永遠に続いて欲しいとさえ思ってしまった
どれくらい見ていただろう…
気が付くと舞は終わっており、演者の美しい女性がこちらを向いて深々と頭を下げていた
自分の方こそお礼を言おうと思った時、一陣の突風が吹き抜けた
桜の花びらが一斉に舞い散って目の前が桜色に染まる
風が止み、顔を上げた時にはもう…
彼女の姿はなくなっていた
一晩経った翌日、休日で昨日の光景が忘れられず訪れた公園の桜は、一晩中続いた風ですっかり散ってしまっていた
私がこっそりと吊ったストラップもなくなっている
あれは夢だったのだろうか…
そう思ったけれど、例え夢でも今もあの幻想的で美しい光景に心が満たされている
「また来年、見にくるよ」
桜の木にそう言って、私は珍しくそのまま散歩へと向かった…
ーENDー
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