第11話:葬り屋たちの最期

6月の蒸し暑い夜、良太は「縁の手」事務所の片隅で一人、微かな灯りだけをつけて座っていた。机の上には開かれた封筒が置かれ、その隣には優花への手紙が半分書きかけのまま残されていた。


「優花へ」良太は書き始めた。「君が教えてくれた本物の弔いの心を、これからは俺自身の人生に活かしていく...」


しかし、その先の言葉がなかなか出てこなかった。何を書けばいいのか。自分が警察に自首すること?「失踪支援」の全責任を取ること?優花に迷惑はかけないという約束?


ペンを置き、良太は深いため息をついた。窓の外では、山谷の夜景が広がっていた。かつては暗く寂しかった町並みも、今は少しずつ再開発が進み、明かりが増えていた。変わりゆく世界。そして変わらなければならない自分。


良太の携帯が鳴った。五十嵐からだった。


「警察の捜査状況だが」五十嵐の声は緊張を孕んでいた。「かなり具体的に進んでいるようだ」


「そうなのか」良太は身を乗り出した。「どの程度まで?」


「鈴村が事情聴取に応じたらしい」五十嵐は静かに言った。「それと、彼らは高橋の記事に出てきた事例を一つ一つ調べている。望月沙耶のケースも再調査が始まっている」


「ここまで来たか...」良太は呟いた。


「ああ」五十嵐は続けた。「おそらく数日中には、お前のところに事情聴取の通知が来る可能性が高い。遠藤のところにはすでに捜査員が来たそうだ」


良太は窓の外を見つめた。「もう決めたよ。明日、警察に行く」


「本当に一人で行くつもりか?」


「当然だ」良太はきっぱりと言った。「お前たちを巻き込むわけにはいかない」


電話の向こうで、五十嵐が深いため息をついた。「他に方法はないのか?」


「時間の問題だ」良太は言った。「鈴村が証言しているなら、俺の関与も明らかになっている。時間の問題だ」


「つまり、先手を打つというわけだな」


「ああ。俺だけが出頭すれば、お前たちへの捜査は弱まるかもしれない。少なくとも優花だけは守れる」


五十嵐は一瞬黙り、それから静かな声で言った。「良太、お前は良い男だ」


その言葉に、良太は複雑な思いを感じた。良い男だったら、初めから「死の代行業」などしなかっただろう。自分は迷い、間違い、そして最後に責任を取るだけの男だ。


「五十嵐」良太は言った。「もし俺がいなくなったら、『縁の手』を頼む。優花と一緒に、本来の無縁仏支援だけを続けてくれ」


「わかった」五十嵐の声には決意が感じられた。「約束する」


電話を切った後、良太は再び手紙に向き合った。しかし、書くべき言葉が見つからない。どんな言葉も、これから起こることを正当化できるとは思えなかった。


ドアが開く音がした。


「先輩...?」


優花の声に、良太は驚いて振り返った。彼女は鍵を持っていたが、この時間に戻ってくるとは思っていなかった。


「何してるんですか、こんな暗い中」優花は電気をつけながら言った。


明かりが灯ると、良太の表情が優花の目に入った。彼女は瞬時に何かを感じ取ったようだった。


「どうしたんですか?」彼女の声には不安が混じっていた。


良太は机の上の封筒と手紙を見て、それから優花に向き直った。隠しても無駄だと悟った。


「座るか」良太は静かに言った。


優花は黙って向かいの椅子に座った。彼女の目は良太の顔を離れなかった。


「明日、警察に行く」良太はストレートに言った。「自首するつもりだ」


優花の顔から血の気が引いた。「なぜ、突然...」


「突然じゃない」良太は首を振った。「五十嵐から連絡があったんだ。警察が本格的に動いている。鈴村が証言したらしい」


「具体的にどこまで捜査が...」


「俺の名前も出ているだろう」良太は静かに言った。「望月沙耶のケースを再調査しているとなれば、つながりは明らかだ。もう遠藤のところにも事情聴取に来ている」


優花は黙って聞いていた。彼女の表情からは感情を読み取ることができなかった。


「さっき、沙耶さんが来た」良太は続けた。「俺を助けるために、彼女たち...『死んだはず』の人たちが名乗り出ようとしている」


優花は息を呑んだ。「それは...」


「危険すぎる」良太は言った。「彼女たちは新しい人生を生きている。それを台無しにはさせられない」


「でも、先輩一人が全ての責任を...」


「俺のしたことだ」良太はきっぱりと言った。「俺が始めた『失踪支援』。責任を取るのは当然だろう」


優花は黙ったまま、指先を固く握りしめていた。やがて彼女は顔を上げ、決意の表情で言った。


「私も行きます」


「何を言ってるんだ」良太は驚いた。「お前は関係ない」


「関係あります」優花は力強く言った。「私も『縁の手』の一員です。先輩のしてきたことを知って、それでも一緒に働いてきました」


「お前は『失踪支援』に直接関わってない」


「でも知っていました」優花は揺るがなかった。「知っていて止めなかった。それは共犯です」


良太は頭を振った。「バカなことを言うな。お前には将来がある。若いんだ。俺みたいに人生を台無しにするな」


「先輩の行動が全て間違っていたとは思いません」優花の声には確信があった。「方法は違っても、人を救いたいという思いは本物でした。それを私は支持していました」


良太は言葉に詰まった。優花の決意の強さに、胸が熱くなった。しかし同時に、彼女を守らなければならないという思いも強かった。


「優花」良太は真剣に言った。「俺は、お前だけは守りたいんだ。お前が『縁の手』を継いで、正しい道で人を救ってほしい」


「でも...」


「俺の最後のお願いだ」良太は静かに言った。「お前が自由でいることが、俺にとっての救いになる」


優花の目に涙が浮かんだ。彼女は何か言いたげだったが、良太の真剣な表情を見て、最終的に小さく頷いた。


「わかりました...」彼女の声は震えていた。「でも、約束してください。どんなことになっても、希望を失わないと」


良太は微笑んだ。「約束する」


優花は涙をぬぐい、立ち上がった。「お茶を入れます」


彼女が台所に立つ姿を見ながら、良太は思った。優花は強い。自分よりもずっと強い。彼女なら、これから先も「縁の手」を守っていけるだろう。


---


翌朝、良太は「死亡案件管理簿」を持って警察署に向かうつもりだった。最後の朝を迎え、彼は事務所の窓から昇る朝日を見つめていた。


しかし、その計画は予想外の訪問者によって変わることになった。


ドアをノックする音に、良太は振り返った。まだ早朝だ。優花が来るには早すぎる。


ドアを開けると、そこには高橋が立っていた。彼は普段の清潔感のあるスーツ姿ではなく、少し乱れた様子だった。


「高橋さん...」良太は驚いた。「どうしたんですか、こんな朝早くに」


「中野さん、話があります」高橋は息を切らしていた。「今から警察に行くつもりですね?」


良太は一瞬動揺したが、すぐに表情を戻した。「なぜそれを?」


「五十嵐さんから聞きました」高橋は説明した。「彼から緊急の連絡があったんです」


良太は高橋を事務所に招き入れた。「それで?」


「自首するのは待ってください」高橋は真剣な表情で言った。「少なくとも今日は」


「待つ?」良太は眉をひそめた。「警察の捜査は進んでいる。鈴村が証言し、望月沙耶のケースを再調査しているんだ。もう時間がない」


「わかっています」高橋は頷いた。「でも、今日はやめてください。私の記事が明日発行されます」


「記事?」


「前回のあなたの協力で、私は『制度の隙間で苦しむ人々』の記事を準備していました」高橋は説明した。「DV被害者や内部告発者の保護制度の欠陥と、改革の必要性について」


「それと俺の自首がどう関係する?」


「タイミングです」高橋は言った。「同時に起きれば、より大きな議論になります。あなたが逮捕された直後に、制度の欠陥を指摘する記事が出れば、単なる『犯罪者の逮捕』で終わらせることはできなくなる」


良太は考え込んだ。「それは単なる延命じゃないのか?」


「そうかもしれません」高橋は率直に認めた。「しかし、これはあなただけの問題ではありません。DVや内部告発で苦しむ人々のためにも、この議論を社会に広げる必要があるんです」


良太は窓の外を見た。朝日が山谷の街を照らし始めていた。彼の心の中で葛藤が続いていた。逃げ続けることはできない。しかし、高橋の言うことにも一理あった。


「明日だけか?」良太は尋ねた。


「はい」高橋は力強く頷いた。「明日、記事が出た後なら、あなたの自首も社会に別の意味を持つでしょう」


良太は深く考え込んだ。一日。たった一日の猶予が、何かを変えるだろうか。しかし、それが無駄でないとすれば...


「わかった」良太はようやく決断した。「明日まで待とう」


高橋は安堵の表情を見せた。「ありがとうございます」


「ただ」良太は真剣な表情になった。「優花だけは守れ。彼女には関係ない」


「もちろんです」高橋は約束した。「彼女の名前は一切出しません」


高橋が帰った後、良太は再び窓の外を見つめた。わずか一日の猶予。その間に何が変わるだろうか。あるいは何も変わらないかもしれない。しかし、最後に賭けてみる価値はあるだろう。


---


その日の午後、良太は優花に一日延期したことを伝えた。


「先輩...」優花は複雑な表情で言った。「それで良かったんですか?」


「わからない」良太は正直に答えた。「だが、高橋の言うことにも一理あった。俺の責任の取り方が、何かの議論のきっかけになるなら...それもまた救いの形かもしれない」


優花は静かに頷いた。「明日、私も付き添います」


良太は断ろうとしたが、優花の決意の表情を見て言葉を飲み込んだ。「...ありがとう」


二人は事務所で、いつもの業務をこなした。無縁仏の書類整理、新しく見つかった身元不明者の対応...普段通りの日常が、なぜか特別に感じられた。


夕方、五十嵐から電話があった。


「警察の動きだが」五十嵐は静かに言った。「本格的な捜査が始まっている。遠藤の事情聴取は、4時間以上に及んだそうだ」


「何を聞かれた?」


「主に『失踪支援』の仕組みについてだ」五十嵐は答えた。「しかし彼は、具体的な名前は出さなかったようだ」


「そうか...」良太は安堵した。「彼にも迷惑をかけてしまった」


「それと」五十嵐は声を低くした。「小田が行方不明になった。おそらく、警察の追及から逃げたのだろう」


良太は眉をひそめた。「彼がケースを漏らしていたのは確かだが...」


「冷静になれなかったんだろう」五十嵐はため息をついた。「皆が君のように責任を取れるわけではない」


電話を切った後、良太は考え込んだ。事態は刻々と動いていた。明日、高橋の記事が出た後で警察に行くという決断は正しかったのだろうか。


---


翌朝、良太は早くに起きて新聞を買いに行った。「東都日報」の第一面には、高橋の記事が大きく掲載されていた。


「制度の隙間で苦しむ人々—DV・内部告発・精神疾患 救済への道」


記事は綿密な取材に基づいており、DV被害者や内部告発者が直面する制度の壁、そして現行の保護制度の欠陥が詳細に述べられていた。具体的な事例(もちろん匿名化されている)も含まれており、読者に深い印象を与える内容だった。


注目すべきは、元警察官や福祉関係者、弁護士などの専門家のコメントが多く掲載されていることだった。「制度そのものを変える必要がある」「被害者を本当に守る仕組みが不足している」といった意見が、説得力を持って並んでいた。


そして最後に、「葬り屋」と呼ばれる存在についての考察があった。


『「葬り屋」のような存在が生まれること自体が、制度の欠陥を示している。違法行為を肯定するものではないが、制度が守れないという現実から目を背けてはならない』


良太は記事を読み終えて、深く息を吐いた。高橋は約束通り、実名を出さず、かつ問題の本質を浮き彫りにしていた。これは単なる犯罪報道ではなく、社会問題の提起だった。


「これで...少しは変わるかもしれないな」良太はつぶやいた。


彼は決意を固めた。今日、警察に行く。責任を取る。そして、その先にある可能性に賭ける。


「縁の手」事務所に向かうと、優花がすでに到着していた。彼女も新聞を読んでいた。


「先輩」優花は良太を見つけると立ち上がった。「記事を読みました」


「ああ」良太は頷いた。「良い記事だったな」


「これで何か変わりますか?」優花の目には期待と不安が混じっていた。


「すぐには変わらないだろう」良太は正直に答えた。「制度改革には時間がかかる。法律が変わるのは何年も先かもしれない」


優花は少し肩を落とした。


「でも」良太は続けた。「変わり始めることに意味がある。議論が生まれ、問題が可視化される。少なくとも、俺たちがしてきたことが単なる犯罪として片付けられることはないだろう」


「先輩...」優花の目に涙が光った。


「さあ」良太は「死亡案件管理簿」を取り出した。「行こうか」


優花は頷き、良太の後に続いた。


---


警察署に着いたのは午前10時だった。受付で、良太は静かに名乗った。


「私は中野良太といいます。『葬り屋』と呼ばれている者です。自首に来ました」


警官は一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに職業的な冷静さを取り戻した。「少々お待ちください」


別室に案内され、刑事が現れるのを待った。優花は終始良太の傍らにいた。彼女の存在が、良太に大きな支えを与えていた。


「優花」良太は静かに言った。「ここからは一人で行く。帰ってくれ」


「でも...」


「証拠を持ってきている」良太は「死亡案件管理簿」を示した。「これで俺だけの責任であることを証明する。お前には関わりがないことを明確にする」


優花は涙をこらえながら頷いた。「わかりました。でも、必ず面会に来ます」


「ああ」良太は微笑んだ。「楽しみにしている」


優花が去った後、二人の刑事が部屋に入ってきた。彼らは驚くほど静かで丁寧だった。


「中野良太さんですね」年配の刑事が言った。「お話をうかがいます」


良太は「死亡案件管理簿」を差し出した。「これが全ての記録です。私が犯した罪の証拠です」


刑事たちは驚いた顔をして、それをゆっくりとめくり始めた。


「なぜ、これを自分から?」若い方の刑事が尋ねた。


「責任を取るためです」良太は静かに答えた。「そして...これが議論のきっかけになればと思って」


「議論?」


「制度の欠陥についての」良太は言った。「私がしたことは間違っていた。しかし、制度が守れない人々がいることも事実です」


刑事たちは互いに視線を交わした。


「中野さん」年配の刑事が静かに言った。「これからは弁護士を通して話すことをお勧めします。あなたの供述は、あなたに不利に働く可能性もあります」


良太は微笑んだ。「わかっています。それでも、真実は話します」


この後の数時間、良太は詳細な聴取を受けた。彼は隠さず、すべてを話した。自分がいかにして「死の代行業」を始めたか、どのような人々を助けてきたか、そして最近になって自分の方法の限界を悟ったことまで。


夕方、良太は正式に逮捕された。公文書偽造罪、詐欺罪の容疑だった。


彼を留置場に案内する途中、若い刑事が静かに言った。


「朝の新聞、読みました」


良太は一瞬、足を止めた。


「あれは、あなたのことを指していたんですね」刑事の声には非難ではなく、ある種の理解が混じっていた。


良太は何も答えなかったが、心の中で思った。少なくとも、一人には伝わったのだと。


---


「縁の手」事務所に戻った優花は、五十嵐を待っていた。良太の逮捕は、夕方のニュースで報じられるだろう。


「どうだった?」五十嵐が到着するなり尋ねた。


「予想通りです」優花は静かに答えた。「先輩は全てを話すつもりでした」


「そうか...」五十嵐は深く息を吐いた。「彼は、最後まで自分の道を貫いたんだな」


「ええ」優花は窓の外を見つめた。「でも...これで終わりじゃないんです」


「ああ」五十嵐は頷いた。「これからが始まりだ」


二人は、これから進むべき道について話し合った。「縁の手」の本来の活動を続けること、そして制度改革の動きを支援していくこと。それが良太の遺志を継ぐことになるだろう。


「私、決めました」優花は真剣な表情で言った。「社会福祉士の資格を活かして、制度の中から変えていきます。そして、『縁の手』では無縁仏の弔いを続けます」


「良太も喜ぶだろう」五十嵐は微笑んだ。


その夜、優花は事務所に一人残り、窓から夜空を見上げた。


「先輩」彼女は空に向かって話しかけた。「必ず面会に行きます。そして...先輩が出てくるまで、『縁の手』を守ります」


窓の外では、山谷の灯りが静かに輝いていた。この街には、まだ多くの無縁仏がいる。そして、制度から零れ落ちる人々もいる。


優花は良太の机の上に置かれた「失踪支援ガイドライン」のノートを手に取った。それを開くと、良太の新しい文字が残されていた。


「第十二条:真実に向き合い、制度そのものを変える道を探れ。嘘で救うのではなく、光の中で戦うこと」


優花は微笑んだ。「必ず、その道を歩みます」


---


留置所の狭い部屋で、良太は小さな窓から見える星空を眺めていた。


未来は不透明だった。裁判がどう進むか、どのような判決が下るか、わからない。しかし、彼の心は奇妙なほど平穏だった。


「これでよかったのだろうか」と問う声もあった。しかし、より大きな声が答えた。「ああ、これで良かったのだ」


良太はついに、自分の生き方を見つけたのだから。


嘘で人を救うのではなく、真実に向き合い、制度そのものを変える道を。それが「葬り屋」から「救済者」への本当の変化だった。


優花や五十嵐、そして高橋のような人々がいる限り、その歩みは続くだろう。たとえ自分が刑務所の中にいたとしても。


「さようなら、葬り屋」良太は静かにつぶやいた。


明日からは新しい闘いが始まる。それは法廷の中での闘いであり、社会の意識を変える長い闘いでもある。しかし良太は、もう後悔はなかった。


彼は真実の道を選んだのだから。


(終)

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「葬り屋、善人につき」 旧: 灰の証明書 ―死を売る男の記録― セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon

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