第10話:懺悔の葬儀
雨音が「縁の手」事務所の窓を叩く音が、良太の思考に重なるように響いていた。春の雨は冷たく、容赦なく降り続けていた。
高橋の記事が掲載されてから一ヶ月が経過していた。「葬り屋、善人につき」という特集記事は、小さな波紋を広げていた。ネット上では匿名の「失踪支援」に賛否両論の議論が巻き起こり、行政の救済制度の限界についての問い直しも始まっていた。しかし、良太たちの実名や「縁の手」の名前が出ることはなく、実質的な影響はまだ見えていなかった。
良太の机の上には、古い一枚の写真が置かれていた。十年前、彼が福祉課職員だった頃の集合写真。その端に写っている痩せた男性―川崎昇。良太が救えなかった最初の命だと、これまで思っていた。
しかし昨日届いた死亡通知が、その認識を変えた。
「岡村徹、享年67歳。路上にて自殺により死亡」
良太は岡村の名前を見た瞬間、血の気が引いた。岡村徹―かつて路上生活者支援のNPOを立ち上げ、先駆的な活動をしていた人物だった。その彼が路上生活者となり、自ら命を絶ったという。そして良太は彼のことを知っていた。福祉課時代、何度も窓口に訪れていた男だった。
電話が鳴った。五十嵐からだった。
「話は聞いたぞ」五十嵐の声は重かった。「岡村の件だ」
「ああ」良太は窓の外を眺めながら答えた。「山谷の公園で首を吊ったらしい。山田から連絡があったんだ」
「気分はどうだ?」
良太は言葉を選んでいたが、結局は沈黙した。気分を表現する言葉が見つからなかった。
「岡村とは面識があったんだな?」五十嵐が尋ねた。
「ああ」良太は静かに言った。「福祉課にいた頃、彼は何度も相談に来ていた。精神的に不安定になり始め、支援が必要だったんだ」
「そして?」
「俺は彼を本気で助けようとしなかった」良太の声が震えた。「面倒な案件だと思って、『自己責任』という言葉で片付けたんだ」
五十嵐は黙っていた。電話の向こうで、深いため息をつく音が聞こえた。
「彼は俺だけじゃなく、他の職員からも同じように扱われた」良太は続けた。「それで精神を病み、自らのNPOを去り、ホームレスになったんだ」
「自分を責めるな」五十嵐は静かに言った。「君だけの責任じゃない」
「いや、もういい。言い訳はしない」良太の声には決意が宿っていた。「岡村は俺にとって川崎とは違う意味を持つ。川崎は俺が救えなかった一人の男だった。でも岡村は...俺が追い詰めた人間なんだ」
「そんなことはない」五十嵐は反論した。「彼の人生は彼自身のものだ」
「そうかもしれないが...」良太は言葉を切った。「とにかく、彼の葬儀は俺がやる。それが、せめてもの...」
「わかった」五十嵐は言った。「何か必要なことがあれば言ってくれ」
電話を切った後、良太は改めて岡村の死亡通知書を見つめた。岡村が亡くなる前に良太に直接連絡をとったという事実はなかった。しかし、彼が「縁の手」の存在を知っていたことは間違いなかった。山田によれば、岡村は最近になって「縁の手」の話題に触れ、「あそこの代表とは昔会ったことがある」と言っていたという。
そして彼の遺品の中には、「中野良太」と「縁の手」という単語が書かれたメモが残されていた。山田はそれを見て良太に連絡したのだ。
メモには他に何も書かれていなかった。ただの名前と組織名。しかし良太には、それが無言の訴えに聞こえた。
「先輩?」
ドアが開き、優花が顔を覗かせた。
「どうしたんですか?表情が暗いですよ」
「岡村徹という男を知っているか?」良太は尋ねた。
優花は考え込むように目を細めた。「確か...路上生活者支援の先駆者だった方ですよね。大学の社会福祉学の授業で名前を聞いたことがあります」
「ああ、そうだ」良太は頷いた。「彼が昨日、自殺した」
「えっ...」優花の顔から血の気が引いた。「どうして...」
「彼もまた、制度から零れ落ちた一人だったんだ」良太は静かに言った。「そして...俺が福祉課にいた頃、彼を見捨てた男の一人でもある」
優花は黙って良太の話を聞いた。良太は彼女に岡村のこと、福祉課時代に彼を突き放したこと、そして彼のメモに自分の名前があったことを伝えた。
話し終えると、優花は静かに尋ねた。「先輩は何をするつもりですか?」
「彼の葬儀を執り行う」良太は答えた。「そして...」
「そして?」
「『縁の手』のあり方を考え直したい」良太は真剣な表情で優花を見つめた。「お前は前から感じていただろう。俺たちのやり方に違和感を」
優花は何も言わなかったが、その目には理解の色があった。
「岡村さんの葬儀を、特別なものにしましょう」彼女はようやく口を開いた。「先輩にとっても、岡村さんにとっても、悔いのない送り方を」
良太は頷いた。「手伝ってくれるか?」
「もちろんです」優花の声には力があった。「それが私たちの仕事ですから」
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数日後、良太は高橋記者に連絡を取った。高橋の記事が出てから、二人は数回会っていた。記者は約束を守り、「縁の手」の実名を記事に出さなかったことで、良太からの信頼を得つつあった。
「高橋さん、お時間があればお会いしたいことがあります」
「もちろん」高橋の声には好奇心が混じっていた。「何かあったのですか?」
「あるホームレス支援活動家の葬儀を執り行うことになりました」良太は説明した。「かつての先駆者で、自らも路上生活者となり、自死した方です。その葬儀に来ていただけませんか」
「なぜ私を?」高橋は不思議そうに尋ねた。
「あなたに見せたいものがあります」良太は静かに言った。「『縁の手』の本来の姿と、今後についての考えを」
高橋は一瞬躊躇った後、同意した。「わかりました。いつですか?」
「明後日の午後2時、『縁の手』の事務所に来てください」
電話を切った後、良太は窓の外を見つめた。雨はまだ降り続いていた。彼はペンを取り、メモ帳に書き出した。「真の救済とは何か」
そして彼は考え始めた。これまでの「失踪支援」は本当に人々を救っていたのか?それとも単に逃げ道を提供しただけなのか?岡村のような人を救えなかった時の罪悪感から始まった活動が、本当に償いになっていたのか?
そして最も重要な問い―これからの「縁の手」はどうあるべきか。
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葬儀の日、事務所はいつもと違う空気に包まれていた。通常の葬儀場ではなく、「縁の手」の広間を使って、岡村の葬儀が行われることになっていた。
優花は早朝から準備を始め、部屋を清め、小さな祭壇を設置していた。彼女は岡村の遺影を、彼が亡くなる前に撮られた路上での姿のものにした。それは彼の現実を直視するためだった。
「おはようございます」優花は良太が事務所に入ってくると、静かに挨拶した。
「ずいぶん早くから」良太は優花の仕事ぶりに感心した。
「はい」優花は微笑んだ。「岡村さんのために、できる限りのことをしたくて」
良太は頷き、祭壇に近づいた。そこには岡村の遺影だけでなく、彼の著書や活動時代の写真も飾られていた。「これは?」
「山田さんに連絡して集めてもらいました」優花は説明した。「岡村さんの過去の栄光と、最後の姿の両方を伝えたかったんです」
良太は感動して言葉が出なかった。優花はこれまでも無縁仏の弔いに真摯だったが、今回は特別な思いを込めているのが伝わってきた。
「参列者は?」良太が尋ねた。
「山田さんたち路上生活者の方々、それから岡村さんの元同僚の方々に連絡を取りました」優花は答えた。「十数名が来る予定です」
「そして高橋記者も」良太は付け加えた。
優花の表情が少し緊張した。「先輩、高橋さんを呼んだ本当の理由は何ですか?」
良太は少し考えてから答えた。「正直に言うと、まだ自分でもわからない。ただ、彼に見てもらいたいものがあるんだ」
優花はしばらく良太を見つめていたが、やがて静かに頷いた。「わかりました。私も心の準備をしておきます」
午後になると、参列者たちが次々と訪れ始めた。山田たち路上生活者は精一杯の身なりを整え、岡村の元同僚たちは重い表情で現れた。そして最後に、高橋記者が事務所に入ってきた。彼は良太に黙って頭を下げ、後方の席に静かに座った。
時間になり、優花が前に立ち、小さな鈴を鳴らした。葬儀の開始を告げる音色が、静かな事務所に響いた。
良太は祭壇の前に立ち、参列者たちに向き合った。
「本日は、岡村徹さんの葬儀に集まっていただき、ありがとうございます」
良太の声は静かだったが、確かな強さがあった。
「岡村さんは、路上生活者支援の先駆者として、多くの命を救ってきた方です」良太は続けた。「彼はかつて『誰もが尊厳を持って生きる権利がある』と言って、行政に立ち向かい、制度を変えようとした人でした」
参列者たちは静かに頷いていた。
「しかし、彼自身もまた、制度から零れ落ちた一人でした」良太の声が少し震えた。「私は...私は福祉課職員だった十年前、彼の支援を断りました」
会場に静かな衝撃が走った。元同僚たちが顔を見合わせる様子が見えた。
「岡村さんは当時、精神的な問題を抱え始めていました。支援が必要だったのに、私たちは『自己責任』という言葉で彼を突き放しました」
良太は深呼吸して、続けた。「それが彼を路上へと追いやり、最終的には...自ら命を絶つ決断へと導いたのかもしれません」
「違う」
突然、参列者の一人が立ち上がった。岡村の元同僚だと思われる年配の男性だった。
「岡村が路上に出たのは、自分の意思だった」男性は声を震わせながら言った。「彼は『制度の中にいては、本当の苦しみはわからない』と言って、自ら路上に出たんだ」
良太は驚いて男性を見つめた。「そうだったのですか...」
「ああ」男性は頷いた。「彼は最後まで、自分の信念に従って生きていた。だから...」男性の目に涙が浮かんだ。「だから俺たちは彼を止められなかったんだ」
良太は言葉を失った。岡村の選択は、良太が思っていたよりも複雑だったようだ。しかし、それでも...
「それでも、私たちが彼を本当に理解しようとしていれば、違う結果になったかもしれません」良太は静かに言った。「彼の信念と苦しみを、制度の中にいる私たちは本当には理解できなかった」
男性は何も言わず、静かに席に戻った。
良太は岡村の遺影を見つめた。「私は最近になって、岡村さんが私のことを覚えていたことを知りました。彼の遺品から見つかったメモには、私の名前が書かれていたそうです」
参列者たちは静かに聞いていた。
「私は彼の思いを完全には理解できません。ただ...」良太の目から涙がこぼれ落ちた。「彼が最後まで、制度の壁に立ち向かっていたことは確かです。そして私も、彼の思いを受け継ぎたいと思います」
良太は深く頭を下げた。「岡村さん、あなたの死を前に、私は誓います。これからは、あなたのように真っ直ぐに、制度の隙間で苦しむ人々のために戦います」
場内は静まり返っていた。
優花が立ち上がり、読経を始めた。彼女の声は最初こそ震えていたが、次第に力強さを増していった。
読経が終わると、参列者一人一人が前に出て、岡村の遺影に向かって思い思いの言葉を述べた。路上生活者たちは、彼が路上で見せた優しさや知恵について語った。元同僚たちは、彼の情熱と信念について語った。
最後に、山田が前に立ち、こう言った。「先生は、最後の日に俺に言ったんだ。『山田さん、死ぬのは怖くない。忘れられることのほうが怖い』ってな。だから俺たちは、先生のことを忘れないようにしよう」
全員が黙祷を捧げた後、葬儀は終了した。
参列者たちは次々と帰っていったが、岡村の元同僚である男性が良太に近づいてきた。
「中野さん」男性は良太の肩に手を置いた。「岡村は君のことを知っていたんだな」
「ええ」良太は頷いた。「なぜだかはわかりませんが」
「彼は全員の顔と名前を覚えていた」男性は微笑んだ。「『一度でも出会った人は、生涯の仲間だ』と言ってね」
良太は胸が締め付けられる思いがした。彼が忘れていた岡村のことを、岡村は覚えていてくれたのだ。
「彼は晩年、君の活動を知っていたようだ」男性は続けた。「『制度の隙間で戦っている若者がいる』と言っていた」
「そうだったんですか...」良太は驚いた。
「ああ」男性は頷いた。「彼は最後まで、システムを変えることを諦めなかった。ただ、彼なりのやり方でね」
男性は良太の肩を軽く叩き、去っていった。
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葬儀の後、「縁の手」事務所に残ったのは良太、優花、そして高橋だけだった。
「中野さん」高橋が静かに声をかけた。「今日はありがとうございました。感動的な葬儀でした」
「私たちの本来の仕事です」良太は答えた。「無縁仏に尊厳を与えることが」
「岡村さんは無縁仏ではなかったようですね」高橋は言った。「多くの人に記憶され、惜しまれている」
「ええ」良太は頷いた。「彼は特別な人でした」
三人は小さなテーブルを囲んで座った。優花がお茶を入れ、静かに差し出した。
「高橋さん」良太は真剣な表情で口を開いた。「私は『失踪支援』について、考え直しています」
高橋は静かに頷き、良太の言葉を待った。
「今日の葬儀を通じて、より明確になったんです」良太は続けた。「私が最初に『失踪支援』を始めたのは、川崎という男を救えなかった罪悪感からでした。そして今、岡村の死に直面して...私は自問しています。本当の救いとは何なのかを」
「答えは見つかりましたか?」高橋が静かに尋ねた。
良太は少し考えてから答えた。「まだ完全には...ただ、嘘での解決は、根本的な救いにはならないと感じています。一時的な逃げ道を提供するだけでは、制度の壁は変わらない」
「では、これからどうするおつもりですか?」
「『失踪支援』は、徐々に縮小していきます」良太は決意を込めて言った。「すでに約束している案件はありますが、新規は受け付けません。そして...」
「そして?」
「本来の無縁仏支援と並行して、制度改善のための活動にも力を入れたいと思います」
高橋は興味深そうに聞いていた。「具体的には?」
「まだ明確な計画はありませんが」良太は言った。「DVや精神疾患、内部告発...制度から零れ落ちる人々の声を集め、可視化する活動をしたいと思っています」
「そういう活動こそ、岡村さんが望んでいたことかもしれませんね」優花が静かに言った。
「ああ」良太は頷いた。「彼は最後まで諦めなかった。俺たちも諦めちゃいけない」
高橋はしばらく考えていたが、やがて決断したように口を開いた。「中野さん、もし良ければ、その過程を記事にさせていただけませんか」
良太は驚いた。「どういうことですか?」
「『葬り屋、善人につき』の続編ではなく、新しい物語として」高橋は説明した。「制度の壁と向き合い、変革を目指す人々の姿を描くシリーズです。もちろん、あなた方の実名は出しません」
良太は優花と顔を見合わせた。「何を書くつもりですか?」
「私が今日見たこと、そしてこれから目撃するであろうあなた方の活動を」高橋は真摯に答えた。「制度の隙間で苦しむ人々の存在と、彼らを救おうとする人々の姿を」
良太はしばらく考えた。記事化には危険も伴うが、問題を可視化するという意味では意義がある。
「少し時間をください」良太は言った。「五十嵐さんとも相談したい」
「もちろんです」高橋は立ち上がった。「連絡をお待ちしています」
高橋が去った後、良太と優花は二人きりになった。
「先輩」優花は静かに言った。「本当に『失踪支援』を縮小するんですね」
「ああ」良太は窓の外を見つめた。「でも、人を救うことはやめない。ただ、方法を変えるだけだ」
「私も協力します」優花は力強く言った。「先輩が選んだ道なら、どんな道でも」
良太は優花に感謝の笑顔を向けた。「ありがとう。これからは、もっと正直に、もっと堂々と活動していこう。岡村さんのように」
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火葬場で、良太と優花は岡村の棺が炉に入るのを見守っていた。
「ちゃんと燃えているかな」良太は炉の炎を見つめながら呟いた。
「はい、きっと」優花は静かに答えた。
二人は黙って、炎を見つめていた。その炎は、岡村の肉体を灰にすると同時に、良太の過去の生き方も焼き尽くしているようだった。
「先輩」優花が静かに尋ねた。「この後、何をしますか?」
「まず、『失踪支援ガイドライン』を書き直そう」良太は決意を込めて言った。「『真の救済ガイドライン』としてね」
「素敵な名前です」優花は微笑んだ。
「そして、これまで助けた人たちをフォローアップする」良太は続けた。「彼らが本当に新しい人生を歩めているか確認し、必要なら合法的な支援を提供する」
「危険ではないですか?」優花が心配そうに言った。
「ああ、慎重にやる必要がある」良太は認めた。「でも、最後まで責任を持ちたいんだ」
優花は静かに頷いた。「私も手伝います」
炉の中で、岡村の棺が燃え続けていた。その灰は新しい始まりの種となるのかもしれない、と良太は思った。
「岡村さん」良太は心の中で語りかけた。「あなたの信念を引き継ぎます。制度の隙間で苦しむ人々のために、最後まで戦います。ただし今度は、嘘ではなく、真実の力で」
火葬場の窓からは、雨上がりの空が見えた。雲の切れ間から、美しい夕焼けが広がっていた。
まるで、新しい道の始まりを告げるように。
良太は「失踪支援ガイドライン」のノートから一頁を破り取り、静かに半分に折った。彼はそれをポケットに入れ、炉のガラス越しに最後の別れを告げた。
「さようなら、葬り屋」良太は静かに言った。「そして、こんにちは、救済者」
優花は彼の横に立ち、静かに手を合わせた。彼らの新しい旅路が始まろうとしていた。
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