第8話:魂の行方
春の兆しが見え始めた3月初旬。山谷の路地には、まだ冷たい風が吹き抜けていたが、日差しには柔らかさが増していた。
「縁の手」事務所の外では、優花が玄関先を掃いていた。彼女は冬の間に積もったほこりを丁寧に払い、新しい季節を迎える準備をしているようだった。
「おはよう」良太が声をかけると、優花は明るい笑顔を見せた。
「おはようございます、先輩。今日も暖かくなりそうですね」
良太は頷きながら事務所に入った。松永の件から二週間が過ぎていた。五十嵐の奔走により、一応の小康状態は保たれていたものの、完全な解決には至っていなかった。
五十嵐は暴力団関係者との交渉に部分的に成功し、松永の借金返済期限を延長させることには成功した。しかし、証人保護プログラムの申請は簡単には進まず、警察内部の手続きや、松永自身の協力度合いなど、複数の壁にぶつかっていた。
「松永の気持ちは揺れている」と五十嵐は最近の報告で言っていた。「彼は更生への意思を持ちながらも、恐怖と不信が交錯している状態だ」
良太は内心で懸念を抱きつつも、一方では前向きな気持ちも持っていた。命の危機に瀕した人物が、即座に生まれ変われるわけではない。しかし、少なくとも変化の可能性は開かれたのだ。優花が松永に示した理解と共感は、彼の心に何かしらの種を蒔いたように思えた。
電話が鳴った。山田からだった。
「良太さん、大変です」山田の声には珍しく緊張感があった。「港区の路地で、浮浪者が倒れています。まだ息があるかもしれません」
「すぐ行く」良太は即座に応じた。「救急車は?」
「呼んだけど、なかなか来ない。こういう場所、こういう人だからな...」山田の言葉には諦めが混じっていた。路上生活者が救急車で運ばれても、病院では冷遇されることが多いという現実。
良太は急いで事務所を出た。
「先輩?」優花が不思議そうに尋ねた。
「緊急の連絡だ」良太は説明した。「港区で倒れた人がいるらしい。一緒に来るか?」
優花は即座に箒を置いた。「もちろんです」
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港区の裏路地、ゴミ集積所の脇。そこに一人の老人が倒れていた。痩せこけた体、伸びきった白髪と髭。推定70歳前後だが、路上生活の過酷さが実年齢以上に老けさせていた。
山田が傍らで待っていた。
「これは...」良太が近づくと、老人の呼吸はかすかにあった。しかし表情は青ざめ、明らかに危篤状態だった。
「誰か知ってる?」良太は山田に尋ねた。
「通称、博士」山田は答えた。「元大学教授らしいが、本当かどうかは...」
「救急車はまだか?」
「来ないんじゃないですか?」山田は肩をすくめた。「こういう場所、こういう人となると...」
良太は歯を食いしばった。確かにそんな現実があった。路上生活者の命は、制度の中で軽視されがちだ。
「私、看護の資格があります」優花が老人に近づき、脈を取った。「かなり弱いです。すぐに病院へ」
良太は決断した。「救急車を待ってる時間はない。タクシーを呼ぼう」
近くのタクシー乗り場から車を呼び、三人で老人を担いで乗せた。タクシー運転手は最初、汚れた老人を乗せることに難色を示したが、優花が「医療従事者」の身分証を見せると、しぶしぶ同意した。
「最寄りの救急病院へ、できるだけ急いでください」優花は冷静に指示した。
車内で、優花は老人のバイタルサインを確認し続けた。良太は彼女の手際の良さに感心した。彼女の持つ専門知識と冷静さは、危機的状況で大きな力を発揮していた。
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病院に着いたのは老人が倒れてから40分後。救急外来で医師が診察したが、状況は思わしくなかった。
「重度の肺炎ですね」医師は淡々と言った。「さらに栄養失調、脱水症状...」
「助かりますか?」良太が尋ねた。
医師は曖昧に肩をすくめた。「全力は尽くしますが...」その言葉には、あまり期待しないでくれという含みがあった。
「先生」優花が一歩前に出た。「私は看護師の資格を持っています。彼は路上生活者ですが、一人の命です。最善を尽くしていただけませんか」
医師は優花の真摯な態度に、少し表情を和らげた。「もちろんですよ。ただ、状態が非常に悪いということをお伝えしたかっただけです」
老人は集中治療室に運ばれ、良太たちは待合室で待つことになった。
「優花、ありがとう」良太は静かに言った。「君がいなかったら、老人はおそらく路上で息を引き取っていただろう」
「当たり前のことをしただけです」優花は首を振った。「命に貴賤はありません」
良太はその言葉に深く頷いた。優花の中にある揺るぎない倫理観は、彼の失いかけていた何かを思い出させてくれた。
「先輩」優花は少し躊躇いながら口を開いた。「松永さんのことですが...」
良太は彼女の方を向いた。「どうした?」
「五十嵐さんから聞きました。彼が完全に更生の道を選んだわけではないとか...」優花の表情には懸念が浮かんでいた。
「ああ」良太は頷いた。「証人保護プログラムは簡単に進まないらしい。松永自身も怖がっているようだ」
「あの時、私は彼に何か伝わったと思ったんですが...」優花の声には微かな失望が滲んでいた。
「人はそう簡単には変わらない」良太は静かに言った。「特に彼のような生き方をしてきた人は。でも、可能性の扉は開いた。それだけでも大きな一歩だよ」
優花は少し考え込んでから、頷いた。「そうですね。変化には時間がかかりますね」
「君が松永に示した理解と共感は、決して無駄ではなかった」良太は励ますように言った。「たとえ彼が今すぐに更生できなくても、いつか思い出すかもしれない」
待合室の壁にかかった時計が、ゆっくりと時を刻んでいた。
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3時間後、医師が深刻な表情で現れた。
「残念ですが...」
良太と優花は黙って頭を下げた。結局、「博士」は意識を取り戻すことなく、この世を去った。
「身元引受人になっていただけますか?」医師は良太に尋ねた。
「はい」良太は迷わず答えた。それが「縁の手」の表の仕事だった。無縁仏の最期を看取り、弔うこと。
手続きを終え、遺体安置所に向かう廊下で、優花が静かに言った。
「先輩、この人の本当の名前も知らないのに、このまま『無名の死者』として火葬するのは...」
良太は足を止めた。「どうしたいんだ?」
「せめて、名前を...」優花の目には決意が宿っていた。
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遺体安置所で、良太と優花は「博士」の遺体と対面した。死によって穏やかな表情になった老人の顔には、かつての知性の面影が残っていた。
「先輩、遺品を確認してみましょう」優花が提案した。
老人の持ち物は少なかった。擦り切れた上着のポケットから出てきたのは、古びた手帳と、小さな革の財布だけだった。財布には数百円の小銭と、色あせた写真が一枚。若い女性と幼い子供の笑顔が写っていた。
手帳をめくると、几帳面な字で記されたメモがあった。「3月15日、大学同窓会、不参加」「4月2日、娘の誕生日、カード送付済み」など、日常の予定が書かれていた。最後のページには、「森口晃、東京都港区...」と住所らしきものが記されていた。
「森口晃...これが本名かもしれません」優花は言った。
「連絡を取ってみるか?」良太が尋ねた。
「はい。もしかしたら、家族がいるかもしれません」
良太は電話帳で森口晃という名前を調べたが、該当する番号は見つからなかった。住所も現在は存在しないようだった。
「行き止まりか...」良太はつぶやいた。
「でも、名前はわかりました」優花は決然と言った。「森口晃さん、元大学教授...ネットで調べれば、何か見つかるかもしれません」
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事務所に戻った二人は、森口晃という名前でインターネット検索を始めた。すると、20年以上前の大学の記録がヒットした。
「森口晃、元東京大学文学部教授、比較文学専攻」優花が画面を見ながら読み上げた。「1990年代に在籍していたようです」
「なぜそんな人が路上生活に...」良太は疑問を抱いた。
さらに検索を続けると、古い新聞記事が見つかった。「有名教授、精神疾患で休職」「森口教授、大学を依願退職」といった見出しがあった。
「精神的な問題を抱えていたようですね」優花が静かに言った。「そして家族は...」
別の記事には、「教授、離婚後に失踪」という記述があった。時期は約15年前。その後の消息は不明だった。
「家族との連絡は途絶えていたのかもしれない」良太は推測した。「でも、手帳には娘の誕生日のことが書かれていた」
「片思いだったのかもしれませんね」優花の目に悲しみが浮かんだ。「娘さんにカードを送っても、返事はなかったとか...」
二人は沈黙した。断片的な情報から、森口晃という一人の人間の人生が少しずつ見えてきた。輝かしいキャリア、家族の崩壊、精神の病、そして路上生活...一本の糸のように繋がる人生の軌跡。
「先輩」優花が決意を込めて言った。「森口晃さんとして、きちんと弔いましょう」
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その晩、「縁の手」事務所。優花は一人で机に向かっていた。彼女の前には白い紙と、病院で撮影した森口晃の顔写真が置かれていた。
顔は静かで穏やかだった。死によって苦しみから解放されたようにも見えた。
優花は丁寧に紙に文字を書いていた。
「何してるの?」良太が事務所に戻り、彼女の作業に気づいた。
「戒名です」優花は振り返らず答えた。「自分で考えました...『知道院釈智円』...知識の道を歩み、智慧の円満を願うという意味です」
良太は言葉を失った。彼女は一人の無縁仏に、自ら戒名をつけ、尊厳を与えようとしていた。
「それから...」優花は写真を木製の額に入れた。「遺影を作りました」
「なぜそこまで?」良太は思わず尋ねた。
優花は初めて良太を見つめた。彼女の目には強い信念が宿っていた。
「誰にも祈られない死は、あってはいけないと思うんです」
その言葉が、良太の胸を強く打った。誰にも祈られない死。それはまさに彼が日々向き合ってきたものだった。しかし、その死を単なる「案件」として処理することに慣れてしまっていた自分がいた。
「明日、お葬式をします」優花は決然と言った。「たとえ二人だけでも」
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翌日、小さな葬儀場で森口晃こと「知道院釈智円」の葬儀が行われた。
参列者は良太と優花、そして連絡を受けた山田など路上生活者が数人。皆、精一杯の身なりを整えて現れた。
祭壇には優花が作った遺影が飾られ、わずかな花が添えられていた。
優花は白い割烹着を着て、焼香台の前に立っていた。彼女は本から写した読経の文を、たどたどしくではあるが真剣な表情で読み上げた。
「南無阿弥陀仏...」
彼女の祈りは本物だった。形式的なものではなく、魂の篤さがにじみ出ていた。
読経が終わると、優花は参列者一人一人に焼香を勧めた。粗末な身なりの男たちも、厳かな雰囲気に包まれ、静かに香を手向けた。
山田は、儀式の後で思い出を語った。「博士...いや森口さんは、夜になると星座の話をよくしてくれたんだ。冬の大三角とか、春の大曲線とか...本当に詳しかった。だから俺たちは『博士』って呼んでたんだ」
別の路上生活者は、「よく若い人に本の話をしていた。あの人は図書館に通っていたんだよ。雨の日も、寒い日も」と語った。
彼らの話から、森口晃という人物の輪郭が徐々に鮮明になっていく。知識への渇望を失わなかった男、厳しい状況の中でも尊厳を保とうとした男、そして静かに、しかし確かに生きた男。
最後に良太が焼香台の前に立った。線香の煙が立ち上る中、彼は森口晃の遺影を見つめた。
「じゃあ今まで俺が葬ってきた死体たちは、全部偽物以下だったのか?」
良太は突然、涙がこみ上げるのを感じた。これまで彼が関わってきた「死」は、多くが偽りのものだった。生きている人間の「死の代行」、または事務的に処理される無縁仏。どちらも、今ここにある祈りの深さとは無縁だった。
優花は良太の変化に気づき、静かに声をかけた。
「先輩?」
「ありがとう...」良太は涙をぬぐった。「本物の弔いを教えてくれて」
葬儀の後、一同は簡素な食事を共にした。それは「通夜振る舞い」のようなものだった。路上生活者たちは、森口晃との思い出を語り合った。それぞれの記憶は断片的で、時に曖昧だったが、確かに一人の人間の足跡だった。
良太は静かに聞いていた。今まで彼は無縁仏を「処理」していた。しかし優花は違った。彼女は無縁仏を「人」として迎え入れ、送り出していた。
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火葬場で、良太と優花は二人きりで骨上げを行った。
「名前も知らない人の骨を拾うなんて...」優花は静かに言った。「でも、誰かがやらなければ」
良太は頷いた。「それが俺たちの仕事だ」
骨壺を前に、良太は優花に尋ねた。「なぜここまでするんだ?」
「先輩こそ」優花は真っ直ぐに良太を見た。「なぜこの仕事を?」
良太は言葉に詰まった。彼女の質問は純粋だった。そして彼の複雑な内面を射抜いていた。
「最初は...」良太は慎重に言葉を選んだ。「福祉の現場で救えなかった命があってね。その贖罪の気持ちもあった」
優花は静かに頷いた。
「でも今は...」良太は続けた。「わからなくなってきた。何のために、誰のために」
「私はわかります」優花は力強く言った。「魂の行方を見守るためです」
「魂の行方?」
「はい」優花は骨壺に手を添えた。「人は死んでも、その魂は残ります。それを次の世界へ送る人がいなければ、迷ってしまう」
良太は優花の素朴な信仰心に打たれた。彼女にとって、これは単なる仕事ではなく、魂の救済だった。
「失踪支援」の場合はどうだろう。生きている人間に「死」の記録を与え、新しい人生を始めさせる。それは魂の救済と言えるのだろうか。良太にはわからなかった。ただ、優花の言葉には深い真実があるように感じられた。
「先輩」優花は急に真剣な表情になった。「私、感じるんです。先輩が何か重いものを抱えているって」
良太は息を呑んだ。
「もう『失踪支援』のことは話してくださいましたが、それだけではないように感じます」優花は優しく言った。「もし話したいことがあれば、いつでも聞きます」
良太は言葉を失った。彼女の純粋さが、自分の心の闇を照らしているようだった。確かに彼には、まだ打ち明けていない重荷があった。川崎の自殺、そして他にも救えなかった命の記憶...
「ありがとう」良太はようやく言った。「いつか必ず」
二人は静かに骨壺を抱え、火葬場を後にした。
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事務所に戻った良太は、「失踪支援ガイドライン」のノートを開いた。最後に書き加えられた第九条の下に、新たな言葉を記した。
「第十条:すべての命に尊厳を与えること。『失踪支援』に使われる無縁仏にも、真心を込めた弔いを」
窓の外では、春の雨が静かに降り始めていた。優花は事務所の一角で、無縁仏たちの遺影に新しい花を供えていた。彼女の姿を見つめながら、良太は心に誓った。
これからは「失踪支援」と「無縁仏の弔い」を別々のものとして考えるのではなく、両方を「魂の救済」という一つの目的のもとに統合していこう。生きる人も、死ぬ人も、その魂の行方を見守ることが、「縁の手」の真の使命なのかもしれない。
良太の携帯が鳴った。五十嵐からだった。
「松永の件だが」五十嵐の声には疲れが混じっていた。「彼は今朝、警察に出頭した」
「本当か?」良太は驚いた。
「ああ。完全に心を入れ替えたわけではないようだが、借金の返済期限が迫り、選択肢が尽きたようだ。とりあえず暴力団との問題からは逃れられる」
「証人保護プログラムは?」
「まだ確定していない」五十嵐は率直に答えた。「彼が提供した情報の価値や、彼自身の罪の程度、そして本人の態度次第だ。これからの長い道のりになるだろう」
「そうか...」良太は複雑な気持ちを抱いた。完全な解決ではないが、少なくとも一歩は前進した。
「彼が言っていたよ」五十嵐は付け加えた。「『あの女性...岸本さんの言葉が、頭から離れなかった』とね」
良太は優花の方を見た。彼女は今、遺影の前で静かに手を合わせていた。
「ありがとう」良太は五十嵐に言った。「君の尽力にも感謝している」
電話を切った後、良太は窓辺に立ち、雨に濡れる街を眺めた。春の雨は、冬の間に積もった垢を洗い流し、新しい命を育む。彼の心も、少しずつ浄化されていくように感じられた。
「先輩、お茶です」優花が温かい煎茶を差し出した。
「松永さんが警察に出頭したそうです」良太は彼女に伝えた。「君の言葉が、彼の心に残っていたらしい」
優花は驚いた表情を見せた後、静かに微笑んだ。「人の心は、すぐには変わりませんね。でも、小さな一歩を踏み出すことはできる」
「そうだな」良太は頷いた。「最初の一歩を踏み出せたのは、君のおかげだ」
「いいえ」優花は首を振った。「私は先輩から学んだことを伝えただけです。『失踪支援ガイドライン』の精神を」
良太は彼女の言葉に感動した。「優花、『縁の手』を一緒に変えていこう。もっといい方向に」
優花は明るく笑顔を見せた。「はい、先輩」
事務所の壁には、森口晃の遺影が新たに加わっていた。知道院釈智円—その名と共に、一人の人間の記憶が残されることになった。そして、それは良太と優花の新たな出発点にもなった。
魂の行方を見守るという使命。それは彼らの歩む道の先に広がる、新しい地平線だった。
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