第7話:香典泥棒
冬の終わりが近づいた2月下旬。「縁の手」事務所に、一人の男が訪れた。
「すみません、中野良太さんはいらっしゃいますか?」
来訪者は三十代半ばほどの男性で、整った服装にスマートな印象。しかし良太の目には、どこか計算高さが漂っているように映った。
「私が中野です」良太は応対した。「何かご用件でしょうか?」
「はじめまして、矢島と申します」男は丁寧に名刺を差し出した。「五十嵐さんからご紹介いただきました」
その言葉に、良太は表情を引き締めた。五十嵐からの紹介とは、つまり「失踪支援」の依頼だ。しかし火葬場の一件以来、良太は活動を一時停止していた。それに、この男は五十嵐の直接の紹介とは思えなかった。
「奥へどうぞ」良太は周囲を確認し、相談室へと案内した。
相談室のドアを閉め、良太は正面から矢島を見据えた。
「五十嵐さんからの紹介とのことですが、どのようなルートで?」
矢島は少し躊躇した。「直接ではないんです。小田という方を通して...」
良太は瞬時に違和感を覚えた。小田は確かに五十嵐の協力者の一人だが、「失踪支援」ネットワークの外縁部にいる人物だった。依頼者を直接紹介するような立場ではない。
「五十嵐さんから話は聞いています。しかし、現在は受付を一時停止しています」良太は警戒心を隠さずに言った。
「ええ、事情は伺っています」矢島は穏やかに笑った。「火葬場での...トラブルが解決するまでは慎重にされているとか」
良太は眉をひそめた。彼がなぜ火葬場の件を知っているのか。それはネットワークの内部者しか知り得ない情報のはずだった。
「それなら、なぜ今?」
「私の依頼は少し特殊なんです」矢島はリラックスした様子で説明を始めた。「他の方々と違って、私は『死にたくない』んです」
「では、何を望まれるのですか?」
「『死んだことにして』欲しいんです。でも、実際にはどこかに消えるわけではありません」
良太は混乱した。「それはどういう...?」
「葬儀をしたいんです。私自身の」矢島の目が妙に輝いた。「私が死んだという体で、葬儀を開き、多くの人に来てもらう。そして...」
「そして?」
「香典を集めたいんです」
良太は椅子から立ち上がりそうになった。「それは詐欺です!」
「ビジネスです」矢島は平然と言った。「私には借金があります。数百万の。それを返済するためのやむを得ない手段です」
「お断りします」良太は即答した。「私たちがやっているのは、人を救うための偽装であって、金銭を騙し取るためのものではありません」
「そう言うと思いました」矢島は肩をすくめた。「しかし、少し考えてください。私が借金で首が回らなくなれば、本当に死ぬことになるかもしれない。それを防ぐための『自殺予防策』と考えれば、人を救う行為とも言えるのでは?」
その言葉に、良太は一瞬言葉に詰まった。確かに彼らの行為の線引きは曖昧だった。しかし、直接的な金銭詐欺は明らかに一線を越えていると感じた。
「それでも答えは変わりません」良太は毅然と言った。「詐欺に加担することはできません」
「報酬は100万円」矢島は数字を提示した。「うまく行けば300万以上の香典が集まる見込みです。私の借金が返せて、あなたにも報酬が入る。皆が幸せになれる取引です」
「お引き取りください」良太は立ち上がり、ドアを指差した。
矢島はため息をついた。「残念です。でも、考え直していただけるなら、いつでも連絡してください」
彼は名刺を置き、去っていった。
---
その日の夕方、優花と良太は約束通り、「縁の手」について話し合う時間を持った。二人は事務所を閉め、近くの小さな公園のベンチに座った。
「今日、変わった男が来たんだ」良太は話し始めた。「香典詐欺をしたいという依頼だった」
優花は驚いた顔をした。「そんな...断りましたよね?」
「もちろんだ」良太は頷いた。「でもな、優花...」
良太は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。今、彼は約束した通り、「縁の手」の真実を彼女に打ち明けようとしていた。
「俺たちは...無縁仏支援とは別の活動もしている」
優花は静かに頷いた。「気づいていました」
「五十嵐という元警察官と組んで、特殊な支援をしているんだ。『失踪支援』と呼んでいる」
「失踪...支援?」
「DV被害者、内部告発者、死の危険にさらされている人たち...制度の中では救われない人々に、新しい人生を提供するんだ」
良太は優花の表情を注意深く観察しながら、徐々に活動の実態を説明していった。初めての依頼だった望月沙耶のケース、IT企業の役員・櫻井のケース。そして、それらの支援がどのような方法で行われたのかを。
優花は黙って聞いていた。その表情からは、ショックや嫌悪感よりも、複雑な思考が渦巻いているようだった。
「でも先輩、それは...」優花は慎重に言葉を選んだ。「法律的に問題ないんですか?」
「法の境界線上だ」良太は率直に認めた。「偽装自殺や行方不明などの演出は、場合によっては公文書偽造や詐欺罪に問われる可能性もある。でも、命の危険がある人を救うためには...」
「制度の隙間を埋める必要がある」優花が言葉を継いだ。
「そうだ」良太は静かに頷いた。「しかし、その活動は常にリスクと隣り合わせだ。五十嵐のネットワークにはいろいろな専門家がいるが、完璧ではない。最近は行政のデジタル化が進み、マイナンバー制度も広がっている。昔よりも格段に難しくなっている」
「それで火葬場の一件でも...」
「ああ、鈴村の不正が発覚したことで、私たちの活動も危険にさらされた。だから今は一時停止している」
優花は考え込む様子だった。しばらくの沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開いた。
「先輩...私にできることはありますか?」
良太は驚いて顔を上げた。「優花...」
「私も福祉の勉強をしてきました。制度の限界も、その隙間で苦しむ人々のことも知っています」彼女の目には決意の光があった。「もし先輩が本当に人々を救う活動をしているのなら、私も力になりたいです」
良太は彼女の真摯な申し出に、複雑な感情を抱いた。嬉しさと同時に、彼女を危険な道に引きずり込む不安も感じていた。
「考えておいてくれ」良太は静かに言った。「この活動の危険性と、それでも参加したいという気持ちを...」
帰り道、二人は沈黙を保っていた。優花に真実を打ち明けたことで、良太の心からは大きな重荷が取れたように感じた。しかし同時に、新たな不安も生まれていた。
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その夜、五十嵐から電話があった。
「矢島が訪ねたようだな」
「ああ」良太は不機嫌そうに答えた。「あんな依頼を持ち込むなんて、冗談じゃない。それに彼は小田を通じて紹介されたと言っていたが...」
「小田?」五十嵐の声に緊張が走った。「私は小田には誰も紹介していない。彼は周辺情報を集める役割だが、依頼者と直接接触する立場ではない」
「やはりおかしいと思った」良太の警戒心が強まった。「それに彼は火葬場の件も知っていた」
「これは問題だ」五十嵐の声は重くなった。「情報漏洩の可能性がある」
「考えられる原因は?」
「いくつかの可能性がある」五十嵐は分析した。「一つは、小田自身が情報を漏らした。もう一つは、彼が気づかないうちに情報を盗まれた。あるいは...」
「あるいは?」
「鈴村の件で、警察が私たちに注目し、監視を始めている可能性もある」五十嵐は声を落とした。「私たちの活動は完全な闇ではない。法の隙間を狙っているとはいえ、黙認されてきたのは、表立った被害者が出ていないからだ。しかし、火葬場の件で公的機関の目が...」
「情報漏洩の範囲はどこまでだろう」良太は懸念した。
「それを確かめる必要がある」五十嵐は言った。「矢島という男を調査しなければ」
「断ったのか?」五十嵐が質問を変えた。
「当然だ」良太は言った。「あれは詐欺だろう」
「そうかもしれんな」五十嵐の声は穏やかだった。「ところで、優花さんとの話はどうだった?」
良太は少し躊躇した後、答えた。「全て打ち明けた。彼女は...予想以上に受け入れてくれた」
「そうか」五十嵐の声に安堵の色が混じった。「彼女なら理解してくれると思っていた」
「彼女は力になりたいと言ってくれた」良太は複雑な気持ちで言った。「でも、危険もあるからな...」
「それは彼女自身が決めることだ」五十嵐は言った。「彼女の専門性は、私たちの活動にとても役立つだろう」
電話が終わりかけたとき、五十嵐が急に警告した。
「矢島という男には注意しろ。彼が本当に何者なのか、どこまで知っているのか、まだわからない。私のツテを総動員して調べる」
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翌日の午後、良太が事務所で書類を整理していると、優花が入ってきた。
「先輩、配達です」彼女は封筒を手渡した。
「ありがとう」良太は封筒を受け取り、差出人を確認して眉をひそめた。矢島からだった。
封筒の中には、短い手紙が入っていた。
『再考いただけましたか? 明日夕方、カフェでお待ちしております。場所は添付の地図の通り。矢島』
そして、そこには小さなメモが追加されていた。
『P.S. 望月沙耶さんや櫻井誠一さんの件について、詳しくお話を伺いたく思います』
良太の血の気が引いた。矢島は明確な案件名まで知っていた。これはもはやネットワークの外部漏洩ではなく、内部の情報が詳細に流出している証拠だった。
「何かあったんですか?」優花が心配そうに尋ねた。
良太は手紙の内容を彼女に説明し、状況の深刻さを伝えた。
「彼はただの詐欺師ではないかもしれない」良太は言った。「そして私たちの活動について、具体的な情報まで握っている」
優花は手紙を読み直し、深刻な表情になった。「これは脅迫ですね」
「ああ」良太は頷いた。「会う必要がありそうだ。どこまで知っているのか、そして彼の本当の目的を探るために」
「でも、罠かもしれません」優花は懸念を示した。
「その可能性もある」良太は認めた。「だから万全の準備が必要だ」
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五十嵐と連絡を取り、急ぎの調査を依頼した。しかし、結果は思わしくなかった。
「時間が足りない」五十嵐は翌朝、電話で報告した。「私のネットワークにも限界がある。個人情報や犯罪歴を即座に調べることは難しい。特に警察のデータベースへのアクセスは、現役を辞めた私には限られている」
「何か手がかりは?」
「矢島という名前は本名ではない可能性が高い」五十嵐は言った。「しかし、それ以上のことはまだわからない。私の元同僚に頼んでいるが、正規の捜査ではないため、動きが取れる範囲が狭い」
良太は失望した。五十嵐のネットワークには限界があった。彼は万能ではなく、制度の外で活動する以上、情報収集にも制約があるのだ。
「会う予定だ」良太は決意を伝えた。「彼の素性を探るしかない」
「危険だ」五十嵐は警告した。「少なくとも一人では行くな」
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その日、優花は独自の調査を始めた。彼女は行政書士の資格取得の勉強をしており、情報収集の方法についてある程度の知識を持っていた。
「SNSや公開情報から探ってみます」彼女は良太に言った。「名前を変えていても、顔や行動パターンは変わりません」
優花は数時間かけて、矢島に関する情報をネット上で探した。SNSアカウント、ニュース記事、地方の犯罪報道...彼女は粘り強く検索を続けた。
「先輩、何か手がかりがあるかもしれません」優花は夕方、良太を呼んだ。
彼女のパソコンには、地方紙の記事が表示されていた。3年前の大阪での詐欺事件に関する記載で、そこには「松永誠一」という名前と、矢島に似た男性の写真があった。
「これだけでは確定できません」優花は慎重に言った。「しかし、彼のSNSアカウントを遡ると、この時期に投稿が途絶えています。そして別の名前で再開している」
良太はその発見に感心した。「よく見つけたな」
「これだけでは不十分です」優花は続けた。「裏付けが必要です。でも、もし彼が本当に詐欺師なら、他にも被害者がいるはずです」
優花は「松永誠一」の名前でさらに検索を続けた。そして複数の詐欺被害の報告を見つけた。手口は様々だったが、共通していたのは「死」や「葬儀」を利用した詐欺だった。
「これは彼の可能性が高いです」優花は言った。「しかし、決定的な証拠はまだありません」
「よくやった」良太は彼女の肩に手を置いた。「これを五十嵐さんに伝えよう。彼なら松永の詳細な情報を調べられるかもしれない」
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翌日、良太は指定されたカフェに向かった。優花はカフェの向かいの本屋で待機し、何か異常があれば五十嵐に連絡する手はずになっていた。
カフェに入ると、矢島はすでに席に座っていた。良太が近づくと、彼は満面の笑みを浮かべた。
「来てくれましたね」矢島は手を差し出した。「考え直してくれたのかと思いました」
「誤解しないでください」良太は椅子に座りながら言った。「依頼を受けるわけではありません。あなたのプランをもう少し詳しく聞きたいだけです」
「ならばお話しましょう」矢島は前のめりになった。「私のプランはこうです。架空の死亡届を出し、葬儀を開催。知人や友人に案内状を送り、香典を集める。その後、何らかの『ミス』が発覚したという形で『生き返る』。こうすれば、詐欺にはならないんです」
「法の抜け穴を狙っているわけですね」良太は冷ややかに言った。
「そう言ってもいい」矢島は肩をすくめた。「でも、誰も傷つかない。香典は全額返還するつもりですから」
「全額返還?」良太は混乱した。「では何のために?」
「話題作りです」矢島は目を輝かせた。「私はユーチューバーになりたいんです。『葬儀から生還した男』として。これは壮大なパフォーマンスアート。企画が成功すれば、チャンネル登録者は一気に増えるでしょう」
良太は呆れて言葉を失った。これは単なる詐欺ではなく、愚かな自己顕示欲の発露だった。
「馬鹿げた話です」良太は苛立ちを隠せなかった。「公的書類の偽造は重罪です。架空の死亡届を出すなど、できるわけがない」
「でも、あなたたちには方法があるんでしょう?」矢島は声のトーンを変えた。「『失踪支援』と呼ぶそうですね。人を『死なせる』方法が」
良太の背筋に冷たいものが走った。これは脅しだった。
「何を言っているんですか?」
「言いたいことはわかるでしょう」矢島はニヤリと笑った。「私はあなたたちの『失踪支援』について知っています。五十嵐さんの組織が何をしているのか。具体的な案件も。望月沙耶、櫻井誠一...他にもいくつか」
「どうやってその情報を?」良太は声を低めて尋ねた。
「情報収集は私の仕事でね」矢島は身を乗り出してきた。「小田という男は酒に弱い。飲ませれば簡単に喋る。彼から得た情報を元に、さらに調べを進めた。名前さえわかれば、事件を辿るのは難しくない」
良太は歯を食いしばった。小田の不用心さが情報漏洩の原因だったのか。
「もし私の依頼を断るなら...」矢島は続けた。「この情報を警察に提供することも考えています。『失踪した人々』の捜査を再開させるきっかけにもなるでしょうね」
「脅しですか?」良太の声が冷たくなった。
「ビジネスです」矢島は肩をすくめた。「取引が成立しなければ、情報という商品を別の形で活用するだけです」
良太は怒りに震えた。しかし、冷静さを保つ必要があった。優花が外にいることを考えると、大声を出すわけにもいかない。
「考えさせてください」良太は渋々言った。「連絡先を残していってください」
矢島は満足げに微笑み、名刺の裏に携帯番号を書き足した。
「賢明な判断です。24時間以内に連絡をお待ちしています」
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矢島が去った後、良太はカフェを出て、待ち合わせ場所で優花と合流した。
「どうでしたか?」優花が心配そうに尋ねた。
「最悪だ」良太は低い声で言った。「あいつは『失踪支援』について具体的な情報を握っている。そして協力しなければ、警察に話すと脅してきた」
優花の顔が青ざめた。「どうするんですか?」
「五十嵐に連絡する」良太は携帯を取り出した。「そして矢島という男、いや松永の素性をもっと徹底的に調べる必要がある」
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その夜、良太は優花と五十嵐に状況を詳しく説明した。
「これは想定外だ」五十嵐は眉をひそめた。「小田が情報を漏らしていたとは...彼とは今後、距離を置く必要がある」
「でも、具体的な案件名まで知っているのは、小田からだけではないはずです」優花が分析した。「彼は何か別の情報源も持っているのではないでしょうか」
「その可能性もある」五十嵐は認めた。「いずれにせよ、松永がどこまで知っているのか、そして彼の真の目的が何なのかを把握する必要がある」
「私の調査では、彼は詐欺師で間違いないようです」優花は言った。「しかし、彼の借金や背景については、まだわからないことが多い」
「私の情報網にも限界がある」五十嵐は率直に認めた。「警察を退職して長いし、正規のルートでデータベースにアクセスすることはできない。誰かに頼んで調べてもらうしかないが、それにも時間がかかる」
良太は頭を抱えた。「時間がない。24時間以内に返事をしろと言われているんだ」
「時間稼ぎをするしかない」五十嵐は言った。「そして並行して、彼の弱みを探る」
「彼の弱み?」良太は疑問を呈した。
「取引は双方向だ」五十嵐は冷静に言った。「彼が私たちの情報を持っているなら、私たちも彼の情報を集める。そして対等な立場で交渉する」
「倫理的にそれでいいのか?」良太は自問した。「脅しに脅しで返すのは...」
「自衛のためだ」五十嵐は厳しく言った。「君たちの活動が暴かれれば、救われたはずの人々が再び危険にさらされる。それを防ぐためには、時に汚れた手を使うことも必要だ」
良太は苦しい表情で沈黙した。優花も複雑な表情を浮かべていた。
「続けて調査します」優花は決意を示した。「彼の詐欺の手口や過去の事件について、もっと詳しく調べます」
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翌日、良太は矢島に電話をかけた。
「検討中です。もう少し時間をいただけないでしょうか」
「焦っているわけではないんだね」矢島の声には余裕があった。「構わないよ。でもあまり長くは待てない。2日後、同じカフェで会おう」
良太が同意すると、矢島は電話を切った。
優花は一日中、松永に関する情報を収集し続けた。地方紙の記事、詐欺被害者の掲示板、裁判記録の公開情報...彼女は可能な限りの公開情報を集めた。
「松永誠一という名前で複数の詐欺事件を起こしています」優花は夕方、良太に報告した。「主に高齢者を狙った葬儀関連の詐欺です。ただ、決定的な証拠を得るのは難しい...」
優花は疲れた様子で画面から目を離した。「私の調査能力にも限界があります」
「十分だよ」良太は彼女の肩に手を置いた。「君がここまで調べてくれただけでも大きな助けだ」
そのとき、五十嵐から連絡が入った。
「松永の情報が入った」彼の声は緊張していた。「彼は詐欺師だが、それだけではない。暴力団の周辺人物でもある。主に情報収集と小規模な詐欺を担当している」
「暴力団?」良太は驚いた。
「ああ」五十嵐は続けた。「だが、彼らとの関係は良好ではないようだ。彼は組織に多額の借金があり、それを返済するために必死になっている。『香典詐欺』はその一環だったのだろう」
「どうすればいいんだ?」良太は途方に暮れた。
「彼の弱みはそこだ」五十嵐は言った。「暴力団への借金と、彼らとの関係の悪化。それを突けば、彼は引き下がるかもしれない」
「でも、具体的な証拠はあるのか?」良太は疑問を呈した。「彼を脅すには、確実な情報が必要だ」
「完全な証拠はない」五十嵐は率直に認めた。「私の情報源は信頼できるが、公的な証拠ではない。松永を脅すには、それで十分かもしれないが...」
良太は深く考え込んだ。彼は矢島(松永)を脅し返すことに倫理的な抵抗を感じていた。それは「失踪支援」の理念とは相容れない行為だった。一方で、これまで救った人々を守るためには、何らかの対策を講じる必要があった。
「先輩」優花が静かに言った。「『失踪支援ガイドライン』に照らし合わせてみてはどうでしょう?私たちの行動の指針は何ですか?」
良太は彼女の言葉に驚き、同時に感動した。優花は「失踪支援」の本質を理解していた。
「ガイドラインの根幹は『人命の保護』だ」良太は静かに言った。「そして『自己保身のための嘘は語らない』ということ」
「では、松永さんへの対応も、その原則に従うべきではないでしょうか」優花は提案した。「脅しで脅し返すのではなく、正直に向き合うことも一つの方法かもしれません」
「正直に?」五十嵐は疑問を呈した。「それは危険すぎる」
「私が言いたいのは」優花は続けた。「彼が持っている情報の限界を見極め、彼自身の状況も理解した上で、お互いにとって最善の策を見つけるということです。単純な脅しの応酬ではなく」
良太は彼女の意見に考え込んだ。確かに、ただ脅し返すことは一時的な解決にはなるかもしれないが、根本的な解決にはならない。そして何より、彼自身の倫理観に反する行為だった。
「わかった」良太は決断した。「まず彼の情報の信頼性と範囲を確認し、そこから対応を考えよう」
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2日後、良太は再び矢島(松永)と会った。今回は優花も同席することにした。
「こんにちは」松永は驚いた様子で優花を見た。「新しい方を連れてきましたね」
「私は岸本優花です」優花は冷静に自己紹介した。「『縁の手』のスタッフです」
「岸本さん」松永は微笑んだ。「わざわざありがとう」
「決心はついたかな?」松永は良太に向き直った。
「あなたの本名は松永誠一ですね」良太は静かに言った。
松永の表情が一瞬曇ったが、すぐに取り繕った。「よく調べましたね」
「私たちは情報戦をするつもりはありません」良太は真摯に言った。「私たちの活動について、あなたはどこまで知っていますか?そして、その情報をどう使うつもりなのか、率直に話してください」
松永は意外そうな表情をした後、姿勢を正した。「正直に話そう。私は『失踪支援』について、五件の具体的な案件名と、大まかな手法を知っている。これを警察に提供すれば、再捜査のきっかけになるだろう」
「なぜそこまでの情報を?」優花が尋ねた。
「最初は小田からのヒントだった」松永は言った。「彼から聞いた名前をもとに、独自に調査を進めた。私は情報収集のプロだ。噂や報道から繋ぎ合わせれば、意外と多くのことがわかる」
「あなたの目的は?」良太が率直に尋ねた。
「単純だ」松永は肩をすくめた。「お金が必要なんだ。借金返済のために」
「誰に対する借金ですか?」優花が静かに質問した。
松永は彼女を鋭く見た。「そこまで調べているのか...確かに暴力団関係者だ。彼らは待ってくれない」
「それで私たちを脅して、詐欺に協力させようというわけですね」良太は厳しく言った。
「生き残るためだ」松永は真剣な表情で言った。「君たちだって同じじゃないか?制度の隙間で、生き残るために闘っている」
沈黙が流れた。松永の言葉には一理あった。彼らもまた、制度の外で活動していた。
「私たちが協力したところで」良太は冷静に言った。「あなたの計画は成功しないでしょう。死亡届の偽造や葬儀の詐欺的開催は、すぐに発覚します。現代の行政システムでは、そのような粗雑な詐欺は通用しない」
「そうかもしれない」松永は認めた。「でも、私には他に選択肢がない」
「あるんです」優花が突然言った。「別の選択肢が」
松永と良太は驚いて彼女を見た。
「あなたは情報収集のプロだと言いました」優花は続けた。「その能力を活かせる仕事はありませんか?暴力団への借金という問題は残りますが、それを返済するための正当な方法も探せるはずです」
松永は優花を不思議そうに見た。「なぜそこまで親切なんだ?私はあなたたちを脅したんだぞ」
「私たちの活動の目的は『救済』です」優花は静かに答えた。「制度の隙間で苦しむ人々を救うこと。あなたもその一人かもしれません」
「しかし」良太が厳しく付け加えた。「それは詐欺や違法行為への協力を意味するものではありません。あなたが本当に救いを求めているなら、私たちは別の形で力になれるかもしれない」
松永は言葉を失ったように二人を見つめていた。彼の顔には複雑な感情が交錯していた。
「考えさせてくれ」松永はようやく口を開いた。「私の持っている情報は...しばらくの間、使わない。その代わりに、私の選択肢について考える時間がほしい」
良太と優花は顔を見合わせた。これは予想外の展開だった。
「一週間」良太は言った。「一週間後、ここで会いましょう。その間、お互いに敵対的な行動は取らないことを約束します」
松永は頷いた。「了解した」
---
カフェを出た良太と優花は、静かに歩きながら話した。
「思った通りにはいかなかったね」良太はため息をついた。
「でも、最悪の事態は避けられました」優花は言った。「彼は私たちの言葉に少なからず響かれたようです」
「君の言葉に、だ」良太は微笑んだ。「正直、私は彼を脅し返すつもりだった。でも君の提案は...より本質的だった」
「でも、彼が本当に情報を使わないという保証はありません」優花は心配そうに言った。
「そのとおりだ」良太は頷いた。「だから、私たちも万全の準備をしておく必要がある」
五十嵐に状況を報告すると、彼は驚きと懸念を示した。
「予想外の展開だ」五十嵐は言った。「優花さんの判断は素晴らしいが、松永を完全に信用するのは危険だ。彼の借金の問題が解決しない限り、彼は何をするかわからない」
「なにか対策は?」良太が尋ねた。
「二つの方向で考える」五十嵐は答えた。「一つは、彼の言う通り、彼に合法的な仕事を見つける手伝いをすること。もう一つは、彼が裏切った場合の保険として、彼自身の違法行為の証拠を集めておくことだ」
「保険ですか...」良太は不快感を示した。
「純粋な脅しではない」五十嵐は言った。「彼が再び犯罪に手を染めようとしたときに、それを止める方法だ。彼自身のためにもなる」
良太はその論理に完全には納得できなかったが、実用的であることは認めざるを得なかった。
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それから一週間、良太と優花は松永に関する調査を続けながら、彼が言及した「正当な仕事」の可能性を探った。
「彼は情報収集に長けているようです」優花はある日、言った。「民間調査会社や、企業の情報セキュリティ分野なら、その能力を活かせるかもしれません」
「元詐欺師に、そんな仕事を任せるところがあるだろうか」良太は疑問を呈した。
「更生プログラムを通じてなら、可能性はあります」優花は言った。「私が福祉の現場で知り合った専門家に相談してみましたが、前歴者の就労支援の道はいくつかあるそうです」
良太は感心した。「そこまで調べてくれたのか」
「はい」優花は頷いた。「私たちの活動が『救済』であるなら、松永さんもその対象になり得ると思ったんです」
同時に、五十嵐は松永の暴力団との関係についてさらに調査を進めていた。
「彼の借金は思ったより深刻だ」五十嵐は報告した。「約500万円。そして返済期限が迫っている。彼が焦っているのも無理はない」
「どうすれば」良太は頭を抱えた。
「すぐに解決できる問題ではないが」五十嵐は言った。「一つの可能性として、彼が本気で更生するなら、警察の証人保護プログラムの検討もある」
「そんな大掛かりなことになるのか」良太は驚いた。
「彼が持っている暴力団の情報次第だ」五十嵐は説明した。「彼が証人として協力すれば、保護の対象になる可能性がある。もちろん、彼自身の罪も問われるが...」
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一週間後、予定通り松永と再会した。彼は疲れた表情だったが、以前よりも落ち着いていた。
「考えました」松永は静かに切り出した。「あなたたちの提案...検討する価値はあると思います」
「具体的には?」良太が尋ねた。
「私が持っている情報と技術を、合法的に使う道を探りたい」松永は言った。「しかし、借金の問題があります。彼らは待ってくれない」
「それについても、いくつかの選択肢があります」優花が言った。彼女は更生プログラムや就労支援について説明し、さらに五十嵐から聞いた証人保護プログラムの可能性にも触れた。
松永は驚いた表情を見せた。「そこまで調べたのか...」
「私たちは本気です」良太は真剣に言った。「あなたが本当に更生したいと思うなら、力になります。しかし、それは『失踪支援』への協力とは別の話です」
松永はしばらく考え込んだ後、決意を固めたように言った。「わかった。私はあなたたちの情報を使うのはやめる。そして、更生の道を探る。しかし...」
「しかし?」
「時間がない」松永は切実に言った。「借金の返済期限は来週だ。それまでに解決しなければ、私は...」
良太と優花は顔を見合わせた。確かに、こういった制度的な解決策は時間がかかる。松永を即座に救う方法はあるだろうか。
「少し時間をください」良太は言った。「五十嵐さんと相談します」
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五十嵐と緊急の会合を持った良太と優花は、松永の状況について詳しく報告した。
「彼は本気で更生を考えているようです」優花は言った。「しかし、借金の期限が迫っていて...」
「それを延期させる必要があるな」五十嵐は考え込んだ。「警察に証人保護を申請するには、まず彼が持っている情報の価値を証明しなければならない。そして手続きも時間がかかる」
「他に方法は?」良太が尋ねた。
五十嵐はしばらく沈黙した後、ため息をついた。「一つだけある。私が暴力団関係者に接触し、返済期限の延長を交渉する」
「それは危険すぎます」良太は反対した。
「私には過去の繋がりがある」五十嵐は静かに言った。「かつて刑事だった頃の...それを使えば、少なくとも話し合いの場は設けられるだろう」
「でも、なぜそこまで?」優花は不思議そうに尋ねた。「松永さんのために」
「彼だけのためではない」五十嵐は首を振った。「彼が警察に協力すれば、多くの犯罪を防げる可能性がある。そして何より...彼もまた、制度の隙間で苦しんでいる一人だからだ」
良太は五十嵐の決意を見て、改めて彼の人間性に感銘を受けた。厳しい外見の下に、強い正義感と救済への意志があった。
「私も協力します」良太は言った。「できることがあれば」
「私も」優花が加わった。
五十嵐は二人に感謝し、すぐに行動に移った。彼の元同僚や情報網を駆使して、松永の借金先である暴力団の関係者と接触を試みた。
---
数日後、五十嵐から連絡があった。
「話がついた」彼は疲れた声で言った。「返済期限を一ヶ月延長してもらえる。その間に、松永が警察に情報提供を行い、証人保護プログラムの申請を進める」
「本当ですか」良太は驚いた。「どうやって?」
「詳しくは言えないが」五十嵐は言った。「私が保証人になることで、彼らは一時的に待つことに同意した。もちろん、松永が逃げれば、私が責任を問われる」
「それは...」良太は言葉を失った。五十嵐が自らの身を危険にさらしてまで、松永を救おうとしていることに感動した。
「彼には伝えてある」五十嵐は続けた。「彼は明日から、警察の特定の部署に出頭し、情報提供を始める予定だ。彼自身の罪も問われるが、情報の価値次第では、証人保護プログラムの対象になれる」
「彼は本当に協力するでしょうか?」優花は懸念を示した。
「彼には他に選択肢がない」五十嵐は言った。「それに、彼もまた、自分の人生を変えたいと思っているようだ」
---
翌日、松永から良太に電話があった。
「今日から警察に協力します」彼の声は緊張していたが、決意に満ちていた。「あなたたちには感謝しています。特に岸本さんには...彼女の言葉が、私の心を動かしました」
「頑張ってください」良太は言った。「そして、約束は守ってくださいね」
「ああ、あなたたちの情報は墓場まで持っていく」松永は真摯に答えた。「それが私の恩返しだ」
電話を切った後、良太は優花に状況を伝えた。
「松永さんが警察に協力するそうです」
「よかった」優花は微笑んだ。「彼にも新しい人生が始まるかもしれません」
「君のおかげだよ」良太は真剣に言った。「君が彼に示した理解と共感が、彼の心を変えた」
優花は照れくさそうに首を振った。「私はただ...先輩が作った『失踪支援ガイドライン』の精神に従っただけです」
良太は「失踪支援ガイドライン」のノートを取り出した。そこには第八条まで書かれていた。
「新しい条項を加えよう」良太は優花に言った。
二人で考え、新たな条項を書き加えた。
「第九条:敵対者にも救いの手を差し伸べる勇気を持つこと。真の救済は、対立ではなく理解から生まれる」
事務所の窓から見える空は、雪雲が去り、青みを増していた。春はすぐそこまで来ていた。
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