第4話:死を買いにくる男
霜が降りる11月末の夜、「縁の手」事務所の外で黒塗りの車が止まった。光沢のあるボディに、わずかに回るエンジンの音。静かな山谷の路地には不釣り合いな存在だった。
良太は窓越しにそれを眺め、時計を確認した。午後10時。約束の時間だ。
車のドアが開き、スーツ姿の大柄な男が降りてきた。続いて、もう一人の男が姿を現した。細身で、高級そうなコートを着ている。最初の男が周囲を警戒するように見回した後、二人は事務所のドアへ向かった。
ノックの音に、良太はドアを開けた。
「お待ちしていました」
「中野さんですね」細身の男が小声で言った。「五十嵐さんから話は聞いています」
「どうぞ中へ」
二人が入ると、良太はカーテンを閉め、部屋の奥へと案内した。事務所の一角に設けた簡素な応接スペース。訪問客は小さな応接テーブルの向かいに腰掛けた。
「お茶をどうぞ」良太が緑茶を出すと、細身の男はそれに手を伸ばしたが、大柄な男は首を振った。
「自己紹介が遅れました」細身の男は名刺を出しながら言った。「櫻井と申します。JJテクノロジーの取締役です」
良太は名刺を受け取った。「JJテクノロジー株式会社 取締役CTO 櫻井誠一」とある。IT業界でも名の知れた大企業の幹部だった。
「ボディガードの森です」大柄な男も短く自己紹介した。名刺はなかった。
「なるほど」良太は穏やかに頷いた。「五十嵐さんからは概要だけ伺っています。詳しくお聞かせいただけますか?」
櫻井は緊張した様子で周囲を見回した後、声を落として話し始めた。
「私は...消えなければならないんです」
「どういった理由で?」
「会社の...不正を告発するつもりなんです」
櫻井の声は震えていた。森が彼の肩に手を置き、安心させるように頷いた。
「私の会社は、政府の機密情報システムの構築に関わっています。その中で、設計段階から仕込まれた“仕様に見せかけたバックドア”の存在に気づきました。明らかに内部から外部への情報送信が可能になる構造です。
ところが、経営陣はそれを“セキュリティホールではなく意図された設計だ”と認めながらも、納期と政治的配慮を優先して黙認しようとしているんです。」
「それを告発すると...?」
「私は消されます」櫻井は真剣な顔で言った。「このプロジェクトには数百億の利権が絡んでいる。表に出れば株価は暴落し、責任者は刑事訴追されるでしょう」
良太は静かに頷いた。芝居がかった話に聞こえたが、櫻井の震える指と焦燥に満ちた目は嘘をついているようには見えなかった。
「それで、どうするおつもりで?」
「匿名で告発文書を公開します。同時に、私は『死亡』する。そうすれば、私への報復を防げる」
「なぜ単に姿を消さないんです?」
「それでは効果がない」森が口を挟んだ。「櫻井が失踪しただけでは、会社側は『責任逃れのために逃げた』と言いふらすでしょう。しかし『死んだ後に告発文が公開された』となれば、それは『遺言』となり、重みが変わる」
良太は眉をひそめた。「美談にするつもりですか」
「美談ではない」櫻井は首を振った。「ただ、効果的に真実を伝えるためです」
良太は茶碗を置いた。「お二人の言うことは分かりました。一度、検討させてください」
「もう一つ」櫻井が言った。「私には家族がいます。妻と7歳の息子...彼らは私の計画を知りません」
「それは...」良太は驚いた。「彼らは大切な家族を失うことになります。それでも?」
「彼らには、十分な保険金が入ります」櫻井の目に決意が宿った。「それに、私は本当に死ぬわけではない。別の身分で生き続け、いつか...状況が許せば、彼らと再会するつもりです」
良太はハッとした。ここに新たな問題があった。これまでの依頼者は、DVの被害者や多重債務者など、逃げることが唯一の選択肢だった人々だ。しかし櫻井には、置き去りにする家族がいる。
「検討します」良太は立ち上がった。「明日、五十嵐さんを通じて返事をします」
櫻井は失望した様子だったが、それ以上は追求しなかった。二人を見送った後、良太は机の引き出しから「失踪支援ガイドライン」のノートを取り出した。
第一条の下に、彼は新たな言葉を書き加えた。
「第二条:依頼者の真の動機と目的を徹底的に精査すること」
そして彼は次の行を見つめながら、自分自身に問いかけた。「家族を欺くことを手伝うのは、救済と言えるのか?」
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翌朝、良太は五十嵐と喫茶店で落ち合った。
「断るつもりか?」五十嵐はコーヒーを啜りながら尋ねた。
「迷っている」良太は正直に答えた。「彼には家族がいる。彼らに『夫が死んだ』と思わせることに、俺は加担すべきなのか」
五十嵐は窓の外を見つめた。その目には、良太が見たことのない感情が浮かんでいた。
「昔、私にも家族がいた」五十嵐は静かに言った。「妻と娘だ」
良太は驚いて顔を上げた。五十嵐が個人的な話をするのは初めてだった。
「警察官時代、私は組織犯罪の捜査をしていた。あるマフィアのボスを追い詰めた時、彼らは報復として...」五十嵐の声が途切れた。「私が職場にいる間に、自宅が放火された」
「それは...」良太は言葉を失った。
「私は彼らを守れなかった」五十嵐は苦い表情で続けた。「制度は彼らを守れなかった。警察という組織でさえ、家族を守れなかった」
テーブルに重い沈黙が落ちた。
「櫻井のケースは難しい」五十嵐は話題を戻した。「しかし、彼の告発は多くの人々の安全に関わる。彼自身の命も危険だ。そして彼は、いつか家族と再会する道を残している」
「それが善行と言えるのか、俺にはわからない」良太は頭を抱えた。
「世の中、白か黒かで判断できるものばかりではない」五十嵐はため息をついた。「灰色の判断を下すのは辛いものだ。だからこそ、ガイドラインを作っているんだろう?」
良太は驚いて五十嵐を見た。
「ああ、知っているよ」五十嵐は微笑んだ。「あなたのノートを見たわけじゃない。でも、あなたのような人間が自分なりの線引きをしようとするのは自然なことだ」
「第三条を追加すべきかもしれない」良太は呟いた。「『家族への配慮を最大限に』とか」
「いい考えだ」五十嵐は頷いた。「それで、櫻井の件は?」
良太は深く息を吸い、決断した。「引き受ける。ただし条件付きだ」
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その夜、良太は櫻井と森を再び事務所に迎えた。
「お二人に条件を伝えます」良太は真剣な表情で言った。「まず、あなたの家族には、将来的に真実を知る権利を残すこと。状況が安全になったら、彼らに事実を明かせるような手段を用意しておく」
櫻井は頷いた。「それは私も望んでいます」
「次に、告発の内容を確認させてください。本当に公共の利益のためか、私自身の目で確かめたい」
「それも構いません」櫻井はUSBメモリを取り出した。「これに証拠と告発文がすべて入っています」
「最後に」良太は声を低くした。「あなたの『死』の演出方法として、身元不明遺体を利用することはできません。別の方法を考えます」
「どんな方法ですか?」
「行方不明の状態を作り、目撃情報と物的証拠で『事故死』と思わせる方法です」良太は説明した。「遺体なしでの死亡認定を受けるためには、死亡の蓋然性が極めて高いと判断される状況証拠が必要です」
「具体的には?」
「山での遭難死を演出します。登山計画書、最後の目撃情報、発見された遺留品...そして捜索不能な悪天候」良太は計画を説明した。「警察は『死亡』と判断するでしょう。死亡認定には時間がかかりますが、社会的には『死んだ』と認識されます」
櫻井と森は黙って聞いていた。良太の計画は、身元不明遺体を使わないという点で、これまでより複雑だが、倫理的には一歩前進していた。
「もう一つ」良太は付け加えた。「奥様と息子さんには、遺書を残してください。本当の気持ちを込めた手紙を。その手紙は将来、真実を打ち明ける時の橋渡しになるでしょう」
櫻井の目に涙が浮かんだ。「ありがとうございます」
「計画の細部は、これから詰めていきます」良太は会話を締めくくった。
二人が帰った後、良太は「失踪支援ガイドライン」のノートを再び開き、新たな条項を追加した。
「第三条:家族や愛する人への影響を最小限にすること。可能な限り、将来の和解の道を残すこと」
彼はペンを置き、窓の外の夜空を見上げた。少しずつだが、彼の道徳的コンパスは形を成していた。
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計画は着々と進んだ。櫻井は八ヶ岳への単独登山を計画し、詳細な登山計画書を山岳警備隊に提出した。そして登山当日、彼は計画通りの道筋をたどり、山小屋で最後の目撃情報を残した。
その夜、予報通りの猛吹雪が山を襲った。櫻井は、五十嵐のネットワークが用意した秘密のルートで山を降り、姿を消した。翌朝、彼の装備の一部が崖下で発見され、捜索活動が始まった。
三日間の捜索の後、警察は悪天候と危険な地形を理由に、積極的な捜索活動を終了した。「滑落による遭難死」という見解が出された。
同じ頃、匿名の内部告発が各メディアに流れ、JJテクノロジーのセキュリティ問題が大々的に報じられた。会社の株価は急落し、経営陣は緊急記者会見を開いた。
良太はニュースを見ながら、複雑な心境だった。櫻井の家族の悲しみを思うと胸が痛んだが、同時に彼の告発で多くの人々が救われる可能性も否定できなかった。
「制度の盲点を突く」ということは、時に痛みを伴う選択だった。
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一ヶ月後、良太は五十嵐から連絡を受け、とある場所で櫻井と再会した。山小屋風の隠れ家で、櫻井は髪を短く切り、髭を生やしていた。
「うまくいきました」櫻井は良太に感謝した。「告発は予想以上の効果を上げています。政府は調査委員会を設置し、私の指摘した欠陥を修正するよう命じました」
「あなたの家族は?」良太は気にかけていた問題を尋ねた。
櫻井の表情が曇った。「つらい日々を過ごしているようです。友人から聞きました...」
「手紙は残しましたか?」
「はい」櫻井は頷いた。「そして、五年後に届く予定の別の手紙も用意しました。真実を告げる手紙です」
良太は安堵した。少なくとも、永遠の嘘にはならない。
「私からの報酬です」櫻井は封筒を差し出した。「約束の300万円です」
良太は封筒を受け取りながら、自問した。これは救済の対価なのか、それとも欺瞞の報酬なのか。
「お金は必要ない」良太は突然、封筒を返した。「代わりに、あなたの家族のための信託基金を設立してください。彼らが経済的に困らないように」
櫻井は驚いた表情で良太を見つめた。「中野さん...」
「それから」良太は続けた。「状況が許す限り早く、彼らに真実を告げてください。子どもは成長します。彼があなたの姿を忘れてしまう前に」
櫻井は黙って頷いた。彼の目には、決意と後悔が混ざっていた。
良太は別れ際、最後の質問をした。「後悔はありませんか?」
「毎日あります」櫻井は正直に答えた。「でも、やらなければならないことがあるんです。そのために、私は『死ぬ』ことを選びました」
帰り道、良太はもう一度「失踪支援ガイドライン」を取り出した。そして新たな条項を書き加えた。
「第四条:依頼者には、選択の結果と責任を十分に理解させること。『消える』ことは、新たな重荷を背負うことでもある」
---
事務所に戻ると、山田から連絡が入っていた。新たな身元不明の死者が見つかったという。良太は疲れた体を引きずりながら、現場へと向かった。
誰も看取らない死、誰も悼まない死。そして、生きるために「死」を選ぶ人々。
良太は生と死の境界線で、静かに仕事を続けていた。「葬り屋」として。
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