第3話:失踪ビジネスの構築
金木犀の香りが漂う10月の午後。山谷の公園のベンチで、良太は沈黙したままパンくずを手にしていた。「餌付け禁止」の看板が立つ池の前だが、誰も気にしている様子はない。
「お待たせ」
声の主は、元警察官の五十嵐(58)。灰色のジャンパーに、色褪せたキャップ。現役時代は刑事課にいたらしいが、その過去を匂わせるのは鋭い目つきくらいだ。
「望月の件、見事だったよ」五十嵐はベンチに腰を下ろした。「全て予定通り」
良太は黙ってパンくずを池に投げ入れた。コイたちが寄ってきて水面が騒がしくなる。
「もう一ヶ月経つのに、誰も気づいてない」五十嵐は続けた。「彼女は今、福岡で美容師として働いている。佐藤美咲という名前でね」
「知らなくていい」良太は言った。「彼女の"その後"は、俺には関係ない」
五十嵐は微笑んだ。柔らかな笑顔は、かつての刑事の面影からはかけ離れていた。
「良太さん、あなたの潔癖さが気に入っている。でもね、これからはもう少し知っておいたほうがいい。私たちがやっていることの全体像をね」
「私たち?」良太は初めて五十嵐の方を見た。「俺はただ、沙耶さんを助けただけだ」
「そして二人目も」
良太は黙った。望月の一件から二週間後、遠藤は約束通り「もっと大きな話」を持ってきた。今度は大手IT企業の役員。内部告発を機に姿を消したいと願う男だった。その案件も、同じ手順で成功させていた。
「なぜ、こんなことを?」良太は尋ねた。「元警察官が、なぜ失踪を手助けする?」
五十嵐はポケットからタバコを取り出した。「吸う?」
良太は首を振った。
「私は、制服の仕事をしていた頃から思っていたよ」五十嵐はタバコに火をつけた。「法には穴がある。穴からこぼれ落ちる人間がいる。拾えない人間もいる」
煙が秋の空に溶けていく。
「三十年近く、人を捕まえる側にいた。でも考えてみれば、失踪する権利だってあっていい。本当に死にたい人が、死ななくても済む方法があっていい」
「つまり、これは慈善事業ってことか?」良太の声には皮肉が滲んでいた。
「ビジネスさ」五十嵐はあっさり答えた。「私たちも食っていかなきゃならない。でも、救済とビジネスは矛盾しない」
「どういう仕組みなんだ?」
「私たちは『夜逃げ支援組織』だ。失踪したい人、消えたい人のためのサポート。新しい身分証の準備、住居の確保、就職先の手配まで。そのための最初の一歩が、『行方不明』になることだ」
「遠藤はどう関わっている?」
「彼は...紹介者さ。困っている人と、私たちをつなぐパイプ役」
良太は納得した。福祉の現場にいれば、制度から零れ落ちる人間を最もよく知っている。
「で、俺に何を望んでる?」
五十嵐は煙を吐きながら答えた。「あなたのNPOを通じての、定期的な協力だ」
「冗談じゃない」良太は立ち上がった。「俺は死人の面倒を見る仕事をしている。生きてる人間を『消す』仕事じゃない」
「良太さん」五十嵐は穏やかに言った。「すでに二人、助けたじゃないか」
その言葉に、良太は反論できなかった。確かに、すでに二人の「失踪」を手伝っていた。
「考えてみてくれ」五十嵐は続けた。「あなたは日々、誰にも看取られない死者と向き合っている。その一方で、生きたいのに死ぬしかない人もいる。この矛盾を解決できるのは、あなただけだ」
「それは詭弁だ」
「本当にそうかな?」
公園のベンチで、二人は長い沈黙に包まれた。良太の頭の中では、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡る。福祉の現場で味わった無力感。川崎の自殺。救えなかった命の数々。そして今、制度の外で救える可能性。
「一ヶ月に一度」良太は声を落とした。「それ以上は無理だ」
五十嵐の顔に笑みが広がった。「それで十分だよ」
---
「縁の手」事務所。良太は段ボール箱を整理していた。遺品整理の依頼が立て込み、事務所が物であふれていた。
電話が鳴った。
「もしもし、NPO縁の手です」
「良太さん?沙耶です」
受話器の向こうの声に、良太は息を呑んだ。望月沙耶。「行方不明」になったはずの女性からの連絡だった。
「どうして...」
「心配しないでください。この電話は追跡されません」沙耶の声には以前なかった力強さがあった。「お礼が言いたかったんです」
「いいんですよ、もう済んだことですから」
「いいえ、これからのことなんです」沙耶は続けた。「私みたいな人、たくさんいるんです。DV被害者で、逃げられない人。私、別の支援団体でつながった同じ境遇の人たちと知り合いました。その中に...助けが必要な人がいて」
良太は眉をひそめた。「沙耶さん、僕はそういうシステマチックな...」
「お願いします、一人だけでも」沙耶の声が震えた。「私の友人なんです。もう時間がないんです」
「五十嵐さんに相談しては?彼らのほうが...」
「既に相談しています。でも最初の一歩は、やはり良太さんの力が必要なんです」
良太は深いため息をついた。沙耶の恩返し。それは、また別の命を救うことなのだろう。
「わかった。連絡先を教えてくれ」
電話を置いた後、良太は窓の外を見つめた。望月沙耶から始まり、今や複数の「つながり」が生まれつつある。これは単発の「救済」ではなく、静かに広がる「システム」になりつつあった。
---
「実は、もう一つ提案があるんです」
それからの約束の日、良太は山谷の路地裏で山田と話していた。彼は地域のホームレスたちの間では一目置かれる存在だった。
「何だ?」
「誰か死んだら、すぐに連絡してほしい。報酬は弁当と千円」
山田は煙草の煙を吐きながら、良太の顔を観察した。「なんでまた?いつもより早く連絡してほしいってこと?」
「ああ。できるだけ...新鮮なうちに」
その言葉の不謹慎さに、良太自身が内心で顔をしかめた。しかし山田は深読みせず、単に頷いた。
「わかった。皆にも言っておく。死体発見で弁当と千円なら、悪い話じゃない」
良太は感謝の意を示し、その場を後にした。心の中では申し訳なさと実利的な満足感が交錯していた。これで身元不明の死者の情報をより早く得ることができる。彼らの尊厳ある弔いを保証するだけでなく、「行方不明者の戸籍」を探す上でも重要な情報源になる。
山谷にはホームレスの緩やかなコミュニティがあった。彼らの間に「死体報告ネットワーク」が広がれば、良太の「事業」は安定する。無縁仏の供養という本来の仕事と、「失踪支援」は、皮肉にも相性が良かった。
---
数日後、良太はある書類を手に五十嵐と落ち合った。
「こちらが前回の案件の報告書です」良太は封筒を差し出した。
五十嵐は中身を確認し、満足げに頷いた。「完璧だ。ところで、次の依頼が入っている」
「もう?一ヶ月も経っていないぞ」
「緊急案件でね」五十嵐は声を落とした。「強制執行から逃れたい多重債務者だ。これは通常とはやや異なるケースになる」
「どういう意味だ?」
「この依頼者は、『死んだこと』にするだけでは不十分なんだ」五十嵐の表情が真剣になった。「彼には不動産があり、それが差し押さえの対象になっている。彼が行方不明になると、相続問題が発生する」
良太は意外な展開に眉をひそめた。「相続?」
「そう。行方不明者の財産は、7年経たないと相続できない。しかし債権者は、『財産管理人』の選任を裁判所に申し立てることができる。そうなれば、彼の資産は結局、債権者の手に渡ることになる」
「それじゃあ、『消える』意味がない」
「そこで我々の出番だ」五十嵐は小声で続けた。「彼が行方不明になる前に、資産を移転させる。正確には、第三者名義の会社に売却する形をとる」
「それは脱法行為だろう」良太は警戒した。
「グレーゾーンだ」五十嵐は認めた。「だが、強制執行を逃れるための最後の手段としては、法的に完全に違法とは言い切れない。実際、同様の手法は企業再建の世界でも使われる」
良太は考え込んだ。これは単なる「失踪支援」から一歩踏み込んだ内容だった。資産隠しとも取れる行為に、どこまで関わるべきか。
「俺は関わらない」良太はきっぱりと言った。「資産移転は我々の仕事ではない」
「もちろん」五十嵐は素早く譲歩した。「あなたの役割は従来通り、『行方不明』の演出だけで構いません。資産関連は別のルートで」
良太はしばらく沈黙してから、渋々頷いた。
---
事務所に戻ると、良太は不安に苛まれていた。この「失踪ビジネス」は、当初の想像よりも複雑で、法的にも倫理的にも問題が多い。望月沙耶のような純粋な命の危機から始まったものが、今や多重債務者の資産隠しにまで及ぼうとしている。
電話が鳴った。今度は山田からだった。
「良太さん、例の件で連絡です。港区の路地で老人が倒れています。まだ息があるかも」
「すぐ行く」良太は答えた。「救急車は?」
「呼んだが、なかなか来ない。こういう場所、こういう人だからな...」
良太は急いで現場に向かった。実際に命の危機にある人を救うこと。それがこの仕事の原点だったはずだ。しかし今、彼は複雑な思いに揺れていた。
倒れた老人は、70歳くらいだろうか。痩せこけた体に古びた服、しかし顔には知性の面影があった。良太は救急車が来るまで、老人の手を握り続けた。
「大丈夫ですよ。もうすぐ助けが来ます」
老人は微かに目を開け、良太を見た。「ありがとう...」かすれた声が聞こえた。
その瞬間、良太は決意した。彼がやるべきことは、こうして目の前の命に向き合うことだ。資産隠しに協力するようなことではない。
救急車が到着し、老人は病院に運ばれた。良太は現場を離れる前に、五十嵐に電話をかけた。
「多重債務者の件、やはり断る」
「何があった?」五十嵐は驚いた様子だった。
「原点に戻ることにした」良太はきっぱりと言った。「俺が支援するのは、本当に命の危機にある人間だけだ。資産隠しはご遠慮する」
電話の向こうで、五十嵐は長い沈黙の後、ため息をついた。
「わかった。選別する権利はあなたにある。しかし、この話はまだ続くだろう」
電話を切った後、良太は病院に向かった。老人の様態を確認するためだ。そして同時に、彼は考えていた。この「失踪ビジネス」に、どこまで関わるのか。どういった人々を助け、どういった依頼は断るのか。
その線引きが、これからの彼の人生を左右することになるだろう。
---
一週間後、病院でその老人が亡くなった。医師の話では、長年の栄養失調と肺炎が原因だという。良太は病院で必要な手続きを行い、「縁の手」として遺体を引き取った。
火葬場に向かう車の中で、良太は老人の所持品を調べていた。身分証明書は見つからなかったが、ポケットには一通の手紙があった。宛名はなく、内容は断片的で理解しがたいものだったが、一部の文章が良太の目に留まった。
「私は逃げ続けている。罪から、過去から、そして自分自身から...」
良太はその文章を読み返した。この老人もまた、何かから「失踪」していたのかもしれない。制度の外で、名前も捨て、過去も捨て、ただ生きるために。
火葬場に着くと、良太は丁寧に手続きを行った。身元不明者として処理されるこの老人に、せめて尊厳ある最期を与えたいと思った。
火葬の煙が空に昇るのを見ながら、良太は自問した。
「俺は何をしているんだ?人を救っているのか、それとも何かを壊しているのか」
答えは出なかった。ただ、彼の心の中には新たな決意が生まれていた。「失踪ビジネス」を続けるにしても、それは真に命の危機にある人々のためだけにする。資産隠しや詐欺的な目的には協力しない。
そして何より、無縁仏となる人々の尊厳を守ること。それが彼の原点であり、決して見失ってはならない使命だった。
事務所に戻ると、机の上に一冊のノートを置いた。表紙には「失踪支援ガイドライン」と書かれている。彼はペンを取り、最初のページに書き始めた。
「第一条:支援対象は、生命や身体の危険にさらされている者に限る」
これが彼の新たな線引きだった。たとえ五十嵐やネットワークの他のメンバーが納得しなくても、良太自身の良心に従うための指針。
外はすっかり暗くなっていた。事務所の窓から見える山谷の夜景は、いつも通り寂しげでありながらも、どこか温かい光を湛えていた。明日からまた、彼は二つの顔を持つ男として生きていく。無縁仏を弔う「縁の手」の代表として、そして闇の中で失踪者を支援する「葬り屋」として。
しかし今夜だけは、良太は自分の心に正直に向き合っていた。この道の先に何があるのか、まだわからない。ただ、彼が救いたいと思う人々を、自分なりの方法で救い続けるだけだ。
タバコの火を灯し、良太は夜空を見上げた。星一つない、曇り空だった。これから歩む道も、同じように不透明だ。それでも、進むしかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます