第2話:偽りの死、最初の一人

雨音が降り注ぐ中、山谷の小さな喫茶店。窓ガラスに伝う水滴が街の灯りを歪めていた。


店内の一番奥のテーブル。良太は向かいに座る女性を観察していた。望月沙耶、28歳。写真で見たより痩せていて、目の下にクマがある。長袖のブラウスの袖口から指先だけが見えていたが、爪は短く切りそろえられ、神経質さを感じさせた。


「ここなら大丈夫でしょうか」沙耶の声は、風に揺れる風鈴のように繊細だった。


「ええ。この店のマスターは昔からの知り合いです」良太は店の奥にいる年配の男に目配せした。マスターは無言で頷き、カウンターに戻った。


「遠藤さんから話は聞いています」沙耶は言葉を選びながら続けた。「私、本当に...死にたいんです」


良太は黙って聞いていた。この女性は本当に死にたいのではない。生きたまま消えたいのだ。それでも彼女の言葉には嘘がなかった。今の人生からは確かに「死に」たかったのだろう。


「あの人は...」沙耶は言葉に詰まり、深呼吸をした。「私の夫は警察官なんです。交番勤務ですが、同僚も多くて...どこに逃げても見つかります」


彼女は袖をめくり、腕を見せた。青紫色のあざが、時間の経過を物語っていた。


「これ、一週間前のもの。これが消えたら、また新しいのができる。いつも...いつも場所を変えて」


「奥さん」良太は言葉を選びながら口を開いた。「なぜ離婚しないんですか?」


「何度も試みました」沙耶は俯いた。「でも彼には警察内の人脈があって、調停の場で私が精神的に不安定だと証言する『専門家』がいつも現れる。それに逃げ出すたびに、『公務中に妻の保護のため』と嘘をついて、全国の交番に照会をかけられる」


良太は黙って頷いた。こういう話は初めてではなかった。制度の隙間。それは時に、隙間というより深い穴だった。


「それで、遠藤さんから『死ぬ方法』を聞いたと」


沙耶はかすかに頷いた。


「私は...生まれ変わりたいんです」


---


「いいですか、これが私たちの提案です」


二日後、良太は事務所で沙耶に説明していた。机の上には書類が広げられていた。


「まず、あなたの『失踪』を演出します。その後、私たちのネットワークを通じて新しい身分と生活基盤を整えます」


「でも、夫は警察官です。全国に捜索願いを...」


「そこが重要なポイントです」良太は淡々と説明した。「あなたが『死亡した可能性が高い』と思わせる証拠を残す必要があります」


「どうやって?」


「あなたの持ち物—財布、携帯電話、そして血液のついた衣服を海岸に遺棄します。『自殺』を匂わせる遺書も」


沙耶は困惑した表情を浮かべた。「でも、遺体がなければ...」


「その通りです。通常、遺体なしでの死亡認定には7年かかります。しかし、警察には行方不明者捜索に関する内部規定があります。『一定期間内に有力な手がかりがない場合、積極的捜索活動を終了する』というものです。特に自殺の可能性が高いケースでは」


「どのくらいの期間ですか?」


「都道府県警によって異なりますが、通常は数週間から数ヶ月です。そこで私たちは、捜索打ち切りを正当化する『有力な手がかり』を用意します」


「どんな手がかりですか?」


良太は少し躊躇った後、説明を続けた。「五十嵐さんのネットワークには、元警察官だけでなく、漁師や海上保安庁関係者もいます。彼らが『深夜、女性が海に飛び込むのを見た』という匿名通報を入れます。その通報と、遺留品、そして遺書が揃えば...」


「本気で捜索しなければ、そうかもしれませんね」沙耶は不安そうに言った。「でも夫は...」


「大型台風の直前に設定します」良太は続けた。「荒波で遺体が流されたと判断されやすい状況です。それに加えて、十分な捜索活動を行った形跡を残し、『これ以上の捜索活動は困難』という結論に自然に導きます」


「それで...本当に私が死んだことになるんですか?」


「法的には『行方不明』のままです」良太は正直に答えた。「完全な死亡認定ではなく、『捜索を諦めさせる』作戦なのです。その後、あなたは新たな身分で生きることになります」


「それはどうやって?」


「それが最も難しい部分です」良太は声を落とした。「五十嵐さんのネットワークには、特殊な技術を持つ人間がいます。彼らは、数年前に亡くなった、同年代の女性の戸籍を利用します」


「死者の戸籍...?」沙耶の顔が青ざめた。


「驚くかもしれませんが、死亡後も戸籍から完全に消えるわけではないんです」良太は説明した。「特に親族がいない場合、住民票が除票されず、死亡手続きが完全には行われないケースがあります。書類上は『生存中』として残っているのです」


「そんなことが...」


「行政の不備と言えばそれまでですが、こういった『手続き未完了の戸籍』は意外と多いんです。特に独居老人や身寄りのない方の場合、死亡届は出されても後続の手続きが滞ることがあります。私たちはそういった戸籍を探し出し、あなたがその人物として生きられるよう準備します」


「それは...倫理的に...」


「確かに問題はあります」良太は認めた。「しかし、その方が新しい戸籍を一から偽造するよりはるかに安全です。役所のデータベースにも既に存在しているので、疑われる可能性が低いのです」


沙耶は黙って考え込んだ。


「そして重要なのは、これからは完全な別人として生きること」良太は真剣に言った。「過去の知人や家族には二度と会えません。SNSもダメです。顔認証技術が発達した今、一枚の写真が命取りになります」


「覚悟はできています」沙耶は小さく微笑んだ。「遠藤さんから紹介された人が、その後のことをサポートしてくれると聞いています」


良太は眉をひそめた。遠藤はそこまで手配していたのか。そして彼は、この「失踪支援」が一度きりではなく、何らかの仕組みとして既に動いていることを悟った。


「あと一つ」良太は言った。「費用です」


「いくらでも払います」沙耶は即答した。


「五十万円」良太は言った。「実費と関係者への謝礼です」


「明日までに用意します」


良太は沙耶の決断力に驚いた。逃げるための覚悟は、時に死への覚悟より強いものだと感じた。


---


それから一週間後、神奈川県の海岸で沙耶の持ち物が発見された。遺書らしきメモ、血のついたスカーフ、そして彼女の携帯電話とバッグ。大型台風の前夜、計画通りのタイミングだった。


翌日、海上保安庁に匿名の通報が入った。「昨夜、女性が波止場から飛び込むのを見た」という内容だ。通報者は「漁に出ようとしていたところだった」と証言し、場所と時間を具体的に述べた後、それ以上の情報提供を拒んだ。


沙耶の夫は激しく動揺し、全力での捜索を要求した。捜索活動は台風後も続けられたが、荒れた海と悪天候により難航した。


さらに決定的だったのは、沙耶が事前に録画しておいた「遺言ビデオ」が匿名で警察に送られたことだった。そこには夫の暴力を告発し、「もう耐えられない」と述べる彼女の姿があった。ビデオの日付は巧妙に細工され、発見された持ち物と同じ日に録画されたように見えた。


二週間後、地元警察署から正式な発表があった。「『行方不明者捜索規定第17条』に基づき、初動捜査から2週間経過し有力な進展がないため、積極的捜索活動を終了します。広範囲の捜索にもかかわらず遺体発見に至らず、台風による海流調査の結果、発見の可能性は極めて低いと判断。遺留品および目撃情報から自殺の可能性が高いと結論づけます」


良太はこれらの工作を直接行わなかった。彼の役割は沙耶と「夜逃げ支援組織」を繋ぐパイプ役に過ぎなかった。それでも、この作戦が違法行為の連続であることは明らかだった。


---


「捜索は事実上終了します」


一ヶ月後、五十嵐から連絡があった。「旦那は納得していないようだが、警察の捜索規定に基づいて積極的捜索は打ち切られた。『自殺による行方不明』という公式見解が出ている」


良太はホッとした。計画は成功しつつあった。


東京の外れにある小さなアパート。良太はドアをノックした。開けたのは沙耶だった。黒く染めた髪と、少し丸みを帯びた眼鏡が、彼女の印象を大きく変えていた。


「お疲れさまでした」沙耶は良太を中に招き入れた。「うまくいきましたか?」


「はい」良太は書類の入った封筒を渡した。「捜索は終了し、あなたの『死』は事実上認められました。これは新しい身分に関する基本情報です」


沙耶は封筒を受け取り、中身を確認した。そこには亡くなった女性の基本情報と、これから覚えるべき新しい人生の設定が記されていた。


「佐藤美咲...私の新しい名前ですね」


「はい。三年前に孤独死で発見された独身女性です。死亡届は提出されましたが、住民票が除票処理されておらず、戸籍上の死亡手続きも完了していません。つまり、行政上はまだ『生きている』ことになっているのです」


「こんなことが...本当にできるんですね」


「完璧ではありません」良太は正直に言った。「深い調査をされれば、矛盾点は見つかるでしょう。しかし、通常の社会生活では問題ないはずです。住民票も戸籍も実在し、データベースにも記録があるのですから」


沙耶の表情には、悲しみと解放感が入り混じっていた。


「すみません、良太さん」沙耶は突然頭を下げた。「私のわがままで、あなたに罪を犯させてしまって...」


「いいんですよ」良太は静かに言った。「制度が守れない人を、制度の外で守るのが私の仕事です」


沙耶は涙を浮かべながら微笑んだ。「新しい私は、恩返しができる人間になります。きっと」


「それだけで十分です」良太は言った。


そのとき、部屋の奥のドアが開き、スーツ姿の男が現れた。遠藤ではなかった。見知らぬ男だ。


「お疲れさまでした」男は良太に頭を下げた。「ここからは私どもが引き継ぎます」


男の態度には、どこか公務員のような事務的な雰囲気があった。しかし名刺も身分も明かさない。良太は、この「失踪後」のプロセスに関わる人々の正体を知らなかった。


「次の引っ越し先と、新しい職場の手配は済んでいます」男は沙耶に向かって言った。「佐藤美咲さんとしての新生活の準備は整いました。住民票の手続きから、健康保険証の発行まで、必要な書類は全て揃っています」


「これはあなたへのお礼です」沙耶は封筒を良太に差し出した。約束の五十万円だろう。


「新しい人生、幸せになってください」良太は言った。


沙耶は笑顔で頷いた。「今度は、私が自分の人生を生きます」


---


アパートを出た良太は、夜の街を歩いた。胸のポケットには五十万円が入っている。犯罪の報酬。偽装の代金。救済の証。


彼は空を見上げた。今日は星が綺麗だった。どこかで、かつての望月沙耶は、佐藤美咲として二度目の人生を歩み始める。完全な「死亡」ではなく、「行方不明」という形で。それでも、彼女にとっては十分な救済だった。


「これで良かったのだろうか」


良太は自問した。今回の作戦は、亡くなった人の戸籍を流用するという、さらに倫理的に問題のある方法だった。死者の尊厳を傷つけることで生者を救う。この矛盾に、彼は心の奥で苦しんでいた。


死亡手続きが完了していない佐藤美咲。彼女は行政上の不備により、書類の上では生き続けていた。その「事務的な生」を奪い、別の人間に与える行為。それは亡くなった女性の最後の痕跡さえも消し去ることを意味していた。


答えは出なかった。ただ一つ確かなことは、この仕事がこれで終わらないということだけだった。彼は徐々に、より大きな闇の仕組みに引き込まれつつあった。


翌朝、良太の携帯電話が鳴った。遠藤からだった。


「うまくいったみたいだな」遠藤の声には満足感が滲んでいた。


「ああ」良太は短く答えた。「でも、次はない。これは一度きりだ」


電話の向こうで、遠藤は笑った。


「そういうと思ったよ。でもな、良太...もう一人、お前の助けを必要としている人がいる」


良太は電話を切りたい衝動に駆られた。しかし受話器を握る手に力が入らなかった。


「...誰だ?」


「また会って話そう」遠藤は言った。「今度は、もっと大きな話になる。そして今回の教訓を活かした、より確実な方法を使おう」


電話が切れた後も、良太はしばらく受話器を握ったままだった。胸のポケットの封筒が、妙に重く感じられた。


この仕事は続く。そして彼の良心の重さも、日々増していくだろう。それでも良太は、もうこの道から引き返せないことを悟っていた。


望月沙耶は法的には「死亡」していなかった。彼女は今、別の死者の名前を借りて生きている。一人の命を救うために、別の死者の尊厳を犠牲にする。この皮肉な構図に、良太は言いようのない後ろめたさを感じていた。


しかし、それでも彼は進む。制度の隙間で苦しむ人々を救うために。たとえその方法が、さらに深い闇へと彼を引きずり込むとしても。


良太は窓の外を見つめた。雨が降り始めていた。闇に紛れて新しい人生を歩み始めた沙耶のように、彼もまた、元には戻れない道を進み始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る