「葬り屋、善人につき」 旧: 灰の証明書 ―死を売る男の記録―
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第1話:制度の隙間に、死者は眠る
朝靄の立ち込める山谷の路地裏。空き缶が転がる横で、毛布にくるまれた老人が冷たくなっていた。硬直した指先は、何かを掴もうとするように、空を指している。
「またかよ」
中野良太(45)は溜息をつきながら手袋を引き出した。彼の手元には「縁の手」と書かれた名刺があった。表向きは無縁仏支援NPO。週に一度はこうして、誰にも看取られず死んでいく人の最期を片付ける仕事をしていた。
「おい、山田さん」と彼は声をかけた。路地の隅で煙草を吸っていたホームレスの男が振り返る。
「どうなさいました?」
「あんた、昨日もこの辺りにいただろ。あの老人、何か言ってなかったか?」
山田と呼ばれた男は、腫れぼったい目をこすりながら遺体に近づいてきた。霜柱のような白い鼻毛が揺れる。
「ああ、佐藤のじいさんですね。昨日はずっと咳してましたよ。『酒、一杯くれ』って言ってたのが最後かもしれませんね」
良太は小さなノートに走り書きをした。名前(たぶん偽名)、特徴、最期の言葉。そして死亡推定時刻。この情報が、後に火葬許可証や埋葬費用申請の基礎になる。
「証言、ありがとう」良太は千円札を渡した。情報提供への謝礼だ。
「毎度どうも」山田は札を素早くポケットにしまった。二人の間にはもう馴れ合いがあった。
良太は老人の遺体を見つめた。何も持たず、誰にも知られず、名前すら本当かわからない。それでも確かに、この男は生きていた。
「佐藤さん、お疲れさまでした」
誰も聞いていない路地裏で、良太は小さく呟いた。言葉は冷たい空気に溶けていった。
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「縁の手」事務所。台東区の古いアパートの一室を借りていた。ドアを開けると、まず古い畳と線香の匂いが鼻をつく。冬の冷気と湿気が混ざった空気が肺に染みる。
壁には無縁仏たちの遺影が何十枚も整然と並べられている。多くは良太が撮影し、プリントアウトしたもので、名前と推定年齢だけが記された紙が添えられていた。棚には段ボール箱が重ねられ、「○月△日発見・男性・推定65歳」などと油性ペンで書かれている。遺品整理の際に出てきた、捨てられなかったものだ。
事務所の片隅には小さな仏壇があり、常に線香が灯されている。制度上は火葬と埋葬だけを担当するNPOだが、良太は勝手に「供養係」も兼ねていた。公的資金は出ないが、それでも誰かが祈らなければ、と思っていた。
良太はパソコンに向かい、亡くなった佐藤の情報を入力していた。キーボードのキーは油で黒ずみ、埃が溜まっている。
「佐藤、男性、推定75歳前後。持ち物なし。身元不明……」
キーボードを叩く指が止まる。今日もまた、名前も知られず、悼む人もないまま、ただの灰になる人生があった。この報告書が行政に送られ、埋葬費が下りる。死んだ人間は「事務処理」になる。
「おかしな話だよな」良太は独り言を呟いた。「生きてるときは誰も助けず、死んだら金が出る」
良太の脳裏に、区役所福祉課時代の記憶が蘇る。
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<10年前>
「中野さん、あなたもっと現実を見てください!」
課長の怒声が会議室に響き渡る。テーブルを叩く音が、良太の胸に突き刺さる。
「彼らを全員救うことなんてできないんです。予算も人員も足りない。できることには限りがある!」
「でも、川崎さんはあと少しで自立できたはずです。住む場所さえあれば…」
「あなたの感情論はもういい!川崎さんは三度チャンスをもらって、三度失敗した。それ以上、税金を使う理由がない」
良太は拳を握りしめた。福祉の現場で働き始めて5年。理想を持って飛び込んだこの世界は、彼が思い描いていたものとはあまりに違っていた。
「川崎さんが自殺したら、誰が責任を取るんですか?」
「自己責任です。我々は制度の範囲内で精一杯やりました」
課長の言葉に、良太は反論できなかった。制度内でやれることは、確かに限られていた。
二週間後、川崎は安アパートで首を吊った。死後3日で発見され、良太が葬儀を担当した。死亡届を出し、火葬場へ行き、骨壺を抱えた。そのとき初めて、良太は気がついた——死んだ人間に対しては、制度が働くことを。
「生きてる人間を救えない国が、死体には金を出す」
その矛盾が、良太の心に深く刻まれた日だった。
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回想から引き戻されたのは、事務所のドアが開く音だった。古い引き戸が軋み、冷たい外気が流れ込んできた。
「よお、良太。久しぶりだな」
声の主は遠藤剛(47)。かつての同僚で、今は社会福祉協議会の幹部になっていた男だ。整った髪型と高そうなコートが、この場に似合わない。
「遠藤さん、珍しいね。福祉のお偉いさんが、こんな薄汚い場所に」
良太は皮肉を込めて言った。遠藤も良太も同じ時期に役所に入ったが、一方は出世街道、一方は脱落組。二人は今や異なる世界の住人だった。
「相変わらず捨て台詞が上手いな」遠藤は笑いながら事務所の中を見回した。鼻をわずかに顰める様子が、この場所の臭いや空気を不快に感じていることを物語っていた。
「でもさ、お前のやってることは立派だよ。誰も引き取り手のない死者を弔うなんて」
「褒められても嬉しくない。俺たちが救えなかった人間の、最後の始末をしてるだけだからな」
「きれいごとばかり言うから、お前は出世できなかったんだよ」
遠藤はそう言って、立てかけてあった段ボール箱の中身を覗き込んだ。老人の遺品だ。ぼろぼろの手帳、黒ずんだ写真、使い込まれた釣り道具。人生の痕跡がわずかに残っている。
「でもな、良太。お前のその"きれいごと"が、時には人を救うこともあるんだ」
遠藤の声のトーンが変わった。良太は眉をひそめる。
「何の話だ?」
遠藤はポケットから封筒を取り出し、良太に差し出した。茶色い封筒は、公文書のように見える。
「開けてみろ」
中には写真が一枚。若い女性が写っていた。繊細な顔立ちだが、目に力がない。生気を失った表情だ。そして首筋に、かすかな痣が見える。
「彼女は望月沙耶、28歳。DV被害者だ。夫から逃げ出したいんだが、相手は警察関係者で、どこに逃げても見つけ出されると怯えている」
「それで?俺にできることなんてないだろう」
「ある。彼女は死にたいんだ」
良太は眉をひそめた。写真を封筒に戻そうとする。
「自殺幇助なんてできるわけないだろう」
「違う」遠藤は声を潜めた。「死んだふりをしたいんだ。正確には『戸籍上は死んだことにする』必要がある」
「何言ってるんだ?」
「お前、ここで何をしている?無縁仏の葬儀だろう?」遠藤はニヤリと笑った。「身元不明者の火葬許可証をどうやって取得している?」
良太は言葉に詰まった。確かに、彼のNPOは路上生活者の死亡確認から、埋葬許可、火葬まで全てを代行していた。身元確認は警察がするが、遺体の身元が判明しない場合、ある程度の裁量で"推定"の名のもとに手続きを進めることもある。
良太は、ほんの少し、その制度の隙間を利用していた。身元不明の遺体の名前を、少しだけ「整理」することで、書類上の死者が生まれることを知っていた。
「つまり、お前、死者の名前を『提案』することもできるんじゃないのか?」
「バカな話だ」良太は首を振った。「それは詐欺だ。犯罪だ」
「いいや、救済だ」遠藤は真剣な顔で言った。「彼女を救えるのはお前しかいない」
良太は黙り込んだ。頭の中で思考が衝突する。自分が今までやってきたことと、遠藤が提案していることは、どこまで違うのか。制度の隙間を使うこと自体は、既にやっている。でも、それは「死者のため」だった。今回は「生者のため」——その一線を越えていいのか。
「もし俺がやったとして、その後彼女はどうなる?」
「別の街で、別の名前で、新しい人生を始める」
「新しい戸籍?」
「それは俺たちの管轄外だ」遠藤は曖昧に答えた。「でも、生きて消えるルートはある」
「法律違反だ」
「法律が彼女を守れなかったんだ」
その言葉が、良太の胸に刺さった。かつての川崎と同じだ。制度が守れない人間がいる。そして制度の外でしか救えない人間もいる。
「こんなことを始めたら、きりがない」良太は呟いた。「犯罪だぞ」
「一人だけだ」遠藤は言った。「彼女だけを救ってほしい。それだけだ」
良太は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外では、山谷の路地に夕日が落ち始めていた。あの日、川崎の骨壺を抱えた日と同じ色の空だ。
「これは救済か、偽善か」良太は自問した。「それとも、単なる犯罪か」
彼は戸棚から火葬場のスケジュール表を取り出した。明日から三日間の当番表を眺める。その中に、彼がよく知る名前があった——火葬場職員・鈴村の名前が。
「考えておく」良太はようやく口を開いた。「ただし、絶対に他言は—」
「心配いらない」遠藤は口に指を当てた。「俺は何も知らない。お前も何も知らない」
遠藤は満足げに立ち上がり、ドアに向かった。その背中は、どこか軽やかだった。
「良太、制度の隙間に落ちていく人間は、制度の隙間でしか救えない」そう言い残して、彼は帰っていった。
残された良太は、写真の女性を見つめた。彼女の虚ろな瞳には、まるで生きている死者のような絶望があった。そして良太は思い出した。かつて自分が救えなかった、あの川崎という男のことを。
「どっちが正しいんだ?」
良太は小さな仏壇に向かって問いかけた。無縁仏たちの遺影が、無言で彼を見つめている。生きることも死ぬことも選べなかった彼らと、生きたまま「死ぬ」ことを選ぶ女。
良太は長い間、仏壇の前で座り込んでいた。頭の中では、法と倫理と救済の言葉が混沌と渦巻いていた。線香の煙が立ち上る。その煙と共に、何かが昇っていくような気がした。
良太は深く息を吐き、立ち上がった。
「一度だけ」良太はつぶやいた。「一度だけ、試してみるか」
その決断が、彼の人生を永遠に変えることになるとは、まだ知らなかった。
窓の外では、闇が降りてきていた。遠くで救急車のサイレンが鳴り、山谷の路地を走り抜けていく。誰かの命が危機に瀕しているのだろう。
良太は静かに電話を取り上げた。鈴村の番号を押す指が、わずかに震えていた。
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