第3話 滲むのは、墨か声か
「人を想う心と、人を支配したい欲は、紙一重である。
そして誰しも、どちらかしか持ちえぬと思ってゐるのが、最も滑稽である。」
― 或る手記より
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春の雨が止み、街に湿気の残る昼下がり。
大学の構内は、桜の名残と新入生の喧噪で騒がしかった。
私は講義に出るふりをして、ひとけのない廊下に座り込んでいた。
昨夜、楓と過ごした記憶が、未だ身体の奥に沈んで離れなかったからだ。
――すると、廊下の先から聞き覚えのある足音が近づいてきた。
「……尚紀?」
顔を上げると、そこに立っていたのは灰原彰人だった。
彼は学生帽を被り、黒い詰襟のまま、ほんの少し首を傾げて私を見ていた。
その眼差しには、何か測るような光があった。
「久しいな」
「……ああ、灰原か。いつぶりだっけ」
「君が“あの女”に会ってから、だろう」
私は息を呑んだ。
「どうして……」
「銀座で君を見かけた。例の《三月堂》でな。
君は気づかなかったようだが、僕はずっとそこにいたよ。君の……少し後ろにね」
その声に、何かが冷たく軋んだ。
彼は笑っていた。
けれど、それは親しみからくる笑みではなかった。
私は思わず目を逸らした。
灰原の聲は穏やかだったが、その奥にある何かが妙に重たかった。
「彼女と……会ってたのか?」
「いや。僕は話しかけていない。ただ見ていただけさ。
それだけで、充分だと思ったんだ。
……君がどれほど、彼女に惹かれてゐるか、よく分かったからね」
「……見られてたのか、俺」
「見ていたんだよ、尚紀」
そのとき、私は初めて気がついた。
彼の目は、ずっと私だけを見ていたのだと。
それから数日、灰原は私のそばに頻繁に姿を現すようになった。
図書室で、食堂で、喫煙所で。
彼は私の予定を知っているかのように、どこにでも現れた。
話す内容は他愛ないものだった。
文学、講義、政治――だが、そのすべてに、「君のために」という響きが付き纏った。
「尚紀。最近、特高が動き始めてるらしい。
君の出ていた会合、あれも名簿が回収されてるって話だ」
「……灰原、それは本当か?」
「僕は君の味方だよ。何があってもね」
その言葉は、温かいようでいて、妙に粘性のある不快さを残した。
夜、三月堂に行くと、楓は静かに言った。
「最近、見張られてる気がするの。……あなたも、気をつけて」
私はうなずいた。
けれど、その瞬間に頭を過ったのは、警察の顔ではなく――灰原彰人の眼だった。
その夜、私は楓の部屋で眠った。
彼女の肌は冷たく、どこか遠くの場所にいるようだった。
言葉も、吐息も、夢の中に混じって消えていった。
「……ねぇ、尚紀」
微睡の中、楓がぽつりと呟いた。
「あなた、あの子に好かれてるのね」
私は身を起こした。
「あの子?」
「黒髪で、眼の大きな子。……たぶん、学生服を着てた」
私は息を止めた。
「……灰原のことか」
楓は静かに頷いた。
「すごく、深く、貴方を見てた。……恋してる子の眼だった」
私は否定できなかった。
いや、否定しようにも、言葉が出なかったのだ。
「でもね、そういう人が、いちばん怖いのよ。
一線を越えたとき、止まらなくなるのは――“報われなかった愛”だから」
翌日、私の部屋の郵便受けに、一通の封筒が届いていた。
差出人の名はなかった。
中には、何枚かの写真。
そのすべてに、楓と見知らぬ男が写っていた。
どれも不自然な角度。距離を取って、隠れて撮られたものだとすぐに分かった。
私は手が震えた。
写真の裏に、小さな赤い印が押されていた。
それは、以前見た楓の名刺に押されていた印と、まったく同じだった。
その晩、私は楓に訊ねた。
「この男……誰なんだ」
彼女は黙っていた。
長い沈黙のあとで、ようやくこう言った。
「その人に……“捧げた”の。あたしの輪郭を」
「……“捧げた”って、どういう意味だよ」
私は、怒っていた。
いや、怒りを装っていた。
本当は、怖かったのだ。
彼女の言葉の意味が、私の知る恋愛の範疇を超えていることが。
「その人はね、名前を持ってる。顔も、肩書も、たくさん」
「名前は……?」
「訊かない方がいい。ほんとうに」
楓は俯いたまま、震える指先で煙草を口に運んだ。
その仕草は、いつもの気だるさとは違った。
恐怖だった。
その夜、私は初めて“男の名前”を調べた。
そして、大学の文芸雑誌の寄稿者一覧に――その名を見つけた。
墨田岳陽
帝大の助教授。文学者。政治思想の研究者。
そして、かつて左翼思想の取り締まりに関わっていたという噂のある男。
その翌日。
私は校舎の掲示板で、奇妙な張り紙を見つけた。
《過激思想に関する学内調査が進行中につき、会合参加者は慎重な行動を》
筆跡は整っていた。
けれど、その最後に添えられていた一文字――
**「墨」**という筆名が、すべてを物語っていた。
夜。
私はもう一度、三月堂を訪れた。
だが、その日は楓の姿はなかった。
女給に訊いても「今日は休みです」と、それだけだった。
空になったピアノ椅子。
香水の残り香だけが、店内に漂っていた。
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「彼女は、誰のものでもない。けれど、決して“自由”でもなかったのだ。
たぶん、最初から。」
――蒼井尚紀の日記より
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