薔薇は硝子の香を孕みて

泥沼讃美歌

第1話 ひとしずく、蒼

「人は、生まれた時点で正気を棄ててゐる。

それでも尚、誰かに触れたくなるのは、


――それが、最もやすやすと狂気に至る方法だからである。」


― 或る手記より

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銀座裏、煉瓦の湿りに雨が香った。


 私はその夜、午後五時半過ぎ、市電を神田で降り、傘も持たずに《三月堂》と書かれた硝子戸の前に立ってゐた。


 街は冷え、吐息は曇り、襟元はじっとりと雨を吸ってゐた。

けれど、それを不快と感じる神経すら、あの頃の私には残ってをらなかった。


 理由は思い出せない。


ただ、歩いて、流れて、沈みかけた海底のやうなそのカフェーの前に辿り着いてゐたのだ。


 硝子戸を開けると、微かに燐寸と煙草と香水が混ざったやうな匂ひが鼻を打った。


 明かりは薄暗く、翡翠色の洋燈が、天井からゆらゆらと揺れてをった。


 誰も客はゐなかった。店の奧に、たつた一人だけ、女がゐた。


 着物姿、しかして髪は結はずに西洋風のボブ。紅は濃く、指には煙草。



 彼女は何かの楽譜をめくるふりをして、しかしこちらの気配を感じてをったやうだった。



 「お一人ですか?」


 

 聲は低く、艶やかさを装ってをらず、けれど喉に残る湿度だけが生々しく、


 私は頷いた。


「なら、あたしも一人でゐることに致しますの――貴方が、それを望むなら」



 笑つた。


 その笑ひには毒も情もなく、ただ空虚だけがあった。


 私は、思はず視線を逸らした。


 彼女の目は、何かを見てゐないやうで、見透かしてゐるやうだった。



 ああ――この女は、誰かをもう何度も棄ててきた眼だ。そんな風に思った。


「ここ、初めてで?」


「ええ……ふらりと、歩いていたら」


「さう。じゃあ、あたしは“最初の女”ですわね」



 その言葉が意味するところを、私はすぐには飲み込めなかった。


 彼女は笑ひもせず、ただ淡々と、煙草の灰を硝子の灰皿へ落とした。




「お名前、訊いても?」




「――蒼井。蒼井尚紀と申します」




「尚紀さん」




 声に出して、彼女は一文字ずつ確かめるやうに呼んだ。


 私は何故かその瞬間、掌がじっとりと汗ばんでゐることに氣がついた。


「茜沢。……あたしの名前よ。茜沢楓」



 茜と蒼。


 まるで対になる色のやうで


――そう思った途端、背筋に冷たいものが這い上がった。



 話した言葉は、ほんの僅かだった。



 楓は私に過剰な興味を示すわけでもなく、かといって冷たくあしらうでもなかった。


 ただ、「そこにいることを許してくれる」――それだけが、妙に心地よかった。


 彼女はピアノの前に座り、指を鍵盤に乗せた。けれど音は出さなかった。


 私は木製の椅子に座り、ただその横顔を眺めてゐた。




「……弾かないんですか?」




 問いかけた声は、自分でも意外なほど掠れていた。



「ええ。今日は……音を鳴らす氣分じゃないの」


「でも……指が、寂しさを覚えているように見えます」



 楓は少しだけ首を傾げた。そして、微かに笑った。




「詩人さんみたいなこと仰るのね、尚紀さん」


「違います。ただの、文学部の学生です」



「文学ね……そのうち書けば? “最初に出逢った女が、破滅だった”って」




 それは冗談とも、予言とも取れた。


 私は笑えず、黙ってグラスの水を口に運んだ。




 店の外では、雨が強くなっていた。




 そのまま私は、三十分ほどそこにゐた。


 言葉は少なく、けれど空気が凪いでゐた。


 やがて私は立ち上がり、軽く会釈をした。




「また、来てもいいですか」




 楓は答えず、ただ――ひとつ、指先でピアノの鍵をカチリと鳴らした。


 その音だけが、やけに耳に残った。



 外に出ると、夜の帳が降りていた。


 銀座の街は、石畳を濡らす雨に灯が反射し、靄もやの向こうにぼんやりと浮かんで見えた。


 私は学帽を深く被り、濡れるままに歩いた。肩を打つ雨は冷たくなかった。



 胸の奥で、何かが確かに、音を立てていた。


 それは恋というには早過ぎ、執着というには浅すぎた。


 けれど――間違いなく、私の中に“火”が灯っていた。




 ふと、背後に視線を感じた氣がした。


 振り返ったが、誰もゐなかった。

 ただ、路地の奥に立てかけられた一本の杖と、擦れた男の靴跡が、雨に滲んで消えてゆくのが見えた。




 その夜、私は何故か眠れなかった。


 枕元に置いた本は一頁も進まず、ただ、指先に残る“煙草と香水の香り”だけが、現実を引き止めていた。




――彼女に出逢ったその日から、


  私はもう、別の世界に足を踏み入れてゐたのだと。


  それに氣づくまで、そう、どれほどの代償を払ふことになったことか。

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