Show To Short

谷間川珍敏

水に浮いた爪

小さな爪が水に浮いている。

見た目は綺麗な水だが、数日が経過している。

その証拠に、洗面台には水面の跡が薄っすらと残っていた。

気化する前までは、水面はここまでありました。と、誰かが線でも引いたように。

その上に浮いた爪が、誰の爪なのか定かでなかった。

浮いている。という事は、水が張られたよりも後に。と推察が出来た。

いくら小さくて軽い爪でも、数日が経過すれば、そのわずかな重さでも沈むはずだ。

小指の爪、だろうか。しかし、丸みを帯びているので、足の爪かもしれない。

あるものを発見し、身震いがした。

水に浮いた爪に顔を寄せ、じっと観察すると、断面がザクザクと鋸状になっていた。

それは爪切りがない時、爪を端から雑にむしり取る。または、歯を使って端から少しずつ噛み切る時に出来る断面だ。

水に浮いた爪は、後者の様であった。

自分の爪を確かめる。両手の爪はあり得ない。

先日、ホテルに泊まった折、フロントに電話をして爪切りを借りたからだ。その時の事は鮮明に覚えている。

靴下を脱ぐ。両足の小指の爪は、ちょうど切るに値する長さまで伸びている。

再度、洗面台に張られた水を見る。

小さな爪は、荒ぶる心臓の拍動に伴う呼吸の、わずかな風を受けてくるりと向きを変える。

誰の爪だ。これは、誰の爪なのだろう。

洗面台の鏡の前で、誰かが爪を噛み切り、張られた水の上に吐き出した。爪の表面に唾液の水分が付着していればすぐに沈んでしまうはずだから、噛み切って直後にプッと吐き出した。足の爪?なら、更に気味が悪い。

洗面台に水を張ったのは自分だ。

三日間の出張で家を空ける。しかし、出先で思い出したのだ。洗面台に栓をしたままであったことを。

洗面台に水を張る事など、ほとんどないのだが、水槽のエアポンプを洗う時にだけ張るのだった。

しかし、その時には同時に朝食を作っていたために、そして、会社からの電話を取った事で、完全にエアポンプの掃除を忘れてしまった。水を張った洗面台をそのままにして朝食を摂り、出かける支度をして家を出てしまったのだ。

留守にしていた三日の間で、人が入った形跡は無かった。

インターホンの記録を確認しても、心当たりのある様な人物は来ていない。

考えているうちに、ふと、これは爪で無いのではないか。そう思った。

爪に似た何か、なのではないだろうか。

しかし、爪でないとすれば、何なのだろう。

手に取ってみるか悩み、しかし触ってみなければわからない事も多いだろう。

意を決して、どうしてか自然と労わる様な丁寧さで、爪のようなものを手に取る。

手のひらの上に置いて、眺めてみる。

やはり爪のようだ。それから指先で触れてみる。爪の他に思い当たらない。これは、爪でしかない。

気味が悪い。手のひらから摘まみ上げ、捨ててしまおうか悩む。

「あっ」と声が出る。摘まみ上げた指の先に、わずかに反発を感じる。

柔らかさと硬さの曖昧な境界が指先に伝わってくる。その感触で爪である事が一層、決定づけられた。

「何か嫌な事でもあったのけ?」

祖母の声が聞こえたような気がした。

昔、私には爪を噛む癖があった。

パチッ、パチッ、とテレビを眺めながら爪を噛んでいると、祖母はそうして声を掛けてきた。

大人になってから知った事だが、子供が爪を噛むのは、ストレスへの反応によるものだそうだ。

祖母は、幼いわたしの、何気ない行動を細々こまごまと観察して、共働きで帰らない両親の代わりを必死に努めようとしていたのかもしれない。

この爪が誰のものなのかはわからない。

だが、もしこれが幼い頃の自分が噛み切った爪なのだとしたら、祖母が今も見守ってくれているのかもしれない。

そう思う事にしたら、先程までの気味の悪さも、思い出にぼやけた。

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