観音通りにて・少年
美里
現在
彼のことを、思い出、とは言いたくない。彼の記憶があまりに鮮明すぎるからだ。俺の中で、彼の部屋のカーテンや壁紙ですら色褪せていないのに、どうして彼のことを、色褪せた思い出なんかにできるだろうか。彼は、ずっと俺の中にいる。鮮烈だった、はじめての恋。その後俺は何度か恋をしたし、結婚もしたし、離婚もした。そしてそれらの経験の根っこには、必ず彼がいた。あの、熱い血潮が透けて見えるような真っ白い肌と、凍てつく北極の氷みたいに不純物のない黒い瞳。彼が俺をまるで愛さなかったことくらいは、あの頃も今も分かっているけれど、俺はどうしようもなく彼を愛した。今も、愛している。妻はかつて、ひとは所詮誰かの身代わりでしかないのよ、と言って俺を彼の記憶ごと受入れ、そして最終的には、身代わりの人形として生きるのはやっぱり辛すぎた、と、俺のもとを去った。婚姻期間は5年間。4歳になっていた娘は、母親についていくことを選んだ。その娘ももうすぐ、彼と出会ったころの俺と同じ年齢に差し掛かろうとしている。月に一度の面会日にしか会えないから、彼女が恋をしているのか、俺には分からない。一緒に暮らしていたとしても、そうだったかもしれない。父親なんて、そんなものなのかもしれない、と思いもする。ただ、彼女に言えるとすれば、気をつけろ、ということだけだ。気をつけろ。鮮烈すぎる恋は、その後の人生の全てに影響を与えてしまうから。ただ、俺はあの恋を知らないで生きることが幸せとも思えない。あの感情を知らないで生きている自分、というものが想像できないのだ。ただ、人は知らないものは、ただ知らないで通して生きていける生き物だとも思うから、娘には、あんな感情は知らないままでいてほしい、と思ってしまう。彼女の幸せを祈るときには、常に。記憶の中の彼は、当然ながらいつまでも若いままで、燦然と輝きを放っている。今現在の彼がどこでなにをしているか、俺は一つも知らないから、記憶の中の彼を汚すものは、ひとつもない。まっさらなままだ。多分彼は、もうこの世にはいないのかもしれない。そういう刹那的な生き方をしているひとだったし、長生きを望んでいるようにも見えなかった。そして、それが似合うようにも。分からない。私が彼に、生きていてほしくないだけかもしれない。それは、現実に肉を持った彼の存在を恐れるみたいに。
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