五、花嫁失踪
穢れの元凶について
「いずれにせよ、山神としての役目がなくなるわけじゃない。この山は穢れが生まれやすく育ちやすい場所でもある。お前の身体もそろそろ限界なんじゃないか? 無理矢理にでもあの子を真の
「黙れ」
冷たい視線が黒鴉に向けられる。黒鴉としては軽い気持ちで言ったつもりだったが、どうやら気に障ったようだ。銀花があの番の花嫁を過保護すぎるほど大切にしていることは知っていたつもりだが、茶化す気満々で来たせいで油断していた。
銀花は今はだいぶ丸くなったが、十数年前までは泣く子も黙る冷徹な神狐と有名だった。
「真の番ってのは、別に花嫁の意思なんて必要ないだろ? なにをこだわってんの?」
が、黒鴉はいつもの調子で続ける。別に挑発しているわけではない。無神経というわけでもなく、ただ気になるから知りたいというのが彼の性格なのだ。銀花が黒鴉を悪友と言ったのは、そういう意味でもある。関わればこちらが絆され、諦めるしかなくなるのだ。
「俺は、楪と本当の意味で契りを結びたい。楪が望むまではなにもしない」
「そりゃしんどいだろう。よく初夜の儀式で耐えたな。俺なら絶対
水月から初夜の儀式について聞いて知っていた黒鴉は、ご愁傷さまと銀花を拝む。大好きな子を目の前にして、なにもしないとか。しかも十五年も我慢していたくせに、よく耐えられるなと感心する。
「それは俺も自分を褒めたいと思っている」
「ぶっはっ! 真面目すぎだって! ホント銀花さまってばおもしろ〜」
途中から楽しくなってきた黒鴉はもう止まらない。勝手に言ってろ、と銀花は嘆息し、曇り空から降ってきた綿雪を手のひらにのせた。そしてふと後ろを振り向くと、自分の目を疑った。楪の姿がどこにもない。紅梅色の羽織を着ていたからこの白一色の場所ではどこにいても目立つ。だが、視界のどこにもそれがないことに不安を覚えた。
「おい、楪はどこだ?」
「は? ひとりで遊んでたんじゃないの?」
銀花と黒鴉は楪に背を向けた状態で並んで話していたため、そんなに長い時間ではないにしろどちらも視界から外れていた。焦る銀花の腕を掴み、「とにかく落ち着け」と諭す。この雪の中、そんなに遠くへ行けるはずはない。だが深々と雪が降り始め、風も出てきた。
「雪も深いから、ちゃんと跡も残ってる。辿っていけばそこにいるはずだ」
「……わかっている」
腕を掴む黒鴉の手をゆっくりと解き、銀花はすぅと息を吸い吐き出す。そして一瞬にして白銀の毛の大きな獣の姿に変化した。長く太いふさふさの尻尾を揺らし、四肢に力を込めて空へと駆け上がる。
白狐と呼ばれる霊獣である銀花の本来の姿は、気高く美しい。九尾狐のように尻尾が分かれているわけではないが、それとは比べ物にならない存在である。神聖な空気を纏い、まさに神狐と呼ぶに相応しい姿なのだ。
「俺も手伝う」
黒鴉も鴉に姿を変え、翼を広げて銀花の横を飛ぶ。上空は地上よりもさらに強い風が吹き荒れていた。足跡は真っ直ぐに崖の方へと続いていて、銀花は気が気ではなかった。あの時、楪が見せた笑みがふと頭に浮かんだ。
(……集中しろ。俺自身の神気を追えばすぐに見つかるはずだ)
楪の身体は銀花の神気が流れているため、銀花が生きている限りは死ぬということはない。ない、が、怪我をすれば血は流れるし、完全に治癒するまでは痛みもある。
「おい、あそこ!」
獣耳の近くで黒鴉が叫ぶ。先行する黒い影を追うように崖の下に視線を落とす。その先に広がる赤い飛沫に心臓が止まりそうになった。崖の端には雪が崩れたような新しい跡があり、その真下に血痕が残っている。しかし肝心の楪の姿はなかった。
地面に降り立つと同時にいつもの姿に戻ると、身体を屈めて雪を染める赤に触れる。かなり出血しているのがわかるのに、この場所以外に血痕が続いていないのが気になった。この状態ですぐに傷が治癒するとは思えない。
「穢れの残骸がある。まさか、これに唆されて崖から落とされたんじゃ……」
しかし穢れはすでに何者かによって散らされており、残骸と化していた。こんなことができる者はこの山でも限られているだろう。本来は触れれば毒に侵されたような状態になる穢れ。強い穢れは自分たちでさえただでは済まない。山神はその毒を身体の中に取り込んでいるようなものだった。
「足跡もない。この雪で消えたか、それとも何者かが連れ去ったか」
血溜まりから少し離れた場所に、白銀の毛で作られた襟巻が雪に埋もれていた。銀花はそれを拾い上げ、無言で袖にしまった。やはりこの血は楪のものなのだという現実に、顔をくしゃりと歪める。
「一旦、俺の領域に行こう。闇雲に捜しても仕方ない。心配なのはわかるけど、あの子の神気は感じるんだろ? なら状態はどうあれ生きてはいるってことだ。吹雪が止んだら俺の仲間にも声をかけるから、今は我慢しろ」
銀花は頷くでも首を振るでもなく、ただ茫然と足もとに広がる鮮血を見つめていたが、黒鴉はそんなことはお構いなしに腕を掴んで自分の領域へと導くのだった。
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