十、ぬくもりに抱かれて



 銀花ぎんかゆずりはの部屋にやって来る前。湯殿という場所に連れて行かれた。木の香りだろうか。良い香りがした。大きな木の箱の中に並々に注がれた白く濁ったお湯。四隅に灯りがある、ほんのり明るい広い湯殿にひとり、ぽつんとしばらく立っていた。


(どうしよう……着物を脱いで、あそこに浸かればいいのかな?)


 棚には別の単衣に似た白色の薄い着物や布が並べられていたが、楪の頭の中はそれどころではなかった。おそらく、あのお湯に入って身を清めるのだと楪は大してない知識で推測する。銀花は楪を湯殿の入口に押し込み、「湯に浸かってゆっくり身体を休めるといい」と言葉をかけてくれた後、なぜか出て行ってしまった。


 一緒になにかするのかと思っていただけに、楪は「え?」と振り向き、閉ざされた扉にしゅんと肩を落とした。


(……初夜のために、ここで身体を清めるってことだよね?)


 しかし楪は改めて考えてみても、自分ひとりでできることが限られていることを知る。ここにやって来る前。あの四畳半の部屋で楪がしていたこと。


 毎朝起きると着物が用意されているので、教えてもらった通りに着替える。布団を畳んで部屋の隅に運び、元々着ていた方の着物を小窓から出す。その頃に湯の入った浅い桶が届けられ、布巾で顔や身体を拭いたり、髪の毛を櫛で整え結い上げる。


 少しすると食事が運ばれてきて、食べ終わったら扉の下についている小窓の奥にお盆を返す。それからはただぼんやりと過ごすのだ。


 楪は耳が良いせいか、目を閉じて集中すると、遠く離れた村人たちの声が聞こえた。楽しい話だけではなく、怖い話や悲しい話もあったが、少しだけでも外のセカイのことが知れて嬉しかった。しかしそれもいつからか止めてしまった。


 ひとりには慣れている。慣れている、はずなのに。銀花と今日一日いただけで、なんだか胸の辺りがずきずきする。からっぽな自分の中に、少しずつなにかが生まれていくような。そんな不思議な感覚。銀花の顔を見るとぽかぽかする。銀花の声を聞くとふわふわする。


 つがい、だから?


 あたたかいお湯に浸かっていたら、頭がぐるぐるとしてきたので上がる。お湯で濡れた細くて頼りない身体を見つめ、なんだか恥ずかしくなった。こんな身体、銀花に見られなくて良かった。ひとりでよかった。でも、この後はどうしたらいいのだろう?


 とりあえず入り口の方に裸のまま戻ってみる。先ほども目には入っていた棚の上に置いてある大きな布を手に取り、その用途になんとなく気付く。


(そっか······身体を拭くための布······じゃあ隣の単衣? は替えの衣? でも着てきたものがあるし······なんだか薄い気もする······よく、わからない)


 そんなことを頭の中でぐるぐると考えながら、ある程度身体を拭いた後、結局は着てきた単衣を再び纏う。ぽたぽたと髪の毛から滴る雫。こんな風に髪の毛が濡れたことなどなかった。


 とりあえず結んでいた部分を絞って布巾で軽く拭いてみたが、最初にすべきことを後にしてしまったせいで、白い単衣の肩や胸の辺りが肌に張り付いて、透き通った衣から肌色が覗く。


(どうしよう……とりあえずこのまま戻るしか、)


 部屋に戻ってから考えよう、と楪は湯殿を後にした。戻ったら戻ったで、思い出したかのように布団を敷き始める。水月が去り際に教えてくれたのだ。初夜の儀式は楪の部屋で行われるため、布団を中央に敷いて銀花を待っていないといけないらしい。


(よかった……布団は自分でも敷ける)


 楪はほっとした表情で敷き終えた布団の上にちょこんと座り込む。


(銀花様は、いつここに来るのだろう。私は、ここでなにをしていればいいのかな?)


 ぐるぐる、と。

 たくさん考えても、なにをすればいいのかまったくわからない。


 乾ききっていない髪の毛から雫がまた垂れてきた。濡れた衣のせいか、なんだか寒い気がする。部屋の中が特別寒いわけではないのに。そんな中、襖が開いて銀花が現れた。姿を目にしただけなのに、急に縋りたくなった。


 どうしたらいいのかわからないと口にしたら、銀花が目の前に来てくれた。濡れた髪に触れられ頬に触れられる。優しいその手に甘え、助けを求めるように袖を掴んでしまう。


 気付けばふわりと身体が浮いた。抱き上げられ、その腕が身体が触れ合う。湯殿に着いたのに、衣も脱がずにそのままふたり白濁の中に沈む。びっくりして、思わず目を閉じ首にしがみ付いた。お湯がすぐに衣に染み込んで重たい。でも、あたたかい。


「楪、すまない」

「……銀花様?」


 白銀髪に滴る雫は、キラキラ眩しい。優しい金色の瞳に見つめられると、動けなくなる。そっと抱きしめられる。銀花は優しい。綺麗で、穏やかで、あたたかい。ふわふわする。


「銀花様、すごくあたたかいです」

「……そうか、ならよかった」


 ほっと小さく吐いた息が首筋にかかってくすぐったかった。銀花の漂う青い羽織が白い湯に色を落とす。上から下まで、ふたり同じように濡れて。


「楪、怖くはないか?」

「怖い? なぜですか?」


 抱きしめられたまま、耳元で銀花の声が響く。心地好いその声は、手首を飾る鈴の音がリンと鳴る度に、楪のからっぽだった心がいっぱいに満たされ、波紋がゆっくりと大きく広がっていくのだ。


「銀花様といると、ここがぽかぽかとあたたかくなるので、私は好きです」

「…………好き、か」


 おそらく、その意味は銀花が望んでいるものとは違う気もするが。それでも、楪の口から奏でられたその言葉に満たされる。いつか、本当の意味でそう言ってくれたならいい。


「俺も、好きだよ」


 唇がこすれ合うくらいの近さで、そう囁いて。

 大きなその瞳を覗き込むように見つめて。


「俺の可愛い花嫁。今夜はどうか、ずっと俺の傍にいて欲しい」


 楪は銀花を見つめたままこくりと小さく頷き、銀花はその薄い肩に顔をうずめた。 



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