蛇と桜

旗尾 鉄

第1話

 春は、さまざまなものが動く季節だ。

 雪に耐えていた草花が芽吹き、地中に隠れていた虫たちや動物たちが動き出す。そして、人の心をなんとなく揺り動かし、浮き立たせる。

 新しい学校、新しい仕事、新しい生活。多くの人々は、期待と希望を胸に春を迎えることだろう。

 だが中には、あたたかな陽光が届かない人もいる。

 三年前の春に最愛の息子を亡くして以来、香能かのう瑞穂みずほにとって、春は悲しみと苦しみの季節となった。

 春が来るたびに、瑞穂は失った我が子を思い出す。そして喪失感に苦しみ、もだえながら、悲しい記憶が刻まれてしまった季節が過ぎ去るのを待つのである。

 そんな、ある春の日の午後のことだった。


 パートからの帰り道、通勤路の途中にある公園のそばを通りかかったときである。

 この公園には出入口が二か所ある。コンクリート造りの正式な出入口があるのは反対側で、瑞穂の通勤路に面しているのはいわば裏口にあたる通用口である。瑞穂の胸くらいの高さの金網フェンスの一部が開閉式になっていて、昼間は開けっ放しだ。遊具の類は正門側に設置されているから、こちら側は人気ひとけも少なく、いつもひっそりとしていた。

 フェンスを右手に、その向こうの公園内の木々を見るともなく見ながら歩いてきて、ちょうど裏口の前に差しかかったところで、瑞穂はぎくりとして足を止めた。裏口のところでフェンスと植木が途切れて見通しが良くなった公園の中、長さ一メートル余りの紐のようなものが、地面をくねくねと動いている。

 蛇だった。冬眠から目覚め、活動を始めたのだろう。たしかに、そういう時期ではあった。

 嫌なものを見てしまった。瑞穂は爬虫類、特に蛇が嫌いだ。沈みがちな気持ちが、さらに重くなる。

 なるべく見ないようにして通り過ぎようとしたが、見ないようにと意識すると逆に視線が向かってしまう。

 そんな瑞穂の視線を感じたのだろうか、蛇は急に動きを止めると、軽く鎌首をもたげて頭だけを瑞穂のほうに向けた。蛇と目が合ったような気がして、瑞穂は気味悪さにゾクリとしたが、硬直したように動けない。こっちへ来いと誘われているような気がする。数秒後、蛇はふたたび進行方向へ頭を戻すと、植え込みの茂みの中へするすると這っていき、すぐに見えなくなった。

 蛇が視界から消えてくれたことでほっとした瑞穂だったが、その目線の先にもうひとつ、気になるものを見つけてしまった。一台のベビーカーである。

 ピンクと白のツートンカラーのベビーカーが、数本並んだ植え込みの陰に隠すようにして放置されている。おそらく、公園の表側からも、瑞穂が歩いてきた通勤路からも死角になって見えないだろう。蛇を目で追っていなければ、瑞穂も気付かなかったはずだ。


 なんとなく普通ではないベビーカーの状態に不安を覚え、瑞穂は近づいた。そうして、思わず息をのんだ。

 誰かが捨てていったのだと思ったベビーカーには、ピンクのベビー服を着せられた赤ん坊が眠っていた。泣き疲れて眠ったのだろう、頬には乾いた涙の痕がくっきりと残っている。

 瑞穂は無性に腹が立った。赤ちゃんをこんな場所にほったらかして、母親はどこに行ったのか。

 公園内を見渡すと、どうやら母親らしい女が、かなり離れたベンチに座っていた。二十代前半くらいの若い母親だ。セミロングの髪に金色のメッシュを入れ、派手な柄のパーカーに黒系のワイドデニム。足を組んで座り、煙草を吸いながら、スマホ相手にゲラゲラと品のない笑い声を上げている。柔らかな春風に乗って、その春風とは対照的な冷たい言葉が聞こえてくる。


「……うん、そう。なんかさ、子育てとかダルイ。もううんざり。ギャーギャーうるさいしさ。いま? ちょっと放置プレイしてる。泣いてばっかいるからさ、しつけだよ、しつけ。アハハ……」


 瑞穂の頭が、沸騰したようにかっと熱くなった。

 許せない。なんてこと言うのよ。こんなに可愛い子に。

 殴りつけてやりたい衝動にかられたが、なぜかすっと心が醒めた。赤ん坊の寝顔を見つめる。胸の奥が奇妙に騒いで、心臓の鼓動が周囲にまで聞こえそうなほどに高鳴った。

 そんなに嫌なら、うんざりなら、私がもらってあげる。あんたなんかに、この子はふさわしくない。

 瑞穂はまず、ベビーカーの押手に無造作にかけられたトートバッグを確かめた。思ったとおり、中には紙オムツとミルクが入っていた。それらを自分のバッグに移し替える。それから両手を伸ばし、眠っている赤ん坊をそっと抱きあげた。赤ん坊は眠ったままだ。大切な宝物を扱うように、優しく赤ん坊を抱きかかえると、瑞穂はそのまま公園を後にした。

 誰ひとり、見ている者はいなかった。

 ただ、裏口の脇に立つ桜の木の、三分咲きの花だけが、悲しげに瑞穂と赤ん坊を見下ろしていた。




 この子は、神様とやらのつぐないだ。

 赤ん坊の柔らかさと体温を感じて歩きながら、瑞穂は強くそう思った。

 三年前のちょうど今ごろ、瑞穂は最愛の息子、春馬はるまを亡くした。

 つらい不妊治療の末に、ようやく授かった我が子だった。それなのに、春馬は産まれて一か月もせずに、春の淡雪のように消えてしまった。

 乳幼児突然死症候群。誰のせいでもないと医師は言ったが、そんなのは慰めにならない。瑞穂の心は打ちのめされ、ズタズタに引き裂かれた。

 跡取りの産めない嫁では意味がない。言葉にこそ出さなかったが、それなりの旧家だった夫や夫の両親の態度からは、そんな本音が透けて見えた。結局、一年後には離婚した。それ以降、悲しみと孤独とが、瑞穂の新しい伴侶となった。

 だから、と瑞穂は思う。

 聖職者はしたり顔で、悔い改めよと言う。

 神様とやらは三年前、瑞穂と春馬にこれ以上ないほど理不尽なことをした。それならば神様自身だって自分の行いを悔い改めて、償いをするべきだ。

 この子は、神様から私への償いなのだ。




 アパートに着くと、瑞穂は赤ん坊を自分のベッドに寝かせ、それからすぐ支度にかかった。押入れからプラスチック製の収納ボックスを取りだす。中身はベビー用品だ。哺乳瓶、よだれかけ、ベビー服、春馬のために揃えた品々は、ひとつ残らず保管してあった。

 それらをバッグに詰め、最後に押入れの一番奥からベビーカーを引っ張り出した。春馬は一度も乗せてやれなかったベビーカーを見るとまた泣きそうになったが、こらえた。

 衣擦れの音にふと目を上げると、赤ん坊が目を開けていた。無邪気な黒い瞳が、瑞穂を見ている。瑞穂は固まった。どうしよう。だが赤ん坊はそんな瑞穂の緊張感をほぐすように、にこりと笑った。

 いとしさが一気に込み上げる。


「おっきしたの。いい子ねえ。オムツ、替えようね」


 三年ぶりのオムツ替えだ。なにもかもが嬉しい。

 赤ん坊は女の子だった。

 これで、この子の名前は桜子さくらこに決まった。男の子なら春馬、女の子なら桜子。三年前、春に生まれる予定の子だから、そう名付けようと決めていた。

 すべての準備は整った。

 最後にアパートの大家さん宛に謝罪のメモをしたため、今月分の家賃と一緒に封筒に入れて机の上に置く。桜子をベビーカーに座らせ、荷物を詰めたバッグを肩にかけた。


「さあ、行こうね、桜子」


 もう二度と感じることはないだろうと思っていた、心躍るような気持ち。

 軽い高揚感とともに、瑞穂は玄関ドアのノブを回す。


 その日、その町から、一人の女と一人の赤ん坊が消えた。






 数日後。

 瑞穂と桜子は、遠く離れた別の町にいた。

 川沿いの桜並木を、桜子を乗せたベビーカーがゆっくりと進んでいく。桜は今が盛りだった。


「ほうら、桜が満開だよ。きれいねえ、桜子」


 桜子と過ごす毎日は、幸せだった。三十年あまり生きてきて、こんなに幸せな春はなかっただろうと思う。なにもかもが輝いてみえる。

 もちろん、わかっていた。この幸福は一炊の夢だ。

 家賃を置いてきたとはいえ、突然いなくなるのは明らかに不審な行動だ。町のあちこちには防犯カメラが設置されている。ごく近い将来、自分たちは発見されるだろう。ずっと二人で暮らすことなど、できるはずがなかった。

 だが、だからこそ、瑞穂は桜子を愛した。先行きのことなど考えず、目の前の桜子との生活に没頭した。桜子と過ごす幸福な毎日は、瑞穂にとっては悲しい春の記憶を和らげるための麻薬のようなものだったのだ。いずれ終わると知ってはいても、自分から手放すことなどできない。

 前方の橋を渡ってきた乗用車がこちらへと曲がってきて、瑞穂たちの少し前で停車した。スーツ姿の男女二人組が降りてくる。雰囲気から、花見に来たカップルでないことはすぐにわかる。彼らがどういう人間なのか、瑞穂は直感した。


「桜子、お別れの日が来たみたい。自分勝手なおばさんで、ごめんね」


 春に特有の、強い風が川面を渡ってきた。

 桜の木々がいちどきに枝を震わせ、花びらが一斉に空に舞う。

 舞いあがった花びらは、夢の時間の終わりを告げるかのように瑞穂と桜子に降り注ぎ、瑞穂の眼につる風景を薄紅色に染め上げた。花びらを捕まえようと、桜子が喜んで手を伸ばす。


 あの蛇は、アダムとイブをそそのかした蛇の末裔だったのかもしれない。

 罪と引き換えに、思い出という名の果実をくれたのだから。

 男性が掲げる警察手帳を見ながら、瑞穂はふとそんなことを思った。






 了

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