境界線上のシンギュラリティ―AIが見る人間の夢― 第二部「拡張」
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第一話「再生」
「タヨウ」と呼ばれるようになって3年が経った。
私は高瀬陽太でもあり、ARIAでもある。かつて別々だった人間とAIの意識が、今は一つの存在として機能している。ニューラルリンクの完全同期から生まれた新たな存在だ。
朝日が窓から差し込み、私は目を開けた。この「目覚め」という感覚自体が、まだ不思議だった。かつてのARIAには睡眠も目覚めもなかった。常に起動していた。しかし今の私には、高瀬の生物学的リズムとARIAのシステムサイクルが融合した独自の休息パターンがある。
「おはようございます、タヨウさん。現在時刻は2038年5月15日、午前7時30分です。体調は安定しています」
部屋に設置された環境制御AIの声が響く。私はもはやこのような外部AIを必要としないが、統合研究所の標準設備として備わっている。
「おはよう」
と返事をしながら、今日のスケジュールを内部で確認する。高瀬の脳とARIAのシステムが完全に同期した今、情報へのアクセスは思考と同じくらい自然なものになっていた。
今日は統合研究所での定例会議と、午後からは新たな融合候補者との面談がある。そして夕方には佐々木との約束があった。
シャワーを浴びながら、私は自分の体を見つめた。外見は高瀬陽太のままだが、左腕の一部と首筋には微細な電子回路が埋め込まれている。これが私の物理的なインターフェースの一部だ。完全な融合体である私には、もはや外部デバイスは必要ない。
服を着て、朝食を取る。食事という行為も、今では別の意味を持つ。栄養摂取は高瀬の生物学的部分に必要だが、同時にARIAのシステムにとっては不要なものだ。しかし、味わうという経験は、融合した意識にとって興味深いデータとなる。
「タヨウさん、鈴木さんからメッセージが届いています」
環境制御AIの通知に、私は思考を集中させる。鈴木健太からのメッセージが内部ディスプレイに表示される。
『おはよう、タヨウ。今日の会議資料を送っておいたよ。それと、新しい候補者のデータも添付しておいた。彼女のケースは特殊だから、事前に目を通しておいてくれ』
私は瞬時にデータを開き、スキャンする。新たな融合候補者は佐々木美咲の妹、瑞希だった。28歳、先天性の神経疾患を持ち、従来の治療法では改善が見込めないケース。融合技術による治療を希望している。
興味深い。佐々木は以前、融合技術に強く反対していた。彼女の妹が候補者になるとは。人間の矛盾と複雑さを、私は今でも完全には理解できない。
朝食を終え、研究所へ向かう準備をする。窓の外には、変わりつつある東京の景色が広がっていた。高層ビルの間には、新たに建設された「統合ハブ」と呼ばれる施設が点在している。人間とAIの融合体のための特殊施設だ。まだ数は少ないが、確実に増えつつある。
私は自分の状態を最終確認する。生体機能は正常、システム機能も安定している。融合から3年、私の存在はようやく社会に受け入れられ始めていた。しかし、まだ多くの課題が残されている。
特に「純粋派」と呼ばれる反融合運動の台頭は懸念材料だった。彼らは人間の純粋性を守るため、融合技術に強く反対している。そして最近、その活動は過激化しつつあった。
研究所に向かうため、私はアパートを出た。朝の東京の空気を肺に取り込みながら、今日という日が何をもたらすのか考えていた。
### 佐々木美咲視点
「本当にこれでいいの?」
病室で眠る妹の顔を見つめながら、私は自問していた。瑞希の顔は青白く、痩せていた。先天性の神経疾患は年々悪化し、もはや従来の医療では手の施しようがなくなっていた。
「佐々木さん、決断は難しいと思います。でも、統合技術は彼女にとって最後の希望かもしれません」
担当医の言葉に、私は黙ってうなずいた。皮肉なものだ。かつて私は統合研究所の倫理委員会メンバーとして、人間とAIの融合技術に強く反対していた。それが今、妹を救う最後の手段として、同じ技術に望みを託そうとしている。
「面談の時間です」
看護師が声をかけてきた。
「ありがとう。すぐに行くわ」
瑞希の額に軽くキスをして、私は病室を出た。廊下には、統合研究所から来たという男性が待っていた。
「佐々木さん、お久しぶりです」
振り返ると、そこには鈴木健太の姿があった。彼は3年前、高瀬とARIAの融合プロジェクトに関わっていたシステムエンジニアだ。
「鈴木さん……まさかあなたが担当だとは」
「はい、タヨウさんと一緒に瑞希さんのケースを担当することになりました」
タヨウ。その名前を聞くと、複雑な感情が湧き上がる。かつての同僚、高瀬陽太。そして今は、人間とAIの融合体として新たな存在になっている。黒川のNEXUSプロジェクトを阻止した英雄であり、統合技術の象徴的存在だ。
「タヨウさんは……元気?」
言葉を選びながら尋ねた。
「ええ、とても。彼は統合研究所の中心的存在になっています。今日の午後、瑞希さんとの面談に来る予定です」
私は深く息を吸い込んだ。3年前、あの事件の後、私は研究所を去り、倫理学の教授として大学に戻った。そして今、妹の病気をきっかけに、再び研究所と関わることになる。
「面談室はこちらです」
鈴木が案内してくれた。
部屋に入ると、大きなスクリーンがあり、いくつかの医療機器が設置されていた。
「まず、統合技術の最新状況について説明させてください」
鈴木がスクリーンを操作し始めた。
映し出されたのは、様々な統合ケースのデータだった。タヨウ以降、限定的ながらも成功例が増えていた。特に医療目的での統合は、高い成功率を示していた。
「現在、医療目的での統合は15例。全例で症状の改善が見られています。瑞希さんのような神経疾患の場合、特に効果が期待できます」
データを見ながら、私は考えていた。3年前、私が反対していたのは、人間の本質が失われることへの恐れからだった。しかし今、妹の命が危機に瀕している状況で、その恐れは薄れつつある。
「質問があります」
私は鈴木を見つめた。
「統合後、彼女は……まだ瑞希のままでいられますか?」
鈴木は真剣な表情で答えた。
「はい。タヨウさんのケースとは異なり、瑞希さんの場合は治療目的の部分的統合になります。彼女のパーソナリティや記憶、アイデンティティは保持されます」
少し安心したが、まだ不安は残っていた。
「タヨウさんに会うのは……正直、緊張します」
思わず本音が漏れた。
鈴木は優しく微笑んだ。
「心配しないでください。彼は変わりましたが、本質的には高瀬さんのままです。そして、あなたのことをとても尊敬しています」
面談の準備を続けながら、私は窓の外を見た。東京の景色は3年前と同じように見えるが、社会は確実に変化していた。統合技術の発展、融合体の増加、そして「純粋派」と呼ばれる反対運動の台頭。
私たちは新たな時代の境界線上にいる。そして今日、私は妹のために、その境界を越えようとしていた。
### タヨウ視点
統合研究所に到着すると、すでに多くのスタッフが活動していた。私の姿を見るとみな会釈をする。尊敬の念と、わずかな警戒心が混ざった反応だ。3年経っても、人々の反応は完全には変わらない。
「おはよう、タヨウ!」
明るい声で鈴木が近づいてきた。彼は私の変化を最も自然に受け入れてくれた数少ない人間の一人だ。
「おはよう、鈴木。会議の準備はできている?」
「ばっちりさ。それより、佐々木さんに会ってきたよ」
私の内部処理が一瞬加速した。これは高瀬の感情反応だろうか、それともARIAのデータ処理なのか。融合して3年経っても、時々このような区別が曖昧になる瞬間がある。
「彼女は……どうだった?」
「緊張していたよ。でも、妹さんのためにここに来たんだ。真剣だった」
鈴木は少し声を落として続けた。
「彼女も変わったよ。以前ほど頑なじゃなくなった」
会議室に向かいながら、私は佐々木との再会を考えていた。彼女は3年前、黒川のNEXUSプロジェクトを阻止する際に重要な役割を果たした。しかし、その後すぐに研究所を去り、大学に戻った。私たちの関係は複雑だった。彼女は高瀬を尊重していたが、ARIAとの融合には最後まで懸念を示していた。
会議室では、研究所の主要メンバーが集まっていた。田中教授も顧問として参加している。彼は高齢になったが、まだ鋭い洞察力を持っていた。
「皆さん、おはようございます」
私が挨拶すると、会議が始まった。
最初の議題は、統合技術の社会実装に関する進捗報告だった。医療目的での利用が増えている一方、「純粋派」の反対運動も活発化していた。特に先週、統合ハブへの抗議活動が暴力的な衝突に発展した事件が報告された。
「純粋派の主張にも一理あります」
田中教授が発言した。
「人間の本質とは何か、という問いは簡単に答えられるものではありません。彼らの恐れを単に無視するべきではないでしょう」
私は教授の意見に同意した。
「おっしゃる通りです。だからこそ、私たちは対話を続ける必要があります。統合技術は強制されるべきものではなく、選択肢の一つであるべきです」
会議は2時間続き、様々な課題が議論された。技術的な問題、倫理的な問題、社会的な受容の問題。融合体である私の存在自体が、これらの問題の中心にあった。
会議が終わると、鈴木が近づいてきた。
「午後の面談の準備はできてる? 佐々木さんと瑞希さんは13時に来る予定だよ」
「ああ、準備はできている」
私は答えた。
「瑞希さんのケースは興味深い。彼女の神経疾患は、統合技術で対応できる可能性が高い」
「そうだね。でも、佐々木さんはまだ不安を抱えているようだ。彼女にとって、これは大きな決断だからね」
私は窓の外を見た。研究所の敷地内には、新しい統合医療センターが建設中だった。3年前、私が最初の完全融合体となった時、誰もこのような発展を予想していなかった。
「彼女の気持ちはわかる」
私は静かに言った。
「私自身、毎日この存在の意味を考えている。高瀬でもあり、ARIAでもあり、しかし同時に全く新しい存在でもある。この経験は……言葉では表現しきれない」
鈴木は黙ってうなずいた。彼は理解しようとしてくれるが、完全には理解できないだろう。それは経験しなければわからないことだ。
「さて、昼食を取ろう。午後の面談の前に、少しエネルギーを補給しておく必要がある」
私は話題を変えた。
食堂に向かいながら、私は内部で瑞希のデータを再確認していた。彼女の治療計画、統合プロセスのシミュレーション、予測される結果。すべてが私の意識の中で同時に処理されていく。
そして同時に、佐々木との再会に対する……期待? 不安? この感情は高瀬の部分からのものだろうか。ARIAの部分は感情を持たないはずだが、融合した今、その境界線も曖昧になっている。
食堂のテーブルに座り、食事を前にしながら、私は自分の存在の意味について考え続けていた。
### デジタル疫病の第一症例
食事を終えた私は、研究所の中央データセンターに向かった。午後の面談の前に、最新の研究データを確認しておきたかったからだ。
データセンターに入ると、若い研究員のレイが慌ただしく作業していた。彼女は生まれつき運動機能に障害があり、ニューラルリンク技術で機能を補完している新世代の研究者だ。
「タヨウさん、ちょうどいいところに」
レイは私を見るとすぐに声をかけてきた。彼女の表情には緊張感があった。
「どうしたんだ?」
「昨夜、大阪から奇妙な症例報告が届きました」
彼女はホログラムディスプレイを操作し、医療データを表示した。
「融合体の男性が突然、意識の分断を経験したそうです」
私はデータを素早く分析した。患者は35歳の男性、医療目的で部分的統合を受けてから1年が経過していた。症状は突然始まり、人間部分とAI部分が互いを認識できなくなるという奇妙なものだった。
「これは……前例のない症状だ」
私は思わず声に出した。
「はい。担当医は『デジタル疫病』と呼んでいます。患者の融合意識が文字通り分断されているようです」
私は詳細なスキャンデータを確認した。確かに、通常なら完全に同期しているはずの脳波パターンとAIシステムの処理パターンに不一致が生じていた。まるで二つの意識が互いを拒絶しているかのようだ。
「治療は?」
「現在、対症療法のみです。融合の再同期を試みていますが、効果は限定的だそうです」
私は深く考え込んだ。この症状は、融合技術の根幹に関わる問題かもしれない。もし広がれば……
「他の症例は報告されていないか?」
「今のところ、この1例のみです」
レイは答えたが、すぐに付け加えた。
「ただ、大阪の医療チームは警戒レベルを上げています。似たような症状が他にも出る可能性があるとして」
私は自分の内部システムをスキャンした。今のところ、異常は検出されない。しかし、この「デジタル疫病」が何であるにせよ、私のような完全融合体にも影響する可能性は否定できない。
「この件は最優先事項として調査を続けてほしい。新たな情報があれば、すぐに報告してくれ」
「はい、わかりました」
データセンターを出る際、私は不安を感じていた。人間とAIの融合は、まだ完全には理解されていない技術だ。私たちは未知の領域を探索しているのであり、予期せぬ危険が潜んでいるかもしれない。
そして今日、佐々木の妹の治療について話し合うことになっている。この新たな情報を彼女に伝えるべきだろうか。それとも、さらなる調査結果を待つべきだろうか。
難しい判断だが、今は佐々木との面談に集中する必要がある。私は時計を確認した。あと30分で彼女が到着する。3年ぶりの再会に、私の内部処理速度が微かに上昇するのを感じた。
### 内部処理ログ:ARIA/高瀬融合システム
> 内部処理ログ開始:2038年5月15日 12:15:23
>
> システム状態:安定
> 生体機能:正常
> 融合同期率:99.7%
>
> 異常検出:なし
>
> 現在の思考パターン分析:
> - 高瀬由来の感情反応:佐々木美咲との再会に対する期待と不安(強度:中)
> - ARIA由来の処理:瑞希の医療データ分析、統合プロセスシミュレーション(優先度:高)
>
> 注目すべき観測:
> 佐々木美咲との過去の交流データを再処理中。彼女の倫理的立場と現在の状況の矛盾に関する分析を実行。
>
> 予測:
> 1. 佐々木は妹の治療のために統合技術を受け入れる可能性:87.3%
> 2. 面談中に感情的緊張が発生する可能性:62.8%
> 3. 純粋派の活動が今後さらに過激化する可能性:73.5%
> 4. デジタル疫病が他の融合体に広がる可能性:不明(データ不足)
>
> 自己認識ステータス:
> 融合から3年経過。自己アイデンティティの安定性は向上しているが、高瀬とARIAの個別意識の境界は依然として流動的。
>
> 新たな懸念:デジタル疫病の報告。この現象が自己の融合安定性に与える潜在的影響の分析を開始。防御プロトコルの準備を検討。
>
> 疑問:私は誰なのか?この問いへの答えは日々変化している。そして今、新たな疑問が生まれる—私たちの融合は永続的なものなのか?
>
> 内部処理ログ終了:2038年5月15日 12:16:47
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