特別室

惣山沙樹

特別室

 その部屋は、伯爵家のメイドの一部にしか存在を知らされていない「特別室」だった。

 姉のように慕っていた、先輩メイドのローザがその部屋に入れられた時、わたしは彼女の世話を命じられた。その時に知ったのだ。特別室が何のためにあるのかを。


「よくお聞き、マルガリータ。次はあなたかもしれない。覚悟をしておくのよ」


 伯爵は齢五十五。奥方は五十。もう子供は望めなかった。そこで伯爵はメイドに手を出すことにしたのだ。脈々と続く伯爵家を絶やすわけにはいかなかった。

 特別室のメイドは屋敷の仕事を免除され、日中はそこに押し込められて過ごした。そして、夜だけその務めを果たすのだ。

 滋養のある食事をローザに運ぶと、大抵彼女は肉の切れ端であるとか、スープの一匙であるとか、そういうものを分けてくれた。


「ねえローザ、兆しはないの……」

「全くね。あるはずないわ。伯爵は認めたくないのよ。ご自身に種が無いことを」


 淡々と薬草の入った湯を飲むローザの瞳には、既に灯火が消えかけていた。

 一緒に逃げよう。

 そう言ったこともある。しかしローザは首を横に振った。もう伯爵の手垢がついた身体で生き長らえたくないのだと。

 そして、逃げるといっても、この屋敷から出る唯一の正門には番犬が常に目を光らせている。仮にそれをまくことができたとしても、満足な路銀を持ち合わせていないメイドには、その先の生活というものが想像できなかった。


「さあ……もう行きなさい、マルガリータ。会えるのは今日が最後かもしれないわね」

「そんな、ローザ……気を確かに持って……」

「あなたと出会えてよかった。本当の妹のようだったわ。おやすみなさい、可愛いマルガリータ」


 その夜わたしは、同室のメイドたちに悟られないよう、声を殺して泣いた。

 翌日、奥方がわたしに特別室行きを命じたことで、ローザの死は確実となった。


 初めての夜、伯爵はとても優しくしてくれた。わたしの髪を撫で、耳元で囁き、破瓜の痛みを労ってくれた。

 かつてのわたしと同じように、特別室の世話をするメイドがあてがわれた。アグネスという、顔と名前だけは辛うじて覚えていた子だった。わたしは彼女に食事を分け与えた。

 毎晩、毎晩、伯爵はわたしに精を注いだ。むせかえるような香が焚かれる中、この行為そのものを好きになることができればいいと思いつき、絶え間なく繰り返される愛撫に身をゆだねた。

 もしかしたら……もしかしたら……。

 わたしは一縷の望みに賭けていた。

 子を宿すことさえできれば、わたしはローザのようにはならないかもしれない。


「お前なら孕んでくれると信じているよ、マルガリータ」


 精を放った後、わたしの下腹部をさする伯爵の青い瞳は、慈愛に満ちていた。わたしは精一杯の微笑を浮かべ、右手で伯爵のあごひげに触れた。

 そんな夜があったからこそ、月のものが来てしまった時には落胆した。わたしは古布をアグネスに貰って股に挟み、鈍い痛みとともに伯爵の訪れを待った。


「伯爵様、申し訳ありません。月のものが……ですので今夜のお務めは……」


 用意していたセリフを全て紡ぐ前に、頬を平手ではたかれた。おそるおそる伯爵の顔を見上げると、冷淡にこう言い捨てられた。


「あとひと月猶予をやる。次で孕めなければお前には用はない」


 それから一週間、伯爵は顔を見せなかった。わたしがしていたことといえば、豪勢な食事をとり、薬草湯を飲み、鉄格子のはめられた窓から庭園を眺めること。

 ローザとの日々を思い返す。わたしにメイドの仕事を仕込み、花の名前を教え、褒める時は頭を撫でてくれたローザ。

 伯爵家の持ち物であるメイド、しかも特別室送りとなった者がきちんと葬られているはずはない。ローザの遺体は山に埋められたか、ゴミと一緒に焼却炉で燃やしてしまったのだろう。

 いざ自分の番になると、何もこみ上げるものはなかった。涙はローザが死んだ夜に枯れ果てたのだ。


「孕め、孕め、孕め!」


 再開された夜の営みは、以前とは打って変わって激しいものだった。伯爵は卑猥な言葉でわたしを責め立て、乳房をひっかき、終わった後はさっさと出ていくようになった。


 そして、ひと月後。当然のように月のものがきた。出された夕食は一切手をつける気になれず、アグネスに平らげてもらった。


「ありがとう、アグネス。今までお世話になったわね」

「マルガリータ、そんな……お別れみたいな……」

「お別れよ。おやすみなさい、アグネス」


 しんと静まり返った、月のよく見える夜だった。伯爵がノックもせずに入ってくるのはいつものこと。わたしは腰掛けていたベッドから立ち上がり、愛くるしく笑って伯爵を抱擁する――フリをした。


「……お前もか、マルガリータ!」


 わたしが伯爵の首に突き立てようとした食事用のナイフは、いとも簡単に弾かれてしまった。そしてわたしは伯爵に突き飛ばされ、ベッドの上に仰向けに倒れた。伯爵はわたしに馬乗りになり、拳で執拗に顔を殴りつけた。衝撃に耐えながら、わたしは伯爵を罵った。


「この……種無し! あんたが! 悪いんだ! 女のせいに! しやがって!」

「うるさい! うるさい、うるさい、うるさい!」


 口の中が切れ、鉄の味がした。目の前がかすみ、伯爵の表情すらよく見えなくなった頃、伯爵は殴る手を止めてベッドからおりた。それから、わたしの股を開くと、詰めていた古布を抜き、流血など厭わずそこに押し入ってきた。わたしはうめき声を漏らし、シーツを握った。

 さらに、伯爵はわたしの首を絞め上げてきた。伯爵の爪が肉に食い込み、気道はふさがれ、次第に意識がぼんやりとしてきた。


 ――ローザも同じことをしたのね。


 わたしが最後に考えたのは、そのことだった。ならばわたしもきっと、ローザと同じ場所に行けるだろう。彼女と一緒なら寂しくない。




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