ママなんか嫌い

南雲 皋

だいっきらい

 父が私を殴るのは、決まって母が男のところへ行った時だった。

 それ以外の時、父が殴るのは母だった。

 だから私は必死で母にすがりついた。

 母のスカートを掴み、泣き喚いた。

 いかないで、いかないで、いかないで、ねぇ。

 母は顔面に出来た赤や青や黄色の痣を厚塗りの化粧で隠して、能面みたいな顔で私を見た。

「あたし、あんたの盾じゃないのよ」

 母の手が私の手をはたき落とし、後頭部を掴んで壁に叩きつける。私は鼻から壁に激突し、ツーンとした痛みが頭のてっぺんまで走った。

「ぐぅう」

 低い唸り声が喉から漏れたけれど、それは母を止める理由にはならなかった。玄関の開く音、閉まる音、リビングの扉が開いて、ドスドスと大きな父の足音が響く。

「ぐぼぇ」

 父の足が私の腹にめり込んで、また私の口から声が漏れた。

 マズイ、と思った時にはもう遅くて、私が声を上げたことを理由に父のかかとがこめかみに落ちた。

 父も、母も、大嫌いだ。クソみたいな家から一刻も早く逃げたかった。

 二人の財布にたくさんのお札が入っている時を見計らって、それを掴んで逃げたのは高一の夏。

『JKのパンツは高く売れる』と酔った父が言い放った夜のことだった。


 それからは、自由だった。


 働いて、貰ったお金を自分で使えることが幸せだった。どんな仕事でもやったし、どんな仕事でも家にいるよりマシだった。

 母のようにはなりたくないと必死で金を稼ぎ、自分を磨いた。

 ラウンジで働いていた時、私を気に入ってくれた男がいた。その男は私に何度も何度も交際を迫り、最終的に根負けする形で付き合うようになった。

 帰る家はないと、それだけ伝えていて、男もそれを了承した。男も実家と折り合いが悪いらしく、二人だけで暮らすのには何の障害もなかった。

 しばらくすると子どもが出来た。堕ろそうとしたら止められた。私に子育ては無理だと言ったのに、男は堕胎を許さなかった。婚姻届まで持ってきて、出産前に入籍した。

 産まれた子どもをみたら、可愛く思えるかと思った。思えなかった。

 数年我慢すれば、ひとりの人間として会話ができるようになれば、私に似てくれば可愛く思えるかと思った。思えなかった。

 娘を可愛がる夫を見て、取られたと思った。

 私の男だったのに。私だけの男だったのに。

 私は、私だけを見てくれる男が好きだった。

 だから、私だけを見てくれる男を愛した。

「これ、どういうことだよ」

 夫が見せてきたのは、私のスマホだった。私が愛する男と取り合っている仲睦まじいやりとりが表示されている。

「どういうことって、なに? あなたにはあの子がいるじゃない」

 口論になって、止まらなくなって、夫が私の胸ぐらを掴んだ。ムカついたから頭突きをしたら、壁に叩きつけられた。

 あの時の記憶が蘇る。どいつもこいつも私を壁に叩きつけやがって。クソが。クソが。クソが。クソが。

 元はといえば母が悪いのだ。父に股を開いて無責任に私を産んで、似てないから可愛くないだのなんだのと、それなら私は父にも似ていなかったし、そのお陰で父は不貞を疑っていたじゃないか。父の暴力から始まったと思っていたけれど、父はずっと我慢していたのだ。そうだ。丸くなった父の背中。見せられた写真。父は母に写真を見せて、喧嘩になって、それから家の中がおかしくなったのだ。


 それは


 私は愕然とした。

 母のようになりたくなかったはずなのに、今の私はまるきり母と同じではないか。ああ、ああ、そんなはずは。

 いつの間にか起きていたらしい娘が、ぐちゃぐちゃになったリビングに立っている。私を見て、あの頃の私と同じ目で私を見て、娘が。同じ目、違う。私は最初はすがりついたんだ、何度も何度もすがりついたんだ。信じたくて、すがりついたんだ。お前も、ほら、私を信じてすがりつけよ。なに最初から諦めたみたいな顔してんだよ。ふざけんなよ。父親なら信じられるとでも思ってんのかよ。そいつだってきっとお前の腹を蹴るんだよ。お前のパンツを売るんだよ。クソなんだよ。

「ママなんか嫌い」

 私だって、母が嫌いだ。

「大嫌い」

 大嫌いだ。

「だいっきらい」

 だいっきらいだ。

 私は娘の頬を叩き、後頭部を掴んで壁に叩きつけた。

「ぐぅう」

 娘の口から、昔の私が唸り声を上げていた。

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