衣純糖度

生まれて初めて人を殴ったのは幼稚園に通っていた時だった。

おもちゃの取り合いで、いけすかないけんちゃんが俺の使いたいスコップを独り占めするから、砂場でその頬に拳を喰らわせた。けんちゃんは無言で僕の拳を受け止めて、砂場へ尻餅をついた。殴られたことがないらしく、何が起こったのか理解できない様子で頬に片手をつつ目を見開いて、俺を見上げた。

下瞼と上瞼の線が射ぬ直前の弓のようにしなり、空気に触れる眼球の面が最大になる。白く縁取られた、瞳孔と虹彩、つまり瞳が現れる。

その瞳は漆黒の絵の具を垂らして墨汁を加えて烏の羽を使って混ぜた黒色だった。

その目を見ていればいつの間にか強い怒りは消えていた。俺はけんちゃんの眼球を掌に持って眺めたいと思った。瞼を持ち上げてその隙間に指を入れて慎重に丁寧に傷つけないように眼球の後ろにまで擦り込ませて一思いに引っ張る。そうすれば瞳は俺の掌にあり、俺はけんちゃんの瞳をずっと見ていられる…。

俺は実行のために手を伸ばしたが、泣き出したけんちゃんのせいで先生が来てしまい俺の計画は頓挫した。

けど、瞳に惹きつけられたという事実は変わらない。俺は人間の眼球の中央の円に心奪われてしまった。

また見たいと思い、母親の瞼を強引に開こうとしたら怒られ、俺を好きだと言ってくれたちかちゃんに見せてとお願いし見た瞳は茶色であって黒じゃなかった。

やっぱりけんちゃんが一番だ。真っ黒で光がなくて押し入れに閉じ込められた時の暗闇。もう一度みたいじっくりみたいから、俺はけんちゃんの頬を殴ることにした。

先生が見ていない時を狙って庭の隅にけんちゃんをつれていきその頬を殴り、目を見開かせる。俺は倒れたけんちゃんの上に跨って見開かれた瞳を上から覗き込むように見る。瞳の黒は暗くて上も下もない、底もない、肉体もない、明るさもない、あの押し入れの中の暗闇だった。

俺は満足するまでけんちゃんの瞳を見続ける。最初は抵抗していたけんちゃんも俺がただ瞳を見続けているだけだとわかると、抵抗は収まり俺の目を見つめ返していた。その時はもう黒目に瞼がかかっていたが、そんな障害物は気にならなかった。それほど、けんちゃんの瞳は綺麗だった。

そんなことを数回繰り返せば、けんちゃんは突然殴られることに驚くことはなくなり、なすがまま俺に瞳を見せてくれるようになった。

けどある日、瞳を堪能していれば俺たちの様子を見ていたちかちゃんが先生に報告してしまう。けんちゃんにしていたことがばれて、彼の両親が大騒ぎしたせいで俺は幼稚園にいられなくなってしまった。

俺は両親から問いただされて、瞳が見たかったとしどろもどろで伝えれば、おかしいと怒られて否定される。瞳を見たいという行為の異常性を無意識に感じた俺は自分の欲望を奥底に封じ込めて成長を重ねた。


瞳への欲求が再び高まるようになったのは中学生になったばかりの頃だ。性的なものに触れる機会が増えると、自分が一般的とさせる部位に何一つ興奮を覚えないことに気がついた。裸体の女の映像を前に、俺の心は高ならない。その代わり、街中で見かけた女優の顔が一面に印刷された巨大なポスターを間近で見た時、普段見ることのできない大きさの瞳に俺はその場にいられないほどの昂りを感じた。幼少期の淡い記憶を蘇らせて自分の性癖を理解する。


高校生になった俺は写真だけじゃ我慢できなくなり、実物に触れたいと思うようになる。

選択肢は二つだった。無理やり瞳を見開かせるのか、親密になり瞳を見せてもらうのか。前者で既に失敗していた俺は後者を選ぶようになった。

同級生の女の子は優しくすれば、コロッと俺に傾いて、瞳を見せてほしいとお願いすれば、その両目を差し出してくれた。指で瞼を触れば怖がられるから瞼がかかったままの眼球で我慢をした。堪能したくて、視線を逸らさずにずっとずっと見つめる。けど、そのうち彼女達は「恥ずかしい」と言って目を逸らしてしまう。ふざけるなと髪の毛を掴んで無理やり俺の方へ向かせたい衝動に駆られたが、我慢をして、彼女達の行動が可愛らしいと思ったかのように微笑むのだった。

付き合った誰にも、本当のことは言わなかった、言った時にきっと俺はおかしいと言われてしまうから。

どこかに瞳が見られたいと秘められた願いを持つ女性と出会えないだろうか。出会えないだろうな、と自分を満たすことはとっくに諦めていた。


大学生になった俺は他の学生と同様に出会いを求めてサークルの新歓に参加した。飲みの席で隣の男に話しかける。無意識に瞳の色を確認してしまう癖のため男の瞳を見ればそれは夢にみた理想そのもので思わず見つめてしまう。我に帰った時、男の顔が恐怖とも嫌悪ともとれる顔をしており、慌てて誤魔化そうと言葉を探したが、その前に相手から俺の名前が出てきた。

「たくちゃん…?」

幼少期のあだ名で呼ばれた瞬間に目の前の男の正体がわかる。

「けんちゃん?」

彼の恐怖の顔が色濃くなり、音を立てて椅子から立ち上がると鞄を掴み怪物から逃げ出す人間の形相で店の出口へ向かった。

彼のとった行動の真意を考える間もなく、俺は後を追いかけていた。

捕まえることができたのは繁華街から離れた路地裏で人気はなかった。息が上がった彼の肩を掴み、「なんで逃げるの」と聞けば「逃げるだろ、普通」と言って肩を手を振り解こうとしたので彼の腕を強く掴み逃げないようにした。

彼は視線を逸らさずに俺を見た。街頭の明かりだけがある夜は元来の彼の瞳の黒を引き出しており、記憶の中の瞳よりもさらに綺麗だった。

「…お前、目が好きなんだろ。俺を殴った後、いっつも俺じゃなくて、目を見てた」

瞳に注意をとられていれば彼の口がいつの間にか動いている。

「…目じゃない。瞳孔と虹彩が好きなんだ。特に真っ黒な」

「なんだよ、それ」

相手が俺の手を振り払って逃げようとしたので、俺は彼の肩を強く押し、無理矢理座らせると、倒れた彼の上に馬乗りになり、そのまま頭を地面に強く押しつけた。

彼の瞳は以前と同じように見開かれて、長年思い続けた瞳と対峙することができた。

「やめろよ」

あの時と同じく懇願の声が聞こえ、瞳の持ち主が身体を捩って俺から逃れようとするから地面にさらに頭を強く押さえつける。空いている片手の親指で瞼を触れて開いておくように止め、瞳を見つめる。何年も焦がれた物が目の前にある。

真っ黒に漆黒の絵の具を垂らして墨汁を加えて烏の羽を使って混ぜた黒色。

自制は消えた。剥き出しになった瞳はやっぱり美しく、毎日見つめることができたらどんなに幸せだろうと思う。

「お前、やっぱり目にしか興味ないんだろ」

その声で、俺は瞳を縁取る人の姿が目に入る。瞼から手を離し、少し起き上がり瞳の周囲を見た時に自分が対峙しているのが人であり、けんちゃんであることを思い出した。

「お前のせいでおかしくなったのに、お前が殴ったから俺は…!」

瞳が濡れた。黒目から湧き立つ涙が勿体無いと思いながら、目の前の男の人生を考えた。

「殴るから、何?」

「お前の異常と一緒だよ」

「瞳が好きなの?」

「…人に殴られるのが好きなんだ」

変わった趣味だなと、危うく口から出そうになって止める。

「脳が痛みで揺れ動くのが、好きなんだ」

彼が言っていることは理解できなかった。けど、彼が俺にしてほしいことが頭に浮かんだ。

彼の瞼を掴んで、閉じないように固定させると、口を近づけて、舌を出して、涙を舐めた。

そして、拳を握りしめて彼の脳みそが揺れるように力を込めて、頬を数発殴る。

それが終わり、衝撃に備えて閉じられた彼の目が開く。欲しかったものを手に入れた青年の表情の中にある瞳はそれまでのどんな瞳よりも綺麗で、俺は正解を渡すことができたのだとわかった。

頭に、球が浮かぶ。

俺らはこの世に適応できない歪な形状だけど、二人であれば一つの美しい球体になれるよ、と彼に交渉するために俺は口を開いた。















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衣純糖度 @yurenai77

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