波に孤独を貪りて
千猫怪談
第一話
この日の湘南の空は曇っていた。空は一面ねずみ色の雲に覆われ、湿った海風が容赦なく体を吹き抜ける。波の音はざあざあと騒めくように心をかき乱し、まるで緩やかな棘のように耳の奥を刺激し続けていた。
ときおり顔にかかる水の粒が塩の香りを運んでくると同時に、ベタベタとした肌に不快さを感じた。曇ってはいるが気温は高く、湿度のためか全身から汗が吹き出している。
私は、逃げるようにして家を出て、流れ着くようにしてこの地にたどり着いた。仕事も上手く行かず、家族には見捨てられ、全てに疲れていた。絶望と言ってもよいだろう。自分を取り巻く環境、暗澹たる現在、薄ぼんやりと見え隠れする、敗者に訪れるべき未来。
振り返れば過去だけが輝かしく見えてしまう。こんなはずではなかったと、何度嘆いても何かが好転する兆しはなく、漫然と日々は過ぎていく。
遠く遠くへと逃げるうち、過去に心を通わせた数少ない友人が、海が好きだったことを思い出した。心が洗われるのだと言っていた気がする。だから、ふらりと海を求めてここに来た。それだけだった。
本音では、ひょっとしたら何か変わるのではないか、そんな淡い期待を持っていたのも事実であるが、結局、何が変わるわけでもなく、目の前は暗雲たる光景が広がっているのみで、気分は重くなるばかり。なんと馬鹿げたことをしているのだと自嘲しながらただ歩いていた。
「何が海が好き──だよ。ふざけやがって」
ひとり誰かに向かって毒づいた。
見渡す限り絶望しか転がっていないじゃないか。
騙されたような気持ちになって辟易した。
砂と砂利に足を取られないように進みながら、堤防に腰掛ける。ざあざあと波が寄せては消えていく灰色の海と同化するように、地平線を挟んでどんよりとした雲が覆い被さっている。今にも雨が降ってくるのではないかと思うほどだ。
果てしなく続く孤独の中に落とされたような感覚だった。それは今の私を表しているようだった。
ひときわ大きな波が押し寄せた。
同時に波は岩にあたり細かい粒となって、塩の香りとともに私の顔に降り注ぐ。肌についた粒はべたべたとした感触だけを残して消えていく。
気のせいだろうか。
一瞬、遠くの海、地平線の淵で水面が盛り上がり弾けた。
ちょうど、何者かが水中で空気の塊を吐き出したように、気泡がブクリと広がったのだ。しかし海岸でも見えるほど大きい気泡なんてあるはずはない。
ふう、と息を吐き、適当な堤防に腰かけた。
やはり気のせいだろうと思い、私は呆けたような表情でただ薄ぼんやりと水面を見つめ続けた。
しばらく意識を五感に集中させる。
視界の先には繰り返し押し寄せる波、耳を刺激する潮騒の音。
何も考えずにただ意識を向けていると。
ゴボリ。
また水面が弾けた。やはり見間違いではないようだ。
「見えた?」
ふいに誰かが私に話しかけた。
驚いて辺りを見やると、私の腰掛けているすぐ横に、女が座っていた。ちょうど私と同じように堤防に腰掛けるようにして。
不思議な女だった。歳の頃は妙齢の女性にも見えるし、おさげ髪のような髪型のせいでまだ年端もいかない少女のようにも見える。透き通った白い肌、細い体に白のワンピース姿。砂浜を歩いていたからなのか、靴は履いていない。
「面白いでしょう」
私が答えに窮していると、女はそう続けた。面白い、とはどういうことなのだろうか。たった今弾けた泡のことを言っているのだろう。意図は理解出来なかったが、あの気泡のことは気になったので、あれはなんですか、と尋ねた。
「なにかしらね。少なくとも私には理解できないもの」
魚が跳ねたにしては大きすぎるし、鯨やイルカだとしたら姿を見せてもよさそうなものだ。それより、このどんよりした空の下で海を見ているこの女性も不思議だった。お前も同じじゃないかと言われればその通りだけれど、見渡す限りこの海岸には私と彼女以外に人は見当たらない。私は、素直に尋ねてみることにした。
「ここで何をされているんですか?」
女の視線は水面を見つめたまま、目を細める。こめかみのあたりには皺が刻まれ、さっきまで少女のように見えた女は妙齢の女性のようにも見える。その癖、堤防から垂らした足を交互にぶらぶらと前後させながら足元の砂を蹴る仕草を見せている。まるで幼い娘が遊ぶように。
「別に何も。あなたこそこんなところで、自殺でもする気?」
突然の問いに戸惑った。しかし考えてみれば当然だ、こんな波の高い日に誰もいない海岸で、美しいとも思えない景色を前に呆けているのだ。
自殺か。それは考えたことはなかった。しかし、今の私は死んでいるのも変わらない、そう思ってはいた。失敗ばかりの人生で、家族にも見捨てられて。その延長にある選択肢としては悪くないのかもしれない。
「いやあ、私にはそんな勇気ないですよ」
長々と逡巡した挙句にそれだけを言った。しかし、突き詰めて考えればそれが全てだった。積極的に死ぬ理由がないけれど、ただ生きているというだけだ。それ以上でも以下でもない。ただ年老いて死ぬまではこのままというだけだ。
そこで初めて女は水面から視線を外し、私を見た。大きな瞳だった。端正な顔立ち、白い肌に大きな瞳。まるで造形物を見ているようだ。
対する私は中年になるに連れてたるんだ腹が張りだし、肌はくすんでいる。元々大柄な体格だから横にも広くなるにつれて威圧的な印象を与える。まるで同じ生物とは思えないような違いに気恥ずかしさを感じていると。
ざぶん、と砂浜で波打つ音が聞こえた。
私は反射的にそちらの方を見た。女の視線に耐えられなかったのだと思う。潮騒の音が私の頭の中に響く。なぜだか、私の心の中を騒めかせるような、そんな音だ。
「孤独──なのかしら?」
女が唐突な言葉を放った。何かを察したのだろうか、しかしその言葉は私の胸に突き刺さる。
ざあざあと騒めく波の音がそうさせるのだろうか、なぜだか自分が酷く無防備になっている気がする。砂浜を撫でた波は視界の奥へ引いていき、無味乾燥な濡れた砂だけを残していく。
「孤独、ですか。そうかもしれないですね」
大阪で教師をしていた私はある失敗をした。それが転落のきっかけとなり、妻は出て行った。友人には裏切られ、周りの人間は全て去っていった。あっという間に私の周りには誰もいなくなった。
逃げるように、追われるように住んでいた家を離れたものの、今さら新しい人間関係を構築するほどの気力もない。人間に、人生に絶望して、誰かの人生に触れることに臆病になっていく。
同世代の友人たちの多くは意欲的に働き、家族を築き、気の合う友人と趣味や交流を謳歌している。結局私は、その輪からはみ出してしまった落第者なのだ。一度レールを外れた者に対しては、現実は冷酷だった。孤独を受け入れ生きていくしかないのだ。
「ふうん、あなたも同じなのね」
とてもこの女が私と同じ境遇とは思えなかった。
同じですか、と言うと女は笑った。
「私じゃないわ」
誰と、だろう。
視界の奥でぶくりと水面が膨れた。
今度は今までと比較にならないほど大きかった。
例えば潜水艦が海から迫り出してくるような、巨大な何かで海が持ち上げられるような。
そうだった。この女はあれを見て面白いと言っていた。そこでもう一度あれは何なのですかと聞いた。
「そろそろね。ようく見ていて」
私は食い入るように海の淵に注意を向けた。
ゴボゴボと無数の泡が膨れては弾ける。水の中に何かがいるのは間違いないだろう。それもかなり大きいはずだ。
一滴の雨粒が私の頬を濡らした。波の雫とは違うことは明白だった。雨が降ってきたのだろう。それと同時に再び水面が膨れ上がった。
巨大な影が海の淵を支配する。それも信じられないぐらいに大きい。膨れた水面が裂け、その間から黒い影を伴うように巨大が姿を現した。まるでニョキニョキと海から一本の大木が生えだしたように、水面高く顔を覗かせたそれは、まるで土の中に産み落とされた幼虫のような、赤茶けたイモムシのようなものにも見えた。
つるりとした先端には、器官らしきものは何もない。先端から下は、蛇腹状に幾重にも亀裂が刻まれており、それが脈打つように膨れては萎みを繰り返している。
「うわぁ!」
思わず私は叫び声を上げ、仰け反りながら後ろで手をついた。大小含めても初めてみる生物だ。否、生物と言ってよいものなのだろうか、それすらも曖昧な存在であった。
海面から突き出したその生物は、まるで天へと祈りを捧げるように、うねうねとしなやかに左右に体を揺らす。艶かしくぬめりけを持った皮膚が連動するように膨張と伸縮を繰り返す。
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