第11話「命を回す小さな循環」
「キョンの日」から三ヶ月が経った秋の午後、修は自宅の庭で新しい訪問者を迎えていた。
「わなの設置方法は、キョンの通り道を見極めることから始まります」
修は真剣な表情で説明する。周囲には五人の若者たちが集まり、熱心にメモを取っている。彼らは「キョンサイクル講習会」の参加者だ。東京や近隣の都市から参加した移住希望者や、地元の若い農家たちだった。
「キョンは基本的に警戒心が強いので、人の気配が少ない場所を好みます。でも、水場の近くや、特定の植物がある場所には必ず訪れます」
修はすっかり講師の顔になっていた。半年前、自分が竹内に叱られながら学んでいたことを、今度は自分が教える立場になっている。
「質問です」
二十代後半と思われる男性が手を挙げた。東京のIT企業に勤めながら、週末は田舎暮らしを模索している若者だ。
「狩猟免許を取るのはどれくらい難しいのでしょうか?」
「筆記試験と実技試験がありますが、真面目に勉強すれば合格できます。私も都会育ちですが、猟友会の指導を受けながら取得できました」
修の答えに、参加者たちは安心した様子で頷いた。
「次に、実際のわなを見ていきましょう」
修が用意したいくつかのわなの種類と特徴を説明していく。参加者たちは興味津々の表情で、時折質問を投げかけながら学んでいった。
講習会の後半は竹内が加わり、より専門的な内容へと進んだ。
「わなの設置は技術だが、それ以上に大切なのは自然を読む目だ」
竹内の渋い声が響く。
「一年中同じ場所にわなを仕掛けるのではなく、季節や天候、キョンの繁殖期などを考慮して場所を変える。それが猟の奥義だ」
竹内の言葉に、参加者たちは畏敬の念を抱いた様子で聞き入っていた。修も改めて、竹内の豊富な経験と知恵に感銘を受けた。
講習会が終わり、参加者たちが帰った後、竹内は修に言った。
「上手くなったな。説明が分かりやすい」
「ありがとうございます。竹内さんに教わったことを、そのまま伝えているだけですが」
「いや、お前なりの言葉になっている。そこが大切だ」
竹内は珍しく優しい表情を見せた。
「『キョンの日』以降、こういう講習の依頼が増えたんだろう?」
「はい」修は頷いた。「月に一度は開催していて、毎回定員いっぱいになります」
「それは良いことだ」
竹内は遠くを見つめるように言った。
「猟の技術は本来、親から子へ、先輩から後輩へと伝えるものだ。しかし現代では、その繋がりが途絶えかけていた。お前のような『よそ者』が架け橋になるとは思わなかったよ」
修はその言葉に、心が温かくなるのを感じた。
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「キョンサイクル」と名付けられたプロジェクトは、「キョンの日」の大成功を機に、急速に発展していた。
「キョンの日」は当初の予想を大きく上回る盛況ぶりで、地元の三つのレストランは予約で満席となり、東京から視察に来たシェフたちも絶賛。龍太郎のウェブマガジンに掲載された記事は大きな反響を呼び、全国から問い合わせが殺到した。
それを受けて、修とみのり、宮川、竹内、静江らを中心とした「キョンサイクル推進協議会」が正式に発足。市も全面的に支援を表明し、持続可能な地域モデルとして計画が本格化した。
講習会はその活動の一部で、若者や移住者にキョンの捕獲から料理までを教える取り組みだった。他にも、静江を中心とした「キョン料理研究会」や、宮川監修の「キョン加工品開発プロジェクト」など、多角的な活動が広がっていた。
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「みのりさん、これ見てください」
市役所の一室で、修はタブレットを見せながら話した。
「東京のビストロ三軒とキョン肉の定期供給契約が成立しました」
「素晴らしいですね!」
みのりは目を輝かせた。彼女は今や農林課の獣害対策担当から、「キョンサイクル推進室」の室長に昇進していた。市長の強い後押しもあり、プロジェクトは市の重点施策となっていた。
「ただ、供給量の確保が課題です」修は真剣な表情で続けた。「今のペースだと、安定供給が難しい」
「その件については朗報があります」
みのりは書類を取り出した。
「県の補助金が決定しました。小規模ながらも、ジビエ処理施設の建設が可能になります」
「本当ですか!」
修は喜びを隠せなかった。
「はい。さらに、『地域おこし協力隊』として、狩猟免許を持つ若者を二名採用することも決まりました」
地域おこし協力隊は、都市部から地方に移住して地域振興活動を行う制度だ。国から給与が保障されるため、若者の移住促進に効果的だった。
「それは素晴らしいニュースです」
修は感嘆の声を上げた。プロジェクトが着実に制度的な裏付けを得て、持続可能な形になりつつあることに安堵感を覚えた。
「あと、こちらも」
みのりは別の書類を見せた。地元の高校と連携した「ジビエ食育プログラム」の企画書だ。
「高校生たちに、キョンの捕獲から調理までを体験してもらう授業です。宮川シェフに講師を依頼する予定です」
「食育...素晴らしいアイデアですね」
修は感心した。若い世代にキョンと自然との関わりを伝えることは、プロジェクトの未来を考える上で非常に重要だった。
「実は...」みのりは少し照れくさそうに言った。「この企画は市長からの提案なんです」
「市長が?」
「はい。最初は懐疑的だった市長が、今では一番の理解者になってくれています」
二人は笑顔を交わした。様々な人々の協力と理解が、プロジェクトをここまで発展させてきたのだ。
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週末、修は静江の主催する「キョン料理研究会」に参加していた。地元の公民館の調理室に、十五人ほどの参加者が集まっていた。
「今日のテーマは『キョン肉の保存食』です」
静江は元気な声で説明を始めた。
「キョンは旬がなく一年中捕獲できますが、夏場は肉質が落ちやすい。だから保存食にして活用することが大切なのよ」
講習では、キョン肉のジャーキー、燻製、味噌漬け、そして缶詰の作り方が紹介された。特に缶詰は、県の食品加工センターの協力を得て試作されたもので、商品化を視野に入れた取り組みだった。
参加者の中には、地元の主婦たちだけでなく、修と同じように移住してきた若いカップルや、近隣地域から来た飲食店経営者の姿もあった。
「すごいですね、静江さん」修は感心して言った。「最初の頃は四、五人だったのに」
「みんな興味があるのよ。特に若い人たちが積極的なのが嬉しいわ」
静江は参加者たちを見渡しながら、満足げに頷いた。
「あの頃は思いもしなかったけど、キョンが地域を繋げてくれたのね」
その言葉に、修も深く頷いた。害獣として厄介者扱いされていたキョンが、今や地域の貴重な資源であり、人々を繋ぐ架け橋になっていた。
「静江さん、感謝しています。あの日、腐りかけのキョン肉を見て笑わなかったら、ここまで来てなかったかもしれません」
静江はくすくすと笑った。
「私たちも学んでるのよ。昔の知恵を思い出しながら、新しいやり方も取り入れて。それが一番楽しいの」
研究会の後半では、参加者たちが持ち寄ったキョン料理のレシピを交換し合う時間があった。伝統的な煮込み料理から、イタリアン風、エスニック風まで、様々なアレンジが紹介され、その多様性に皆が驚いていた。
「料理って本当に自由なのね」静江が感心して言った。「同じ材料でも、こんなに違う料理になるんだから」
修も同感だった。キョン肉という素材が、多様な文化や価値観と融合し、新たな食文化を創造しつつあるのだ。
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夕方、修は宮川の店「晴屋」を訪れた。今日は毎月恒例の「キョンの日」で、レストランは予約で満席だった。
「忙しそうだね」
修がキッチンを覗くと、宮川は手際よく料理を仕上げながら振り返った。
「ああ、今日は特に。東京からのお客さんも多いんだ」
「キョン料理目当て?」
「そう。龍太郎の記事の影響は大きいよ」
宮川は誇らしげに言った。確かに、ウェブマガジンの記事がきっかけで、都会から「キョン料理」を食べに来る客が増えていた。
「それにしても、ここまで大きくなるとは思わなかったよ」
宮川は料理の仕上げをしながら続けた。
「最初はただのマイナー食材だと思っていたが、今やうちの看板メニューだ。おかげで店も繁盛している」
宮川の言葉に、修も嬉しさを感じた。キョン料理が地域経済にも貢献していることの証だった。
「あ、そうだ」宮川が思い出したように言った。「あのソーセージ、商品化が決まったよ」
「本当ですか?」
「ああ。県の食品加工センターと連携して、『千葉キョンソーセージ』として来月から販売開始だ」
これは大きな進展だった。加工品として商品化されれば、季節や捕獲量に左右されず、安定した供給が可能になる。
「パッケージデザインはみのりさんが手配してくれた。なかなかいい感じだよ」
宮川はスマホで画像を見せてくれた。洗練されたデザインのパッケージに「千葉キョンソーセージ 〜命を活かす地域の恵み〜」というキャッチコピーが添えられていた。
「素晴らしいですね」
修は感激してパッケージを見つめた。自分たちの取り組みが、こんな形で形になることに感慨深いものがあった。
「ところで、新しい提案がある」
宮川は声を少し落として言った。
「何ですか?」
「『キョンフェスティバル』をやらないか?」
「フェスティバル?」
「そう。この町でキョン料理だけを集めた食のイベントだ。地元の店だけでなく、東京からもシェフを招いて」
宮川の目は輝いていた。
「季節は春がいい。新緑の季節なら、都会からも人が来やすい。川沿いの公園を会場にして、キョン料理の屋台、料理教室、獣害対策のセミナーなどを開催する」
修は宮川のアイデアに、大きな可能性を感じた。
「それは素晴らしい発想です!みのりさんや市の人たちにも相談してみます」
「頼むよ。こういうイベントがあれば、もっと多くの人にキョン肉の魅力が伝わるはずだ」
二人はこの新しい企画について、熱心に意見を交わした。
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その夜、修は自宅で「キョンサイクル」の進捗をノートにまとめていた。もはや「失敗ノート」でも「学びのノート」でもなく、「プロジェクト記録」となっていた。
```
【キョンサイクル進捗】
1. 捕獲・処理:
- 狩猟免許保有者が増加(前年比5名増)
- 講習会参加者延べ50名超
- 県補助によるジビエ処理施設建設決定
2. 流通・加工:
- 地元レストラン5店舗で定期提供
- 東京レストラン3店と契約
- 加工品「千葉キョンソーセージ」商品化
3. 教育・普及:
- 料理研究会会員30名に
- 高校食育プログラム始動
- メディア露出増加(新聞3紙、テレビ1局、ウェブ多数)
4. 新企画:
- 「キョンフェスティバル」構想
```
ノートを眺めながら、修は感慨深い気持ちになった。半年前、自分の白菜を食い荒らしたキョンへの怒りから始まったこの物語が、今や地域全体を巻き込む大きなプロジェクトになっている。
そして何より、多くの人々との繋がりが生まれたことが、修にとって最大の収穫だった。竹内、静江、みのり、宮川...。それぞれの立場から知恵と力を出し合い、共に新しい価値を創造していく仲間ができたのだ。
修はふと、東京での生活を思い出した。数字を追い、成果を競い合う毎日。確かにそれなりの充実感はあったが、今のように多くの人と共に一つの目標に向かって進む喜びはなかった。
スマホの着信音が鳴り、画面を見るとみのりからだった。
「もしもし、修さん。今時間ありますか?」
「はい、大丈夫ですよ」
「実は『キョンフェスティバル』の件、宮川さんから聞きました。早速、市長と観光協会に相談したんです」
「もう?みのりさん、行動力ありますね」
「チャンスは逃したくなくて。それで、市長も観光協会も大賛成なんです!春の観光イベントとして公式に支援する方向で話が進んでいます」
みのりの声は弾んでいた。
「それは素晴らしいですね!」
「はい。明日、関係者で最初の企画会議を開きたいんです。修さんにもぜひ参加してほしくて」
「もちろん行きます」
修は即答した。春のフェスティバルの準備は今から始めなければならない。企画立案、出店者の募集、広報活動...やるべきことは山積みだ。
「ありがとうございます。では明日、市役所の会議室で10時からでお願いします」
電話を切った後、修は窓の外に広がる星空を見上げた。東京では見られなかった満天の星が、清々しい秋の夜空を彩っていた。
「キョンサイクル」。その名の通り、小さな循環が生まれつつあることを実感していた。キョンという命を無駄にせず、地域の資源として活かし、その過程で人々が繋がり、新たな価値が生まれる。そして、その活動自体が持続可能な形で循環していく。
まさに「命を回す小さな循環」が、この町に根付き始めていた。
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翌朝、修は市役所に向かう途中、畑に立ち寄った。今や畑仕事と「キョンサイクル」の活動を両立させる日々だったが、どちらも修にとって大切な営みだった。
畑には新たに植えた白菜の苗が元気に育っていた。初めて植えた時のような不安はなく、今では経験に基づいた確かな手応えがある。
ふと、畑の端に獣の足跡を見つけた。小さな蹄の跡。間違いなくキョンだ。
「また来たのか...」
修はため息をつきながらも、不思議と怒りは湧かなかった。むしろ、奇妙な親しみさえ感じた。
「相変わらず白菜が好きなんだな」
修は笑いながら、防護ネットの様子を確認した。今では適切な対策も分かっている。キョンと人間が、互いの領域を尊重しながら共存する道筋が見えていた。
キョンの足跡を見つめながら、修は思った。
「ありがとう、キョン。お前がいなければ、今の僕はなかった」
そう呟くと、修は市役所への道を急いだ。今日から始まる「キョンフェスティバル」の企画会議に、新しいアイデアを持っていくつもりだった。
命を回す小さな循環。それは自然と人間の新しい関係の始まりであり、修の新しい人生の物語でもあった。
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