第22話:二つの世界の味わい(後編)

「見つかったぞ」


 俺は不動産屋から出ながら、手に持った書類を振った。フリーデが笑顔で頷く。家探しの一日は、思いのほか順調だった。


「あの一軒家、いい感じだったわね。駅からも『たぬき屋』からも近いし」


「家賃も手頃だった。『定年』勇者の年金でもなんとかなりそうだ」


 俺たちが選んだのは、小さな庭付きの一軒家。築年数はそれなりに経っているが、手入れが行き届いていて、居心地の良さを感じられる家だった。何より、フリーデが「テラルドの香草を植えられる」と目を輝かせた庭があることが決め手になった。


「来週から住めるらしい。しばらくはテラルドと行ったり来たりになるけど」


「ええ、二つの家を持つのね。テラルドの丘の上の家と、この現代の一軒家」


 不思議な気分だ。「定年」になった時、テラルドでの全てを失ったと思っていた。それが今や、テラルドと現代、二つの世界で生活できるようになった。


「さて、約束の時間だ。『たぬき屋』に戻ろう」


 夕暮れが近づいていた。千夏が「夕方までには戻ってきて」と言っていたことを思い出す。新しい試作品が出来ているはずだ。


「たぬき屋」に近づくと、いつもとは少し違う香りが漂ってきた。テラルドの「赤山椒」の香りに、日本の出汁の香りが混ざり合っている。


 暖簾をくぐると、カウンターにはすでに田村と椎名が座っていた。二人の前には小皿が何枚も並び、熱心に料理を味わい、写真を撮り、メモを取っている。


「お、戻ってきたか」


 田村が振り返って声をかけた。「すごいんですよ、千夏さんとフリーデさんの共同開発が。次から次へと新しい料理が生まれています」


 椎名も嬉しそうに頷いた。


「一つ一つの料理に物語があるんです。テラルドと日本の出会いを感じる料理」


 千夏とフリーデは厨房で黙々と作業を続けていた。見ると、調理台の上にはテラルドと日本、両方の食材と調味料が整然と並んでいる。


「どうだった? 家は見つかった?」


 フリーデが手を止めて尋ねてきた。


「ああ、駅から10分の一軒家だ。庭付きで、お前の希望通りだよ」


 千夏がわずかに顔を上げた。


「おめでとうございます」


 たったそれだけの言葉だが、彼女なりの祝福が込められているのがわかる。


「それじゃ、どんな料理ができたんだ?」


 フリーデが嬉しそうに皿を運んできた。


「まずはこれ。『テラルド風味噌汁』よ」


 見た目は普通の味噌汁だが、香りがいつもと違う。「夜の葉」の香りが微かに混ざり、複雑な風味を醸し出している。


 一口すすると、普通の味噌汁の旨味に加え、テラルドの「夜の葉」が不思議な奥行きを与えていた。どこか懐かしいようで、でも新しい。


「うめぇ! これ、最高だな。いつもの味噌汁とはひと味違う」


 次に千夏が持ってきたのは、「テラルド風照り焼き」。鶏肉の照り焼きに「赤山椒」のソースが添えられていた。


 一口かじると、甘辛い照り焼きの味わいに、「赤山椒」の刺激と甘みが絶妙に絡み合う。舌の上で二つの世界の味が踊っているようだ。


「これもすごい! 千夏の照り焼きは元々最高だったけど、この『赤山椒』との組み合わせは驚きだな」


 千夏はわずかに頬を染めた。


「フリーデさんのアイデアです。『赤山椒』の使い方を教えてもらいました」


 フリーデは謙虚に首を振った。


「いいえ、千夏さんの照り焼きの技術があってこそよ。その甘辛いタレが『赤山椒』を活かすの」


 二人の料理人は、互いの技術を称え合っていた。最初は言葉少なく、警戒心すら感じられた二人の関係が、料理を通じて急速に深まっている。


「明日のメイリスとの共同調理が楽しみですね」椎名が言った。「三人の料理人が集まるなんて」


 千夏は静かに頷いた。


「いつもとは違う日になりそうです」


「たぬき屋」の歴史の中でも、特別な日になることは間違いなさそうだ。


「メイリスはどんな人なんだ?」田村が興味深そうに尋ねた。


 フリーデは少し考え、そして微笑んだ。


「情熱的でね、好奇心旺盛な人よ。テラルドでも珍しい、異文化に興味を持つ料理人。『交易都市クロスロード』にある彼女の店『四風館』は、テラルド各地の料理人が集まる場所なの」


「千夏さんとは気が合いそうですね」椎名が言った。「どちらも料理に真摯な方々だし」


 千夏は何も言わなかったが、目にはわずかな期待の輝きが見えた。


 その夜は、テラルドと日本の味が融合した料理の数々を味わいながら、明日の交流会について語り合った。「たぬき屋」の新しい可能性に、皆が胸を膨らませていた。


 ***


 翌日の朝、「たぬき屋」の準備は早くから始まっていた。千夏は食材を丁寧に洗い、切り、煮出し、準備。フリーデは「星の橋」を通って、メイリスを迎えに行った。


 開店時間よりも少し早く、「たぬき屋」の暖簾が揺れた。


「お邪魔します」


 聞き慣れない訛りのある日本語。フリーデと共に現れたのは、豊かな赤褐色の髪を持つ女性だった。精悍な顔立ちながらも、目は好奇心で輝いている。彼女が「メイリス」だった。


「ようこそ、現代日本へ」


 俺が挨拶すると、メイリスは興奮した様子で周囲を見回した。


「信じられない……これが異世界……でも何か懐かしさも感じる」


 彼女の日本語は少し不自然だったが、意味は十分通じた。フリーデが説明する。


「メイリスは言語の才能があるの。簡単な日本語なら、私がテラルドで少し教えただけで覚えてしまったわ」


「すごい適応力ですね」田村は感心した様子で言った。「異世界に来て、こんなに落ち着いているなんて」


 メイリスは笑顔で答えた。


「料理人は適応が命。新しい食材、新しい文化、すべて受け入れる心がないと、料理は進化しない」


 その言葉に、千夏が静かに頷いた。


「同感です」


 たった二言だったが、そこには料理人としての共感が込められていた。


 メイリスは持ってきた大きな籠を開け、中から様々な食材や調味料を取り出し始めた。


「テラルドの宝物を持ってきた。フリーデから聞いた、『融合料理』のために」


 テーブルの上に並べられたのは、日本では見たことのない鮮やかな色彩の野菜や香辛料、乾燥した肉、そして不思議な形の穀物など。しかし、よく見れば日本の食材に似ているものもある。


 千夏は一つ一つを手に取り、香りを嗅ぎ、触感を確かめていた。そしてメイリスの説明に熱心に耳を傾けていた。


「この『青海塩』は、テラルド北部の『青い海』から取れる特殊な塩。魚料理に使うと、旨味が増す」


「これは南部の『太陽の実』。甘くて酸っぱい。漬け汁にすると肉が柔らかくなる」


「これは西部の『風乾し肉』。細かく刻んで料理に加えると、深い風味が出る」


 千夏は無言で頷きながら、すでにどう使うか考えている様子だった。


「これは千夏さんの厨房ね」フリーデが言った。「日本の食材と調理器具を紹介してあげましょう」


 三人の料理人が厨房に向かう間、俺たちは「たぬき屋」のカウンターに座り、この文化交流を見守ることにした。


「まるで歴史的瞬間を目撃しているようですね」椎名が小声で言った。「二つの世界の料理の融合が、ここで生まれようとしている」


「本当に貴重な機会です」田村はカメラを準備しながら言った。「『証人』として、しっかり記録しておかないと」


 厨房からは、三人の料理人の会話と、調理の音が聞こえてくる。フリーデが通訳をしながら、千夏とメイリスは料理について熱心に語り合っていた。言葉の壁はあっても、料理という共通言語があれば、心は通じ合えるようだ。


 やがて、最初の一皿が出てきた。これは千夏が作った「テラルドの青海塩を使った刺身」。マグロの赤身が「青海塩」でさらに鮮やかに輝いている。


「うめぇ!」


 一口食べると、マグロの旨味がより引き立ち、「青海塩」の微かな甘みと相まって、これまでにない味わいだった。


「信じられない……」メイリスが感嘆の声を上げた。「生の魚をそのまま食べるなんて、テラルドでは考えられない。でも、この新鮮さ、この塩との相性……素晴らしい!」


 次に出てきたのは、メイリスが作った「和風アレンジの四風スープ」。テラルドの四地域の味が一つになったスープに、日本の出汁の要素を加えたものだった。


 複雑な香りに満ちたスープは、一口飲むと様々な風味が口の中で広がった。テラルドの風味に、日本の出汁の旨味が見事に溶け込んでいる。


「これも最高だ!」


 メイリスは嬉しそうに微笑んだ。


「日本の『出汁』というものが素晴らしい。テラルドにはない引き方で、旨味を抽出する。新しい発見だ」


 そして最後に、フリーデと千夏が共同で作った「融合鍋」が登場した。日本の鍋料理のスタイルで、テラルドと日本の食材が一緒に煮込まれている。


「これが私たち三人の集大成よ」フリーデが説明した。「基本は千夏さんの出汁に、テラルドの『赤山椒』と『夜の葉』、メイリスの『太陽の実』の酸味が加わっています。具材も両世界のものを合わせました」


 湯気が立ち上る鍋からは、複雑で豊かな香りが漂ってくる。一口すすると、様々な味わいが層になって現れた。出汁の旨味、野菜の甘み、「赤山椒」の辛さ、「太陽の実」の酸味。そのすべてが調和して、新しい味を形作っていた。


「うめぇ! これこそ二つの世界の出会いだな!」


 メイリスと千夏も満足そうに頷いた。二人の料理人は言葉は少なくとも、料理を通じて深く理解し合えたようだった。


 田村はカメラを置き、熱心に料理を味わいながら言った。


「この瞬間、この味を記録しておきたい。『たぬき屋』で生まれた二つの世界の融合料理……歴史的な出来事です」


「証人」としての彼の目は輝いていた。


 夕方になり、メイリスが「たぬき屋」での料理交流を終えて帰る時間が近づいてきた。彼女は千夏と向き合い、深々と頭を下げた。


「素晴らしい経験をありがとう。日本の料理の心、学ばせてもらった」


 千夏も珍しく、丁寧にお辞儀を返した。


「こちらこそ。テラルドの料理、もっと知りたいです」


 メイリスは嬉しそうに頷いた。


「また来る。もっと食材持ってくる。次は『星の祭り』の特別料理教えたい」


 フリーデが説明した。


「『星の祭り』はテラルドの重要な祭りよ。二つの月が重なる日に行われる。その時の特別料理があるの」


「ぜひ教えてください」千夏の声には珍しく熱が籠もっていた。「次回はこちらの季節の料理もお教えします」


 メイリスはフリーデに何か言った。フリーデが微笑んで通訳する。


「千夏さんのような料理人に出会えて本当に嬉しい。言葉は少なくても、包丁の動きや火加減の調整、素材への敬意に、真の料理人の魂を感じたと言っています」


 千夏は微かに頬を染めた。


「同感です。技術と情熱を持ったメイリスさんのような料理人と働けて光栄でした」


 フリーデがメイリスに通訳すると、彼女は満面の笑顔を見せた。言葉の壁を超えて、二人の料理人は心を通わせたのだ。


「そろそろ戻らないと」フリーデが言った。「メイリスを『星の橋』まで送っていくわ」


 メイリスは最後に、小さな木箱を千夏に手渡した。


「贈り物。テラルドの調味料。千夏の料理に、新しい味を」


 千夏は静かに箱を受け取り、大切そうに胸に抱えた。そして小さな紙袋をメイリスに差し出した。


「こちらも。日本の七味唐辛子と柚子胡椒です。テラルドの料理に」


 二人の料理人は、最後に互いに敬意を示すように頭を下げた。


 俺たちはメイリスを「星の橋」まで見送ることにした。途中、メイリスは現代の街の様子に驚きと興味を示しながらも、料理人の観察眼で様々なものを見ていた。


「テラルドと違うけど、でも人の温かさは同じ」


 星見神社に着き、「星の橋」の入り口で別れる時、メイリスはそう言った。


「また来てくれよ」俺は言った。「次はもっと色々な現代料理を食べさせたい」


「もちろん。これからも二つの世界の味を繋ぐ架け橋になりたい」


 彼女はそう言って、フリーデと共に「星の橋」へと歩いていった。


 ***


「たぬき屋」に戻ると、千夏はすでにメイリスの贈り物の調味料を整理していた。小さなラベルを貼り、使い方をメモしている。


「メイリスさんとの料理、どうだった?」


 俺が尋ねると、千夏は顔を上げた。彼女の表情は、いつもより少し柔らかく見えた。


「刺激的でした。テラルドの料理技術は、日本とは違う発想で面白い。特に火の使い方や香辛料の組み合わせ方は勉強になりました」


 珍しく長い言葉だ。本当に心を動かされたのだろう。


「『たぬき屋』のメニューに、新しい料理が増えそうだな」


「はい。『融合鍋』は定番にしたいです。季節によって具材を変えて」


「楽しみだな。テラルドと日本の味が融合した料理……『たぬき屋』でしか味わえないものになりそうだ」


 千夏はわずかに頷き、そして静かに言った。


「父が『たぬき屋』を作った時、こんな日が来るとは思っていなかったでしょうね。異世界の料理人と料理を作る日が」


 田野倉が「定年」勇者のために作った「たぬき屋」。その役割が、今や広がりつつあった。単なる「定年」勇者の集いの場ではなく、二つの世界を繋ぐ文化交流の拠点として。


「でも父は喜ぶと思います。『客の話は全部本当』という理念が、こんな形で実現するなら」


 千夏の静かな言葉には、誇りが込められていた。


「ああ、きっとな」


 フリーデが戻ってきて、三人で「たぬき屋」の夜の準備を始めた。


 明日からは、新しいメニューが加わる「たぬき屋」。テラルドと現代、二つの世界の味が融合した新しい料理。そして、新しい家での生活の始まり。


「定年」後の人生は、思いもよらない冒険に満ちていた。


 ***


 つづく

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