第13話:エルフの血の目覚め、世界を繋ぐ者の使命(前編)

 椎名美鈴は、出版社の自分のデスクでじっと手元の資料を見つめていた。締め切りに追われる原稿の山、企画書、会議の資料。しかし、彼女の心はそこになかった。


 二日前の「境界の夜」の出来事が、まだ生々しく脳裏に焼き付いていた。青く輝く水晶。光の中に現れたフリーデの姿。そして何より、彼女自身が見た「テラルドの風景」。見たことのないはずの世界が、なぜあんなにも鮮明に、そして懐かしく感じられたのか。


「椎名さん、企画会議の時間ですよ」


 同僚の声に、彼女は我に返った。


「ありがとう。すぐ行くわ」


 彼女は立ち上がり、資料をまとめた。しかし、鞄から小さな紙が落ちた。紫色の名刺だ。「紫眼の魔女」リーゼルの占い店の連絡先。


(今日、行ってみようかしら)


 勇者に言われた通り、リーゼルを訪ねるべきだろう。自分の中にある「特別な感性」の謎を解き明かすために。


 会議室に向かいながら、椎名は自分の耳を無意識に触った。少し尖っていると言われるその耳。子供の頃から「エルフみたい」とからかわれた特徴。まさか本当にエルフの血が……。


 そんなはずはない。しかし、あの夜見た光景、感じた感覚は確かに現実のものだった。


 会議を終え、編集部に戻ると、上司の声がかかった。


「椎名さん、霧嶋先生の新作、どうなった?」


 彼女は苦笑いしながら応えた。


「短編集の形で進めています。先生も納得してくれて、すでに三編書き上げました」


「そうか、よくやったな。あの頑固者が折れたとはな」


 上司は驚いた様子で言った。


「先生のポテンシャルを活かせる方向で提案したんです。流れに逆らうのではなく、流れを活かす形で」


 その言葉を口にして、椎名は少し驚いた。勇者から聞いた「流れに身を任せる」という言葉が、自然と出てきたのだ。


 午後の仕事を終え、椎名は新宿へと向かった。リーゼルの占い店「紫眼の魔女」を訪ねるためだ。地下鉄に乗り、窓に映る自分の顔を見つめながら、彼女は考えを巡らせた。


 これまでの人生で、彼女はいくつか説明のつかない体験をしてきた。子供の頃から見続けた奇妙な夢。見たこともない風景、聞いたこともない言葉。そして何より、他人には見えないものを時々感じる不思議な感覚。


 彼女はそれを「編集者としての直感」と思い込んできた。原稿の可能性を見抜く特別な感性。しかし、それがもっと深い意味を持つものだとしたら?


 新宿の雑踏を抜け、リーゼルの店がある路地に入った。紫色のネオンサインが、夕暮れの中でぼんやりと光っていた。


 ドアを開けると、かすかな香りが鼻をくすぐる。店内は薄暗く、水晶球や不思議な装飾品が置かれていた。


「よく来たわね、椎名さん」


 リーゼルの声が聞こえた。彼女はテーブルに座り、紫色の瞳で椎名を見つめていた。


「こんにちは、リーゼルさん」


 椎名は少し緊張した声で挨拶した。


「座って。お茶を入れるわ」


 リーゼルはゆっくりと立ち上がり、奥から茶器を持ってきた。その所作はどこか異世界の気品を感じさせた。


「勇者さんから聞いたと思うけど……」


 椎名が言いかけると、リーゼルは微笑んで頷いた。


「ええ。『境界の夜』に何が起きたか、聞いたわ。あなたがテラルドの風景を見たことも」


 椎名は少し驚いた表情になった。


「勇者さんから聞いたんですか?」


「いいえ。私自身で感じたのよ。あの夜、大きな波動が発生したことを」


 リーゼルはカップに青い色の茶を注いだ。不思議な香りがする。


「さあ、これを飲んで。あなたの『特別な感性』を目覚めさせる助けになるわ」


 椎名は少し躊躇したが、カップを受け取り一口飲んだ。すると、頭の中に不思議な感覚が広がった。まるで霧が晴れていくような、何かが目覚めていくような感覚。


「これは……」


「テラルドの『記憶の茶』よ。潜在的な記憶を呼び覚ます効果がある」


 椎名はもう一口飲んだ。すると、鮮明な映像が頭の中に浮かんできた。緑の森、銀色の塔、そして美しい尖った耳を持つ人々。エルフたちの姿。


「私、これを見たことがある……」


 彼女は驚いて目を見開いた。


「子供の頃から、夢で見ていた光景です」


 リーゼルはゆっくりと頷いた。


「それは夢ではなく、記憶の断片よ。あなたの血に眠る記憶」


「血に眠る……何ですか、それは?」


 リーゼルは水晶球をテーブルに置き、両手を上に置いた。球の中に光が宿り、映像が浮かび上がった。


「あなたの祖先の記憶よ。17代前、テラルドからこの世界に来た人物の」


 椎名は息を呑んだ。


「私の祖先が……テラルドから? どういうことですか?」


「テラルドと現代の間には、『定年』勇者以外にも、まれに行き来できる機会があったの。特に『境界の夜』のような、世界の境目が薄くなる時に」


 水晶球の中には、古い時代の日本と思われる風景が映っていた。そこに、一人の女性が立っている。耳が尖り、長い銀色の髪を持つ美しい女性。


「彼女があなたの祖先。星見(ほしみ)と名乗っていたわ。テラルドでは『星の見守り人』と呼ばれたエルフの女性」


 椎名は目が離せなかった。水晶球の中の女性は確かに自分に似ていた。特にその耳と、凛とした眼差し。


「彼女は江戸時代初期、『境界の夜』にこの世界に迷い込んだの。そして日本人の男性と結ばれ、子孫を残した」


 リーゼルの説明に、椎名は自分の両手を見つめた。自分の中に本当にエルフの血が流れているのか。そんな非現実的なことが、現実なのか。


「でも、どうしてそんなことが……」


「テラルドのエルフは非常に寿命が長く、その血は何世代経ても完全には薄まらないわ。特に『特別な感性』は、代々受け継がれてきた」


 水晶球の映像が変わり、星見の子孫たちの姿が映し出された。どの世代も、僅かながら尖った耳を持ち、特別な直感力を備えていたように見える。


「あなたの『特別な感性』は、エルフの血に由来するもの。物語の本質を見抜く力、真実を感じ取る直感。それらは全て、星見から受け継いだエルフの能力よ」


 椎名は茶を飲み干した。頭の中に次々と映像が浮かんでくる。子供の頃見た謎の夢。異言語を理解できた不思議な経験。そして編集者として、作家の意図を鋭く察知できる能力。全てが繋がっていった。


「それでは、あの夜見たテラルドの風景は……」


「あなたの血が反応したのよ。『時の水晶』のかけらと『境界の夜』の力が、あなたのエルフの血を刺激した。だからテラルドが見えたの」


 リーゼルの説明に、椎名はゆっくりと頷いた。不思議なことに、この突飛な話が真実に思えた。何か深い部分で、自分自身もそれを知っていたかのように。


「でも、なぜ今になって明らかになったんですか?」


「『時の水晶』の変化よ。テラルドと現代の『均衡』が変わりつつある。勇者が魔王と交わした約束が、新たな可能性を開きつつあるの」


 リーゼルは水晶球から手を離し、椎名の目をじっと見つめた。


「あなたにはエルフの預言があるわ」


「預言?」


「『耳と目の間に宿るは精霊の血。知らずして世界を繋ぐ者』。これはテラルドの古い預言の一部」


 椎名は思わず自分の耳に触れた。


「世界を繋ぐ者……それが私?」


「その可能性があるわ。あなたがなぜ『たぬき屋』に引き寄せられたのか、なぜ勇者やリーゼルと出会ったのか。それには意味があったの」


 リーゼルは引き出しから一つの小箱を取り出した。開けると、中には小さな白い石があった。


「これは『月の涙』。テラルドのエルフが持つ石。あなたに与えるわ」


 椎名は恐る恐る石を手に取った。すると、石が淡く光り始めた。


「反応している……」


「ええ。あなたのエルフの血に反応しているのよ。もはや疑う余地はないわ」


 椎名は石を握りしめた。心に静かな確信が生まれていた。これが自分の一部であり、自分のルーツなのだという感覚。


「でも、『世界を繋ぐ者』とは具体的にどういう意味なんですか?」


 リーゼルは少し考える様子を見せた。


「勇者が魔王と交わした約束によって、テラルドと現代の関係が変わりつつある。『時の水晶』のヒビが増え、世界間の境界が薄くなっている。その中で、両方の世界に繋がりを持つあなたの存在が重要になるのよ」


「私に何ができるんでしょう?」


「それはまだ完全には見えないわ。でも、『たぬき屋』に集まる者たちとともに、新しい道を切り開く役割があると思う」


 椎名は「月の涙」を見つめながら、沈黙した。この小さな石が、自分のルーツと使命を象徴しているのだと思うと、感慨深かった。


「リーゼルさん、私の家系について、もっと知りたいです」


 リーゼルは静かに微笑んだ。


「あなたの家に古いものはない? 代々伝わる品とか」


 椎名は考え込んだ。


「祖母の形見の小さな箱があります。中に古い髪飾りが入っています。母からもらったのですが、開け方が分からなくて……」


「それを持ってきて。きっと手がかりがあるわ」


 リーゼルはもう一杯茶を注いだ。


「あなたのエルフの血が目覚め始めている。これからは、より鮮明にテラルドを感じられるようになるでしょう」


 椎名は茶を飲みながら、自分の中の変化を感じていた。エルフの血がさらに目覚め、感覚が鋭敏になっている。周囲の空気の動き、光の揺らぎ、他の人々の感情の波動まで感じ取れるようだった。


 ***


 椎名はリーゼルの店を後にし、夕暮れの街を「たぬき屋」への道を歩いていた。見慣れた風景が、少し違って見える気がした。より鮮明に、より深く、世界を感じられるようになっていた。


 彼女は「月の涙」を握りしめながら、「たぬき屋」への道を急いだ。


 「たぬき屋」の赤い提灯が、夕闇の中で優しく灯っていた。椎名が暖簾をくぐると、千夏の静かな声が響いた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターには、勇者と田村の姿があった。二人は何やら話し込んでいるようだった。


「あ、椎名さん!」


 田村が振り返り、明るい声で挨拶した。勇者も顔を上げ、微笑んだ。


「おう、椎名! 来たな」


 椎名はカウンターに座り、深呼吸をした。今夜、自分のことを話す。エルフの血を引く「世界を繋ぐ者」としての真実を。


「実は、今日リーゼルさんのところに行ってきたんです」


 椎名の言葉に、勇者の表情が引き締まった。


「そうか。何か分かったのか?」


 椎名はゆっくりと頷き、ポケットから「月の涙」を取り出した。白い石が、店内の灯りに反応して淡く輝いている。


「私は……エルフの血を引いているそうです」


 田村と勇者の目が見開かれた。千夏も手を止め、こちらを見ていた。


「エルフの血?」


「はい。17代前の祖先が、テラルドから来たエルフの女性だったんです」


 椎名は淡々と、リーゼルから聞いた話を伝えた。星見という名のエルフ。「境界の夜」に迷い込んだ異世界の女性。そして代々受け継がれてきた「特別な感性」のこと。


 勇者はじっと聞いていた。その表情からは、既に何かを知っていたことが窺えた。


「そうか……やはりな」


「勇者さんは気づいていたんですか?」


「いや、確信はなかった。だが、お前の耳の形や、特別な直感力を見て、エルフに似ていると思っていた」


 田村は驚きの声を上げた。


「信じられない! 椎名さんが異世界の血を引いているなんて!」


 椎名は微笑んだ。


「私自身も信じられないけど、なぜか納得してしまうんです。子供の頃からの不思議な夢や感覚。全て説明がつく気がして」


 勇者は椎名が持つ「月の涙」をじっと見つめた。


「それはテラルドのエルフの石だな。見覚えがある」


「リーゼルさんがくれました。エルフの血の証として」


 椎名は石を置き、千夏に向かって言った。


「いつものビールをお願いします」


 千夏は頷き、ビールを注ぎながら言った。


「あなたにはエルフの気品がありますね。初めて会った時から感じていました」


 椎名は少し照れたように微笑んだ。


「私は『世界を繋ぐ者』なんだそうです。何か重要な役割があるみたいで」


 勇者はじっと椎名を見つめた。


「『世界を繋ぐ者』か。テラルドの預言にあった言葉だな」


「ええ。『耳と目の間に宿るは精霊の血。知らずして世界を繋ぐ者』です」


 千夏は厨房から戻り、おつまみを置いた。そして、何か思いついたように言った。


「父が帰ってきています。話を聞いたら、すぐに来ると」


「田野倉さんが?」


 椎名が驚いたように言うと、店の奥から足音が聞こえた。田野倉忠明が姿を現した。


「椎名さん、エルフの真実を知ったようですね」


 田野倉は穏やかな笑顔で近づいてきた。


「はい。リーゼルさんに教えてもらいました」


「私も感じていましたよ。あなたが初めて『たぬき屋』に来た時から。あなたの中にエルフの光が宿っていることを」


 田野倉はカウンターに座り、椎名の持つ「月の涙」を見つめた。


「その石は『月の涙』ですね。テラルドでは貴重な宝石。エルフの力を引き出す効果があると言われています」


 椎名は「月の涙」を見つめながら尋ねた。


「田野倉さん、私の『世界を繋ぐ者』としての役割って、具体的にどういうものなんでしょう?」


 田野倉は熱燗を一口飲み、少し考えてから答えた。


「あなたはテラルドと現代、両方の世界に繋がりを持つ存在です。『時の水晶』が変化し、世界間の境界が薄くなる中で、その繋がりは非常に重要なものになるでしょう」


 勇者が身を乗り出した。


「それはフリーデとの再会にも関わってくるのか?」


 田野倉はゆっくりと頷いた。


「可能性はあります。『世界を繋ぐ者』の力と、あなたの『時の水晶』のかけら、そして私たちの知恵が合わさることで、新たな道が開けるかもしれません」


 椎名の胸が高鳴った。自分の存在が、勇者とフリーデの再会に繋がるかもしれないという可能性。そして、二つの世界の「均衡」に関わる重要な役割。


「でも、私に何ができるんでしょう?」


 田野倉は「月の涙」を指さした。


「まずは、あなたのエルフの力を目覚めさせることです。その石は助けになるでしょう。そして、あなたの家に伝わる品も」


 椎名は祖母の形見の箱のことを思い出した。


「明日、母の家に行って、箱を持ってきます」


 この時、千夏が厨房から新しい料理を運んできた。


「こちらが今夜のおすすめです。『大地の煮込み』」


 テーブルに置かれたのは、黒い土鍋に入った煮込み料理だった。ごろごろと大きく切られた牛すじ肉と、里芋、人参、ごぼう、蓮根などの根菜が、深い色の出汁でじっくりと煮込まれている。香りは八方出汁と山椒、それに赤ワインのような深みのある風味が漂う。四天王シリーズの四品目、「土の四天王」をイメージした料理だ。


「『大地の煮込み』……」


 勇者は香りを嗅ぎ、懐かしそうな表情になった。


「まるでアースバロンの領地の料理だな」


 田野倉も頷いた。


「私の時代では『岩神』と呼ばれていましたが、その通りです。大地の力を象徴する料理です。この煮込みは根菜の旨みとじっくり炊いた牛すじの柔らかさが命なんですよ」


 椎名は一口食べてみた。すると、今までにない深い味わいが口いっぱいに広がった。根菜の甘みと肉の旨味が絶妙に調和し、どこか大地の豊かさを感じさせる。


「美味しい……そして、なぜか懐かしい」


 彼女の言葉に、勇者と田野倉は意味深な視線を交わした。


「それもエルフの血のせいかもしれませんね」


 田野倉が静かに言った。


「あなたの中には、テラルドの記憶が眠っている。それが少しずつ目覚めてきているのでしょう」


 椎名は「大地の煮込み」をもう一口食べた。味わううちに、見たこともない風景が頭に浮かんできた。広大な大地、岩山、そして大きな樹の下に集うエルフたちの姿。


「見えます……テラルドの景色が」


 彼女の声は少し震えていた。


「食べると、より鮮明に見えるんです。エルフたちの村、大きな銀の樹……」


 勇者は驚いた表情で彼女を見つめた。


「それは『銀樹の谷』だ。テラルドでも最も神聖なエルフの聖地」


 椎名は目を閉じ、その景色に浸った。自分の血に眠る記憶が蘇るような感覚。祖先の星見が見ていた景色。それは不思議と、彼女自身の一部のように感じられた。


「こんなことが本当にあるなんて……」


 田村が感嘆の声を上げた。


「椎名さんが『世界を繋ぐ者』……僕たちは本当に特別なことの一部なんですね」


 椎名は「月の涙」を握りしめながら、「大地の煮込み」を味わい続けた。この料理が、彼女のエルフの血をさらに目覚めさせているようだった。


「これから私は何をすればいいんでしょうか?」


 彼女が尋ねると、田野倉は熱燗を一口飲んで答えた。


「まずは祖母の形見の箱を持ってきてください。そして、エルフの力を受け入れ、磨いていくのです」


 勇者も頷いた。


「『定年』の真相に近づくには、お前の力が必要になるかもしれない」


 椎名は深く頷いた。自分の中のエルフの血。「世界を繋ぐ者」としての使命。それらを受け入れ、前進する決意が固まっていった。


 ***


 つづく

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