第11話:神風の勇者の物語、夏の終わりに明かされる時の秘密(後編)

「それで、四風魔の中で一番強かったのは誰ですか?」


 田村が食い入るように聞いた。俺たちの前には、追加の「神風の一品」と共に、新しい料理が並んでいた。千夏が「風神の天ぷら」と名づけた、軽やかな見た目の天ぷらだ。四天王シリーズの三品目として登場した一品は、その盛り付けも風を感じさせる繊細さがあった。


 大きな木の皿の上に、薄く削いだ大根の「風」が渦を巻くように敷かれ、その上に様々な天ぷらが風に舞うように配置されている。海老や淡白な白身魚、それに季節の野菜が、ひとつずつ異なる角度で置かれ、まるで風に吹かれて舞い上がるように見える。


「一番の強敵は北風のボレアスでしたね」


 田野倉は熱燗を一口飲んで答えた。


「彼の『絶対零度の風』は、触れただけで凍りつく恐ろしい力でした。私たちはテラルド北方の『永久氷原』で彼と対峙しましたが、あの寒さは今でも忘れられません」


「アイスクイーンを思わせるな」


 俺は思わず言った。田野倉は頷いた。


「そうですか。時代が変わっても、似たような敵は現れるものですね」


 田野倉は風神の天ぷらを一つ取った。海老の天ぷらだ。一口噛むと、パリッとした食感と共に、風のような軽やかさが口に広がる。


「これは素晴らしい。まるで風の精霊の舞いのような味わいだ」


 椎名も一つ天ぷらを口に入れ、感嘆の声を上げた。


「本当に空気のように軽いのに、しっかりとした旨味がある。千夏さん、衣に何か特別なことをしているんですか?」


 千夏はわずかに微笑んだ。


「父から教わった秘伝です。衣に山椒の粉と神秘草の粉を少量混ぜています」


「神秘草?」


 田村が不思議そうに尋ねた。


「テラルドの風の谷に生える特別な草です」


 田野倉が説明を加えた。


「風の力を宿すと言われる霊草で、風術の秘薬にも使われていました。まさか千夏がそのレシピまで覚えているとは」


 千夏は静かに頷いた。


「父は細かいところまで教えてくれました。『風神の天ぷら』は、四風魔の中で唯一味方になった西風のゼフィロスをイメージしていると」


「ええ、その通りです」


 田野倉は懐かしそうに微笑んだ。


「ゼフィロスは四風魔の中で唯一、人間の心を理解していました。風の民たちが彼を『風神』と崇め、共存していたのです。彼からは多くのことを学びました」


 椎名は興味深そうに聞いていた。


「では、『風神の天ぷら』は敵ではなく、味方をイメージしているんですね」


「そうです。彼が教えてくれた『風を操る者の心得』が、後の嵐神との決戦で大きな助けになりました」


 田野倉は天ぷらをもう一つ手に取った。今度は夏野菜の天ぷらだ。茄子、獅子唐、さつまいもと季節の野菜が絶妙な衣で包まれている。


「本当に軽やかな食感ですね」


 田村が言った。


「衣がサクッとしているのに油っぽくなく、中の具材の甘みが引き立っています」


 田野倉はうなずいた。


「千夏の腕は確かですね。これは本物の『風神の天ぷら』の味です。風の谷では、祭りの日に特別な天ぷらを作っていました。衣を薄く、そして具材の命を生かす調理法です」


 千夏が静かに説明を加えた。


「衣には日本酒と冷水を使い、サクッと軽い食感を出しています。そして揚げる温度を一般の天ぷらより少し高めにして、短時間で仕上げるのがポイントです」


「ゼフィロスの教えを思い出すな」


 田野倉は天ぷらを味わいながら言った。


「『風に抗うな、風に乗れ』という教えです」


「風に乗る……」


 俺は思わず頷いた。リーゼルも似たようなことを言っていた。「流れに身を任せなさい」と。


「それから、嵐神との決戦のあと、セラーナとはどうなったんですか?」


 田村の素朴な質問に、田野倉の表情が少し曇った。


「嵐神を鎮め、『根源の塔』の秘密を知った後、私たちは結婚しました。風の谷に居を構え、15年ほど平和に暮らしました」


 田野倉の声には暖かさと、同時に切なさが混じっていた。


「私たちには息子が生まれました。風の術を受け継いだ男の子で、名前はカゼトといいました」


「息子さんが?」


 俺はハッとした。テラルドに子供を残してきたということか。


「はい。彼が10歳になった頃、私に『定年』の兆候が現れ始めたのです」


「兆候?」


 田野倉は熱燗を一口飲んだ。


「夢の中でたびたび元の世界の風景を見るようになりました。そして時々、急に体が透明になったかのように周囲から見えなくなる現象が起きたのです」


 これは俺の経験には全くなかった兆候だ。時代によって「定年」の現れ方も違うのだろう。


「それで『根源の塔』を再び訪れ、『時の水晶』に問いかけました。すると、私の時が来たことを告げられたのです」


 田野倉の表情が深い悲しみに包まれた。


「『時の水晶』は私に告げました。『汝の使命は終わりを告げん。故郷へ帰る時が来た。だが、テラルドのものを連れては戻れぬ』と」


 それは俺が「定年」の際に言われた言葉とよく似ていた。フリーデを連れては戻れないという条件。時代は違えど、この部分は変わらないようだ。


「セラーナとの別れはどうだったんですか?」


 椎名が静かに尋ねた。その眼差しには深い共感があった。


「伝えるべきか迷いました」


 田野倉はゆっくりと話を続けた。


「最初は黙っていようと思いました。しかし、セラーナは風術士。私の心の変化をすぐに感じ取りました」


 田野倉は風神の天ぷらをもう一つ手に取ったが、すぐには口に入れなかった。


「彼女には全てを話しました。『定年』のこと、故郷に戻らなければならないこと、そして……二度と会えないことを」


 田野倉の目に涙が浮かんだ。彼はそれをこらえるように目を閉じた。


「セラーナは最初こそ取り乱しましたが、すぐに受け入れてくれました。『あなたには別の使命がある。私はあなたの心の中で生き続ける』と」


 俺は思わず右手の薬指に触れた。フリーデとの別れ。共通する痛みを感じた。


「最後の一ヶ月は、三人で風の谷の思い出の場所を巡る旅をしました。カゼトには『お前は風の一族の血を継ぐ者。いつか父の物語を伝えてほしい』と伝えました」


 田野倉は最後の別れの日を思い出すように、遠い目をした。


「『根源の塔』の前での別れの日、セラーナは私に風の術で作った小さな結晶を渡しました。『これがあれば、あなたの心は常に風の谷と繋がっている』と」


 田野倉はゆっくりと懐から小さな透明な石を取り出した。光にかざすと、中で小さな風のような流れが見える不思議な石だった。


「これがその結晶です。私の宝物です」


 全員が息を呑んで石を見つめた。テラルドと現代を繋ぐ、目に見える証だ。


「それから私は『根源の塔』に入り、最上階の『時の水晶』の前で『定年』の儀式を受けました」


「儀式?」


 俺にはそんな記憶はなかった。


「ええ。私の時代は儀式がありました。『時の水晶』の前で『勇者の誓い』を唱え、自らの記憶と魂の一部を水晶に捧げるのです」


「魂の一部を?」


 田野倉は静かに頷いた。


「それが『孤独の試練』の始まりでした。テラルドでの記憶を持ちながらも、誰にも信じてもらえない孤独を生きる試練です」


 田野倉はようやく手に持っていた天ぷらを口に入れた。


「儀式の後、私は光に包まれ、気がつくと日本の川辺にいました。テラルドに行く前と同じ場所です」


 彼は少し間をおいて続けた。


「しかし、時代は変わっていました。私が消えてから103年が経っていたのです」


「でも……」


 田村が困惑した表情で尋ねた。


「103年経っていたら、もう知り合いは誰もいないですよね? どうやって生きていったんですか?」


 それは俺も気になっていた疑問だった。


「『時の水晶』は私に言いました。『汝の体は現代に合わせて変わるだろう。そして、汝を待つ者がいる』と」


「待つ者?」


「ええ。川辺に立っていると、一人の老人が近づいてきました。彼は言ったのです。『あなたが来るのを待っていました、勇者よ』と」


 俺たちは驚きのあまり言葉を失った。


「その老人は私の前に来た『定年』勇者でした。彼の名は烏丸道真。『火の勇者』と呼ばれた人物です」


「前の勇者が?」


「ええ。彼は私よりさらに前の時代、江戸初期に召喚された勇者でした。彼もまた『孤独の試練』を経験し、誰にも信じてもらえない日々を送っていました」


 田野倉は懐かしむように微笑んだ。


「道真は私を自分の家に招き入れ、この新しい時代での生活の仕方を教えてくれました。彼はテラルドの知識を活かして、『不思議草』という漢方薬店を営んでいたのです」


「なるほど……」


 椎名が目を輝かせた。


「先輩勇者から後輩勇者へのバトンタッチのようなものですね」


「その通りです。私はそこで初めて知りました。『定年』勇者は順番に現代に戻ってくること、そして先達が後の勇者を助ける役割があることを」


 これは俺にとって新しい情報だった。リーゼルが俺の前に帰還していたのも、そのためか。


「道真の下で漢方を学び、やがて私は彼の店を継ぎました。そして彼が亡くなる前、『いつか来る次の勇者のために、場所を用意しておくように』と言われたのです」


 田野倉はもう一度風神の天ぷらを味わった。


「道真の死後、私は様々な商売を経験し、最終的に居酒屋を開くことにしました。テラルドでの記憶や経験を語り合える場所、『定年』勇者たちが集える場所として」


「それが『たぬき屋』の始まり……」


 俺は感慨深く呟いた。


「なぜ『たぬき屋』という名前にしたんですか?」


 田村が素朴な疑問を口にした。


 田野倉は笑みを浮かべた。


「道真の家の庭には狸の置物があり、彼はそれを『テラルドからの使者』と呼んでいました。彼の言葉を記念して、『たぬき屋』と名付けたのです」


 椎名はメモを取るように、熱心に聞き入っていた。


「『たぬき屋』を開いて、最初の『定年』勇者はいつ来たんですか?」


「店を開いて3年後のことでした。『氷の勇者』と呼ばれた藤堂雪という女性です」


「女性の勇者も?」


 田村が興味深そうに尋ねた。


「ええ、勇者に性別は関係ありません。彼女は江戸末期に召喚され、明治時代に帰還した勇者でした」


 田野倉は熱燗をもう一杯注文した。


「彼女も『孤独の試練』を経験していました。そして偶然、私の店に足を運んだのです」


「偶然ですか?」


 俺は疑問に思った。俺やリーゼルが「たぬき屋」に引き寄せられたように感じたのと同じだろうか。


「いいえ、後に分かったのですが、『定年』勇者たちには互いを見つけ出す『引力』のようなものがあるのです。彼女は『なぜかこの店に入りたくなった』と言っていました」


 俺も同じ経験をしている。初めて「たぬき屋」を見つけた時の不思議な引力。


「それから、多くの『定年』勇者たちが『たぬき屋』を訪れるようになりました。時代は移り変わり、時には『定年』の条件も変わりましたが、勇者たちが帰る場所としての役割は変わりませんでした」


 田村が熱心に尋ねた。


「どのくらいの勇者たちが来たんですか?」


「私の記憶する限りでは、15人ほどでしょうか。中には短期間だけ姿を見せ、また姿を消す方もいました」


 田野倉の表情が少し物悲しくなった。


「『定年』の条件が『沈黙の義務』に変わったのは、約50年前のことです」


「なぜ変わったんですか?」


 俺は核心に迫る質問をした。


「その理由は……」


 田野倉は少し言葉を選ぶようだった。


「『根源の塔』の力が弱まっていったからです」


「弱まる?」


「ええ。『時の水晶』は徐々にヒビが増え、テラルドと現代を繋ぐ力が衰えていきました。その影響で『定年』の性質も変わったのです」


 田野倉はさらに続けた。


「『孤独の試練』の時代、勇者は記憶を持ったまま帰還しましたが、周囲の人々は決して信じませんでした。『沈黙の義務』の時代になると、周囲の人々が信じる可能性が生まれましたが、代わりに自ら口にしてはならないという制約が生まれたのです」


 俺は深く考え込んだ。テラルドと現代の繋がりの変化。「定年」の条件の変化。そして「時の水晶」の衰え。すべてが繋がって見えてきた。


「それで、リーゼルが帰還したとき、『たぬき屋』を千夏さんに譲ったんですか?」


 椎名の鋭い質問に、田野倉は頷いた。


「ええ。彼女は特別な存在でした。『紫眼の魔女』と呼ばれた彼女は、未来を見通す力を持っていました。彼女は私に言ったのです。『あなたの役目はもうすぐ終わる。次の勇者が来る』と」


 俺はビールを飲みながら、その言葉の意味を考えた。リーゼルは俺の帰還を予言していたのか。


「私はもう歳を取っていましたし、千夏も成長して店を継げるようになっていました。リーゼルの言葉を聞いて、『役目の終わり』を感じ、隠居を決意したのです」


 千夏はカウンターを静かに拭きながら父親の話を聞いていた。彼女の表情には、父への深い敬愛の念が見て取れた。


「田野倉さん」


 椎名が静かに尋ねた。


「『定年』の本当の目的は何なのでしょうか? 単に勇者の役目が終わったから帰るということだけではないような……」


 田野倉はしばらく考え込んだ。難しい質問だが、いつか答えなければならないものだったのだろう。


「『定年』の本当の目的は、テラルドと現代の『均衡』を保つことです」


 俺たちは息を呑んだ。


「二つの世界は別々に存在しているようで、実は深く繋がっています。『根源の塔』の『時の水晶』がその繋がりの核です。勇者が召喚され、使命を果たし、そして帰還する……その循環が二つの世界の均衡を保っているのです」


 田野倉はゆっくりと続けた。


「しかし、その均衡は徐々に崩れつつあります。『時の水晶』のヒビが増え、世界間の時間差が広がり、そして『定年』の条件も変わっていく。これらはすべて、何か大きな変化の前触れなのかもしれません」


「変化?」


 俺は思わず身を乗り出した。


「具体的には分かりません。しかし、リーゼルは何か予感していたようでした。彼女は占い師として活動しながら、何かを調査しているようです」


 田村が不安そうに尋ねた。


「それって……危険なことですか?」


 田野倉は微笑んで首を振った。


「恐れることはありません。むしろ、希望ではないかと思います」


「希望?」


「ええ。『定年』勇者たちが集まり、知恵を共有する。それは何か新しい可能性の始まりかもしれません」


 田野倉は「風神の天ぷら」の最後の一つを手に取った。


「特に、あなたの『定年』は特別かもしれません」


 俺は驚いて目を見開いた。


「俺の『定年』が? どういう意味ですか?」


「リーゼルの言葉によると、あなたは『魔王と約束を交わした最初の勇者』だそうですね」


 そうだ。俺は魔王を倒したが殺さなかった。彼の魂が世界の安定に必要だったからだ。


「その選択が、テラルドの運命を変えたのかもしれません。『定年』の意味をも変えた可能性があります」


 俺は黙って考え込んだ。魔王との約束。それが「定年」の意味を変えたというのか。


「田野倉さん……フリーデとの別れも、その『均衡』のためなんですか?」


 田野倉は静かに頷いた。


「恐らくそうでしょう。愛する者との別離。それは『定年』の最も辛い部分ですが、二つの世界の均衡のためには必要な代償なのでしょう」


 俺は右手の薬指を見つめた。フリーデとの約束。どんな時も互いを忘れないという誓い。


「でも、希望はあります」


 田野倉の言葉に、俺は顔を上げた。


「希望?」


「均衡が変わりつつあるなら、『定年』の条件も変わる可能性があります。魔王との約束を交わしたあなたの選択が、新たな道を開くかもしれません」


 田野倉の言葉には不思議な確信があった。まるで何かを知っているかのように。


「フリーデさんのことですが……」


 田野倉は言いかけて、言葉を切った。


「いや、それはまだお話しする時ではないでしょう。リーゼルに聞いてみてください」


 俺は胸の鼓動が早くなるのを感じた。フリーデについて何か知っているのか? リーゼルが?


 店内の時計を見ると、もう閉店時間に近かった。田野倉は立ち上がり、懐からお金を出した。


「今日はここまでにしましょう。また機会があれば、続きをお話しします」


 俺たちも会計を済ませ、席を立った。田野倉は千夏に優しく声をかけた。


「千夏、今日も素晴らしい料理をありがとう。特に『風神の天ぷら』は懐かしい味だった」


 千夏は少し照れたように頷いた。


「父のレシピをもとに、少しだけアレンジしました」


「君の『神風の一品』と『風神の天ぷら』は、私の記憶よりも素晴らしいよ」


 父と娘の温かいやりとりに、俺たちは微笑ましく見守った。


 店を出ると、夜風が心地よく頬を撫でていった。まるで風の谷の風のように。


「いい話でしたね」


 椎名が静かに言った。


「ええ、物語として素晴らしい構造です。『定年』の秘密、世界の均衡、時間の謎……」


 編集者らしい視点だ。


「でも、ただの物語じゃないんですよね」


 田村が真剣な表情で言った。


「ああ。これは現実だ。俺たちが生きている世界の秘密なんだ」


 俺はふと空を見上げた。この空の向こうにテラルドがあり、フリーデがいる。そして二つの世界を繋ぐ「時の水晶」が、徐々に変化しているという。


「勇者さん、フリーデさんのことを田野倉さんが何か知っているみたいでしたね」


 田村の言葉に、俺は頷いた。


「ああ。リーゼルに会って聞いてみるよ」


 椎名が思案顔で言った。


「田野倉さんの話によると、『定年』の条件も変わる可能性があるということは……」


「フリーデと再会できる可能性もあるかもしれない」


 俺は自分でも驚くほど希望に満ちた声で言った。


 三人は駅前で別れ、俺はアパートへの道を歩き始めた。


 今夜の話は俺の「定年」理解を大きく変えるものだった。単なる役目の終わりではなく、二つの世界の均衡を保つための重要な仕組み。そして「たぬき屋」が持つ深い意味。「定年」勇者たちの集いの場所であり、知恵の共有の場所。


 アパートに着き、窓から夜空を見上げると、星々が風に揺れる光のように瞬いていた。


「フリーデ……いつか会えるだろうか」


 そう呟きながら、俺は風の谷の結晶のように輝く星を見つめていた。


 ***


 つづく

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