等火

瓶宮

握る

 鬨の声をマイクにありったけ叫ぶ。それに共鳴した拳が暗闇からひとつ、ふたつと突き上げられる。叫んだ男は、舞台の後ろから強く射す真っ白な光に包まれ、まるで極楽浄土より迎えにやってきた神様のように、観客の目に映らない。逆光により見えなくなっている男の表情へ、彼女たちはそれぞれ願いを投影した。上司が死んだらいいのに。学校に行く意味がわからない。生活を続けるのがとても、とても億劫だ。せめてあなたの目と私の目さえ合えば、この状況が何かしら変わるような気がしているのに。

 彼女たちによって振り上げられた、固く握られた手に、男は身のすくむ思いさえする。それでも、自分は彼女たちの代わりに音を鳴らさなければならない。夢を見せるのが、ギターを背負い、歌をうたう男の仕事であるからだ。瞬間、重く歪んだギターがライブハウスじゅうに満ちていった。男は観客の熱量に負けじと弾いてみせる。

 ドラム、ベース、ギター。何重にもかさねられた轟音。フロアに浮かぶ、結ばれた手たちは汗でじっとりと濡れ、時折昂りや焦り、怒り、悲しみが大きな重低音に混じってどろどろになる。これを音楽の力で浄化させてやるのだと言わんばかりに、男は再び叫んだ。心臓を打つ速さと曲のリズムが交差し、重なっていく予感にようやく歓びを感じる。一生懸命にギターソロを弾きすぎて、男は最後のサビに入り歌うことを忘れてしまった。それさえも、この箱の中では煌めきとして客の目に映るのであった。

「ありがとう!」

 ドラムの前に集まったベースとギターが、頭をぶるぶる震わせながら各々の楽器を好き勝手に鳴らしていた。男はマイクに思いきり近づき、口づけながら何度も「ありがとう」と観客に言った。今日も、音楽が人々を救ったのだ。ほとんどノイズともいえるような音がライブハウスを包んだ。




 火照りを伴った溜め息をついた客がフロアから去り、重く厚いドアで隔てられた舞台裏はやけにさっぱりとした空気を醸成していた。先ほどの昂りが嘘のようであるが、それも所詮バンドマンの仕事に他ならない。ああ、今日も良い演奏をした、そしてそれは観客に受け入れられた、パフォーマンスとは感情が入りすぎてもいけない。楽屋は、人が通るには肩をかすめなければならないほど、リュックや上着が乱雑に敷き詰められていた。

「おまえは酒を飲まないのか」

 ベースを担いだ藤堂が、しゃがみこんでぐしゃぐしゃと汗を拭いている旗野に尋ねた。

「今日はこれから実家に戻るから飲まない」

「へえ」

 一方でギターを放り出して、このときを楽しみにしていたとばかりに鈴木は缶ビールを一気に喉元へ流す。それを横で見ていた堀もまた、溢れ出る唾を飲み込み、缶ビールを勢い良く開けた。泡が噴き出し、慌てて口を吸い寄せる。スマホを片手にスワイプを始め、もしもし、と電話の向こう側にいる女を呼び寄せる鈴木の上機嫌さを見れば、今日のライブの満足度が高かったことがうかがえる。

「さっきの俺のシンバルのタイミング、すげえ完璧だっただろ」

「完璧だった。気持ち良すぎて俺も叫びたかったもんな」

 堀と鈴木は先ほどの己の勇姿を互いに褒め合っていた。酒気を帯びて、笑い声が大きくなっている。頬を赤く染めた彼らはさくらんぼのように二人寄り添っている。それにつられて、旗野も笑った。汗がまた額に滲んでくるのを感じた。

 余韻が後を引く中で、旗野はこれからの予定を考えていた。ライブハウスのある新代田から横浜までは車を走らせれば四十分で着く。道中どこかで飯を食い、日付を越す頃には向こうに着いて、シャワーを浴びて疲労に沈みながら眠る。明日の朝は六時半に起きて、母の代わりに父を起こして顔を洗わせて食卓につく……。熱に浮かされているはずでありながら、すでに日常に戻るのも可能であることを不思議に感じる。バンドメンバーと同じ時間を過ぎ、同じ気持ちになっているつもりではあるのだ。それを横浜の実家から観測している自分がいる。

「ツアーやりたくなるな」

 夢に微睡みながら、鈴木が声高らかに宣言した。ツアーという言葉を聞き、旗野は胸を躍らせる。今日のような光景が連なり、自分たちの音楽に壮大な旅をさせてやれる。自分の書いた曲で、みんなに夢を与えてやることができる。神聖なる使命を遣わされたようで、たちまち胸が熱くなる。

 彼らのバンド、レムスリーパーズはこの日の公演だけにとどまらず、東京や大阪、名古屋などの大きな都市にある、フロアに五百人がひしめき合うライブハウスでの公演を成功させている。また、朝のニュース番組などで取り上げられるような音楽フェスにも、名を連ねることが多くなってきた。そして、最も大きなステージの開幕を務めたり、一番小さなステージであればトリを任せてもらえたりするようになった。新曲を発表すると、固定客が口コミをSNSに投稿し、それがバズることでニュースサイトに取り上げられることもあった。そんな順風満帆なバンドは、メジャーデビューももう目前にとらえているのだった。ツアーを行うのもそう困難なことではなかった。

 そして、鈴木や堀のようにバンド活動に熱心なメンバーも集まっている。彼らは抱えている意識に比例して、楽器を扱うレベルも一段と高かった。成功への階段をのぼっていることは誰の目から見ても明らかであった。

「ツアーね……」

 旗野は誰にも聞かれないほど小さな声で呟く。その後ろでカシュっと音を立てたビールがそれを消し去った。メンバーの楽器を機材車に運び終えた藤堂が三人を見据えながらビールを飲んだ。次第に煙草のにおいが部屋を包み、旗野は思わず鼻をすすった。


 ライブハウスを後にし、四人のバンドマンを乗せた機材車は明るい国道を走っていた。舞台裏で酒を飲み、ライブの熱りが冷めないまま、先ほどまでほとんど打ち上げのような状態になっていた。車に揺られている彼らは車に乗り込むことで最後の力を使い果たし、ぐったりとしていた。後部座席で大きないびきをかいているのが運転している旗野の耳に入る。呑気で幸せそうだ。彼らにとっての幸せはライブなんかよりも、案外このような形であるのではないかと思われた。隣で一瞬光が灯った。藤堂が助手席で煙草を吸っているのがちらりと横目に映った。数秒と経たないうちに、彼らの視界は白い煙に覆われ、薄く濁った。

「おい、窓開けてくれ」

「悪いな」

 煙草の煙が外に出ていくのと同時に、冬の冷たい鋭利な風が車内に吹き込み、肌がぴりついた。ハンドルを握る手がかじかみ、旗野は自分で開けろとたった今言った窓を、今度は閉めろと言いかけた。だが、煙草のにおいを昔から嫌悪しているのには勝てない。寒風が彼の手にまとわりつき、演奏の疲労と相まって、集中して運転しなければ道を踏み外しそうになる。その中でも、寒さを気にせず喫煙を続ける藤堂に苛立ち、もうどうにでもなれ、とアクセルをさらに踏み込み加速する。真夜中のドライブはぐんぐんとスピードを上げていく。

 彼らを各々の自宅付近まで送り届け、日付をまたいだ車内はあっという間にがらんどうになった。静かな空間。タイヤが道路の小石をごろごろと踏んでいく音が心地よい。旗野は、自分たちが先ほどまで轟音と熱気の中で演奏していたのがいささか信じられない気持ちになった。好きという気持ちのみでバンドを組んで、就職もせず音楽一本でなんとか生計を立てていけているのが、自分事のように思えないのだった。自分は、本当はニタニタ笑顔を浮かべながら家を売りつけるような不動産会社に勤め、その傍ら音楽を聴きながら父親の介護を手伝っている人生を過ごしているのではないか。ステージの上に立っている風景はすべて、そちら側の自分が見ているぼやけた幻なのではないか。ライブハウスから遠ざかっていく旗野を繋ぎ止めているのは、トランクに積まれているギターだけだった。思考が静寂の海に染みていく。バックミラー越しにギターを見ては、今の奇跡のような境遇に恐れを感じる。それを掻き消すかのように、中古のミニバンはスピードを速めて横浜に向かうのだった。


 翌朝、母が部屋をノックする音で旗野は目を覚ました。なるべく起床を急かさないように、静かに開けて母が入ってくる。結局、帰ってきたときにはシャワーも浴びずにベッドに倒れ込み、そのまま真っ暗な眠りに落ちていた。自室にはタオルやシャツ、ギターが散乱しており、その惨状を見かねた母が片付け始めた。

「真広、お父さん起きたから行ってあげて」

 母が毎回旗野の部屋にやってくるのは、父専用のナースコールのようなものだ。旗野は優しい目覚ましにくあ、と欠伸をする。そして、昨日の夢を身体いっぱいに感じたまま、のそりと起き上がり父のもとへと向かった。

 父はぼーっとした目をし、ときどきよろめきながら、窓際に立ち尽くしていた。カーテンは開かれており、優しい日光のシャワーを浴びているようだった。その目はどこか朧気である。動物が本能に導かれるがまま、日の光を浴びて身体の中で栄養を作っているような、そうした虚ろな雰囲気を父が帯びている。

 旗野が後ろから声をかける。その途端に、向こうへ行くのを引き止められたかのように、ぴったりと生気を纏い、「おはよう」と言った。いつもこの瞬間に、父を父ではないようなものとして認識しかけることに旗野は怯える。旗野が知っている父は、こちらの存在を愛する子どもとして見、柔らかな声色を自分に奏でてくれる人である。それが病をしている彼の姿によって揺さぶられるとき、父という像が崩れかけるのだった。自分だって、ひとりで朝食を取っているときこそ、ロボットのように規則正しく口に箸を近付けたり遠ざけたりするだけの恐ろしく薄い人間であることがある。しかし、それを客観的に捉えるということ、人間になりきれない不気味さを愛する人に見るということが、旗野にとっては罰のように感じるのだった。夢を見せるバンドマンは客を生きる気力に湧かせるが、介護する息子は父に死の影を見なければならない。

「昨日のライブはどうだったんだ」

 先週、帰省していたときに、旗野は父に伝えていた。息子が生活を営んでいることを父に知ってほしかったからだ。

「すごくよかった。成功した」

「そりゃあよかったな。俺もおまえくらいの年でバンドをやってたことがあったよ。パブの片っ端から電話かけて、ライブしてもいいかって聞いてよ。楽器の練習よりも大変だったなあ……。そっちのほうが記憶にも残ってんだよなあ」

 過去を懐かしむ優しげな顔の上には、旗野が記憶に見ている父の姿よりも多く、皺が刻みこまれていた。時計の針が巻き戻り、その顔に皺が消える。若き日の父が地道に電話をかけている姿を想像し、旗野は滑稽さと安心感に頬を緩ませた。父は「何を笑ってる」と真顔で反抗した。

「そういう父さんを想像したんだよ」

「馬鹿野郎。おまえ部屋に何しにきたんだ」

「顔洗うんだろ」

「調子がいいんだ、ひとりで洗う」

 窓の外で鳥が鳴いた。晴れた朝を祝福している。強気な言葉を吐き、父は少しふらつきつつ洗面所へ出ていった。そうは言っても、旗野は父のことが半ば信じられず、いつもよりさらに一歩後ろをついていった。


 彼が実家に戻った日は、父の面倒を日中ずっと見るという生活を送る。毎朝、顔を洗うのを手伝い、体温を計り、朝食を取らせたあとは歯を磨くのを見守り、日課の散歩に出ていくのに付き添う。

 父は自宅で倒れてから、頻繁に微熱を出すようになったが体調に気を遣う気配はない。身体が熱くても散歩に出かけようとし、旗野がどう説得しようと「俺の好きにさせないか」と父が喚くため、しぶしぶ着いていくのである。こけたりしないか、道に迷わないか、体調を崩して歩けなくなったりしないか、話をしたり聞いたりをしながら近所を一周歩く。それが終わると、早めに昼食を取り、居間に置いてある座椅子に腰かけ、失った体力を取り戻すかのように深く長く眠るのだった。母は、だんだん昼寝の時間が伸びていることを知っていたが、特に気に留める素振りは見せなかったし、旗野も床に臥しているとはそういうものなのだなと割り切っていた。

 日が暮れる頃、より一層ふらふらとしながら食卓につこうとするので、旗野が肩を貸してやり、座らせる。そこで、父はやっと朝刊を読む。夕方にも体温を計るが、この時間帯は熱が出やすいのだという。旗野は朝刊を持ちながらうとうとする父から、起こさないように細心の注意を払って新聞を抜き取る。そうして、夕食の時間になるまで再び寝かせておき、旗野は多忙な母の代わりに洗濯物を畳んだりと家事を行う。そして、夕食を取らせてそのまま歯を磨き、部屋まで連れて行くのである。眠る前に再び体温を計り、必要であれば氷枕を、あるいは今週の土産話を持っていくのだった。週に一度の帰省で、旗野はこれらをやってみせる。しかし、母は毎日毎日、家事と両立させながらこれを行っているのであった。旗野はそれを思うだけで、目眩がしそうになる。

 旗野は父の介護を苦だとは感じていなかった。それは、父がまだ旗野と話ができるくらいには元気だからだった。彼は、自分の考えた曲の歌詞について父に相談することさえある。父と話すことが、彼にとって癒しであることは自覚的だった。今はこのような生活でもまわしていけるから良いものの、終末がゆっくりではあるが近づいているのを無視することはできなかった。医者は父の病状が全快することはないと診断を下しており、母も旗野も抗うことなく医者が言うのなら、と飲み込んでいる。

「あのさ……。帰る日数、増やそうか」

 食器を洗う背中に、旗野はアコースティックギターを手にしながら声をかけた。母は生返事をするだけで、それ以上何かを言おうとする気配はなかった。水道からシンクに流れる冷たい音が響く。

「俺が、帰ったほうが母さんも楽でしょ」

「なに?」

 さっきも今も、旗野の言葉は流水によってかき消されていた。母は大きな声で返事をし、水を止めて母は振り返った。

「だから、俺の帰る日を増やそうかって」

「ああ、そう言ってたのね」

「母さん大変でしょ。今は入院するほどの病気をしてないけど、少しずつ悪くなっていくの分かってんじゃん。俺のバンドのペースを落とすとかすれば……」

「いいわよ。こっちは大丈夫だから」

「大丈夫?」

「あんたはあんたのやることをやったほうがいいわよ。バンドもいい感じってこの前自分で言ってたじゃないの」

「いや……」

「母さん別に今の状態で無理してないから。佐々木さんとお茶したり、あの人も手伝ってくれたりするから大丈夫なのよ」

 旗野は言い淀んだ。母は食器を洗い終わり、食卓についてみかんを剥き始める。母は自分で片をつけると言いたげに、みかんを三つに割り、その一片を大きな口の中に放り込んだ。しかし、噛み締めた途端に果汁が溢れ出るのをせき止めきれず、ティッシュをすかさず口もとに押さえた。旗野はその様子を見ながら、弦を弾く。静かな音。

「大丈夫、ならいいけど」

 旗野が念を押すと、母は大きく頷いた。じゅるりと音を立てて、みかんは飲み込まれた。旗野は、ギターを弾きながらスマホにコードを書きつけていた。

 たしかに、言われてみれば、母さんは父さんのことについて、一度も辛いと言ったことがないかもしれないな、と旗野は考えを咀嚼する。昨日の輝かしい記憶から脱しきれていない、疲労を纏った身体で、病に蝕まれて往年を生きた象のように硬くやつれた皮膚を持つ父に触れることで、温もりを感じるという体験。これもまたある意味で、生と捉えることができる。父のふらついた足取りを週一で支える旗野は、彼を介護することについてそう考える。母が自分と同じように父の介護を癒しや生きがいだと考える可能性も、なきにしもあらずではないかと旗野は思った。旗野は、父と母、そして自分の仲がそれぞれ良いことを誇りに、そして当たり前に感じていた。母は、父が熱を出すと台所から飛び出してきて、すぐに氷枕を頭の下に置く。父が暇そうに座椅子に腰かけ、ぼうっとしているときには、気に入っているカセットテープを取り出してビートルズを聴かせる。二人の間を取り持つ愛の時間が、父の介護という形になって与えられたのではないか、と彼は考えた。そのように考えて、母の言葉を受け取るように努めた。




 次の金曜日は、大阪でレムスリーパーズと後輩バンドであるDoubtのツーマンライブが行われた。ライブハウス前の受付にて、観客はどちらを目当てにやってきたかを尋ねられる。Doubtと答える者もいれば、レムスリーパーズと答える者もいた。彼女たちは隣どうし、どのバンドと答えたのか知らないまま、同じ音の波に身体を預け揺れていた。

 舞台の後方に取り付けられている機械がシューと音を立て、鼻の奥に平べったく広がるようなスモークがフロアを包み込む。観客の体温が上がる。観客は禍々しい嘘のような社会に侵食される日々への反逆の歌をうたった。地下でむさ苦しくぎゅうぎゅう詰めにされながら、束の間の夢こそが現実であるとうたった。熱気は、バンドによってもたらされたのか、あるいは観客によってもたらされたのか分からないまま、すべてがごちゃまぜになっていった。旗野は濁流に飲まれ、歌う度にマイクに歯を何度も当てた。力の限り、ギターを弾く。轟音。嘘と夢が紡いだ轟音の狼煙は、白く輝いていた。

 盛り上がりの中、旗野は観客を見つめながら歌っていた。彼らの代表曲にある「かりそめの風景をぶち壊したい」という歌詞はいつも作詞している旗野ではなく、珍しく藤堂の提案したものである。ファンはその歌詞をうたい、演奏する彼らを好いていた。

 目の前で、卒倒しそうな勢いで拳を振り上げている者がいる。そんな彼女を目に映しながら、旗野はぼんやりと考えていることがあった。――ツアーをまわる話はどうなるのだろうか。ふとしたときに、こんなことが頭に現れるのだった。実家まで車を走らせているとき、父の腕を自分の肩にまわそうとするとき、スタジオ入りを知らせる連絡を打っているとき。実際に、それが話されている時間はほとんどない。しかし、ときどき頭の中で呟くので旗野の脳は誤認し、ツアーが刻一刻と近づいてきているということを予感させていた。轟音。グルーヴに浮かれているこの空間のうち、たった一人、旗野だけが目覚めているように感じられた。はっと息を飲む。目の前の女が汗を垂らした。その一滴に、フロアを支配している自らの姿が見えた。瞼をかっ広げ、真っ直ぐに女を見るバンドマンの姿であった。次の瞬間、空中に放たれたそれは他の拳に当たり、霧散していった。旗野の真っ白な額からは汗がひいていた。堀のドラムが一拍遅れて聞こえたが、旗野のリズムのほうが速く走っていたのだった。


 Doubtのリードギターである高橋が、「今日マジでお誘いしてもらって、あざっした」と陽気に告げた。舞台裏はいつもよりも熱気と宴のような奔放な明るさに包まれていた。堀がまあそれよりも飲め、と後輩の胸の前に蓋の開いた細い瓶ビールを突き出す。すでに半ば酔っている雰囲気を醸し出す高橋は、受け取るより先に口を開けて注がれるのを待った。そんなかわいらしい後輩に頬を緩ませて、瓶を傾けて酒を満たしてやるのだった。

「レムスリーパーズも、デビュー近いっすよね。羨ましいです、本当に」

「おまえらだって、そこそこ人気あるんじゃないの?今日も客の半分そっちのとこのファンだったらしいし」

「いやあ、デビューしたいのは山々なんすけど、こっち天才の大学生ベースマンがいるんで、まだ……」

「大学生でも実力あるやつはデビューしてるだろ」

「実家暮らしで、学業優先しろって言うママなんすよ。笑えますよね」

「まあ金出してもらってるっていうなら、親御さんの言い分も分からなくはないけどな。でも、すげえもったいないよ」

「そっすよねえ。あいつ今ママが迎えに来たから先帰っちゃいましたよ。あっ、藤堂さんたちによろしくって」

「礼儀正しい子じゃん。かわいいな圭護くんは」

 互いの事情を軽快に話している藤堂の背後で、旗野は珍しく鈴木と二人で飲み交わしていた。黒い革が剥がれ、斑模様になっているソファに二人はどっぷりと深く腰掛ける。鈴木が酒瓶を握り、口づけて飲んでいると、その端から酒が漏れてソファに零れ落ちる。水滴が旗野のズボンに吸収された。それも相まって彼は、気分が落ち着かなかった。汗ばんだ彼の腕に剥がれた黒い革がくっついた。それを払いのけていると、鈴木は小さな声で、旗野の耳元で囁く。

「あれだから、一生メジャーいけないんだよな」

「あ?」

 陰口を叩く鈴木の顔は意外にも真面目だった。

「ちゃんとやって、人気もついてきてるんだから、やるべきときにやんねえと、あれはもう駄目になるぜ」

 なあ?と顎で藤堂の後ろを指した。まだ、ベースの圭護のことについて気だるげに明るく話している。駄目になる、旗野はこの言葉に引っかかりを感じた。メジャーデビューができなくとも、バンドの人気は変わらないはずではないか。すべてのバンドが必ずしもメジャーデビューを目指さなくても、やりたいようにやっていればいいではないか。真面目な顔をして、陰口とも批判ともとれることを言うこの男の真意を、いまだ掴めずにいた。酒で少々錯乱しているようでもあった。

「俺はそうは思わない」

「思わない?思わないのか」

「メジャーデビューしなくても人気なやつはコアなファンつくだろうし、やりたいことができてりゃいいだろ」

「あ?ふざけてんのか」

 そこまで言って、鈴木は突然立ち上がり旗野のワイシャツの襟を荒々しく掴んだ。楽しげな場がしんと水を打ったように静まった。その様子に気がついた鈴木は大事にさせたくなかったのか、諦めるようにもう一度腰かけ直した。そして、旗野をじっと睨みつけた。

「本気で言ったのかよ、旗野」

「かなり本気だよ」

「ふん。そうか。そうかよ……」

 鈴木は旗野の態度と言葉を噛み締める。そして、苦味を消し去るように甘い酒を飲み干した。

「俺とおまえじゃ、見ている景色が違うんだろうな」

 次は、旗野がその言葉について噛み締める番だった。目を血走らせた鈴木は舞台裏を去っていった。たったいま大理石がひび割れたように、鈴木との間に芽吹いた小さな隔絶を見つめる。隔絶の中に、父が窓に向かっている姿があった。焦点の合っていない目で、ただじっと動かずにどこかを見ている。そのとき、方向性の違いによる解散、が旗野の頭をよぎった。さんざんネタとして擦られた言葉が、生を纏い始めるさまは滑稽にも、不気味にも思われた。旗野は今、自分がどこを泳いでいる魚なのかわからなくなっていた。壮大な海、のように彩られた水槽の中なのかもしれなかった。海を渡りたい。願う気持ちは油のように表面に広がるばかりだった。




 一週間が経過しスタジオで練習を終えた後、昼下がりを過ぎて弛緩した太陽の光を窓越しに受けながら、彼らは近くの喫茶店で身体を寄せ合い、カレーを食べていた。ワックスの塗装された木造の小さな店には、彼らと年老いて背中の丸くなりかけたマスター以外の人間はいなかった。

「ツアーさあ」

 藤堂が水を飲んでから、口を開いた。

「いつがいいと思う」

「メジャーデビューと同時だろ」

 鈴木が間髪入れずに答え、堀も米を食らいながらうんうんと頷く。

「おまえはどうだ」

 白羽の矢が旗野の口もとに刺さった。三人の悪意なき鋭い視線は、旗野の答えを抉り出そうとしていた。

「俺も、それくらいがいいかな」

 旗野が力なく笑い、三人が各々安心してカレーをすくい口に運ぼうとすると、「本当は」と続けて言葉が発せられた。藤堂だけが何の反応もせず、そのままスプーンをねぶった。

「うちの父さんのことがあるから、ツアーは難しいかもしれない。すまん」

 旗野は、家に火をつけ美しく燃えるのを眺めているような表情を浮かべた。夢を諦めなければならない、いわば苦痛を味わっている状況にもかかわらず、眩しい表情が隠れている。予想外のカレーの辛さに、堀が呻いた。

「それどうにかなんねえの?」

「うん……」

「うん、じゃなくて」

「父さんはもう、全快しないから……」

「しないから?だからといって俺らがデビューのツアーができないことはないだろ」

「ツアーはまた今度でもいいじゃないか」

「懲りねえな!この前もそんな甘ったれたこと言ってたよな?だらだらしてる間に終わっていくんだよ。俺らもあいつらも。所詮レムスリーパーズも一発屋でしたとか言われたくねえんだよ。何のためにバンドを一生懸命やってんだ。おまえがおまえの人生を動かしてるように、俺も俺の操縦桿を握ってる。なんでおまえの父さんの分まで操縦しなきゃなんねえんだよ」

 ヒートアップし顔を赤くした鈴木を、藤堂がなだめた。旗野は何も言い返せなかった。どこに視線をやればいいのか分からないといった様子だった。

「こいつにもこいつの事情があるんだよ」

「藤堂はなんとも思わないのかよ?おい、堀も!おまえらは何のためにバンドをやっているんだ、答えろよ」

 いまだ、カレーの辛さに咳き込んでいた堀は、こちらに話題が飛んでくるとまっすぐ旗野を見た。そして、鈴木を次に見た。「おまえと同じかな」と呟くと、何事もなかったような声で水の追加を頼んだ。バンドが続くように願う彼を、藤堂は横目にしながら「俺のもくれ」と言った。

「俺は旗野の言い分もわかるよ。こいつの事情に合わせてやっても遅くないと思うけど、鈴木はそうじゃない?」

「旗野の父さんの体調に左右されたくねえ。だって俺らは俺らで、こいつの父さんじゃねえ」

「随分、俺の父さんのことを悪く言うな」

「悪く言ってるつもりはない」

 建設的な話を、険悪な雰囲気の下で進めるには、相当な根気が要りそうであった。太陽が傾き、眩しい光がテーブルに反射する。旗野の目は向かいに座る鈴木の紅潮した顔色をチカチカと点滅させながらとらえた。鈴木がその視線をさらにとらえ、淡いクリーム色のカーテンを下ろす。急な明暗差に目をくらませ、数秒の間真っ暗な視界になる。四人は黙り込んで、再びカレーを食べ始めた。

 堀が辛いカレーに呻きながらも完食し、三杯目の水を飲み干した瞬間だった。旗野は声にならない引きつった嗚咽を漏らした。マスターがさらに水を運びにきたのと同時だった。彼の手にしていたスマホの画面は母から届いたメールを表示している。それは、父の熱が下がらず、意識が混濁していることを知らせていた。その刹那、頬に冷たく金属質である風を受ける。愛する父が死ぬことをほんの一瞬現実に見てしまい、それを強く不気味に感じて声を震わせたのだった。歪んだ非現実がこの世界に組み込まれるかもしれないことを恐れていた。轟音。聞こえもしない轟音が駆け抜ける。藤堂が優しく注意を逸らそうとしたが、旗野は今そこにはいなかった。脂汗が脇に染みた。


 一体、どこが彼の居場所なのか、もはや分からなくなっていた。ようやく人気と呼べるようになってきたバンドのフロントマンとして、さらに勢いに乗り、花の舞う道を歩んでいくのか。あるいは、亡くなりそうになっている父の息子として、生きる手助けをしながら錨を下ろしてゆっくりと時の流れに身を任せるのか。旗野はどちらでもないように感じていた。鈴木が訴えていた、バンドをやる意味を反芻する。大学時代、楽器を触ってみたいという好奇心だけで軽音部に入った旗野は、Fのコードを弾けるようになったことが嬉しく、父に自慢したことを覚えている。初めてコピーするバンドに迷い、父が車の中で聴いていたリバティーンズにしようと決めたことも。周りが就活に励んでいる傍ら、母の作ってくれた弁当を食べながら歌詞を書いていたことも。綺麗な言葉の受け売りのような歌詞を書いた曲を包んだ初めてのアルバムが店に並んだことも。

 旗野にとってはすべてが本当のことであり、またすべてが嘘のようでもあった。操縦桿を握ることが恐ろしく思われた。人を感動させるギターを弾くことができても、自分を感動させるギターはちっとも弾けなかった。しかし、人を感動させるギターは、旗野真広という人物のすべてを乗せて歪みのかかった轟音を響かせる。やがて、混濁したのは父ではなく旗野のほうだった。




 意識をどこかに向けたまま、浅い呼吸だけを短く繰り返す。居間の座椅子に転がることはもうない。ビートルズはもう流れない。埃っぽくなった部屋のベッドに寝かせられている父の姿は、旗野の知るあの愛した父ではなかった。現実が歪んで存在していた。

 あまりの疲労により、父よりも先に母が亡くなった。呆気ない最期だった。あのメールが送られた後、旗野はショックを受け、なかなか実家に帰ることができなかった。その間に、バンドはツアーの開催を決定し、父の置かれている現実から逃げるように自身の活動に専念した。メジャーデビューを迎える日も決まり、同日から開催するツアーに向けてリハーサルを行う。旗野はギターを弾き、歌った。スタジオに入った夜は、新曲のために歌詞も書いた。嫌な予感を吹き飛ばそうとしていたのかもしれなかった。そうして一ヶ月が経った。横浜の病院から、電話で母の死が知らされた。あっという間だった。

 父を介護する人間がいなくなり、手伝いがなければ父は今すぐにでも弱り亡くなるだろう。改めて医者に診せてみても全快する様子はないと告げられ、その変わらなさに旗野は安心さえ覚えてしまった。もちろん、バンドの活動など続けられるはずがない。その旨を藤堂にこっそりと伝えると、「そうか……」と白い肌を少し赤く染めた。

「脱退、ってことになるな」

「そんな、結論を急ぎすぎだ」

「いいんだよ」

「俺は、おまえがいないバンドは……」

 その先を言えず、藤堂は背中をさらに丸めて俯いた。そのまま、しばらく静寂が続いた。二人は静かな空間の中で、サーフィンをしている青年を遠くに見つめながら浜辺で寝転がったりしているような心地よい気持ちになっていた。何も言わないで、どこにも行かないで、ただ項垂れて黙っている藤堂を静かに見つめている時間が無限に続いてほしい。旗野はそう願う。しかし、時は無情で、旗野のことも、バンドのことも、誰のことも待ってはくれない。彼は不意に、上体を起こし、身体についたきめ細やかな砂を払い落とす。皮膚の表面を優しく温めているのに連れられ、うとうとと眠りこけている藤堂を横目に、波音のしない雄大な海へ向かい一歩踏み出した。夢の中では息のできない男。水を掻き分けどんどん旗野は進んでいく。くるぶしあたりに押し寄せていた波が、膝を、腹を、胸を満たしていく。さようなら。覚めていく。溺れるのは他でもない自分自身が引き受けたかった。




 声にならない声を小さくあげて、焦点の合わない濁った瞳を持った、目の前にいる男。口を閉じては開き、閉じては開きを繰り返す。そこから言語が放たれることはない。代わりに、確かに意味を持った嗄れた音が微かに聞こえるばかりだった。喉が渇いたのか。旗野はコップに水を注ぎ、男の口元に少しずつ傾けた。皺だらけの唇が少しだけ開かれ、水が端から漏れそうになるのを必死に止めている様子が見られた。こぼさないように、旗野も努めた。震えた手が彼の握るコップに触れようとした。それに気づき、水を飲ませるのをやめると、男は息子の豊かに潤った目にまっすぐ視線を向け、口角に力を入れた。笑っているつもりなのだろうと察する。それもまたすぐ筋肉がほぐれ、再び剥製のような、あるだけの目玉に戻った。

 ぐったりとした男を、旗野は思いきり踏ん張って抱き上げた。人間の本来の重さを浴び、なんとか彼を車椅子に乗せるのも一苦労だった。部屋を出て、キコキコと軋むタイヤの音を聴きながら家の外に出る。決して広いとはいえない庭に、男と旗野、二人がぽつんと佇んだ。晴れ間が閉じ、灰が空を包む。か細い声で、旗野は「旅に出ようか」と呟いた。男は何も言わなかったが、その言葉をいつまでも噛み締めるようにどこかを見つめていた。

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