第2章(2)空白の五年間
「山﨑さん...」
彼の声は五年前と変わらなかった。低く落ち着いた声色。でも、「山﨑さん」という呼び方に、微かな違和感を覚えた。もう高校生ではないのに。一瞬前まで私の心の中では、彼は私を「君」と呼んでいた。距離が生まれた実感。
時間が再び動き始めた。周囲の雑踏が耳に戻ってくる。北口商店街の入り口付近にある小さなコーヒースタンドの前で、私たちは立ち尽くしていた。雨上がりの街には人が戻り始め、週末の下北沢特有の熱気が路地に満ちていた。若者たちの笑い声、古着屋から流れる音楽、行き交う人々の会話が、私たちを取り囲んだ。
「こんなところで会うなんて」彼は少し驚いたように言った。「君の演技、見させてもらったよ。素晴らしかった」
その言葉に、心がふわりと軽くなる。それは何よりも欲しかった言葉。彼の評価、彼の認めてくれる言葉。時間が止まったような感覚。通りの喧騒も、冷たい風も、すべてが遠くに感じられた。彼の目を見つめると、そこには昔と同じ透明感があった。そして、その奥には何か言葉にできない疲労が潜んでいる。
「近くにカフェがあるから、少しお話してもいいですか?」
言葉が自然と口から溢れた。彼は腕時計をちらりと見て、少し考えた後、「少しだけなら」と頷いた。
私は彼を商店街を抜け、路地を二つ曲がった先にあるレトロな内装の喫茶店「Coffee & Thoughts」に案内した。下北沢の古い建物を改装した、地元の人しか知らない隠れ家的な場所。天井は低く、照明は落ち着いた琥珀色で、かつての倉庫だった名残を感じさせる無骨な柱が残っていた。ところどころ年季の入った木の椅子、壁にはフィルムカメラで撮られた下北沢の古い写真が何枚も飾られている。黄昏時の駅前広場、混雑する古着屋街、昭和時代の本多劇場—過去と現在が交錯する風景。でも、テーブルの上にはQRコードのシールが貼られ、「スマホでメニューを確認し、オーダーしてください」と書かれていた。懐かしさと現代のテクノロジーが奇妙に混ざり合う空間。
画面に向かって注文する世の中。そこに居心地の悪さを感じた。かつて私たちが話していた保健室は、もっと温かみがあった。人の声や表情が、直接伝わる場所だった。
席に着くと、彼の表情がよく見えた。近くで見ると、疲れているようだった。五年前より頬がこけ、目の下にうっすらとクマがある。高校時代、二十五歳だった彼は今三十歳になっていた。若手教員として生徒から人気を集めていた彼も、今ではすっかり大人の男性だ。しかし、その三十歳という年齢だけでは説明できない疲労感が、彼の顔に刻まれていた。アイラインで引き締められた彼の目は、かつてより少し沈んでいる。左手の小指には微かな痣。高校時代にも時々見かけた、あの痣が今も残っていることに、痛々しいものを感じた。
「山﨑さん」彼は真っ直ぐ私の目を見て言った。「まず謝らせてほしい。五年前、卒業式の日...約束を守れなくて」
突然の謝罪に、私は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。あの日のことを覚えていてくれたのだ。私の中で大切に抱えていた思い出は、彼の中でも生きていた。その事実だけで、喉の奥が熱くなった。
「あの日、卒業式の日」彼は少し声を落として言った。「約束を守るつもりだったんだ。でも、その前日に教頭から電話があってね」彼は少し苦い表情を浮かべた。「例の写真の件で、保護者から学校に苦情が来ていると。『生徒には近づかないでほしい』と強く言われた」 彼は深いため息をついた。「君の進学にも影響が出かねないと考えて、やはり会わない方がいいと判断した。でも、どうしても最後に君の姿を見たくて、校門の近くまで行ったんだ。遠くから君が学校を出てくるのを見ていた。約束を守れなくて、本当にすまなかった」
彼の言葉は、五年の歳月を超えて私の胸に届いた。苦しみの中で綴ってきた青いノートの言葉、一人で抱えていた思いが、ようやく解放される感覚。でも同時に、彼が遠くから私を見ていたという事実に、切なさがないまぜになる。
「先生は私が追いかけているのを...」
「ああ、気づいていたよ」彼は静かに言った。「でも、そのまま去るしかなかった」
彼の言葉には、五年前には言えなかった真実が含まれていた。私が追いかけた背中は、私を振り向きたいと思いながらも、振り向けなかった彼の背中だったのだ。そのことを知り、胸に温かいものが広がった。しかし、それは同時に、今の彼の姿を改めて見つめるきっかけでもあった。
お互いに少し沈黙が流れる。彼は私が転んだことを知らなかったのだ。つまり、私が必死に追いかけていたとき、彼はもうどこかへ行ってしまっていたということ。何だか寂しい。
店内は夕暮れの柔らかい光が差し込み、テーブルを照らす。彼の指先がコーヒーカップに触れる様子を見つめていると、高校時代に保健室で一緒にコーヒーを飲んだ日々が鮮明に思い出された。あの頃、彼は私の心の傷に触れるように、優しく言葉をかけてくれた。「君の心を守るのは、君自身だよ」あの言葉が私を救った。今、彼自身は何から心を守っているのだろう。
「それで、今日はどうして...」思い切って聞いてみた。
「近くの医師会でAIカウンセリングの研修があって」彼は少し身を乗り出して言った。「駅前のチラシで君の名前を見つけて...思い出したんだ。卒業式の日のこと、約束を果たせなかったこと」
彼の言葉に、心がざわめいた。何かを期待していた自分がいたことに気づく。偶然の再会。彼が五年間私を探していたわけではない。ほんの数時間前までの私の高揚感は、きっと滑稽なものに見えるだろう。私の胸に小さな空洞が生まれる感覚。
コーヒーの湯気が立ち上る中、私は彼の顔をじっと見つめた。若い頃の面影を残しながらも、歳月が彼に新たな陰影を与えている。額の微かなしわ、口元のほんの少し硬くなった線。それでも彼の目は、時折柔らかな光を宿している。特に私の演技について話す時には。
「素敵な演技だった」彼は優しく言った。「高校の頃から比べて、格段に成長している」
そこに「でも」が続くことが分かった。彼の心を見透かす力は健在だ。私の胸の奥に、期待と恐れの入り混じった感情が広がる。
「でも、どこか壁にぶつかっているようにも見えた」彼は言った。「特に後半の独白シーンでは、感情表現に躊躇いがある。自己検閲が働いているような」
図星だった。ここ半年、私はオーディションで何度も同じことを指摘されていた。「演技に真実が足りない」「本当の感情を見せていない」——それは私自身も薄々感じていたことだった。それは恋愛でも同じだった。誠治との関係では、いつも自分を抑えている。本当の思いは見せられないまま。
「すぐ分かるんですね」苦笑しながら答えた。
「臨床心理士としての目だよ」彼は穏やかに言った。「人の感情パターンを観察するのが仕事だからね」
スマホの通知音が鳴り、彼は画面をチラリと見た。少し表情が硬くなる。「すまない」と言って、素早くスマホをマナーモードに切り替えた。画面に映った文字の断片が、一瞬だけ私の目に入った。「いつ」という文字だけが見えた。彼の指先がわずかに震えていたことも見逃さなかった。
「お仕事は?」私は話題を変えようと尋ねた。
「ああ、相変わらず病院で臨床心理士をしてる。大学で非常勤講師も」彼はそう言いながら、また視線がスマホに向かう。何か気になることがあるのだろう。彼の首筋がこわばり、肩が少し高くなっている。防衛反応。高校の保健室で彼から学んだ心理学の知識が、今、彼自身を読み解くために使われている皮肉。
「私は」少し勇気を出して言った。「演劇活動と一緒に、生活費の足しにアロマテラピーのマッサージ店でバイトしてるんです。人を癒すのが仕事で...先生の影響かもしれません」
彼は少し驚いたように目を見開いた。「そうなんだ。それは意外だね」
「よかったらこちらへ」私は小さなカードケースから名刺を取り出した。「AROMA VOYAGE」というシンプルなデザインの店の名刺。「疲れた時にでも」
その言葉には隠されたメッセージがあった。彼の疲れた表情、気になるスマホの通知、肩のこわばり。それらすべてを見て、何か力になりたいという思いを込めた一言。私の指先が名刺を持つ彼の指に触れた瞬間、電流が走るような感覚があった。彼も何かを感じたのだろうか。一瞬、彼の瞳が揺れた気がした。
彼はその名刺を受け取り、「ありがとう。近くに行く機会があったら、寄らせてもらうよ」と言った。その言い方から、来てくれないんだなと直感的に理解した。あいまいな社交辞令。私の中で何かが沈んでいくような感覚。
彼の左手の指輪が、テーブルの灯りに反射して光る。その銀色の輝きは、私の目には妙に冷たく見えた。結婚しているんだ。あの頃からの疑問が、突然口をついて出た。「先生は結婚されたんですね」
彼は少し躊躇った後、「ああ」と答えた。「三年前にね」
その一言で、私の心に長年抱いていた何かが完結したように感じた。彼には家庭がある。当然のことなのに、どこか切ない。今まで、どこかで彼との再会を夢見ていた自分がいた。青いノートに綴った言葉を、いつか彼に伝えられる日が来ると信じていた部分があった。その可能性が、銀色の指輪によって消え去った瞬間。胸の奥が熱くなり、喉の奥に何かが詰まったような感覚。
「お子さんは?」私は思わず尋ねた。少しでも彼の日常に触れたいという願望から。
「まだいないよ」彼は簡潔に答え、また時計を見た。スマホの通知も続いている。彼は少し焦っているようだった。指輪を無意識に回す仕草が、彼の不安を物語っていた。
「奥様は大丈夫なんですか?」私は気遣うように聞いた。「何度も連絡が...」
「ああ、少し体調を崩していて」彼は言った。それ以上は詳しく話さなかったが、その表情には何か複雑なものが浮かんでいた。彼の疲れた様子、スマホを気にする仕草、どこか焦燥感を感じさせる態度。それらは単なる忙しさだけでは説明できない。視線が宙に浮き、言葉に詰まる瞬間。それは何かを隠している人特有の反応だった。
漆黒のコーヒーを一口飲み、彼は唇を僅かに噛んだ。何かを言うべきか迷っている表情。結局、彼は何も言わなかった。
「そろそろ行かなきゃ」彼は席を立ちながら言った。「今日は君の演技が見れて本当に良かった」
わずか二十分ほどの会話。あっけなく終わってしまう再会に、胸が苦しくなる。五年間待ち望んだ時間が、こんなにも短く過ぎていくなんて。彼の顔を見つめていると、どこか懐かしい香りがした。柑橘系の爽やかな香り。高校時代、保健室で感じた香り。それは彼特有のもので、私の記憶の中に深く刻まれていた。
「どこかで舞台があれば、また見に行くよ」彼は財布から紙幣を取り出し、テーブルに置いた。そして名刺を一枚、私の前にそっと置く。「病院の連絡先。何か演技のことで行き詰まったら、力になれるかもしれない」
その言葉と行動の間にあるギャップ。「力になれるかもしれない」と言いながら、すでに去ろうとしている彼。それは高校時代とは違う姿だった。何かに縛られているような印象。
「ありがとうございます」私は名刺を大切に受け取った。「そういえば...私、恋人はいません」
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。彼が聞いてもいないのに。嘘をついている自分が恥ずかしかった。誠治との関係は、恋人と呼べるのだろうか。愛のない、欲望だけの関係。それは本当の意味での恋人関係とは言えない。だから、嘘ではないと自分を納得させた。
彼は少し困ったように微笑み、「そう?」と言った。「でも、君なら素敵な人が見つかるはずだよ」
それだけだった。彼は私の恋愛事情に特別な関心はなかった。当然だ。既婚者の彼にとって、私はただの元生徒。過去の思い出の一部でしかない。
彼は去り際に、「お体に気をつけて」と言った。それが最後の言葉だった。
私はしばらくカフェに残った。彼の残したコーヒーカップ、テーブルの上の紙幣、そして彼が座っていた椅子の温もりが消えていくのを感じながら。カップの縁には、彼の唇が触れた跡。それをじっと見つめていると、不思議な感覚に包まれた。彼の存在がまだここにあるような、でも確実に遠ざかっていくような。
五年前のあの日、高校を卒業した時、私は彼との再会を夢見ていた。そして今日、彼は偶然私を見つけた。でも、それは私が思い描いていた再会とは違った。ベタなラブストーリーのようなハッピーエンドはなかった。ただの偶然の出会いと、短い会話だけ。
でも、彼の目に映った私の姿は、五年前とは違っていた。演技者として成長した私を見てくれた。その事実だけで、何か救われる思いがした。
店を出ると、夜風が頬を撫でた。それは五年前の卒業式の日を思い出させる。あの日も風が強かった。もう一度、彼の後ろ姿を探して辺りを見回したが、当然、彼の姿はなかった。
下北沢の路地は、この時間になると独特の雰囲気に包まれる。古着屋から漏れる光、小さなライブハウスから聞こえる音楽の断片、行き交う若者たちの笑い声。それらすべてが、私の中の喪失感と奇妙なコントラストを成していた。
劇場に戻る道すがら、私は青いノートのことを思い出した。彼がくれたあの革製のノート。五年間、私はそれに思いを綴ってきた。喜びも、悲しみも、寂しさも。そのノートには、彼に対する未完成の思いが詰まっている。でも、これで終わりにしなければならないのかもしれない。
下北沢の複雑に入り組んだ路地を歩きながら、私は考えた。自分の演技と同じように、私の感情も自己検閲されていた。本当の気持ちは、まだノートの中にしか存在していない。そして、その気持ちを今日も伝えられなかった。
劇場に着くと、誠治が入り口で待っていた。「どこ行ってたの?」彼の声には、いつもより強い苛立ちが混じっていた。その姿を見て、私は急に疲れを感じた。瀬名先生との二十分が、誠治との三ヶ月よりも強く心に残っている事実。それは何を意味するのだろう。
「ちょっと知り合いに会っただけ」私は答えた。「高校時代の恩師」
誠治は私の顔をじっと見た。私には、彼の視線が急に息苦しく感じられた。その視線の奥にある欲望と支配欲が、今までになく鮮明に見えた。
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