第1章(9)卒業式の裏切り
卒業式当日の朝、私は普段より早く目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、星がうっすらと残っている。TikTokで「#卒業式」に関連する投稿が溢れている時期。でも私にとっては、特別な日。今日という日を迎えるまで、どれだけ待ち望んできたことだろう。
一斉休校からすでに3週間。瀬名先生と約束をした日から、今日まで学校に来ていなかった。突然の休校措置で、友達とも対面では会えず、オンラインでのやり取りだけが唯一の繋がり。その間、瀬名先生からもらった青いノートには、一言も書けずにいた。何か書いてしまうと、もう二度と会えないような気がして。そのノートを開くたび、彼との約束を思い出し、胸が締め付けられた。でも今日、ようやく会える。
県内の私立大学の演劇学科には、無事合格が決まった。4月から晴れて演劇漬けの大学生になる。実家から通える距離ということで、母親も安心してくれた。瀬名先生もきっと喜んでくれるだろう。
鏡の前で制服を整えながら、私は何度も胸の高まりを感じていた。上気した頬を抑えようと、STUDIOUSで買ったミストを顔にかけた。冷たい感触が肌を引き締める。今日が終われば、約束通り瀬名先生と二人きりで会える。「私、先生のことが...」自分の気持ちを伝えられるだろうか。想像するだけで顔が熱くなる。もう生徒ではなくなる。瀬名先生とも、カウンセラーと患者という関係ではなくなる。対等な大人同士として会える。
テレビからは、中国の武漢で発生し、今や日本にも広がり始めている新型コロナウイルスについてのニュースが流れていた。「都内で新たに感染者」「イベント自粛要請」「マスク品薄続く」という言葉が聞こえてくる。不安な状況が広がり始めている。私たちの卒業式も規模を縮小して行われることになったと、学校からメールが来ていた。保護者の参加も限られ、式典後の謝恩会も中止。友達と最後の思い出を作る予定だったのに。でも、彼との約束だけは果たされるはず。彼だけが私を前に進ませる希望だった。
「もしもし、美咲?今から学校行くけど、一緒に行く?」電話の向こうで、美咲の声が眠そうに応える。「え?まだ早いって?でも今日は卒業式だよ」今日という日を一秒でも早く迎えたい気持ちが、全身に満ちていた。
早すぎることはわかっていた。でも、じっと家にいることができなかった。胸の高鳴りをどうすることもできなかった。青いノートを鞄に入れながら、今日の後、瀬名先生にこの気持ちを伝えられるだろうかと考えていた。「私、先生のことが...」その先の言葉を練習しても、恥ずかしさで声が出なかった。
不織布マスクを手に取り、鏡の前で装着する。白いマスクが顔の半分を覆い、表情を隠す。以前なら嫌だったかもしれないけれど、今日は少し心強い。感情が顔に出やすい私にとって、マスクは感情を隠す小さな盾になった。
空は驚くほど晴れ渡っていた。乙女座の満月が過ぎ、春分を迎えようとしている空。校門の両脇に並ぶ桜の木々がうっすり薄紅色に色づき始めていた。かつては恐怖でしかなかった桜の風景が、今は心を躍らせる。中学時代のトラウマが、瀬名先生のおかげで少しずつ癒えていたのだ。「もう怖くないよね」と独り言ちて、柔らかな花びらを見上げた。この桜の下で、今日、彼と会えると思うと胸が高鳴る。校庭の奥の桜も膨らんだつぼみをつけ、春の気配が溢れていた。青空に向かって伸びる枝々が、希望に満ちた未来を指し示しているようだった。
朝早く登校した私は、玄関を入るなり、異様な空気を感じた。廊下では数人の生徒たちが集まり、こそこそと何かを話している。私を見ると、急に言葉を切り、視線を外した。高校最後の日なのに、この重苦しい空気は何だろう。
「陽菜、大変なことになってるよ」マスク越しの美咲の声は少し籠もって聞こえた。彼女の目には明らかな心配の色が浮かんでいた。「聞いた?瀬名先生のこと」
「何?」胸がどきりとする。冷たい風が背筋を通り過ぎたように感じた。
「ネットに写真が出回ってるらしいの」美咲は小声で言った。周囲を警戒するように視線を走らせながら。「ほら、これ」
彼女のスマホ画面を見た私は、息を呑んだ。
そこには私と瀬名先生が二人きりでいる写真が数枚映っていた。校舎裏で雨宿りをしていた時の写真、保健室で瀬名先生が私の肩に手を置いていた瞬間の写真。他にも何枚もある。文脈を取り除けば、まるで親密な関係であるかのように見えた。いずれも遠くから盗撮されたような角度の写真で、2人の表情まではよく見えない。でも、それが私たちだとはっきりわかった。
「この写真...」言葉が出ない。手が震えている。息が詰まるような感覚。教室の蛍光灯の白い光が、急に冷たく感じられた。「誰が...」
「学校の掲示板に匿名で投稿されたんだって」美咲は言った。「みんな、先生と陽菜が特別な関係だったって...」彼女は言いにくそうに言葉を選んでいた。
頭が混乱する。心臓の鼓動が早まり、視界が狭まっていく感覚。そんなことはない。私たちは単なる先生と生徒で、演技の指導をしてもらっていただけ。確かに特別な感情はあったかもしれないけれど、そんな関係ではなかった。なのに、なぜこんな写真が。
「瀬名先生は?」震える声で尋ねた。喉から声を絞り出すのが辛かった。「今日、来るよね?私たちの約束...」
「今日は来ないらしいよ」美咲はマスクの上から手で口元を覆うようにして小声で言った。彼女の目には本当の同情が浮かんでいた。「SNSで炎上してるみたい...Twitterでハッシュタグまで作られてる」
約束していたはずなのに。何かおかしい。事情を知らなければ。私たちを写した誰かがいた。それが誰なのか。
「森田先生に話を聞きたい」という一心で、私は足早に職員室へ向かった。頬に伝う熱い涙を拭いながら。こんな状況で、約束を反故にするような人ではないはず。何か事情があるに違いない。頭の中では、夢に描いていた今日の風景が粉々に砕け散っていくのを感じていた。スマホからは次々と通知が鳴り、何人もの友人からのメッセージが届いている。でも、確認する勇気もなかった。
職員室のドアをノックすると、マスク姿の担任の森田先生が出てきた。私の顔を見るなり、彼女の表情が曇った。何かを隠そうとするような、困惑とも言える表情。
「山﨑さん」彼女は困ったように言った。彼女の目が私の赤く腫れた目を見て、さらに沈んだ。「ちょっと教頭室に来てくれるかしら」
教頭室では、厳しい表情の教頭先生が私を待っていた。窓から差し込む光が彼の白髪を照らし、いつも以上に威厳を感じさせる。マスクの上からでも伝わる険しい表情。机の上には見覚えのある写真が置かれていた。雨の日の私たち。膝の手当てをしてくれている瀬名先生。いずれも、記憶の中の温かな瞬間だったのに、こうして第三者の視線で切り取られると、まるで別のものに見えてしまう。
「山﨑さん」教頭は重々しく口を開いた。「瀬名先生のことで来たんだね」
私は小さく頷いた。指先が冷たくなるのを感じる。喉が乾き、言葉が出てこない。朝の幸福感は完全に消え失せ、代わりに冷たい不安が全身を包み込んでいた。心臓がバクバクと鳴り、胸が締め付けられるような感覚。
「教頭先生、これは誤解です」必死に言葉を絞り出した。「先生は演技を教えてくれただけで...」
教頭は手を上げて、私の言葉を遮った。「瀬名先生は自ら卒業式への出席を取りやめた」教頭は淡々と言った。「あの写真が出回ってからね。彼はすべてを認めて、謝罪したんだ。『全て私の責任です。生徒との距離が近すぎました』と」
私の中で何かが崩れていくような感覚。何を認めたというのか。私たちの間には何もなかった。演技の指導と、少しだけ特別な感情。それだけなのに。こみ上げてくる言葉が、喉につかえる。
「でも、そんな関係じゃ-----」言葉を続けられない。胸の奥が痛い。
「彼は君に迷惑がかからないよう考えてくれたんだろう」教頭は私の言葉を遮った。教頭の声は不必要なほど大きく、マスク越しでも響く事務的な調子。「学校としても、君の進学に影響が出ないよう、この件は内々に処理することにした。幸い、君はもう合格も決まっているし...」
教頭の言葉が次第に遠くなっていく。耳鳴りのような音だけが響く。彼は自分を犠牲にして、私を守ろうとしたのか。約束を破ったのも、そのためだったのか。心の奥で、叫びたいほどの怒りと悲しみが渦巻いた。
「本当のことを聞いてもらえませんか」私は震える声で言った。「私たちは...」
「山﨑さん」教頭はマスクを少し下げて、はっきりとした口調で言った。「もう終わった話だ。君の将来のためにも、これ以上の話は控えてくれないか。それに今は、このウイルス対応で学校も大変なんだ。今日の卒業式だって、例年とは全く違う形になる。皆が我慢している時なんだよ」
言葉を遮られる痛み。聞いてもらえない苦しさ。何度目だろう、こうして大人に黙らされるのは。中学の時、演劇での失敗を笑われた時も、先生は「気にしなくていい」と言うだけで、私の痛みを本当には理解してくれなかった。両親が離婚する時も、「大人の事情」と片付けられて、私の気持ちは二の次だった。
そして今、またしても。本当のことを言いたいのに、真実を伝えたいのに、大人の世界の「都合」で黙らされる。この理不尽さに対する怒りが、悲しみを上回った。でも、それを表現する言葉も、力も持ち合わせていなかった。
窓の外では、朝日が明るく照りつけ、マスク姿の生徒たちが粛々と登校してくる。例年なら賑やかなはずの卒業式の朝も、今年は静かだ。『鬼滅の刃』のマスクをした下級生たちが、距離を保ちながら写真を撮っている姿が見える。東京オリンピックのポスターも見えるが、開催を危ぶむ声も聞こえ始めているという。すべてが変わり始めている世界。そして、私の中でも何もかもが崩れ落ちていた。
教頭室を出た後、私はトイレに駆け込んだ。個室に閉じこもり、マスクを外して涙が止まらなくなった。スマホには30以上の未読メッセージ。LINE、Twitter、Instagram。友達からの心配のメッセージもあれば、詮索するような内容もある。
トイレの扉に貼られた「手洗い・消毒を徹底しましょう」というポスターを見つめながら、深呼吸をして、瀬名先生からもらった青いノートを取り出した。革の表紙に刻まれたコンパスマークを指でなぞる。「方向を示すコンパス」と彼が言っていた言葉を思い出す。
休校期間の間、何度もこのノートを開いたけれど、一言も書けなかった。「感情の整理に役立つ」と彼は言ったけれど、何か書いてしまうと、もう会えないような気がした。まるで日記に書くことで、何かが終わってしまうような。だから白紙のまま、持ち歩いていた。今、私はどこに向かっているのだろう。彼のいない未来に。そしてこのウイルスで世界が変わっていく中、演劇の夢はどうなるのだろう。人が集まることができないこんな世の中で、舞台に立つことはできるのだろうか。不安が押し寄せてきた。
鏡に映る自分の顔は、涙で赤く腫れていた。Twitterではすでに「#桜坂高校」というハッシュタグが拡散している。見てはいけないと思いながら、指が勝手にスクロールする。「あの女子、完全にハマってた」「教師の方も問題あるでしょ」「高校生にちょっかい出す最低教師」「あの女子はトラウマもちらしいじゃん」。見知らぬ人の言葉が、ナイフのように心を刺す。
事実を知らない人たちの勝手な推測。私と瀬名先生にしかわからない真実。でも、もう彼に会うことはできないのだろうか。卒業式の後、二人きりで会うという約束は。全て幻だったのか。
制服の襟元を直し、涙を拭いてマスクを再度装着した。卒業式に行かなければ。最後の登校日。「陽菜、大丈夫?」美咲のLINEに、「うん、今行く」と返信。彼女だけは、私の味方でいてくれる。
教室には花束や卒業アルバム、記念品が並んでいた。例年なら賑やかなはずの最後の教室も、今年は生徒たちが距離を置いて座り、静かな雰囲気。教室に入ると、一瞬の沈黙があり、それから皆がいつも通りに振る舞おうとする空気。その不自然さが、さらに胸を痛めた。
「陽菜ちゃん、髪型可愛いね」「卒業式の後、教室で少しだけ写真撮ろう!密にならないように少人数で」マスク越しに聞こえる友達たちの優しさが、かえって辛かった。彼らの目の奥に浮かぶ同情と好奇心が見えるようで。「大丈夫」「平気」「なんでもない」。そう言い続けながら、心の中では崩れ落ちていた。
教頭室を後にした私は、虚ろな気持ちで卒業式に臨むことになった。例年よりも人数を減らし、間隔を空けて座った体育館。壇上の先生たちも全員マスク姿。短縮された校歌も、簡潔な校長先生の祝辞も、耳に入らなかった。頭の中はただ瀬名先生のことでいっぱいだった。「希望に満ちた新しい令和の時代に羽ばたいてください」という校長の言葉すら空虚に響く。現実には世界が未知のウイルスに翻弄され始めている。真新しい卒業証書が手の中で震えていた。三月の柔らかな光が、体育館の床に斜めの光の帯を描き出している。
卒業生代表の答辞が続く。「桜坂高校での三年間は私たちの宝物です」その言葉が心に刺さる。私にとっての宝物は、彼との水曜日の時間だったのに。もう二度と戻らない時間。スマホの電源を切っていたのに、胸のポケットが熱く感じられる。まるで誰かからのメッセージが届いているような錯覚。でも現実には、そんなはずはない。
式の後、保健室を訪れたが、そこは閑散としていた。先週まで彼がいた場所に、もう彼の姿はない。窓際の椅子に座り、彼がよく見ていた風景を眺めた。何かを感じ取りたくて。でもそこにあるのは、ただの空っぽの部屋と、消えかけた消毒液の匂いだけだった。どこかに彼の痕跡はないだろうか。ペンの跡、忘れ物、何でもいい。証明が欲しかった。私たちの時間が確かに存在したという。
窓から見える校庭には、普段よりもまばらに、卒業を祝う生徒たちが集まっていた。間を空けて立ち、マスク越しに会話する黒い制服の波が、春の日差しの下で揺れている。桜の花はまだ満開ではないけれど、所々にほころびはじめた蕾が、ピンク色の小さな点となって枝々を彩っていた。約束の桜。彼と見るはずだった風景。
「山﨑先輩」
振り返ると、藤岡明日香がドアの外に立っていた。優雅な制服姿で、マスクの上から覗く目に冷たい光を宿し、完璧に整えられた黒髪が肩で揺れる。「お話、してもいいですか?」
そのひと言で、私はすべてを悟った。私は無言で頷いた。声を出す力も残っていなかった。彼女は静かに保健室に入り、窓際に立った。ちょうど瀬名先生がいつも立っていた場所。それが意図的なのは明らかだった。
「写真のこと、ご存知ですよね」彼女の声には感情がなかった。
一瞬で血の気が引いた。「あなたなの?」
彼女は軽く頷いた。「はい」
「なぜ...」私は震える声で聞いた。膝の痛みより、心の痛みの方が強かった。「なぜそんなことを?」
「あなたが先生と約束するのを聞いたんです」彼女の声が急に強くなった。「あの日、放課後。私はドアの外にいました。二人きりで会うって約束してましたね」
その言葉に、私は息を呑んだ。彼女は私たちの会話を盗み聞きしていたのだ。
「私、ずっと前から先生のことが好きだったんです」彼女は続けた。目に憎しみの色が浮かんでいる。「でも先生は私の気持ちに気づかなかった。私のことしか見てくれなかった人が、急に先輩のほうばかり見るようになって...」
彼女の憎悪に満ちた言葉が保健室に響く。私は言葉を失った。
「最初から写真は撮っていました。いつか役に立つかもしれないと思って」明日香は冷たく言った。「あの日、先生が学校を出るところを待っていました。思い切って告白したんです。でも断られました。『君はまだ高校生だ。そんな関係は君の将来を狭める』って」
彼女の目に涙が浮かんだが、すぐに拭った。「なのに先輩とはいいんですか?卒業したら会うって。私と先輩のどこが違うんですか?」
その場の空気が凍りつくのを感じた。彼女の嫉妬と怒りが、有形のものとなって部屋を満たしているようだった。
「だからSNSに写真を上げたの?」私は静かに尋ねた。
「当然です」彼女は肩をすくめた。挑戦的な表情を浮かべながら。「先生は自分が言ったことと矛盾してる。それを明らかにしただけです」
「でも、こんな騒ぎになるとは思わなかったでしょ?」
彼女の表情が一瞬揺らいだ。「まさか学校中に広まるとは...」彼女は声を弱めた。「でもこれは自業自得です。先生も、先輩も」
彼女の言葉には悪びれる様子がなかった。むしろ、自分のしたことを正当化しようとしているようだった。
「これで先生は学校を去り、二度と会えなくなる」彼女はまるで宣告するように言った。「先輩が特別扱いされる理由なんてないのに」
「明日香ちゃん」私は静かに言った。「本当に先生のことが好きだったの?彼を傷つけるようなことをするなんて」
彼女の目が細くなった。「これは先生のためです。将来、教師としての評判を落とさないために。それに...」彼女は窓の外を見た。「私に会えないなら、先輩にも会わせない」
その瞬間、窓の外に目をやると、校門の近くに見慣れたシルエットが目に入った。黒いコートに背の高い男性。息を呑んだ。瀬名先生だ。あの姿は間違いない。彼は約束を守って来てくれたのか。校庭を隔てて遠く、顔の表情までは見えないけれど、彼の佇まいは記憶に刻まれていた。彼はこちらを見つめているようだった。でも次の瞬間、彼は背を向け、校門から離れていこうとしていた。
「先生!」
思わず窓に手をついた。声は届かない。このまま彼が消えてしまう。一瞬の躊躇もなく、私は保健室から飛び出した。
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