十二月二十日 午後九時(2)

 いつのことだったか、覚えてない。幼稚園か、それ以前か。

「あなたはいい子だね」

 両親なのか親戚なのかもはっきりしないけれど、大人にそう言われた。それが始まりだったと思う。その言葉に含まれた自分への称賛と期待は、まだ未発達な自意識の芽に注がれた甘い水だった。

 いい子。良い行いをする人間。善い生き方をする人間。自分がその評価にふさわしい行いをすれば、周りの人間は笑顔になる。そんな場当たり的というか反射的なものから、俺の人生の進路は決まった、

 より良い行いをするためには知識がいる。能力がいる。だから俺は勉強だって運動だって、目の前の課題には全力を持って取り組んできた。最初は自分が気持ちよくなるために、世界が広がっていくうちに、他人の為に尽くすようになった。小学校の高学年になるころには、つまりクロと出会ったときには既にそのスタンスが確立されていたはずだ。

 テストの点数。徒競走のタイム。通知表の数字。それらは俺のアイデンティティに深く栄養をやったけれど、それに囚われることなく、人間関係の中に自分の価値を見出していった。

 中学はそのまま学区内の公立に。高校は地元の難関公立校に。大学は旧帝大。親に負担をかけず、バイトで自分の学費を稼いだ。それなりに苦しかったけれど、親と親戚からの、手がかからない子、という評価が欲しかったので身を削った。

 クラスメイトには惜しみなく協力をした。その頃になると俺の体力は他の人間よりも劣るようになっていたので、助っ人というより雑用として色んな場所に顔を出した。生徒会だってやった。自分の時間を削って他人に奉仕した。

 人間関係を丸く収めた。高校二年の頃にできた彼女も、三年の時に後腐れも無く別れた。

 ずっとずっと、他人から見た自分を想定して生きてきた。

 良い人間であろうと、努力して生きてきた。

 その緊張の糸がぱつん、と途切れたのは何か劇的な出来事じゃなくて、単純に経年劣化だったのだろう。大学に通い始めて一年ほど経って、俺はある日突然、動けなくなった。

 元からあった、自分が次起き上がることはできないのではないかという杞憂が不眠の形を取って襲い掛かり続けていたのも間違いなく影響しているだろう。高校までは騙し騙し動かし続けてきた体は、俺が思うよりもダメージを受けていた。

 虚無。焦燥。自分がそんな無様な状態であると知られることの怖さ。自分の思う善い、つまり健康な体から離れていく悍ましさ。そうしてじわりじわりと蝕まれた精神は、俺のそれまでの人生における夢を、脆く壊した。

 自分はいい人間であり続けられるのか?

 動くことも寝ることもできない状態で?

 絶望は諦念に変わり、俺の人生に蔓が巻き付いていたことに気づいて、それでも振りほどけないことを確信してしまい。

 俺は、動けないまま目を覚ました。

 いい人間、という儚い夢から。

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