十二月九日 午前十時(2)

「んじゃ、両親はもう東京なのか」

「多分な。クロの両親……は、もういないんだっけか」

「おう。そんな辛気臭え顔すんなよ。オレはそのお陰で自由きままに生きてこれたんだからさ」

 クロが屈託なく笑う。犬歯を剥きだすような、好戦的にすら見える笑顔は最後に会った中学三年生のときから全く変わっていなかった。クロはどこかからかっぱらってきた酒瓶と、カロリーだけは過剰に摂取できそうな菓子をテーブルに並べて、それらを品定めするようにひとつずつ手にとっては戻しながら、ソファに腰を下ろした。俺はテーブルの向かいに座り、どうして家主が床に座ってんだと理不尽さを感じながらクロの次の言葉を待った。

「ハチ、オマエならここにいてくれると思ったよ」

「なんでだよ」

「風の噂って奴さ。大学行かなくなって、引きこもってたんだろ?」

 クロが今の今までどこにいたのかは知らないけれど、耳の早い奴だ。思わず眉を顰めて視線を逸らすと、クロは再び笑って煙草に火を点ける。

「ま、別に詳しいことは聞かねぇよ。つうか興味もねぇ」

「ちょっとはあれよ」

 ぷかり、と浮かんだ紫煙が天井付近に留まっていく。このマンション禁煙なんだけど。そんな今となっては順守する必要もないルールを破ることに若干の苦々しさを覚える自分にこそ苛立ちを覚えつつ、およそ四年ぶりに呼ばれた愛称の響きを耳の中で確かめて、何も言えなくなった。

 八戸祐輔はちのへゆうすけ。だからハチ。忠犬かよ、と初めて呼ばれた時は感じたけれど、今となっては自分のフルネームよりしっくりくるあだ名だった。クロ――葛西九朗かさいくろう――は自分で持ってきた灰皿に煙草を押し付けて消した。

「見当はつくからな。また再発したのか? 不眠症」

「……ああ。再発って言葉が正しいのかわからないけどさ」

「難儀だねぇ」

 中学生の頃から、俺は眠るのが怖くなった。今にして思えば思春期特有の過剰な不安だったんだろうが、それは今でも尾を引いている。クロはそこのところの事情も十分に知っているので、俺も気楽に話すことができた。それに、ある意味クロは不眠仲間とも言えるわけだし。

「ま、今も寝ててなくて助かったけどな」

「こっちは大変なんだ、茶化すなよ。お前は?」

「オレは自分の好きな時に眠る。知ってんだろ?」

 皮肉気に笑うクロは、テーブルの上のポテトチップスの袋を雑に開けて、その内容物を口に咥えた。

 クロは眠らない。所謂ショートスリーパーというやつだ。三時間しか寝なくても平気なんだぜ、なんて自慢げに嘯く連中とは違って、本物の。その性質のせいなのか、それとも彼の享楽的かつ徹底的な性格からなのかは知る由もないが、彼は中学時代から夜遊びを繰り返していた。

 傍から見れば悪い友人関係だったけれど、それでも俺はこいつのことが嫌いじゃなかった。彼のもう一つの性質を含めても、だ。

 なんとなく焦らすような雰囲気に居心地が悪くなった俺は、ポテトチップスを口に放り込んで、切り出した。

「クロ、どうしてここに? お前の行動原理なんて一つしかないってわかってるけどさ、だからこそわからん。お前はもうとっくに東京か、別の大都市か、それとも寝坊病の核心に触れられるような場所にいるかと思ってた」

 クロは興味深げに頷いて、足を組んだ。真っ黒なスラックスが長い脚を窮屈そうに包んでいる。そのシルエットからは、不摂生な生活をしていないことが窺える。

「お前は知られずにはいられない。そうだろ?」

「ああ。やっぱオマエと話すと早くて助かるわ」

 クロはなにか嫌なことでも思い出したのか一度鼻を鳴らすと、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。

 意志と、それ以外の何かでギラギラと鈍く輝いている瞳。相手をブチ抜くかのような視線。四年の時間が圧縮されていくようだった。

 あれは俺達が小学生だったころ。知的好奇心に子どもが突き動かされるなんてのはどこの誰でもあっただろうけれど、クロのそれは明らかに常軌を逸していた。教室に備え付けられたテレビを分解したのだ。

 しかも完璧に元に戻してしまった。興味もない教育ビデオが流されているテレビが完全に、完膚なきまでに分解され切ってそこから再び組み上げられた事実を、犯人であるクロと、掃除当番だったために現場を目撃してしまった俺だけしか知らない。

 思えばそれが友誼の始まりだった気がする。

 図書館の本を片っ端から積み上げては下校時刻までに読み切り、誰に言われずとも飼育小屋のウサギの観察日記を書き、挙句の果てには地元の不良に突撃取材。ベクトルが定まっていないクロの知的好奇心は、誰にも止められることが無かった。

 極めつけが、彼は自分の知的欲求を異常と認識していたことだ。だからこそ巧妙にベールに包み覆い隠して、他の人どころか実の親にさえ知られない中で自分の欲を満たしていった。

 誰にも邪魔されずに。効率的に。

 だから、クロは普通のやんちゃな男子として中学を卒業したあと高校に行かず、どこかを旅していると彼の親から聞いた時、なにも意外じゃなかった。多分彼の周りで俺だけがクロの行動が彼なりに筋が通っていて、彼らしいと思っていたことだろう。

「中学出た後、日本をざっと一周した後、三年間海外回ってたんだよ、オレ」

 クロの言葉で、回想から引き戻された。

「どこ行ったのさ」

「最初はアメリカのヒューストン。んでバックパッカーしながら金稼いで、ロンドン。中国四川省。カザフスタンとかノルウェーにも行った。だけどよ、半年前にいきなり皆眠り始めちまってな。んで、日本に帰ってきた」

「どうして日本なんだよ」

「どうせ寝るなら、生まれ育った場所が一番だろ」

 クロはからからと笑った。どうもなにかを隠していそうだけれど、聞きたいと思わない。話すべき時が来れば話してくれるだろう。人間の心理なんて当の昔に理解しきったこの男の前で、わざわざ自分の思考をこね回す必要もない。

「……ま、そこに関しては、いいや。問題はどうして俺のところに来たのかって話だ。クロ、お前のことだから無意味に来たわけじゃないんだろ?」

「ばァか、旧交を温めるだけでも理由にはなるだろうが」

「そういうタイプでもねーくせに。いいから話せよ」

「オマエさ、月の石って知ってるか?」

 唐突な話題の転換と共に、クロは足を組むのをやめて、更にリラックスしたように背もたれに体を預けて、天を仰いだ。いつの間にか火のついた煙草が口に咥えられている。

「あれか? 大阪万博だかの」

「おう、それよそれ。じゃあ、それがどこにあるかは?」

「……さぁ?」

 話の脈絡が掴めないまま、記憶をひっくり返した。けれど俺のライブラリにはそんな知識は全く存在しない。

「上野の国立科学博物館に展示されてんだ」

「東京の? へぇ……」

 全く興味がない。心底どうでもよかった。クロは俺の心を見透かしているのか、つまらなそうに口を歪ませてから、大きく煙を吐き出した。

「オレはそれが欲しい」

 まるで新しい服が欲しい、とでも言うかのような気軽さで、クロは言った。

「欲しいって……なんでまた」

「興味。それ以上も以下もねぇ。そんでそれが最重要だ。オレの本能がそう言ってる」

 気軽な口調とは裏腹に、上を向いて紫煙を眺めるクロの目は本気だった。絶対揺るがない時の目だ。四年ぶりに、俺の錆びついた危険感知センサーが大声でわめき始める。

 思えばおかしな話だった。彼は欲しいものを言っただけだ。欲しいから上野に行くとも、俺を巻き込もうとしているだのを言ったわけじゃない。本来ならば危機を察知できる状況に無いはずだ。

 つまり、俺は自分で思っている以上にこいつのことを理解していて、なおかつ、身長もかなり伸びて完全に大人になったこいつが、俺の予想通りガキのままでいたというわけだ。

「なあ、ハチ。オマエの悪い癖だよ。勝手に類推して、思い込んで気を揉むな。オマエはオレの言葉を聞いてから決めりゃいい。シンプルになれよ」

「……予想がついちまうだけだよ。ああ、もう。とりあえず先を言えよ。欲しい、だからどうした?」

「ハチ、一緒に東京行くぞ」

 予想通りだったので、気兼ねなく気を揉むことにした。大きく吐いた溜息をからかうようにクロは声を上げて笑った。

「オマエの心ん中を当ててやる。『どうして俺が』だろ?」

「正解だよ。わかってんなら言うなよ」

「わかってるから言うんだろうが」

 まるで今まで離れたことのない友人に向けるような気安さだった。俺は足を崩して、目を瞑った。クロが俺を選んだ理由。そんなものがどうであれ、こいつが俺の元に来てしまった事実は変わらないのだから考えるだけ無駄だ。

 上野、東京。そこまでの距離を頭の中で思い浮かべる。日本列島をぐいっと南下する一本の線を辿るのに、体力的にも治安的にも困難が無いとは言えない。ただ、ここに居続けたところで事態が好転しないが、東京に行けば少しはマシな生活を送れる可能性は高い。うんざりするくらい消極的な考え方だったが、ただ死を待つよりかは幾分か良いように思える。

 長い煩悶の末、俺は手をクロに差し出した。

「どうせお前のことだから、俺が断らないと思ったんだろ」

「ああ。だってオマエは、いいやつだからな」

 呪いよりも質の悪い言葉を俺に吐いたクロは、もったいぶって新しい煙草にゆっくりと火を点けてから、俺の手を、掴んだ。

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