5-2

九月になった。

 スマホのフォルダのなかの写真を眺めていた黒木は、人の気配がしてそれを閉じた。

「なんだ、女か」

「違うよ」

「見せろ」

「やだよ」

「へっ」

 今度の潜入捜査は、香港マフィアを相手にした暴力団の麻薬取引だ。国内での取り締まりが厳しくなっていく一方であるため、最近連中は国外に手を出している。黒木の任務は、そのルートを押さえ連中を一斉に検挙することである。

「おっさん、若く見えんのにやるね」

「ほっとけ」

「いくつだっけ、おっさん」

「昨日で三十九だ」

「へえ、誕生日だったの。確かにおっさんだ」

 若い人間と話していると気が滅入る。やくざの下っ端になる若者の頭の中身など、この程度だ。

「俺の彼女、十八。若いっしょ」

「そうだな」

 煙草をくゆらせながら、適当に相槌を打つ。

「それがもー、何度もねだってくんの。絶倫。腰やべー」

「そうかよ。やりすぎて死ぬなよ」

 隣で彼女の痴態を再現する若者をぼーっと見ながら、俺の彼女は今ごろどうしてるんだろうと思う。

 突然いなくなって、泣いてないだろうか。怒っただろうか。傷つけて、しまっただろうか。

 そういや一緒に写真、撮らなかったな。撮っときゃよかった。写真、これしかないもんな。

 思いつつ、もう一度スマホを取り出す。黒猫と戯れるあの子。画面のなかでは、笑っている。

 それでなんとなくほっとして、煙草の火を地面で消して立ち上がった。

「行くぞ」

「あっ待ってよおっさん」

 今日は若頭が取引先の一つに行く日だ。自分はその運転手を務める。こうして、点数を稼いでお抱えになっていくのがいつものやり方だ。

「若頭がお出かけだ」

「はい。ただいま」

「へ、へい」

 黒木はネクタイを締め直すと、門の前に立って若頭が出てくるのを待った。そして彼がやってくると、丁寧に一礼して、それから先に立って車のドアを開けた。

 行き先は大黒埠頭。まったく、もっともらしいとこで会いやがって反吐が出るぜ。

 澄ました顔で運転席に座ると、滑りだすように車を発進させた。

 取引がすんだ帰り道、黒木はルームミラーを見ながらあることに気がついた。

「若頭」

 ふつうなら、彼のような下っ端が若頭クラスに話しかけるなどとは言語道断である。だから、当然若頭は苛立ったように顔を上げた。

「なんだ」

「尾けられてます」

「なに」

「どうやらさっきの取引相手のようですね」

 若頭が後ろを振り向いた。

「おっと、振り向いちゃいけません。そのまま前を向いていてください。撒きます」

「できるのか」

「努力します」

 言うや、黒木はハンドルを大きく右に切った。

「つかまって」

 車が急発進して、猛スピードで走り出した。後ろにいた車も、それについてきた。

「やっぱりな」

 黒木はルームミラーでそれを見て舌打ちすると、見てろよ、と呟いてハンドルを左右に切り始めた。

 タイヤが地面をこする耳障りな音が何度も聞こえてきて、若頭は助手席の背につかまりながら大丈夫か、と何度も聞きそうになった。

 しかし、後ろから見るこの運転手の顔は至極冷静である。それで、彼も落ち着きを取り戻した。

 角を曲がり、小路を何度も行くと、あの車はこちらを見失ったようだった。

「いなくなりましたね」

「やったか」

「どうやら」

「よくやった」

 若頭はため息をつくと、スマホを取り出して誰かに連絡して、今日の取引はやめだ、と告げた。それで、すべてはなしになったようだった。

「お前、名前なんていうんだ」

「太田です」

「次から俺の運転はお前がやれ」

「ありがとうございます」

 いいぞ。うまくいった。

 組の屋敷に着いて、若頭を下ろす。頭を下げて、彼を見送る。

 次の週、盛り場に遊びに行くふりをして、風俗店の裏口の階段裏に座っていると、暗闇にライターの火が点った。

「どうだ調子は」

「うまくいってる。運転手になったぞ」

「いいぞ。そのまま奴の信用を得ていって取引現場に行けるよう食い込むんだ。いつものようにな」

「いつものように、ね」

 馬鹿にしたように笑う黒木の声に、違和感を持ったのだろう。高橋が尋ねた。

「どうした」

「これが最後だということを忘れてもらっちゃ困るよ」

「……」

「この任務が成功したら、俺はこの仕事を辞める」

 言うと、黒木は立ち上がって店に入っていった。

 繁華街の雑踏のざわめきが、うるさく聞こえてきている。

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