3-2
梅雨に入って、曇天続きの空である。
その週末の夜、食事が終わって片づけがすんだ黒木は、
「碧ちゃん」
「はい」
「おじさん、走ってくるね」
「はーい」
と運動しに出かけた。これは、彼の日課である。碧は見ているから知っているが、彼は無駄な贅肉がない。やっぱり、探偵って身体が資本なのかな。大変なんだな。
黒木は、一度運動しに行くと二時間は戻ってこない。公園まで走りに行って、そこで腹筋やら背筋やらもついでに鍛えてくるというのだ。ご苦労なことである。
碧はその間に入浴する。そして、タブレットでイラストを描いているのだ。これが二人の週末の各自の時間の使い方である。
碧が風呂から出て、いつものようにうさめとコミュニケーションをとって着替え、髪を乾かしていた時のことである。
玄関のチャイムが鳴った。
「?」
誰だろう、こんな時間に。時計を見ると、九時である。ドアホンを見ると、カメラに映っているのは紛れもない、黒木だった。
「あれー?」
しかし、彼のその後ろにもう一人誰かいる。おかしいな。なんで一人で出ていったのにもう一人連れてるんだろ。もしかして幽霊とか? まさかね。
「獅郎さん?」
と、玄関を開けると、そこには困り顔の黒木と、制服姿の警察官が立っていた。
「――」
碧がぽかんとそれを見つめていると、
「碧ちゃん、俺の財布取ってきて」
「え、あ、はい」
なにがなんだかわからなくて、碧は慌てて部屋のなかに入り、黒木の服から財布を取り出した。そして玄関に走って行って黒木にそれを渡した。
「では、免許証を拝見」
「これです」
あ、これ、職務質問だ。
碧は吹き出すのを必死でこらえようとして、肩が震えるのを抑えた。
「結構です。ではこれで」
「ご苦労さまです」
「おやすみなさい」
警察官が敬礼して帰って行って、黒木がなんともいえない顔でこちらをむいた瞬間、碧はとうとう抑えきれなくなって笑いだしてしまった。
「ちょっとちょっと笑い事じゃないよもう」
「ふ、ふ、ふ、あ、あやしすぎるんだ。だから職務質問されたんだ」
「参ったよ。公園まで行ったら、いきなりちょっといいですか、って声かけられて。あなたこの辺のひとですかって聞かれて。この辺のひとじゃないから違いますってこたえたら、話がどんどんおかしな方向に行っちゃって」
「ふ、ふ、それで、ふふふ、それで連れて帰ったの。お、おまわりさんを?」
「そう」
ぷーっと碧は笑う。
「あはははは」
「もー他人事だと思ってー」
「獅郎さん確かに人相悪いから」
「そうかなあ」
「堅気のひとには見えないもんねえ」
「そう?」
「はい」
「がっくり」
「まあまあ、うちの辺りが治安がいいっていう証明になってよかったじゃないですか。いいおまわりさんに守られてるっていう証拠ですよ」
「そうだなあ」
「今日は運動できませんでしたね」
「そうだけど、いいことにするよ。風呂に入る」
「はーい」
碧はまだくすくす笑いながら、イラストでも描こうとタブレットを取り出した。
碧の家の風呂の設定温度は、相変わらず熱い。だから黒木は風呂から上がるとすぐに着替えられず、上半身裸で出てくる。
「ねえ獅郎さん」
「んー」
「これ、どうしたの」
その身体のあちこちについた傷に、碧は触れて言った。腕、腹、胸。暗がりではうっすらとしか見えないそれが、明るい場所だとありありと見てとれた。
「これ?」
黒木は指差された脇腹の傷を触りながら、
「これは、依頼人に言われて探してた家出少年に刺されたんだ。八針縫った。帰りたくないってごねられて、ふん捕まえて縛って連れてった。俺もそいつも血まみれになったよ」
「痛そう」
「こっちのは、やくざの出入りに巻き込まれてやっぱり刺されてできた傷。こっちのは脱走した犬に噛まれたやつ」
「生傷が絶えないね」
「しょうがないよ」
黒木の肩にもたれかかりながら、碧はしんみりと言った。
「なるべくあぶないこと、しないでくださいね」
「……そうだね」
年内に任務の話が来そうだという、高橋の言葉が脳裏に蘇る。
やりきれなくなって、碧を抱き上げてベッドに運んだ。
「碧ちゃん」
彼は碧の耳元で囁く。
「好きだよ」
一心に彼女を見つめながら、黒木はいつも碧にそう言う。
「愛してる」
情熱的な黒木の動きについていくのが精一杯で、碧はそれにはいつもこたえられない。
うん、うん、と返事をするのがせいぜいである。
すべてが終わると、黒木は碧をじっと抱いている。かつて恋人がいたのに碧の元へ通っていた男のように、さっさと寝室から出ていってテレビをつけ一服するなどということは、しない。
オレンジが枕元へやってきて、黒木の顔を踏んだ。
「こいつめ」
「だいぶ慣れましたね」
茶トラの猫は碧のぬいぐるみをふんふんと嗅いでいる。オレンジは最近、こたつの下に入って寝るようになった。うさめと一緒になって眠ることはないが、二匹仲良くやっている。しかし互いに毛づくろいはするようになって、碧はその写真を夢中になって撮り黒木に見せた。
それから、碧が小さい頃から飼っている歴代の猫たちの話になった。
メロンが好きだった猫、二十歳まで生きた猫、悲しい死に方をしてしまった猫、愛想がよすぎて何度も誘拐されかけた猫、どれも思い出が詰まっていた。
そんな話をしているうちに、夜中になっていた。
「シャワー浴びてくる」
黒木はベッドから出て、碧は薬を飲むために起き上がった。
次の病院の日は、来週の火曜日だ。
碧の行く病院は心療内科でも精神科でもなく、脳神経内科である。鬱は脳の病気だからだ。
そこで碧は、医者と色々な話をする。会社の話、イラストの話、今までの彼氏の話、家族の話、黒木の話。
「ほう、今の男は今までと違ってまともな男なようだな」
「うん、すごく大切にしてくれる。身体目当てじゃないし、いろんなとこ連れてってくれる。前の彼氏は、どこにも連れてってくれなかったから」
医師との信頼関係ができている碧は、こういう話し方をする。医者の方も、まるで彼女と友達と話すように語る。碧がなんでも話すことのできる相手、それがこの医師だった。
「薬の調子はどうだ」
「睡眠薬、一種類でいいと思う。マイスリーいらない。無駄に眠くなる」
「じゃあ減らそう」
そうして三十分ほども話して、碧は処方箋を受け取って帰っていく。会社の昼休みを使って通っているので、急いで戻らなくてはならない。
途中のコンビニで昼食を買って会社に戻る途中、誰かと行き会った。
「別れろと言ったのに、まだ続いているのか」
いつか上高地で会った、あの男だった。
「――」
「君のためにもならないんだぞ。ひいては、黒木のためにもならないんだ」
「あなたなんなんですか?」
「だいたい、君みたいな女が黒木のなにを知ってるというんだ」
「知ってるわよ。誕生日が九月だってことも青が好きだってこともうなぎが嫌いだってことも知ってるわよ」
男は鼻で嗤った。
「そんなこと」
「自分も恋人だからって、何様のつもり?」
「なっ、お、俺が恋人だと?」
「そうよ。獅郎さんの恋人なんでしょ。なによ妬いちゃって、みっともない」
「ち、ちが」
「私戻らなくちゃいけないんで失礼します」
ただでさえ急いでいるのに、こんな馬鹿馬鹿しいことで足止めを食らっている暇はないのだ。頭に来た。
次の日、昼休みに黒木の事務所で昼食を食べながら、碧は彼に言った。
「獅郎さんの恋人、また来ました」
「へ? こいびと?」
サンドイッチを食べかけていた黒木は、それを聞いて食べるのをやめ、なんのことだと碧の方を見た。
「恋人は碧ちゃんでしょ」
「そうじゃなくて、男性の恋人の方です」
黒木はぽりぽりと頭をかいた。
「俺、そういう趣味はないけど」
「でも、また来ました。別れろって。獅郎さんのことなんにも知らないくせにって言ってきて、馬鹿にするんですよ。きーっ」
「で、なんて言ったの」
「誕生日と青が好きなの知ってる、うなぎが嫌いなのも知ってるって言いました」
「そしたら?」
「もっと馬鹿にされました」
「ふーん」
「もう、なんなんですかあのひと」
ぷりぷりになって怒る碧の横で、黒木は一人、考えている。高橋め。
「まあまあ、機嫌直して。今度紫陽花でも見にいこうよ」
碧はぴたりと動きを止めた。
「あじさい?」
「近くの神社に、たくさん咲いてるんだ。見ごろだと思うよ」
「いいですね。雨降るかな」
「降ってたらきれいだろうね」
そこで金曜日の会社終わり、オレンジを連れた黒木と共に神社まで歩いていって紫陽花を見にいった。すでに季節は夏だから、空はまだまだ明るい。
それに神社の庭の灯かりで明るくて、充分に花を見ることができた。
碧は今、新たなコンペのためのイラストを手がけている。ブロンズの称号まで、あと一つだ。
赤を基調に花をイメージした華やかな名刺を作ってほしいという依頼だったので、蓮の花のような形の花が開く様をデフォルメしてそれを彩色していった。
「できた。アップしよう」
「今度のコンペ用?」
「はい」
黒木が出来上がったデザインを覗いてきた。
「ずいぶんと華やかな花だね」
「そういうものを作ってほしいという依頼だったので、思い切りよくしてみました」
「いいんじゃない」
今度のコンペには、十二、三人くらいの競合者が集まっている。どうなるだろう。
それが終わって、ひと息ついた。
「そういえば、来週朝一で課長に呼ばれてるんですよね。なんだろ」
「なんかあったの」
「うーんなんかヘマした覚えはないんですけど」
もしそうなら、課長ではなく主任か先輩に注意を受けるはずである。なぜ、いきなり課長なのか。
思い当たるふしがないまま月曜日を迎え、共に出社して、いってらっしゃい、いってきます、またお昼にね、と会社の玄関口で言い合って別れた。
黒木が昼食を買って碧を待っていると、彼女は心なしか暗い表情で事務所にやってきた。
「お、おかえり。課長の話、なんだった」
「……」
後ろ手に扉を閉めた碧の顔は、冴えない。
「どうしたの」
碧はソファに座ると、一言、
「クビだって」
と言った。
黒木は驚きのあまり、一拍置いて、
「えっ」
とこたえた。
「なんで」
「宇藤さん、月曜の朝から言いにくいんだけど、あなたが来てから一年、ミスが多いです。 残念ながらこれ以上うちで雇うことはできません。って」
「そんな理由で解雇って有り得るのかなあ」
碧はうつむいた。そして深々とため息をついて、
「私、仕事運がないんです。またクビになっちゃいました。地方の会社でも、これの繰り返しでした。仕事を覚えたと思った頃に、会社からいらないって言われるんです」
「碧ちゃん……」
「わかってたつもりでしたけど、こうも続くとちょっと自信なくしちゃいます」
黒木は食べ物を脇に置いて、腕を広げた。
「おいで」
碧はおずおずとその腕のなかに行くと、すっぽりと黒木の胸に抱かれた。
「よしよし」
「どうすればいいか、わかりません」
「そうだなあ」
黒木は碧を抱きながら、ちょっと思案する顔になった。
「まずは、飯だよ。腹が減っては戦はできぬ。食べて、元気だして」
彼は買っておいた碧の分の昼食を出すと、彼女に見せた。
「……食欲ないです」
「そこをなんとか。お願い」
ね、と言われて、碧はゆっくりと食事を口に運んだ。
「よし、食べたね。そしたら、次は失業保険だ。離職票を忘れずにもらってきて、住んでる区で手続きする。給料の六割もらえるはずだよ」
「次の仕事、早くみつけなくちゃいけませんね。職歴がそんなにないから、みつけられるかどうかわかんないけど」
「焦らない焦らない」
黒木は自分の知っていることを色々と教えてくれて、昼休みの間詳しく話してくれた。 おかげで碧は、その日の絶望的な午後も乗り切ることができた。
水曜日の昼休み、彼は就職情報誌を持ってきていて、碧にこんな仕事がある、こんな仕事はどう、と提案してくれた。
そして金曜日が来ると、猫の入った籠を片手に会社の玄関口へ碧を迎えにやってきて、碧の失職のことなど一言も口にせずに週末を共に過ごすのだ。
翌月になって、碧の月に一回の通院の日になった。碧は主治医に開口一番、
「クビになった」
と言った。
「なん、なんだと」
「ミスが多いって。もう雇えないって」
「ふうむ」
すると医者は少し考える顔になって、
「もしかすると、あんたは発達障害かもしれんな」
と言った。
「発達障害……?」
「そうすると、ミスが多いのもうなづける。一回うちで検査するから、受付で予約していきなさい」
「テストってどんなのするの」
「パズルとか、熟語とかだ」
「発達障害ってなに?」
「先天性の、脳の障害だ。健常者の脳とはそもそも働きが違うから、障害者として扱われる」
「そうするとどうなるの」
「障害者雇用が使えるぞ」
「それって、いいの」
「給料は、半分くらいになる。しかし少なくとも、クビにはならん」
いいなそれ、と思った。職の安定は、碧の夢である。
「でもお給料が半分になったら、暮らしていけない」
「障害者年金があるから、それを申し込めばよろしい」
そんなものがあるのか。
「詳しいことは役所に行って調べなさい」
と言われ、今日の診察は終わりになった。帰りに受付で発達障害の検査予約をして前金を払い、急いで会社に戻った。
「私、発達障害かもしれないって」
水曜日、黒木に医者に言われたことを話した。
「発達障害って頭のなかでずっと音楽が流れてるとか、そういうやつか」
「みんなは違うの?」
「少なくとも、俺は違うけどね」
碧はうつむいた。
「じゃあ、やっぱり私、そうなのかも」
「音楽、ずっと流れてるんだ」
「うん。流れてる。今日のテーマ曲とかある。毎日変わったり、ずっとおんなじだったり、一度に三曲かかったり、突然曲が変わったりする」
「大変だなあ」
「みんなそうなんだと思ってた。獅郎さんはそうじゃないの?」
「碧ちゃん」
黒木は碧を抱きしめて、そっと言った。
「落ち着いて。座ろう」
黒木は碧と共にそこに座ると、彼女の目を見つめて尋ねた。
「もしそうだとしたら、碧ちゃんはどうしたい?」
「どうしたい、って?」
「給料減らして障害者雇用で働くことになって、それでもやっていけそう? それとも、無理してまた再就職する?」
碧は視線を巡らせて、しばらく考えているようだった。そして彼女はゆっくりと言った。
「……無理だと思う。健常者のふりして働いても、ボロが出てミス連発して、またクビになっちゃう。だったら障害者雇用でクビにならない方がいい」
「そうだね。俺もその方がいいと思う」
黒木は昼食の封を開けながら、静かに言った。
「そしたら、障害者雇用の給料っていくらくらいなのか、調べてみよう」
そこで二人で食べながら検索して調べてみると、案外簡単にわかった。
「……どこもだいたい十万前後みたい」
「ここは十二万だな。だいたいそんなもんなのか。それと、医者の言ってた障害年金がいくらもらえるのかも調べてみないとね」
でも、彼は言った。
「でもまず、検査をしてみないことには、ほんとに発達障害かどうかはわからないよ」
しかしこの時点で、碧は一種の覚悟を決めていた。自分は多分そうだろうという覚悟だ。
検査の日は木曜日しかやっていないというので、会社で半休をもらって病院に行った。
いつもの診察室の隣の部屋で、会ったことのない白衣を着た男性が担当することになった。
「最初はこの小さな積み木を使ってこの図と同じ積み木の模様を作ってもらいます」
見せられた図は、白地の四角形のなかに赤の三角形が描かれたもので、それが六つずつ並んでいるというものだった。それが、いくつもあるのだ。
それと同じ模様の積み木を、時間内に作るのである。
「では、始めてください」
こうかな。あれ、こうだ。ちがう。こうだ。次、これ。こうかな。こっちだ。あ、違う。
と、わたわたしているうちに時間が来てしまって、すべて終えられずにそのテストは終了した。
それと似たことを、延々と繰り返し続けていった。
時に、それは緑と白であったり、黒と赤であったり、半円と円の模様であったりした。
「次に、四文字熟語の問題です。言っていく熟語の意味を答えていってください」
「はい」
「紆余曲折」
「えー……道が折れ曲がっていたり、複雑に絡み合っていることです」
「厚顔無恥」
「恥知らずなことです」
「驚天動地」
「えーと、とても驚かせるようなことです」
「旭日昇天」
「んと、勢いがあることです」
「綱紀粛正」
「んー……乱れた決まりを直して、正すことかな」
「大変けっこうですね。では、忠勇義烈は」
「正義感があり、誠実なこと、かな」
その他にも、十五題ほど熟語を出された。これには、碧は淀みなく答えることができた。
「いいでしょう。ではこれで四文字熟語の問題を終わります」
男性は問題が終わるたびに手元の書類になにかを書き込んでいく。
「では、数字の問題です。今から言う数字を逆に言っていってください。言い直しはできません」
と言われ、にわかに緊張した。
「8、10、11、4、7、18、5。どうぞ」
「5、えーと、11、えー……6? はち? だったかな? あれ?」
「はい、終了です。少し休みます」
「は、はい」
碧は持っていた紅茶を飲んだ。
「次行きます。いいですか」
「はい」
「16、8、7、13、9、3、1、12。どうぞ」
「えー、12。えーと、えー……2? はち? 九? じゅう、よん、かな、あれ、なんだろう。なんだっけ」
「はい、終了です。少し休んでください。ついていけてますか。大丈夫ですか」
「は、はい」
だめ。ぜんぜんだめ。
男性はなにかを書類に書いている。その間、碧はまた紅茶を二口ほど飲んだ。
「次いきます。よろしいですか」
「はい」
「5、10、15、11、3、5、8、13。どうぞ」
「えーとえーと、13。8、えー……ろく、だったかな……よん? じゅう……5……えーとえーと」
「はい、終了です。少し休みます」
といった具合で、全部で十回くらいこれをやらされた。
すべて終わる頃にはくたくたに疲れて、前金を返してもらえたのだけが救いだった。
その夜黒木が心配して、連絡してきた。
『検査、どうだった』
『だめだめだった。特に数字、ぜんぜんできなかった』
『そっか。明日話そう』
そうか。明日は週末だ。それに、もうすぐ退職だ。私、仕事を失うんだ。
どうしようもない絶望感で床が抜けるような感覚に陥る。
もうどうでもいいや。明日は獅郎さんに会えるし、今日は疲れた。帰ろう。
金曜の会社終わり、籠にオレンジを入れて黒木が迎えに来た。電車のなかでどんな検査をしたかを詳しく話して、その後二人で夕食を作って食べた。
あと二週間で退職だ。
親しい同僚と先輩には話してあるが、部全体には言っていない。一年いただけの事務職の扱いなんて、こんなものだ。
「私物も少しずつ持って帰らないと」
「まだ早いんじゃないの」
「私、荷物が多いんです。だからちょっとずつ」
「金曜日に、多めに持っておいで。俺も運ぶの手伝うから」
「獅郎さんはオレンジがいるでしょ」
「籠、リュックにできるやつに変えたんだ。そしたら両手が空くだろ。なかから外が見えるようにして、猫も快適なやつにしたんだよ」
「あ、それいいですね」
そうして金曜日がやってきて、週末を共に過ごす。
ある日、こんなことを思った。
そういえば私、獅郎さんのことなんにも知らない。
「……獅郎さん」
「うん?」
「獅郎さんて、どこの出身ですか」
「俺? 東京だよ」
「どこの学校行ってたの」
「都立の高校出て、大学は青山出た」
「ご両親は、どうしてるんですか」
「早くに亡くなったよ」
「そうなんですか」
「親父は高校の時に、母親は大学の時に死んじゃった。親父はよく酒をのんでは大声を出して暴れるひとでね。酔うと手がつけられなかった。小さい頃は怯えて、押し入れのなかに隠れてたよ。そうすると、母親が殴られる音が聞こえるんだ。それが止むのをずっと聞いてた。死んだって聞いたときはほっとしたよ。親父がそんなんだったから、高校は新聞奨学生っていう、新聞を配る代わりに学校に行かせてもらう制度で行ってたんだ。大学は返さなくていい奨学金もらって、それで行った」
「ふうん……」
苦労してるんだ。私とは大違いなんだな。
黒木は碧の額に手をやった。
「満足?」
碧はその大きな手に目をやって、手で支えると持ち上げてみた。
「時々、不安になります」
「なんで」
「なんにも知らないから、獅郎さんのこと」
起き上がると、黒木と向き合う。彼は碧を正面から見た。
「聞いてくれたら、なんでも答えるよ」
「……わかりました」
そんなことをしているうちに二週間はあっという間に過ぎていって、退職の日がやってきた。
碧は仲の良かった同僚や先輩にちょっとしたものを包んで、それで一年間世話になったお礼とした。この日は金曜日だったので、黒木と一緒に帰った。
二週間の間少しずつ荷物を持って帰ったのが功を奏して、二人とも身軽だった。
「晴れて無職です」
「おめでとう。無限の可能性があるね」
「そうでしょうか」
「あと二週間したら、病院の日だろ。それまで失業保険もらって、のんびりしてなよ」
どうせそれまでは、就職活動もままならない。
アニメを観たりイラストを描いたり、月曜日と水曜日にはこれまで通りに黒木の事務所に昼食を食べに行って、帰りにぶらぶらと散歩しながら帰った。今まで歩いたことのない道を歩くと、野良猫がいたり知らない店を発見したりして、なんだ、無職も悪くないじゃないかと思えるようなことがあった。
ある週末の日、黒木が右腕にギプスをしてきた。
「ひゃあああ。どうしたんですかそれ」
「ちょっと、折っちゃった」
「ちょっとどころの騒ぎじゃないですよ骨折じゃないですか」
痛い? 痛い? と心配する碧に痛くないよとこたえながら、黒木はなんでもない顔で歩く。
「腕折るの初めてじゃないから、もう慣れちゃった。くっつくのもだから早いって」
「ええええ」
そんなことってある? 碧はしきりに首を傾げている。
「探偵って荒事多いんですね。気をつけてくださいよ」
「まあ、それだけじゃないんだけど」
たまたま顔を出した本業の方でへまをして怪我をしたとは、言い出せない。
「お風呂、入れます?」
「今の技術ってすごいね。ふつうに入れるみたいよ」
「でも暑いから、蒸れそう」
「うん、暑い。かゆい」
黒木はそう言って、ぽりぽりと右腕をかいた。
八月になって、病院の日がやってきた。検査結果がわかる。主治医は言った。
「まあ、言ってしまえば、あんたは発達障害だ。ADHD。それと、ASDもだ。自閉スペクトラムだな」
「よくわかんない」
「検査技師のコメントにはこうある。『言語能力が著しく発達しているが、計算能力が劣っている』」
「ますますわかんない」
「端的に言うと、高卒の女子の学力と弁護士の語学力があるってことだ」
碧は首を傾げた。
「ばかなのあたまがいいの」
「それが発達障害の特徴ってことだ。あと、異常に忘れっぽい。心当たりないか」
「ある。会社ではメモ魔だった。なに言われてもすぐに忘れちゃうから、ぜんぶメモしてた」
「それも発達障害の特性だ。あんたは異常に忘れっぽい以外は、特に健常者と違いはないってことだな」
それはいいとして、と医者は言った。
「社労士を探して、障害年金を代わりに申し込んでもらいなさい。そうすると、障害年金の等級が決まって、それに割り当てられた年金がもらえるようになるから」
「社労士?」
「ネットで探せばわかる」
帰りに受付で書類を作ってもらう手続きをして、電車のなかで社労士を検索して探した。
近いとこがいいな。よさそうなひと。
ホームページで自分の娘が統合失調症になった経験を話している社労士がいた。あ、こういうひとなら、いいかもしれない。電話してみよう。
その社労士と話してみて、色々と質問された。
二十歳の頃からの基礎年金は払っているか、障害はなにか、カルテは揃っているか。
「私の仕事の前金は一万円です。障害年金が下りましたらそこからまたいただくという形になります。二等級で五万円、三等級で三万円です」
料金を明確に言っているな。これは信用できそうだ。
「じゃあ、お願いします」
と頼み、書類が揃い次第その社労士の事務所に書類を送るということになった。
そうすると、障害者雇用もそれまで待たなければならない。就職活動もすることができなかった。
それでも、碧はめぼしい企業の募集を見ては印をつけておいて、履歴書を書ける部分だけ書いて準備しておいた。
玄関のチャイムが鳴った。
出ていってドアホンを見ると、黒木が映っていた。
「あれ?」
玄関を開けると、彼は片手を上げて笑った。
「よっ」
「どうしたんですか?」
「縁日、行かない」
「縁日?」
「夏祭りの季節だからさ。近所の神社で、屋台がいっぱい出てるよ。ここんところずっと引きこもってたでしょ。たまには遊ばないと、息詰まっちゃうよ」
碧は笑顔になった。
「行く。行きます」
黒木を部屋に入れて、少し待ってもらった。
「着替えますね」
「暑いから、涼しいかっこした方がいいよ」
「浴衣があればよかったなあ」
「一人で着られるの」
「着られますよ。お茶やってたんで」
碧は着替え終わって、黒木と部屋を出ながらこたえた。
「どれくらいやってたの」
「んー、中学入ってすぐだから、十数年、くらい」
「師範?」
「名取りです」
「……」
黒木は二の句が継げなくなって、碧をしげしげと見つめた。
「碧ちゃん」
「はい?」
「筋金入りのお嬢様なんだね」
「?」
以前働いていた会社の近くまでやってきて、川まで歩いて神社に来た。
「あんず飴食べましょう。あんず飴がすき」
「それはデザートじゃない? まずは主食から」
「あ、そうか。じゃあたこやき」
二人で屋台を渡り歩いて、食べたいだけ食べた。
夏の盛りである。暑い。
人いきれを避けて、神社の階段で座って休むことにした。
「暑いですね。浴衣だったらもっと暑かったかも」
手で顔を扇ぐ碧に、黒木は真面目くさって言った。
「碧ちゃん」
「え?」
「碧ちゃんがどんなに大変でも、俺がいるからね」
「ふふ、いきなりどうしたんですか」
「ちょっとね。言っておきたかったんだよ」
「変なの」
笑う碧の横顔をじっと見ながら、黒木は真剣だ。
碧は曜日の感覚がわからなくなっていたが、今日は金曜日だったので、そのまま事務所にオレンジを迎えに行った。
「就職活動、どう」
「障害者雇用って、お給料も安い代わりに単純労働ばっかりなんですよね。コピーとか、備品の交換とか。だから安いんでしょうけど」
「ちょっと調べたんだけど、そういうひとのための斡旋会社があるみたいよ」
「斡旋会社?」
「そこに登録しておいて、障害者を雇いたい会社とマッチングしてくれるの」
「派遣会社みたいなとこですね。登録だけしておこうかな」
週末イラストを描いていると、黒木は碧に言った。
「碧ちゃん、絵を描いてるときは本当に幸せそうだね」
碧は顔を上げた。
「え、そうかな」
「うん。満たされた顔してる」
黒木は隣に座った。
「碧ちゃん、どうしたい?」
「どうしたい、って?」
「バリバリ働いて、お金儲けたい? それとも心が満たされていれば、少しくらいお金が足りない生活でもいいと思える? 障害者雇用の仕事でも、今の調子でコンペで勝ち続けていれば、そんなにお金に困ることはないよ」
「……」
碧は少しの間うつむいて、考えているようだった。うさめがこたつの下から出てきて、床の上でこてんと横になった。オレンジはベッドの上に乗って、いつもの場所で眠っている。
「私は、生活できるお金があって、イラストを描いてお金をもらって、そうやってやっていければ、それでいい。あとは」
「あとは?」
「獅郎さんがいれば、もっといい。かな」
ふふ、碧は笑った。
「じゃあ問題ないね」
黒木もちょっと笑って、
「書類が揃ったら、だいたい二か月ぐらいで障害年金がもらえるんだって。それまでの我慢だね」
「ちょっと調べたんですけど、障害者専門の派遣会社って障害者手帳を提出しなくちゃいけないみたい。来月の病院の日に書類もらって、次の日にでも区役所行ってきます」
来月になると、九月だ。九月は黒木の誕生月でもある。
「お祝いしましょう」
「いいよそんなの」
「だめですよ。ちゃんとケーキ買って食べましょうよ」
実は碧はもう、プレゼントは用意してある。考えに考えたから、きっと喜んでもらえるはずだ。
夕食がすんで、黒木が走りに行った。
「職務質問されないように気をつけてくださいね」
「はいはい」
黒木は片手を振って、表に出た。まったく、俺が職質されるとはいいネタだ。課の連中に知られたら大笑いされる。
碧の部屋は小さな公園の隣にあるが、十分ほど住宅街を走って行くと、大きな公園に出る。そこの寂れた遊具を使って身体を鍛えるのも日課である。
いつものように腹筋をしていたら人の気配がして、黒木は思わずそちらに鋭い視線をやった。
「相変わらず勘がいいな」
「お前か。なにしに来た」
運動する手を休めずに、黒木は話し続ける。
「例の件、年内という話だったが船の到着が遅れたようだ。恐らく来年になるということだ」
「俺はいいが彼女の周りをうろうろするのはよせ」
「聞いたのか。仕方のない女だな」
黒木は動きを止めて、高橋を睨んだ。
「よせ。彼女は民間人だぞ」
「お前は違うということを忘れたのか」
切り込むように言われて、黒木は黙った。
「どうせいつかは別れるんだ。だったら傷の浅い今のうちにしておけ」
そう言い置くと、高橋は公園から出ていった。
黒木は起き上がって、側に転がっていた石を暗闇にむかって放り投げた。
「くそっ」
ふと、高橋が碧になにかしていないかと不安になって、急いでアパートに戻った。
「碧ちゃん」
玄関を開けると、碧はタブレットでイラストを描いていた。
予想よりずっと早く帰ってきた黒木を見て、驚いて顔を上げた彼女は、
「早かったですね」
「変な奴、来なかった?」
「変な奴? 別に」
「玄関の鍵開けっ放しにしてたらだめだよ。ちゃんと閉めて」
「だってそうしたら獅郎さん帰ってこられないでしょ」
「俺はいいの。チャイム鳴らすから」
「そんな……」
「なんともない?」
黒木は碧の肩を掴んで、それから抱きしめた。
「ちょ、ちょっと獅郎さんどうしたんですか」
涼しい室内に入ってきて、汗が引いてくる。
風呂上がりの碧のにおいがする。それを胸いっぱい吸い込んで、黒木はほっと息をついた。
「碧ちゃん」
「はい」
「好きだよ。愛してる」
「……知ってます」
「どれくらい?」
黒木は身体を離して、碧の顔を見た。
「どれくらい知ってる?」
「いっぱい」
そう言う彼女が愛しくて、自分の唇でその唇を塞いだ。
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