二の舞
惟風
血のついた刃物を握った男の五年前
電車の扉が開く。残業のせいで気が急いていたのかもしれない、降りる際に中年男性と肩がぶつかった。舌打ちが聞こえた。気のせいだと思いたかったけど、きっとそうじゃない。それだけで首筋が粟立って膝の力が抜けそうになる。
無心を心がけて、階段を降りて改札を抜ける。一歩一歩に意識を集中して、平静を保とうとする。大丈夫、大丈夫だ。あれは別人。
離婚して五年になろうというのに、いまだにちょっとしたことで恐怖が蘇ってくる。
別れた夫は外面の良い男だった。家ではすぐに当たり散らす暴君だった。
前妻の不貞が原因で別れたという話は全くの出鱈目で、あの男自身の暴力と浮気のせいだと知った頃にはもう息子の
それまで、DV夫に悩まされる話をネットやTVで見聞きする度に内心バカにしていた。見る目が無かったのね。そんな奴なら早く別れちゃえば良いのに。
いざ自分の身に降りかかってみると、全然すぐに動けなかった。世間体や経済面の問題もあるけど、その前の段階で思考停止するのだ。
元夫は一度目の結婚で小賢しく学習したのか、わかりやすく手をあげることはほとんど無かった。ただ、気に入らないことがあると、これ見よがしにソファを殴りつけたりわざとらしいまでに大きく息をついた。足音を鳴らして、私や息子の存在を無視し、脱いだ上着を床に叩きつけた。私達を怯えさせるのに、それで十分だった。
男性としては細身の体型だったけど、それでも私より大きく力強いその身に秘められた攻撃性が、自分や息子に直接向けられることを想像させられて身体が竦んだ。
そんな家庭で息子が伸び伸びと育つわけもなく、いつもどこか不安定で癇癪をよく起こした。元夫の不倫が発覚してからは浮気相手からの嫌がらせも始まって、それから離婚するまでの数年は地獄のようだった。
外では愛想の良い元夫について周囲に相談したところで、始めはほとんど信じてもらえなかった。DVに自覚の無い元夫は最後までモラハラを認めなかった。逆に私がヒステリーだと吹聴されて何人も友人を失った。縁を切った人達とは今さら交流を復活させる気にもならない。
気がつくと随分下を向いて歩いていた。視界に入る靴の爪先は随分くたびれている。顔を上げて、進行方向に目を向ける。遅くなったとはいえ、まだ人通りはある時間帯だ。街灯と自販機が夜道を照らしている。
嫌なことばかり思い出してネガティブ思考になるのは、疲れているせいだ。いつまで過去に囚われているのかと情けなくなる。前を向かないと。女手一つで息子を育てていくのはお世辞にも楽とは言えないけど、それでもあの結婚生活を続けていた頃よりずっと幸せだと思う。誰の機嫌も取らずに食べる食事は、粗食でもご馳走のように美味しい。
速足で歩く自分の足音がカツカツと耳に響く。アパートに帰ったら洗い物を片付けて、お茶を沸かして……秀悟はもうご飯食べたかな。先にお風呂済ませといてくれてたら良いんだけど。
もう中学生とはいえ、長い時間留守番させて、本当は寂しい思いをしているんじゃないだろうか。残業の日はいつも罪悪感に駆られる。随分マシになったとはいえ、あの子は今もどこか他人の顔色を伺っているような素振りを見せることがあって、どうしてもっと早くあの男と別れなかったのかと後悔が強まる。
正直、お金には苦労してるし心細い。親戚には再婚を勧められる。けど、連れ子を虐待する話なんて掃いて捨てるほどあるから。私はそこまで馬鹿な女じゃない、自分には男を見る目が無いということを学習した。だから、もう結婚はしないと決めている。せめて、秀悟が成人するまでは。
同じ過ちは繰り返さない。それが、息子に対してできる数少ない贖罪だと思う。
ああ、また暗いことを考えてしまった。もう私達は自由なはずなのに、傷は深い。
自分がまさかあんな男に引っかかるなんて思ってなかった。快活で人当たりが良くて、頼もしい人だと信じて疑わなかった。きっと、前妻もそうだったはずだ。彼女は実際に怪我をさせられたらしいから、そうなる前に別れられた私はまだマシなのかもしれない。
そうだ。マシだ。マイナスなことばかりじゃなくて、プラスなことにも目を向けよう。あんな父親から息子を逃がせた私は偉い。一生懸命働いて、息子を育てている私は偉い。間違った道を正せて、偉い。
「ただいま」
帰宅すると、秀悟はリビングでゲームをしていた。
「おかえり」
秀悟はゲーム画面から視線を外さずに声をあげる。こっちは疲れて帰ってきたっていうのに、呑気なものだな。ちゃんと私の方を向いて労ってくれたって良いのに。思わず溜め息が漏れる。鞄をソファに投げ出す。カチャカチャと聞こえていたゲームの操作音が止む。
洗面所の電気をつけたところで、思わず「あれ?」と声が出た。
蓋の開いた洗濯機から、まだ洗われていない洗濯物が覗いている。
私はリビングに戻って、秀悟に努めてゆっくり声をかけた。
「……秀悟、洗濯は?」
「あっ……」
秀悟が弾かれたように私の方を振り返った。顔に「忘れてた」と書いてある。私は大きく息を吸う。
「朝さあ、回しといてって言ってあったでしょ。メッセージも送ったよね。今から洗濯して、朝までに体操服乾かなかったらどうすんの? 洗剤入れてボタン押すだけを何でやっててくれないの? ゲームする時間はあるのに」
「ごめんなさ」
「いいよ別にー。困るのはアンタだし。ねえママ朝から遅くまで働いてくたくたでさ、その上ご飯作ったり家事しないといけないのホントにしんどいの、そういうのわかんないんだね」
大きな声が出て、内心しまったと思う。アパートの壁は薄いから、苦情言われないように気をつけなきゃいけないのに。
「ごめんなさい……」
秀悟は忙しなく瞬きをして、視線も落ち着かない。弱々しく出してくる言葉に、余計に心が逆立った。
「ねえ謝るくらいなら今すぐ洗濯してよ、そうやってじっと座ってるだけでさホントは大して悪いと思ってないんでしょ今謝っとけば良いと思ってんでしょ? だから忘れるんだよねーどうでも良いんだよね、あーハイハイじゃあこれからアンタが好きな時に自分で洗濯すりゃ良いんじゃない? 私知らなあい。良かったねえ無限にゲームできんじゃん」
秀悟がもごもごと言い訳をしていたけど、その声は洗面所の扉を音を立てて閉めたせいで掻き消された。その勢いで、少し気持ちがスッとした。
気の利かない子。パパに似てきたんじゃない。最悪。あーあアンタなんか産むんじゃなかった最低。
苛々に任せて、自分でもびっくりするくらいの罵詈雑言が胸の内に湧いてくる。
本当に嫌だ。疲れているせいだ。
でも、これを口に出さなくて偉い、私。
これが元夫と私の違うところで、疲れてても暴力を奮わない自分は本当に偉いと思う。当たり前のことだって言われたらそれまでだけど、私にしてはよく頑張っている。
でもうるさく扉を閉めたのは良くなかったな。お隣さんとかから文句言われたらちゃんと謝ろう。
こうしてちゃんと反省できて偉い、私。
二の舞 惟風 @ifuw
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