ちくわ

増田朋美

ちくわ

相変わらずパリ市内は寒くて過ごしにくいものだ。今日は曇っていて、そのうち雪が降るなんて噂をしているくらいである。

今日もあったかいものが食べたいねえなんて、杉ちゃんたちは、そんなことを話していた。

その間にも、トラーは、一生懸命そば打ちの練習をして、最近は規則正しい太さで麺を切ることができるようになった。

「だいぶきれいに切れるようになったじゃないか。お前さんは随分頭がいいんだね。」

杉ちゃんが言うと、

「でも、リセを卒業できなかったなあ。」

と、トラーは呟いた。

「そんなもん、どうでもいいじゃないか。どうせ学校は百害あって一利なしなんだから。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうかなあ。できたらまた学びなおせたらいいんだけどなあ。あたしは、ホント、学歴も中途半端。」

トラーは一つため息を付いた。

「そうなんだねえ。」

杉ちゃんが相槌を打つと、

「だからあたしは、水穂の世話だけは、ちゃんと完璧にやろうと思ってる。どんなときでもご飯は食べさせるし、着替えだってちゃんとさせる。あたし、頑張らなくちゃ。」

トラーは決断するように言った。

「はいよ、頑張りすぎて手を切らないように気を付けてな。」

杉ちゃんに言われてトラーはハイと言った。

「ただいまあ。買ってきましたよ。おでんは人気があるらしくて、行列ができてました。えーと卵に昆布に、あとちくわとちくわぶ。最近の日本食コーナーにはいろんなものがありますね。」

そう言いながらチボーくんが、おでんのいっぱい入ったタッパーを持って台所にやってきた。

「おうありがとう。それでどうなっているのか中身を見せてみろ。」

杉ちゃんが言うと、チボーくんはタッパーの蓋を開けた。

「はあこれがちくわか。日本のちくわに比べると、随分小さなものだけど、ちゃんとちくわの形をしてるよ。せんぽくんどうもありがとうね。」

「いえいえ大丈夫です。こちらでは、日本のおでんは大ブームですから、すぐ買えます。それに、来月には、黒はんぺんが入荷するそうですから、それも楽しみにしていてくださいと言うことです。」

杉ちゃんの感想にチボーくんは言った。

「ちくわって、どうやって食べるの?」

トラーが聞いた。

「ウン、そのまま醤油をつけて食べてもいいし、油であげて、天ぷらにしてもいいし、何かの具材にしてもよし。」

杉ちゃんが答えた。

「じゃあ、蕎麦の具材として出すことはできる?」

トラーが聞くと、

「はいできますよ。ちくわを蕎麦の上に乗せて食べることはよくあるよ。」

と杉ちゃんは答えた。

「そうなんですね。ちなみに僕は、ちくわとちくわぶの違いがわからなくて困りました。なんでもちくわぶは、おでん屋さんの話では、非常用として食べられるそうですが。」

チボーくんは箸でちくわぶを示した。

「へえ、ちくわとちくわぶか。似ているようだけどちくわとはぜんぜん違うものみたいだわ。」

トラーが思わず感心すると、

「そうだねえ。ちくわと似てるんだけど、こっちのちくわぶは、材料に小麦粉を入れてあるんだよ。ちなみにちくわというものは魚のすり身でできているので、絶対に水穂さんには、食べさせないように。」

杉ちゃんは、彼女に釘を刺した。

「そうなのね。あたしも気をつける。」

トラーはとりあえずそういったのであるが、、、そういったのである。

「こんなことしちゃいられないんだ。それじゃああたしは、水穂に蕎麦を食べさせてくる。」

「はあ、元気だな。」

トラーの姿を見て杉ちゃんは言った。

「そうなってくれればいいのですが。」

チボーくんはちょっとため息を付く。

「昔の彼女とは偉い違いですよ。彼女、昔は本当に泣き虫で、なにかあればすぐ泣いて、何も自己主張はしなかったんですから。こうしたいとかああしたいとか、そういうことは何も言わなかったんですよ。」

「そうなの?」

杉ちゃんが聞くと、

「そうなんですよ。お兄さんなんか本当に心配していたんですからね。水穂さんが、こっちへ来てくれてああして世話をする対象ができたから、彼女大変な進歩をしたと思います。」

チボーくんは嬉しいのか不安なのかわからない顔をした。

「なるほどね。わかったよ。お前さんにしてみれば不安っていうことだよな。その気持もわからないわけじゃない。まあでも大事なことは、男らしく、きちんと告白することではないかと思うよ。それができるまでお前さんも頑張りや。」

「そうですね。それができれば苦労はしないんですが、しかし、すぐに行動には出せませんよ。」

「まあそれができたら苦労はしないわな。」

杉ちゃんたちは、そう言いながら、互いに顔を見合わせてため息を付いた。

一方その頃、客用寝室では、水穂さんがトラーに薬を飲ませてもらっていた。水穂さんは、いつもと変わらず咳き込んで口元から赤い液体を漏らして、トラーに拭いてもらっていた。

「いつも蕎麦ばっかり食べさせられて、水穂つまんないよね。他になにか食べられそうなものはないかしらね。」

トラーは口元を拭いてあげながら水穂さんに言った。

「そんなことありませんよ。蕎麦くらいしかこちらでは食べるものがないってちゃんとわかってますから大丈夫です。」

水穂さんはそう答えたのであるが、

「そんな悲しいこと言わないでほしいなあ。そうだ、今日チボーがね、近くにおでん屋さんができたって言って、卵と昆布とちくわ、あとちくわぶを買ってきてくれた。そしてね、近いうちには、はんぺんも入るんだって。どう、なにか食べられそうなものある?」

トラーは水穂さんに聞いた。

「残念ながら、ちくわもはんぺんも何も食べられませんよ。昆布やちくわぶなら食べられますけど。」

と、水穂さんは答えた。

「そうなのね。じゃあ、次の蕎麦にはちくわぶ入れてあげようか。それを食べれば力もつくかな?」

トラーが優しく言うと、

「時蕎麦に出てきそうな蕎麦ですね。」

水穂さんは、そう言ってまた咳き込んでしまうのであった。それではどうしようかとトラーは困った顔をした。

「なんとかならないかな。体力をつければ良くなるはずなのに、ご飯を食べないからそうなるのよ。」

水穂さんは、ごめんなさいと言って、また咳き込んでしまうのであった。トラーは静かに水穂さんの背中を擦ってあげた。

それから数時間して、マークさんが仕事から戻ってきた。マークさんはいつもどおり、水穂さんのことを知りたがった。

「水穂さんは大丈夫?」

「ええとりあえず変に悪化するとかそういうことはないんですけど、相変わらず、咳はひどいし、食べたものは吐き出してしまうし、その連続で僕らも困り果てております。」

チボーくんはそう答えた。

「そうなんだねえ。それではいつまで経っても同じようなものか。」

マークさんは困った顔をした。

「そうなんですよね。本当に困りますよね。本人がなんとかしようと思ってくれないから困るんだ。今の時代、21世紀に入ってるわけですし、ベートーベンがいきていた頃とは、医療環境とか全然違います。それなのになんで、あんなふうにいつまでも寝たままでいるのでしょうか?」

「やっぱり、ご飯を食べないからじゃないか。ご飯は食べないし、とらこちゃんがおやつをくれても、何も食べないみたいだし。」

二人の話に杉ちゃんが口を挟んだ。

「そうだねえ、ご飯は車にガソリンいれるのと同じくらい大切だ。それだけではなくて、寝てばかりいないで、少し起きてくれるといいんだけどなあ。癌や心臓が悪いとかで寝たきりになっているとか、それとは違うんだから。」

マークさんがそう言うと、

「そうなんだねえ。日本では、絶対に動かさないけど、こっちではそうじゃないのか。」

杉ちゃんが意外そうに言った。

「そうだよ杉ちゃん。どんな病気の人でもここでは平気で公園で散歩したりとかしてるよ。」

マークさんがそういった。

「そうですよ。動かさないで布団に寝たままって、人間らしくないじゃありませんか。布団が居場所ってそれは可哀想ですよ。」

チボーくんもそれに付け加えた。

「はあ、なるほどねえ。」

杉ちゃんは、その程度の反応しかしなかった。

「何としてでも、僕らは、水穂さんのことを良くして挙げなくちゃだめなんですよ。水穂さんは、今の時代では、治すのが難しい病気ではないわけですからねえ。ショパンとか、ベートーベンの弟のガスパールみたいになるなんてことは、あり得ない世の中なのに、まるで恥ずかしいですよ。」

チボーくんは、困った顔で言った。

「恥ずかしいねえ。まあ、無理なものは、無理だよな。水穂さんは、日本人であっても満足な医療を受けられる身分ではないからな。そこは今も昔も変わらないよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ミャンマーのロヒンギャとか、そういう民族と似たようなものですかね。それは、大変ですね。しかし、日本では、大和民族だけが住んでいると学校では習いましたが、そうではないと言うことですか?」

マークさんが不思議そうに言った。

「うーんそうだなあ。ロヒンギャと、同和問題とはちょっと違うんだよな。ロヒンギャというのはあくまでも部族名だろ?水穂さんはそれとは違うんだよ。別に異民族であるというわけではない。」

「はあそうですか。それはよくわからないなあ。日本は単一民族の国家と習いましたけどねえ。こっちみたいに、いろんな民族がいて、いろんな宗教を信じていて、いろんな言葉がある国家とは違うんだと思ってましたよ。日本人は、秩序が良くて、みんな同じように右向け右ができて、かっこいいと思っていたんですけどね。こちらでは、右向け右と言っても、右という言葉が理解できなかったり、別のことをしているのかと勘違いされることだってよくありますからね。」

杉ちゃんがそう言うと、マークさんが考えていった。

「本当はね、右向け右と言えば全員が右を向くような国家なんて、何もかっこよくないよ。それよりも、右にいろんな意味があると捉えられる国家のほうがずっと暮らしやすいよ。日本では、右向け右をしようとしすぎるせいで、水穂さんみたいに、病気になってしまう人もいるんだよ。」

「なるほどねえ。」

チボーくんもマークさんも腕組みをして考え込んだ。

「それだけじゃないってことが、僕らは羨ましいと思うけど。水穂さんは、そういう姿勢でつらい思いをしてるわけだからさあ。それを考えると、日本人は、結構窮屈できついところがあるってわけだ。もうちょっと知りたいようであれば、同和問題って検索してみてくれ。」

杉ちゃんはすぐに言った。

それから翌日、マークさんは、また仕事で出かけていった。仕事は相変わらず忙しく、妹のことなど考える余裕もないらしい。確かに、こちらでは刺青に対する偏見も少ないので、日本よりも、需要はあるようであるので、いそがしいのも仕方ないことだと言っていた。

トラーはいつも通り、水穂さんにご飯を食べさせる作業をしていた。朝食を食べさせて、すぐにそば打ちのレッスンを開始する。杉ちゃんと一緒に、そば粉と小麦粉を混ぜ込んで、水を入れて、何度もこねてはテーブルの上で伸ばす作業をし、伸ばしてはまとめ、伸ばしてはまとめる作業をくりまえるのである。そして最後に、その生地を薄く伸ばして、きれいに丸め、包丁で麺状に切る。切ったら熱湯に浸して茹でて、やっと完成だ。こんな単純な作業だけど、トラーは一生懸命やっていた。蕎麦を打って茹でて食べられるようにするまで、午前中まるまるかかる。茹でた蕎麦に具材をいれるのであるが、トラーはいつもかけそばでは可哀想だと思ったので、他のものを乗せた。

それと同時に、昼の12時の鐘がなった。ああもうお昼かあと杉ちゃんが言うと、

「あたし、水穂に食べさせてくる。」

トラーは蕎麦を入れた丼をお盆の上においた。丼にはサランラップがかかっていて、中に何が入っているかよく見えなかった。

「本当に張り切ってるなあ。」

杉ちゃんがチボーくんにいうと、

「本当ですね。これがいつまで続くんだろう。彼女も決して、健康ではないですからね。一度落ち込むと二度と立ち上がれないくらい落ち込むから。それはなんとかしないといけないんですが、、、。」

チボーくんはそれを心配していた。

「まあなあ、それはやってみなくちゃわからないよ。ここでああだこうだと言っても何も始まらないだろう。」

杉ちゃんは、そうチボーくんに言った。

「そうですね。人間誰でも助けが必要といいますが、実際に彼女が助けてといえば、みんな嫌がって逃げていきますからね。彼女もそこはよく知っていて、二度としないように気をつけているようですけれども、やはりできなくて。それでまた、叱責されての繰り返しですよ。だから彼女は寂しいって言うんだ。本当に人間、口で言っていることと、やってることが違いすぎますな。」

「まあ人間なんてそんなもんよ。そういうのを是正してくれるのは、宗教とかだと思うけど、それだってなんの役にも立たないじゃないの。結局ね、人間の作ったものだから、完璧になんかなれやしないよ。それを忘れるな。」

チボーくんがそう言うので、杉ちゃんは、にこやかに言った。

「そうか。そういうことか。人間完璧になんかなれやしない、か。」

チボーくんが納得していると、

「ねえ誰か来て!水穂が大変なの!すぐに来て!」

と甲高い声がした。すぐに我に帰ったチボーくんは急いで客用寝室へ飛び込んだ。トラーは、水穂しっかりしてと声を上げている。水穂さんは、激しく咳き込み、枕には赤い液体が散乱している。こんなとき、なんて馬鹿なことをとか、彼女を叱責する人もいるのかもしれないが、チボーくんはそれはしなかった。その代わり、黙って水のみをトラーに渡した。

「これよ!これ、これ飲んで!」

トラーがそう言って水穂さんの口元へ、水のみを突っ込むと、水穂さんは中身をごくんと一気に飲み干した。しばらくは咳き込んでいたが、数分後にそれも止まり、水穂さんは静かに眠ってくれた。チボーくんはとりあえず黙って、水穂さんの枕を別の物に変えた。ついでにシーツもかえたかったけれど、それは目が覚めてからしようと思った。

「やったか?」

車椅子をこいで、杉ちゃんがやってきた。チボーくんが真っ赤に汚した枕を杉ちゃんに見せた。杉ちゃんはサイドテーブルにおいてあった器を覗き込んで、

「ああちくわとちくわぶを間違えたのね。ちくわぶは小麦粉でできているが、ちくわは魚でできているからそれであたっちゃったね。まあ良かったじゃないか。一応、薬飲んで止まってくれたんだから。」

と言った。

「あたし、なんてひどいことをしたんだろ!」

トラーは、自分を責めているのか、頭を壁に何度も打ち付けた。

「馬鹿な真似はよせ。お前さんのせいじゃないよ。それにちくわとちくわぶは似てるから、間違えることだってあるさ。もうねえ、こういう間違いをするってのは、誰でもあることだから、気にしないで、のんびりやれや。」

杉ちゃんが彼女を励ますが、

「どうしたら気にしないでいられるの?どうしたら、こんなつらい気持ちを忘れられるの?どうしたら、いつもどおりに明るくなんて戻れるの?」

トラーは半分泣きながら言った。

「日本人は無責任なことを平気でいいますね。すごいところに気がつくことはできるんですけど、なんで具体的にどうすればいいのかと質問すれば、自分でやれとか、そういうふうになっちゃうんでしょうか。ほんと、そうやって答えを出さないってのは、腹が立ちます。」

チボーくんがそう言うと、

「ごめんごめん。そうかも知れないね。一応、仏法では、次に何をすればいいのかを考えればいいと、書かれているんだが、ここをなかなか教えない教育者も多くてなあ。」

杉ちゃんは即答した。杉ちゃんみたいに、答えをすぐに言える人であれば、誰でも納得してくれるだろう。だけど、チボーくんの言う通り、中途半端な励ましは、かえって有害になるというのも確かだった。気にするなとは言うが、具体的にどうしろと行動に関して何も教えない人間が、なんて多いことだろう。そんな無責任な人間になりたくないな、と、心から思わされるのであった。

「ほんじゃあ、ちょっと床磨いて、掃除するか。水穂さんを起こしてしまわないように、静かにな。」

杉ちゃんがそう言うと、チボーくんは、床にモップをかけ始めた。一方の杉ちゃんの方は、サイドテーブルの上にある食器をあらいに台所に行った。トラーはまだ泣いているが、杉ちゃんもチボーくんも、彼女を下手に刺激しないほうがいいのではないかと言った。

やがて床はきれいになり、食器も茶箪笥の中へしまわれた。

「ちょうどお茶にするか。」

と、杉ちゃんとチボーくんは、台所に戻った。水穂さんは、まだ眠っていたので、今のうちに一服しておくかということになった。トラーはその間中もいつまでもいつまでも泣いていたが、変に慰めたりしてしまうと、彼女をそれ以上泣かせてしまうような気がしたので、二人は、そのままにしておいた。

しばらくしてトラーは、眠っている水穂さんのそばへ近づいた。

「水穂ごめん。本当に迷惑かけてごめんね。」

そっと語りかける彼女に、いつの間にか杉ちゃんが彼女の近くに来ていた。チボーくんはお茶の片付けをしているという。

「とらこちゃん、言い訳や弁解はしなくてもね。」

と、杉ちゃんは言った。

「観音様はちゃんと見ていてくれるよ。」

トラーは、また涙をこぼしそうになったのであるが、でも首を犬みたいにブルブルと振って、ひとこと、小さな声で、

「そうね。」

とだけ言ったのであった。

「さ、もう落ち込んではいられないぜ。これから夕食の支度をしなければならんぞ。水穂さんの夕飯を作ってあげられるのは、お前さんしかいないんだぞ。」

杉ちゃんが彼女にそういうと、

「そうね。」

とトラーは、泣き顔で言った。

「でも、さっきは本当に嬉しかった。」

「は?」

杉ちゃんは思わず聞き返すと、

「だって杉ちゃん、あたしが困っていたとき、黙っていてくれたでしょ。やたら手を出さないで、そのままにしておいてくれたほうが、あたしはかえって楽だったのよ。」

と、トラーは、そういうのであった。杉ちゃんは一言そうかとだけ言って台所に戻った。




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