白山百果のマルチヴァース

ヴォイド

蜉蝣の成年期

第1話 チュートリアル

 あの瞬間、俺は恋に落ちた。


 彼女の長身に肩まで掛かる黒髪は、雑踏の中でも俺の目を引いた。

 歩道橋の端に寄りかかって広い国道を見つめていた彼女。眼鏡越しで距離もあるというのに、俺はその瞳に吸い込まれた。彼女は、ここではない、どこか遥か地平の彼方を見つめているように見えた。


 しばらく見つめて……いや、見惚れていると、彼女がこちらを向いた。

 目が合った、気がした。

 

 目を奪われる、とはこういうことかと実感した。同時に、なにか恐ろしい、取返しのつかないことをしてしまった感覚もあった。

 俺は何故か『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている』という言葉を連想した。宇宙そのもののような巨大な何かと目が合ってしまった。そんな印象を抱いたことに困惑した。


 そうしていたのは数秒か数十秒か。

 目を逸らすべきか、と思いながらも逸らせずにいたが、突如として彼女も何やら困惑し始めた。


 俺に見られているせいという訳でも無さそうだった。彼女は周囲を見回していたからだ。一瞬前までの神秘的で妖艶な雰囲気から一転して、まるで幼い迷子の様に不安げに見えた。俺は釣られて自分の周囲を見回す。



 2001年3月01日12:05


 大学受験が終わったばかりの俺は、朝から遠出して、オープンしたばかりのショッピングモールに来ていた。地元から数駅離れたここは、平日だというのに周辺も含めて中々の賑わいで、俺は目当てのものをいくつか買うだけで疲れ果てた。

 昼食を取りたかったがどこも混んでいる。どこの店に入るか、それともキッチンカーを使うか、いやどの道混んでいるのは同じか、などと迷いながら、ひとまず比較的人のいない三階のバルコニーで休んでいた。

 何の気なしに広い国道のほうを見回し……そこで彼女に目を奪われたのだった。


 改めて自分の周りを見ても人や物がとにかく多い。彼女が特別目を留めるべきものがあるのかどうかすら分からない。

 

 俺は彼女に目を戻す。


(良かった。まだいた。いや、それは酷いか)


 それは、まだその場で困っていて欲しいという願いに他ならない。罪悪感を抱きながらも彼女の視線の先を追った。


 横に三、四人は広がれそうな幅広の歩道橋の上には、人、人、人。とにかく人だらけだった。オフィス街や公園、何より駅も近く、しかも昼時のせいだろう。歩道橋の下には両

側合わせて六車線の道路、すぐ近くには巨大な横断歩道もあるというのに、歩道橋の上にも常に二十人以上がいる状態だった。

 子供連れの女性、サラリーマンらしい男性、初老の男性……特に彼女が違和感を持ちそうな相手はいない。何人かはむしろ挙動不審な彼女をこそ怪訝そうに見ていた。通り過ぎていく黒服の男性、白い女性、赤い子供、黒い塊、青い男性、緑色の学生……、


「えっ?」


 黒い塊。

 それは黒い塊だった。

 そうとしか表現できなかった。


 熊くらいの大きさだが、熊どころか哺乳類では決してない。それは遠目にも分かった。輪郭は朧げだが、体表の質感が重油やタールのように見えた。腕や足があるのかは判然としなかったが、体を左右交互に揺らして進んでいた。歩いているのかナメクジのように這っているのかは分からないが、動いている。

 信じがたいが、生き物に見える。

 ウミウシやアメフラシに近い形状かもしれないが、当然こんな巨大な種類はいないだろうし、いても誰にも目撃されずに町中にいきなり現れる筈がない。百万歩譲ってもせめてマンホールの中からだろう。


 そして重要な特徴が二つ。


 彼女を含めて誰もそれを見ていないことが一つ。


 人々はそれに気付かず避けようともしないが、誰もぶつからない。怪物のほうが避けているわけでもなさそうだ。最初から歩くゾーンが分かれているかの如く、それは歩道橋の中央を悠々と進んでいた。

 上手い例えか分からないが、イラストを描くソフトにレイヤー機能というのがあるらしい。漫研の友人がそんなことを言っていたのを覚えている。

 例えるのなら、通行人と怪物とが別のレイヤーにいて、それが一枚の絵として俺の目に写っているようにも見えた。実際にそうなのかは判断しようもないが、少なくとも誰かがそう説明してくれたら俺は納得しただろう。


 もう一つの特徴は巨大な単眼。


 彼女の瞳とは別の意味で、遠くからでもはっきりと分かる。人の頭ほどの巨大な白い瞳に、不釣り合いなほど小さな虹彩……らしきもの。人間の目と同じ構造と仮定すると、その目は……おそらく。


 彼女を見ていた。



「逃げろ!」


 全力を振り絞ったつもりの声は、呆れるほど小さかった。俺のすぐ側にいた人を驚かせてしまったようだが、それだけだった。バルコニーにいた他の数人にさえ届いていなそうだった。

 俺は息を軽く吸った。そして限界まで吐き出す。

 こうすることで最大限に息を吸えるのだと何かで聞いたことがあった。


「逃げろっ!!逃げて!!」


 俺の声で、バルコニーの側の木に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立った。今までの人生で出したことがないほどの声に、自分の耳すら驚いている。周囲の注目が俺に集まる。


「そこから逃げて!!」


 彼女まで直線距離で三十メートルはあったが、ちょうど自動車側の信号が赤になったらしく、辛うじて歩道橋にも声は届いたようだった。だが、やはり誰にもあれは見えていないらしい。


「歩道橋から!逃げて!ソイツから!逃げてっ!!!」


 サラリーマンもベビーカーを押す女性も、すぐ眼前の怪物に注意を払うことすらせずに見当違いの場所を見回している。バルコニーの人間も怪訝そうに俺と歩道橋を交互に見ていた。見えにくいだけで注意すれば見えるのではないか、とか俺のように遠くからなら見えるのではないか、という期待は裏切られた。


「ソイツが見えないの!?逃げてっ!!!」


 俺からすると、それこそ熊が人混みを彷徨いているような恐ろしい光景なのに、当事者の誰にもその自覚がない。怪物に熊と同程度の殺傷能力があるのなら、雑に腕でも振り回すだけで数人の首が飛んでしまうだろう。それほど無警戒に近くにいる。

 やがて彼らは危険はないと判断して、一人、また一人と徐々に妙な男を無視することにして日常を再開していく。



 彼女だけは違った。

 俺が叫ぶより僅かに早くこちらへと駆け出していた。お陰で俺は辛うじて自分の正気を信じられた。

 しかし、彼女も黒い塊に気付いた風ではなかった。歩道橋の端に寄りかかっていた彼女があれに気付いたのなら、その直線上になる中央には出てこないだろう。一瞬だがわざわざ近付いた形だ。


 中央に躍り出た彼女は一瞬だけ俺に微笑みかけると、脇目も振らずにこちらへ走り出した。通行人と次々にすれ違うが、少なくとも俺から死角になる階段の入口に入るまでは全く危うげなく彼らを避けていた。


 正確には避けようとするまでもなく、互いにただ進んでいるだけで問題なく通れた、というのが近い。その光景にも奇妙な印象を抱いたが、今はそれどころじゃない。もっと奇妙な存在が徐々に速度を上げて、明らかに彼女を追い始めていた。

 

 怪物の今の速さは人間の競歩並みに見えた。一方の彼女は、長身の見た目通りに足が速い。容易に振り切れそうに見えた。しかし怪物のあの巨体で競歩並みが全力と思うのは危険だろう。


「逃げて!逃げろ!」


 最早、俺の忠告を聞く者は彼女以外に誰もいなかった。バルコニーにいた人の半数は俺から距離を取り、残りはどこかへ行ってしまったようだった。

 歩道橋の方では犠牲者どころか怪我人すら出ていない。誰にも見えない巨体が人波の中で誰にも接触しない筈がないのだが、何故か全員無事だった。

 奴が階段に入ってからも悲鳴や断末魔は聞こえてこない。


 本当に別のレイヤーにいるとでもいうのか?だとしたら何故彼女を追う?彼女に追いついてどうする気だ?

 そして、俺はどうする?助けたい。そのためにはどうする?


 数々の疑問を棚上げにして、俺もひとまず彼女のもとに急ごうとしたが、最短ルートが分からない。

 ここはモールの三階で、彼女のいる歩道橋は二階くらいの高さだった。しかし辛うじて彼女の顔が見えるほどに近いのに、どういう訳か歩道橋はモールに繋がっていなかった。モールの手前で歩道橋から降りて、正面か脇からモールに入るのがあちらからの最短ルートになる。土地の権利か法律だか、どういう制限があったのか知らないが、駅から来るときも地味に不便だった。俺以外も似たような不満を漏らしていたのを人混みの中で何度か聞いた。


 一階はオレンジ色のアスファルト。植え込みや噴水は遠い。飛び降りるのは無理だ。頭を守れば死にはしないだろうが、その後で動けるわけがない。

 さっきの鳥が止まっていた木も数メートル離れている。日除けや雨除けを兼ねているのだろうキッチンカーの屋根はいかにもクッションになりそうだが、これはもっと遠い。手摺りから消防士の出動の要領で降りる手もあるかも知れないが、俺にそんな技術はない。

 素直に階段やエレベーターを使うしか無いのだろうが、一度国道と逆方向に下がらないといけない。

 迷っていたのは数秒だったか。俺は諦めて最寄りの階段を見つけて駆け下りた。



「どこ、だ?」


 思わず呟いた声は少し掠れていた。

 困ったことに、俺は少し方向音痴気味だ。始めて来た場所で人や物が多いとなれば尚更だった。幅広の回り階段を降りているうちに東西南北の感覚が狂ってしまって、あんなに広い国道がどちらだか分からない。案内図を探すか、勘を頼りに走るか、人に聞くか。いや、さっき叫んでいた人間だとバレたら捕まるのではないか。

 焦りが募る。

 さっき彼女が階段を降り始めてから、体感で一分は経っている。


(まさか、もう怪物に……!?)

「こっちだよ、キョウ君!」


 呼ばれた気がして振り向くと、息を切らせかけた彼女がこちらに手を振っていた。

 彼女の背後には……怪物はいない。周囲の奇異の視線は集めてしまっているようだったが、気にしている場合でもない。俺は全力で駆け寄った。


「やあ」


 彼女は柔らかく微笑んだ。こんな時だというのに、それだけで混乱した感情が吹き飛んでしまった。

 彼女は少し乱れた黒髪を整えながら、呼吸を整えている。不謹慎極まりないが、色っぽいなどと考えてしまった。眼鏡越しに俺を見つめる瞳は、俺の目を通り越して遥か彼方を見ているかのように透き通り、全てを見透かされているかのようだった。


「今はそうでもないけどね」

「え?」


 見惚れてよく聞いていなかった俺に、彼女はこんな言葉を続けた。


「君にだけ見える怪物か、よく教えてくれたね、キョウ君」

「えっ?」


 やはり名前を呼ばれた。

 おかしい。俺はまだ名乗っていない。


 怪物のこともそうだ。俺は「ソイツ」としか言わなかった。

 ただでさえ見えないらしいのに、怪物と言ったら尚更信じてもらえないだろう、と判断したのはまだ記憶に新しい。勿論、焦って無意識に怪物と言ってしまった可能性はあるが、流石にあのタイミングで自己紹介する訳がない、と思う。


(まさか俺が覚えていないだけで知り合い……?)


 かとも思ったが、心当たりなどない。

 彼女は大学生くらいだろうが、仲の良い女の先輩など少なくとも中学以降は覚えがない。小学校以前に遡れば覚えがなくもないが、彼女たちとは雰囲気が違いすぎる気がするし、当時は大体は呼び捨てにされていた気がする。


 だとすれば、まさか……?


「貴女は、俺の心が読めるんですか……?」

「いや、違うよ」


 彼女はあっさりと首を横に振った。

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