まこも湯
神﨑らい
風呂場は清潔に――
「やっぱり効果あるじゃーん!」
サヤカは姿見に映る自身の全裸姿に歓喜する。季節の変わり目で荒れていた肌はツルリとし、光沢さえ伺えた。
まこも湯を試して十日余り。カサカサと粉を吹いていた肌が見違えたのだ。
「ネットで批判されてんのはやったことない人の言い分だよね。現にアタシの肌、今年一番ってくらい調子いいもん」
サヤカは今日も湯船の湯を沸かし直す。
発酵すればするほどに効能が高まる。そんな情報を鵜呑みにし、日に日に黒さを増す茶褐色の湯をかき混ぜた。
それから一月近くが過ぎた。
サヤカは帰宅するなりハンドバッグを壁に叩き付ける。憤怒の表情で鼻息荒く服を脱ぎ捨てた。職場の同僚に「最近のサヤカ、かなり臭うよ。お風呂入ってる? 肌もヤバイし」と体臭と肌質を指摘されたのだ。同僚からの失礼きわまりない指摘に怒りが治まらない。
下着姿で姿見の前に立つ。この頃、肌荒れが酷い。赤い湿疹が顔を含め全身に気味悪い模様を作っている。
「臭うってなによ! 一万もする入浴剤入れたお風呂に毎日入ってるし、アタシは肌荒れしてるんじゃない! これは好転反応って言うの! 自分が無知なだけのくせしてアタシに失礼なこと言って、ホント最低っ!」
サヤカは足元のゴミ箱を蹴飛ばした。飛んだゴミ箱は壁に傷を作り、使用済みのティッシュや綿棒、おにぎりのビニール屑が散乱する。
怒りはまだ治まらない。彼女はこの怒りさえも好転反応によるものだと考えた。腸内環境でメンタルが変わると言う話もあるくらいだ、精神面のデトックスだってきっと起こり得る。そんな風に都合よく思考を巡らせていた。
サヤカはわざとらしく溜め息を吐き「早くまこも湯入って毒素抜こう」と浴室へ向かう。暗くしてリラックスしたい気分になり、アロマキャンドルを手にした。浴室に入りキャンドルに灯をともした時にはっとする。
「ああもう、最悪。追い焚きしてないよ」
まあ寒くないし沸かしながら入ればいいか――とサヤカは湯船に脚をいれた。酵素による発酵が進んでいるらしく、かなりとろとろの湯になっていた。肩まで浸かり腕を撫でる。とろとろを超えてヌメヌメまでするようだ。
育てたかいがあったな――ねっとりと重みのある液体に満足して微笑む。湯を少しすくい臭いを嗅いでみた。まこもの独特の臭いをわずかに感じるだけで臭いなど思わない。腕の臭いを嗅ぐが体臭もわからない。同僚からの指摘はやはり嫌がらせだったのだと認識した。
「はふぅー」
だいぶ温かくなってきた湯に、肩までゆっくり浸かりほぐれた吐息が漏れる。浴槽の縁に後頭部を乗せて目をつむると、気持ちのよい脱力感が全身に広がった。
ぽたっ――頬に冷たい雫が落ちる。天井の結露が降ってきたのだと気にしなかった。
ぴたっ――また逆側の頬に雫が落ちる。
湯船にもポチャンと落ちた。続けざまにポチャン。ポチャン。波紋を感じるほどに大きな雫だ。
閉じた目蓋にも落ちてきた。煩わしげに手で払うがヌルっとして上手く拭えない。水滴を払う指先にゼリー状の固形物が触れた。なんだろうと目を開け確認するが、薄暗くてよく見えない。
ボタっ――頭頂に大きめの雫が落ちた。流れ落ちる様子はなく、何か固形物が乗っている感覚がある。頭部のそれを取ろうと少し前屈みになる。
「ひゃあっ――!」
首の付け根に冷たいものが落ち、驚きの余り悲鳴が出た。ねっとりとまとわりつくそれは、ぬるぬると背筋を這い湯に沈む。それでも背中を這う感覚が消えない。
サヤカは腰まで這ってきたそれを手で拭う。ヌルりと冷たい固形物。ゼリーのようなジェルを絞り出したような細長いそれをすくい上げた。
五センチほどの大きさで茶色のぼってりとしたものが手のひらの上で蠢いた。背に二本の筋がありキャンドルの揺れる灯を反射させる光沢をもっている。なんだかカットした椎茸に見えた。
状況を理解できず手の上のそれを見つめていた。肌に吸い付くぬるぬるの物体から二本の角が生えた。
ナメクジ――! そう理解した瞬間、足先から悪寒が這い上がり全身の毛が粟立った。
サヤカは悲鳴を上げ浴槽で暴れ狂う。手を振り回し吸い付くナメクジを振り落とそうともがいた。どこへ飛んでいったかわからない。辺りを見回す。
キャンドルの淡い明かりに浮かび上がる浴室。サヤカは恐怖に戦き立ち上がった。ザバりと湯船が波打つ。
壁に、天井に、床に――無数のナメクジが脚の踏み場もなく這い回っていた。一部ではその軟体を重ね合わせ山となり、ねとねと犇めき身悶えている。
「ひぇいぃい――っ!」
皮膚の内側をなで回されている不快感に吐き気 が襲う。無数の虫が胃の中で荒れ狂っているような絶望感が、両側から頭部を締め付けた。
逃げ場はない。上からは絶えずナメクジが降ってくるし、四方の壁にも床にも大小様々なナメクジが這っている。
落ちてきたナメクジを避けると別のナメクジが這う壁が迫る。ひぃひぃ悲鳴を上げて狭い空間を逃げ惑った。
バランスを崩し背中から壁にもたれ掛かる。数十の冷たくおぞましいものが背に吸い付いた。
「いぎゃやあああああ――っ!」
驚いた拍子にキャンドルを弾き飛ばしてしまうが気にかける余裕などない。洗髪後に髪を巻くために掛けてあったバスタオルに当たり、キャンドルと共にタオルも床に落ちた。キャンドルの火がタオルに引火し、水場にもかかわらず火の手が上がる。
ナメクジたちは炎の熱に苦しげに全身をくねらせ、粘液を吐きながら身悶えている。なぜか全てのナメクジがサヤカへ向かってきた。熱から逃れるためだ。こいつらは思うより移動速度がある。あっという間に浴槽を登り詰める。
背中をびっしりナメクジが覆い、払っても払っても脚から胸へと這い上ってきた。頭に、顔に、肩、胸、腹――おびただしい数のナメクジが全身を這い回る。あまりのおぞましさに身が硬直し、悲鳴どころか呼吸さえままならなくなっていた。
排水溝を覗いた時、おびただしい数のナメクジがびっしりと犇めき合っているのをみてどう思う。気味悪い? 恐ろしいか? 今はその恐怖さえ可愛げがある。死に直面した方がましなほどだ。
全身の肌をこのおぞましい生物がなで回しているのだ。肉体は凝固しているのに、内蔵や脳までもがゾクゾクと震えつづけている。火に炙られる熱ささえ感じないほど全身が冷えていた。
裸体に視線を落とすと、這い上がる無数のナメクジと目が合った。
翌日の朝礼――。会社では一人の社員の死を痛み、黙祷を捧げた。
「燃えたのお風呂だけだって」「てか、あの子お風呂入ってたんだ」「臭かったもんね」「まこも湯やってたらしいよ」「ずっとお湯変えないんだっけ?」「うわあ、そりゃ臭うわ」「てか風呂場って燃えるんだ」「それ思った」「燃えるものなくない?」「水掛なかったのかな」
「静かに。知らないやつも多いようだから言っとくけど、ユニットバスってのは火災には非常に弱い空間だ。どれもプラスチック素材だからよく燃える。だから火の持ち込みは危険なんだ。女性はキャンドルを持ち込んだりするだろ? あれは良くない。男性も浴室で喫煙したりしないように。水場だからって気を抜くなよ。
社内の人間に悲しい事故が起きたけれど、仕事を止めるわけなにはいかないからな。事故や怪我に気をつけて今日も一日頑張ろう。以上だ」
まこも湯 神﨑らい @rye4444
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