十六夜物語

下原智

十六夜物語



 この出来事を君に話すことを、僕は正直躊躇っているよ。

 気分の良い話じゃない。なかなかどうしてショッキングなんだ。

きっと君は後悔するよ。この世界に神様が実在するのなら、神様を怨むことになるかもしれない。

 だけど僕はありのままに話すよ。君がそれを望むのであればね……



 ――と、いきなりこんな話をしてびっくりさせてしまったかな? ごめん、悪かったね。正直お勧め出来ないだけなんだ。

 それで……えぇと、そうだね。こういうときはまず自己紹介をするのが礼儀だよね。


 僕の名前は『十六夜いざよい名月なつき』。名前はべつに覚えなくてもいいよ、君の好きにして。市内の高校に通う普通の一六歳男子で――身長や体型は見てのとおり人並み痩せ型。顔は紅顔の美少年だってよく言われる。――あ、君。今、『厚顔』じゃないのか、と思ったね? 上手いこと言うじゃないか。まぁ、だいたいそんなところなんだけど。他には――キャラ的に優等生か不良のどちらかで言えばまぁ前者のほうかな。学校の成績は中の上か上の下といったところだけどさ。

 あと――何より今回こうやって君に出逢えたことを光栄に思っている男だよ。

 話を聴きに僕を訪ねた君を心から尊敬する。そんな勇者は二次元世界だけの存在だって本気で思っていたから。

 あぁ、前置きが長くなってしまったかな? それではそろそろ始めようか……


                  ※


 事件の始まりは六月二度目の土曜日の昼過ぎだったと思う。この日は午前のみの半日授業で、放課後の教室で早々と帰り支度をしていたときだった。

唐突にクラスメイトの一人、針井はりい文豪ぶんごに声を掛けられたんだ。

「十六夜くん、今晩暇?空いてる?」

 って、まずそれだけをすごく軽い感じでね。でもさ、人が他人にまず暇かどうかを確認するときってのは、大抵の場合そいつは何かを企んでいるものなんだよ。僕は時々そういう言い方がたまらなく腹立たしく思えてならなくて、蹴飛ばしてやろうかと思ったりすることがある。――でも、それでもだよ、僕は針井とはそれまでそんなに話したことは無かったんだけど、彼がそんなに悪い奴じゃないのは何となく分かっていたんだ。だからまぁ少し警戒しつつ、「暇でなくもない」的な曖昧な言葉を使い逃げ道を確保しつつ、「それで?」と彼の本意を聞き出そうと試みた。相手の出方を見ようとしたわけだね。そうすると彼は顔に多少努力している程度の愛想笑いを浮かべて答えてくれたよ。

「実は今晩合コンやる予定なんだけど人数が一人足りなくて困ってんだ…… 」

  ――― はぁ…合コンねぇ

 思わず溜息をつきそうになってしまったよ。

僕は見てのとおりの紅顔の美少年だからさ、見た目そのまま結構モテるんだよ、本気でね。でも恋愛至上主義者じゃないから、恋やら愛がこの世の全てだみたいなことを言っている奴を見ると鼻で笑ってしまうCOOLな男子としての一面も持っているんだよ。

 顔には出さないように努力したけど僕は内心冷ややかで、そして少し憂鬱な気分になってしまったね。本音を言わせてもらえれば本当はすっぱり断りたかったんだよ。正直な話僕は合コンというものが好きじゃないんだ。

 どれくらい好きじゃないかって言うと『インチキ野郎のインチキ野郎によるインチキ野郎のための宴』って僕の脳内辞書に記されているくらいに、だよ。誰もが皆本音と建前を使い分けて、同性異性に関係なく馬鹿で卑怯になる騙し合い空間。反吐が出そうになるね、まったく。それに思い出したくはないけど二年ほど前になるかな、僕は最悪な体験をしているんだ。

 それは人数合わせで出席した男女三対三の小規模な会だった。女性側は一つか二つ年上だったかもしれない、場所は何処かのカラオケボックスだったと思う……と、そのシチュエーションだけ聞けば全然まともだって思うだろ? でもそれ以外がまったくまともじゃなかったんだよ。もう最悪なんだ、涙が出るくらいにさ。…まず相手側の女性。それが全員――こんなこと言うのは僕も悲しいんだけど――すごく個性的な顔付だったんだよ。そいつらの顔を見た瞬間僕はお伽の国にでも迷い込んでしまったのかと本気で心配したくらいさ。だから会の間中、僕は何かの切っ掛けでそいつらに掛かった魔女の呪いが解けないかをずっと期待していた……けど「悲しいけどこれ…現実なのよね」ってそんな結果に終わっただけだった。そしてそいつらの性格……というか中身? これもどうかと思ったね。当時の僕は今よりずっとウブな奴で、初めて出逢う女性の目をじっと見詰るなんて技を持ち合わせていなかったわけなんだけど、あろうことかそいつらの内の一匹が僕に言ったんだよ。

「ねぇ、そこの彼はどうしてわたしのほうを見てくれないの?」

 ――みたいなことをっ! それが僕には未だにどうにも許せなくて、腹立たしくて納得がいかないんだよ。君はどう思う? それは『イイ女』の台詞だとは思わないかい? 『イイ女』だから口にしても良い…逆に言えば『イイ女』しか口にしてはいけない言葉だとは思わないかい? ………あぁ、でもまぁ結局はもう過ぎたことなのかな。今となっては僕も悪かったと思うところもあるんだ。そういうときは…そのときすぐに本当のことを素直に伝えてあげるべきなんだろうね。僕がそいつらのほうを見ないのは、そいつらが直視に耐えない見るも無残な顔だからなんだってさ。教えてやればよかったのにって未だに後悔してたりするんだ。本当は優しい男なんだよ、僕って奴は。嘘じゃないよ。本気になった僕の優しさにはマザーテレサやナイチンゲールでも敵わないんじゃないかな?

 まぁともかくそんなこんな理由で僕はたいへん気が乗らなかったわけなんだけど、運が悪いことに、その日の晩は僕にとってキャンセルしたくて堪らない予定が組まれていたんだ。それで僕は悩んだわけさ。マイナスの選択だよ、まったく。結局僕はより精神的ダメージの少ないほうを選んで針井の誘いを有難く受けることにした。

「サンキュー助かるよ」

 と、針井は嬉しそうに言った。そしてそこでこれまた嬉しそうに続けたんだ。

「喜んでくれよ。実は今晩の相手はあの市内男子中高生憧れの的にして花園、清聖女子学園なんだぜ。しかも高等部二年生、年上っ!」

「 ――― っ!… 」

 僕は思わず息を呑んだ。でもそれは針井のように嬉しいからではなくて、むしろまったく真逆の感情によるものなんだ。『清聖女子学園』ていう単語は、僕にとある嫌な人物を連想させるキーワードになるんだ。しかも高等部二年の女子……大変良くないと思ったよ、正直言うと。僕にはそいつに繋がるものは何だってクソッタレに思えてしまうんだね、残念なことにさ。でもまさかこの日……

 そうなんだよ、今から後悔しても仕方ないけどやっぱり悔やまれてならない。どうしていつも僕は選択を誤るんだろうね。

              

                    ※


 会場は女子側の学校と僕らの学校とのちょうど真ん中くらいの駅前にある大型カラオケ店。開始は夕方六時。妥当なチョイスだったよ、なかなかね。清聖女子学園は私立の小・中・高エスカレーター式のいわゆる『お嬢様学校』ってやつで、校則が厳しくそんなふうな集まり――男女一緒に夕方から遊んだりするようなことをしている禁止しているはずだ。それどころか下校途中に道草なんかも厳禁だと思う。見付かったらそれなりの処罰が有るとか何とか聞いたこともある。だから一度家に帰ってゆっくりと身支度を整えてから来られる時間で、しかも学校に近付き過ぎず、だけどまったく知らないわけでもないそこら辺の場所がベストだと思う。

 男性側の集合場所に一番乗りだった僕は、他のメンバーを待ちながら針井の奴もなかなかやるもんだと関心していたわけなんだ……けど、その感想はしばらくの後に全く逆の方向ものになってしまったよ。まず男性側幹事のくせに、奴一人だけ集合時刻を過ぎても姿を見せなかったんだ。そして集合場所が屋外だったのが悪かったね。奴を待っている間、昼間のうちに陽の光でチリチリに焼かれたアスファルトの上に立っていたせいでかなり蒸し暑く、皆それなりにオシャレして来ているのに、その分余計に汗ばんでしまっていたよ。更に、自分が指定した集合時刻にかなり大胆な時間遅れて来たにも関わらず、奴は全然悪びれた様子もなく、「ごめんお待たせ、さぁ行こう」って必要最低限にも満たない謝罪をさらさらと言って、一人さっさと歩き出したんだからもう参ってしまったよ。

 結果として女性陣との待合わせの時間に大幅に遅刻した。待合わせは会場となるカラオケ店の前ということになっていた。

 僕たちが到着したとき既に女性陣は来ていたよ、当然ながら。針井の奴は軽く挨拶をするとそこでもさらさらと適当な言い訳を口にして「遅くなったから早く店内に入ろう」って皆を急かして店内へと入って行った。奴のあまりの傍若無人ぶりに女性陣が怒り出さないかと何故か僕がハラハラしてたんだけど、予測していたよりは怒っていなかったよ、あくまで予測していたよりはだけどね。まぁそんなこんなで、僕たちは全員受付を済ませて部屋へと移動した。

 参加人数は男性四人女性四人の計八人で、大きめの部屋を選んだはずだったけどそれほど広くは感じなかったかな。真ん中に大きな楕円形の安っぽい黒色のテーブルがあって、電話帳みたいな分厚さの曲表が三冊に、マイク二本。そこにフロントで渡されたリモコンやら何やらが入った籠を置き、とりあえず飲物の注文を済ませて、それでやっと皆着席した。

 とりあえず最初は、入口から見て縦方向に置かれたテーブルを挟んで右側が男性、左側が女性と分かれて座った。僕は一番ドアの近くを選んで座った。ここは電話を取らなくちゃいけない難点はあるけど、誰の前も横切らずに室外に出られるのからね。

「お互い自己紹介をしよう」と針井が言い出し、皆それに従うことにする。最初は男性側からで奥のほうから順番に名乗っていった。まず針井、そしてその友人のひょろりと背の高い地味目男『森本もりもとたかし』。その次が爽やかな眼鏡男子の『三田みた有馬ゆうま』――三田には最近カノジョが出来たはずで、最初どうしてこの場に居るんだ? と疑問に思ったけど、事情を聴くと、針井がそのカノジョの許可を得て人数合わせに呼んだらしい。大したもんだよ。そして僕が適当に挨拶をして次が女子。女性側幹事の『竹本たけもと明日香あすか』。控えめな雰囲気の『伏見ふしみ静花しずか』。明朗な『御手洗みたらい昭子しょうこ』。――そして最後の一人になって、その女子が目深に被っていた帽子を脱いでやたらはっきりとした口調で言った。

立待たちまちゆかりです」

 そして真正面に座る僕を鋭く睨んだ。それは緊張から顔が強張っているとかそういうんじゃないんだ。その整った顔を、内に秘めた怒りや苛立ちなんかで歪ませないよう努めてクールなふうなんだよ。

 僕もそれに合わせて努めて冷静を装ってはいたけど、正直なところ内心穏やかじゃなかったよ、みっともないくらい動揺していたかもしれないな。信じられない、何という運命の悪戯なんだろうね。――うん、そう、知り合いなんだ。僕がさっき話したクソッタレは実はコイツなんだな。しかも一番好ましくない場所で出遭ってしまったかもね。彼女と僕の関係は非常に―― ぅんまぁ、どういう関係なのかはいずれおいおい話すことにするよ、正直あまり気乗りはしないんだけど。

 でも正直かなりショックだったね。だってたかが帽子のせいでこの瞬間まで気付かなかったわけなんだからさ、この僕が。針井の遅刻で少しばかり心を揺らされていたとはいえ、洞察力観察眼が甘かったことは認めないわけにはいかないんだから。

 彼女はその後僕に対し特に話しかけるわけでもなく、無視するでもないスタンスをとっていた。まるで今日始めて出逢った間柄であるかのようにね。だから僕もそれに合わせたわけなんだけど、少し外の空気が吸いたくなって室外に出た僕を、彼女は見逃さなかったな。いやはやまったく大した女だよ。



 トイレに行くふりをしてさりげなく部屋を出て、廊下を奥へと進み、突き当たりの少し広けた場所に設けられたベンチに腰を下ろした僕の前に彼女は姿を現した。僕の後を追って退室したんだろうね。

「――どうも。御機嫌いかがですか?」

 腰に手を当て、しっかりと両足を広げて仁王立ちみたいな格好で、彼女はそんな台詞を口にした。このうえなく嫌味ったらしいふうにしてね。

「やぁ、ご機嫌よろしかったですよ。ついさっき誰かさんの顔を見るまではね」

 だから僕も同じようにしてやり返した。負けていられなかったからね。

 彼女の顔が一瞬醜く歪む。ホンと鬼のようだったね。澄ましていれば結構美人に思える彼女だけど、僕と出会うと一度はそういう顔をしなければ気が済まないみたいなんだよ。まぁ僕のほうもそうさせるのが好きではあるけどね。あくまで彼女に対してのみだけど。

「こんなところで……どういうつもり?」

 と彼女が言う。努めて感情を抑えた――それでも小さく震える声でね。でもかなり痩せ我慢しているのはバレバレだったよ。

「何が?」と、しれっと答え、彼女の表情を観察しつつ続ける。

「べつにどうでもないよ、人付き合いさ。もう高校生なんだから、この時間こんなところに居たっておかしくないだろ?」

「おかしくない…ですって」と彼女が震える声で言葉を拾う。

「わたしの父さんとの食事の約束をドタキャンした理由がこれ? 女の子と仲良くカラオケするのがそんなに大事だってわけ?」

「オイオイ僕だけ悪者にしないでくれよ。僕は人数合わせで呼ばれて仕方なく参加してるんだ。つまりはっきり言うとね、キミがこんな会に参加したいって無理を言わなきゃ、僕はここに来なくても済んだんだぜ?」

「わたしだって人数合わせよっ!」

 彼女は、わざとらしくすごく嫌味ったらしく主張を述べた僕に叩き返すように叫んだよ。まぁたぶん、人数合わせだっていうのは本当だったんだろうね。あとで聞いた話、幹事の竹本さんが今回この会の発起人らしいんだけど、その理由が「復縁を願っている粘着質な元カレとすっぱり別れて、新しい生活をスタートさせたい」っていうような、すごく個人的なものだったみたいなんだ。まったく迷惑もいいところだよ……

 立待ゆかりはそのままいつもみたいに捲し立てるのかと思いきや、彼女はそこで踏み止まり、吐き出そうとしていた言葉を飲み込んで小さく深呼吸をした。正直少し意外だったよ、彼女にそんな冷静な判断が出来るなんてね。

「……いつまで逃げるつもりよ?」

 僕の目をじっと見つめ、彼女はゆっくりと諭すような口調を始める。

「反対なんだったらはっきりとそう言えば良いじゃないの。そうしなきゃ何も良くはならないよ。こんなまるで駄々をこねる子供みたいな真似してないで。あなただってわたしたちだってお互い気分が悪いでしょう」

 ひょっとしたら彼女は、この瞬間少しくらいは本当に僕のことを心配してそう言ったのかもしれない。でも、たとえそうだとしても、僕はそれを素直に受け取ることが出来なかったんだ。だって僕達の関係はそんなふうには出来てはいないんだから。

「だから僕は反対してないって言ってるだろ、以前にも言ったと思うけど。あの女はこれまで好きにやって来たんだ。だからこれからも――今度のことも好きにしたら良いさ。僕の気持ちなんて元々関係ないんだから、キミのお父さんもそこに拘る必要なんてないんだよ」

「関係なくなんてないでしょう。あなたとあなたのお母さんのことなんだから!」

「あーっ! 何でキミたち父娘はそんなにいちいち細かいことを気にしたり拘ったり! 五月蝿いんだよ! しつこいんだよ! 僕が勝手にすれば良いって言ってるんだから勝手にすれば良いんだよ!」

 何故か不思議に、自分でも気が付かないうちにすごく苛立っていた。髪の毛を掻き毟って最終的には叫んでいたね、まったく本当にいつの間にか。これまでの一六年の人生の中でこのときほど僕が感情剥き出しになったことは無かったんじゃないかってくらい。正直自分でも驚いているよ。

 そしてこの後僕は立ち上がり、その場に彼女を残して、皆の居る部屋の方へ向かって廊下を歩いて行った。もう立待父娘やこんな話題にうんざりしてた僕は、この後彼女がどんな言葉や態度を返して来ても、聞きたくなかったし見たくなかったし、何より彼女にそんな本性みたいなものを見せた自分が恥ずかしくて堪らなかったんだ。

 もうここまで話してしまうと、君には僕と立待ゆかりの関係や抱えている問題なんかが大体想像出来てしまっていると思う。だけどそれを今僕に聞かないでほしいんだ。今の僕は、その件に関してまったくの『ま』の字も無いほどに答えたい気分じゃないんだよ、たとえ相手が君だとしてもね。だから少しだけ何も聞かないでほしいんだ。いずれ僕のほうから話したいタイミングで話そうと思うからさ、必ずね。

 とにかくまぁそれで心がぐちゃくちゃになってしまった僕は、そのまま皆の居る部屋の前を通り過ぎてフロントの方へと向かった。べつに皆に黙って帰るつもりだったわけじゃないよ。ただ少しの間頭を冷やしたいと思っただけ。そのときの僕の顔はとても他人に見せられたものじゃなかったからさ。



 少し時間を潰して皆の居る部屋に戻ると、立待ゆかりはもう既に戻っていてそこに居た。僕が部屋に入って来るのを一瞥しただけで、その後は僕に何の興味も無いような態度を取っていた。有難い話だね、まったく。

 室内の雰囲気はというと何となく微妙だったね。僕が居ない間に盛り上がったのか下がったのかは分からないけど、少し疲れが見えている奴と飽きて来ている奴なんかが居て、それ以外は針井の独壇場と化していた。どうでも良い話だけど、まぁまぁ面白かったので少しだけその内容を話そうかな。

 針井はまず自分のことは『ハリー』と呼んでくれと言ったんだよ。そしてそれは『ハリー=ポッター』ではなく『ハリー=キャラハン』――つまり『ダーティ・ハリー』だということだった。随分昔の映画のタイトルだけどそれを知っている娘がいて「イーストウッドに全然似てないじゃない」って言ったんだ。すると奴は「俺は本物の44マグナムを持っているんだ」って、そして今も持って来ていると言ったんだ。「だったら見せてよ、何処に持ってるの?」とその娘が聞くと、奴は我が意を得たりとばかりにニヤリと笑って答えた。

「悪いけど今は見せられない。そういう場所に在るんだ」

 紛れもない下ネタだった、本当見事なくらいに、まるっきりオヤジみたいに恥ずかしげもなく。少なくともあの状況で同世代の女子に言う冗談ではなかったね。女性陣は明らかに少し引いていた。このとき「さいてぇーっ」と言う女子がいたけど、そういうのはまだマシ。ひょっとしたらそれは優しさなのかもしれないな、ここで雰囲気を盛り下げないための気遣いなんだろうね。こういう場で本当にまずいのは誰も何も言わなくなることなんだから。

 しかし傑作だったのはこのときの立待ゆかりの表情。頬が引く攣いていたんだ。彼女はこういう下らない冗談が死ぬほど嫌いだからね、立ち上がって針井を引っ叩きやしないかと僕は少しハラハラしたくらいだよ。

 だけど彼女はそうしなかった。だから水を得た魚みたいにか波に乗ったサーファーみたいにか――はっきり言って調子に乗った針井は更に話を進める。

「女性関係の事件でこのマグナムで解決出来なかったことはないんだぜ」

 女性というのは随分耐性と順応性に優れた生き物だって正直感心したね。このときもう既にある程度、針井の下ネタに免疫が出来ている人物もいたんだから。よく覚えてないけどたぶん御手洗さんだったんじゃないかな。少し侮蔑を含んだ目と声だったけど、それでも「どうやって?」って一応返したんだ。

「いきなりズドンさ」

 にやりと笑って針井は拳銃を撃つ真似をして見せた。

 いやいやこれには参ったね、皆呆れて声が出なかったくらいさ。最強の一言。まさしくズドンと撃たれたみたいにイカレタ衝撃だった。確かにそれが44マグナム並みの威力だったことは僕も認めないわけにはいかないよ。

 針井文豪! まったく奴は大した男だよ、最高に愛すべき馬鹿野郎さ。こういうことを言わせたら間違いなくこの国始まって以来の逸材なんだから。君はどう思う? 世界中の人間が皆奴みたいだったならきっと戦争なんて起こらないと思わないかな? 一年待たずして戦争以外の理由で人類が死滅してしまう危険性はあるけどね。

とにかくまぁそれはさて置き、そんな感じで会は無事(?)終了したわけなんだけど……

 終わり掛けになって、伏見さんが僕の連絡先を聞いて来たので快く教えておいた。照れながらすごく勇気を出しましたって感じがとても良かったからね。恋愛対象どうこう関係なくしても僕はこういうタイプの女性は好きだな。控えめな雰囲気が。逆にあまりギャーギャー喚くタイプや押し付けがましいタイプ――つまりは立待ゆかりみたいなのは苦手なんだ。どうにも好きにはなれないんだよ。

 皆はその後近所のファミレスへ向かい二次会をするみたいで、僕も誘われたんだけど丁重に断った。心の底から『行きたいだけど用事があって無理……すごく残念』みたいなふうな顔をしてね。本当は合コン特有のインチキ臭い雰囲気に併せて立待ゆかりとの口論でやられてしまっていて、このまままっすぐ家に帰って寝るか、何処かで一人、気分転換でもしなくちゃ心が病んでしまいそうだったからなんだけど。


                 ※


 ――告白するよ。実は、僕は現在アパートの一室で一人暮らしをしている身だ。とある事情で高校へ入学したときからね。「その事情って何?」って君は尋ねたいと思うけど、それは……ごめんよ、今は話せない。話せばやさしい君は僕に同情せずにはいられないだろうし、僕の性格や言動をそのせいだと偏見を持ってしまい兼ねないからね、悪いけど。

 とにかくまぁ、そんなことを少し頭に置いてこれからの話を聴いて欲しいんだよ……



 合コンの日の夜が明けて日曜の朝が来た。一人暮らしをしているにも関わらず、休みの日でも僕は結構しっかりしているんだ、いつまでも寝ていたりとかしないんだよ。だからこの日も八時頃目を覚まして、歯を磨いて珈琲を入れてトーストを焼いたりして準備を済ませ、そしてのんびりテレビでも見ながら朝食を頂く……はずだったんだ、いつもならね。でもこの日はかなり違っていた…


    ピンポーンっ…


 築三0年・2DKの安アパートの玄関のチャイムを鳴らす音がしたんだ。その瞬間僕は何故か背筋がぞくりとする感覚に襲われた。いわゆる悪い予感や虫の知らせってやつなんだろうね。そもそも人が尋ねて来る予定も無いのに玄関のチャイムが鳴らされるときってのはさ、大抵の場合招かざる客であることが多いもんなんだけど、このときのその感覚は相手が只者ではないことを無意識下で僕に告げていた。新聞や宗教の勧誘なんかじゃないってことが察知出来ていたんだ。

 足音を忍ばせて玄関ドアに近付き、そっとドアスコープから外の様子を窺う。人が一人立っていた。レンズを通しての妙な視界のせいで明確には見えないけどそれが誰なのか何となく分かった。…知り合いだったよ、一応は。だけど出逢ったのがごく最近にも関わらず僕の日々入替りを続ける脳内危険人物リストで常に上位トップ三名スリーから外れない超一級のイカレた奴だったんだ。

 ――どうしてが……。どうして僕の住処がバレてるんだ?

 動揺してはいたけど、僕は充分冷静にものを考えられていたから、当然居留守を使うことに決めた。様子を窺いつつゆっくりとドアから後退する。

 だけどは諦めなかったね。再びチャイムを鳴らして返答が無いと、更に続けて鳴らし続けた。それでも僕は出て行く気にはならなかった。僕の代わりに隣の住人が「うるさい!」と怒鳴り出て行くことになったとしてもだよ。そのときの心苦しさよりも、彼女に出くわすことのほうが心に受けるダメージはより大きいと、僕には分かっていたんだから。

「あれぇ、留守なのかなぁ」

 ドア越しに彼女の呟く声が聞こえた。数秒後「あぁ、そうか……」とも聞こえた。でもその後は声はぴたりと止んだんだ。

 やれやれやっと帰る気になってくれたかな…と僕が再びスコープを覗き込んだその時だった。

    ――  ことんっ…

何かがドアポストから室内に投げ込まれたのに気付いた。それを確認しようと目線を下げたまさにその瞬間……


  パパァン! パパパァパパパパパンッ!


  ――っ!!! 

 けたたましい炸裂音がした!

 そしてそれはほんの数秒ほどで新聞受けの中から室内へと、激しく弾け飛び散って行ったんだ! 

「 ――……〒☀☜☄…… 」

 後に残ったのは白い煙と鼻につく火薬の匂い……

 一瞬魂を抜かれたのかと思った、ここは何処か僕は誰なのか…言葉や呼吸さえも忘れてしまっていたよ。いわゆる放心状態ってやつなんだろうね、正味の話。だけどそれさえもゆっくりとはさせてもらえなかったよ。心臓に手を当て必死で状況を理解しようとしている僕の耳にまた呟き声が届いたんだ。

「まだ寝てるのかなぁ」

 僕は慌ててドアを開けたね、思い切り勢い良く。

 ドアの真ん前に彼女は立っていた。片手に持った爆竹の束の導火線に、もう片方の手で点火しようとしている、今まさにその瞬間だった。彼女は僕に気付くと爆竹と火種を手持ちの鞄にしまってにこりと微笑んだ。

「やっと起きたね、寝ボスケくん」

「馬鹿かっ! 心臓止まって永眠するところだっ!」

 僕に怒鳴られても彼女はまったく悪びれる様子は無かったよ。

 彼女――『水無月みなつき美優みゆ』のことを語ると少し話が長くなる。でも少しだけ我慢して聴いて欲しいんだ。

 まず、彼女は只の僕のクラスメイトでそれ以上の仲ではない。……まさか君、疑ったりしてないだろうね? ぁ…でもまぁ、仕方ない部分もあるかな? 実際にクラスの中で僕らの関係を疑う奴らもいるんだから、残念な話。入学当初、とある学校行事の実行委員に二人して選ばれたときなんかは特にそういう噂が立ったもんさ。――まぁ確かに、小柄でショートカットの髪に、大きな二つの瞳が印象的な愛らしい顔立ちってルックスは、僕の好みのど真ん中なんだよ、正直に告白するとさ。だけど、いかんせん性格がいけないんだね。彼女は何処かズレているというか、俗っぽく言えば『天然』という代物やつなんだ。ぶっちゃけて言うと僕はその天然バカって奴が嫌いなんだよ。どれくらい嫌いかっていうと、自分ががためにわざとドラマや映画を観るような気持ち悪いM気味の女の次くらいに嫌いなんだ。天然なんて漫画やテレビの中だけで充分で、現実に目の前にしたらいくら君でも引いてしまう、それは間違いないと思うよ。

 しかも彼女こいつには僕の十八番で必殺技みたいなものである『天使エンジェル微笑スマイ』が通用しないんだ。他の誰にも効果覿面なんだよ? 僕は人と――特に女性と話すときにこれを使用するんだけど、八割がた一発で僕に好意を向けてくれる自信があるんだ。笑顔を向けられて嫌な気分になる人なんてそうそういないだろ? だから僕は人付き合いのうえで笑顔というものをすごく重要視していてね。毎朝鏡の前で練習したりしているんだ。君も試してみると良いよ、少しくらいは世界の何かが変わるかもしれない。ただしあまりやり過ぎると自己嫌悪に陥ってしまうから、ほどほどにしたほうがよいけども……

 ――って、少し話が逸れたね、ごめん。まぁそんなこんなで、彼女は僕にとって混沌とした存在なんだ。だからあまり関わりたくはないんだよ、正直さ。なのに事あるごとに彼女は僕に接触を試みようとして来るんだ。あまりにぶっ飛び過ぎた性格で友達がいないのが原因なんだろうけど、理解出来ない相手を好きになれない性格の僕にとっては迷惑な話なんだよ。

 まぁとにかくそれで、何故か水無月はウチに来たわけだね。このとき思わず怒鳴ってしまったけど、僕は本来そういうキャラじゃないんだ。君や立待ゆかりのような一部の人間を除いて、僕は万人に優しい『王子様』を演じて見せているんだよ、同じクラスの人間には特にね。だから彼女も例外じゃないんだ。それで怒鳴ったのをフォローする狙いもあって、僕は努めて穏やかに彼女に尋ねた。重要な内容の質問なんだ……

「ねぇ水無月さん。どうしてこのアパートを知ってるの?」

「クラス名簿で見たから」

 そう言えばそのテがあったか……くそ、単純明快じゃないか。今の時代、積極的に公開すべきではないのに、うちの学校はそういうのが全然しっかりしていないんだ。旧時代のままなんだね。

「――で、こんな朝から何の用?」

 僕はこの場で彼女の用件を聞いて、とにかくとっとと追い返そうと考えたんだけど……

 ふと、彼女以外の視線を感じてそちらに目を向ける。

そこには自室のドアを半開きにして、怪訝な顔でこちらの様子を窺っている隣の住人の顔があった。まずい、最悪のパターンだと思ったね。

すぐさま水無月の手を掴むと有無を言わせず室内に引っ張り込んだ。そして隣住人に「すみません、何でもないんです」と愛想笑いをして、すぐにドアを閉めた。



 室内に入ってすぐ水無月はすごくわざとらしく恥らうふりをしながら

「無言で女性を部屋に引き擦り込むだなんて……意外に強引なんだね」

 とか呟いていたけど僕はそれを無視して、「座って」と言った。だけど彼女はすぐには座らず「へー、結構片付いてるんだね」とか言いながら部屋の中をいろいろ見て回る。そしてそのまま――2DKの間取りは玄関側からダイニング・トイレ・風呂、四畳部屋押入付、六畳部屋となっているんだけど――一番奥の六畳部屋まで行ってベッドに腰掛けようとしていたので、僕は彼女の腕を掴んで四畳部屋の卓袱台の前まで連れて来て、座らした。僕は寝室には誰も立ち入らせたくない主義なんだよ。

 僕はとりあえず台所へ行って準備をしながら「珈琲でいい?」と尋ねた。「んー」と返事があったけど、どうも声が遠いと思って様子を見に行くと彼女は四つん這いで、四畳部屋から仕切りになっている引戸のレールを跨いで六畳部屋に上半身を乗り出し、ベッドの下に手を伸ばしているところだった。

「何してるの?」と尋ねると、彼女は振り返ることもなく答えたよ。

「思春期の男子のベッドの下には男の最前線が―― 」

「あるわけないよね?」

 僕はそこに在る彼女の身体に構うことなく、開きっ放しになっていた引戸を勢い良く閉めた。

 そして「ぎゃっ」と声を出して、脇腹に重い一発を貰った彼女が身を引っ込めるのを待って、改めてしっかりと戸を閉めた。

 彼女は脇腹を押さえつつ「酷いよぉ」と弱々しい声で抗議したけど、僕は無視して再び珈琲を作りに台所へと戻った。

 君は分かってくれてると思うけど一応言っておくよ。別に僕は彼女を苛めたいわけではないんだ。一度体験してみると君も良く分かると思うけど、彼女の傍に居ると三回に一回くらいはそうしなきゃならなくなるんだから、本当の話。この件にしたってだ、仮に僕のベッドの下に『男の最前線』的な雑誌があったとする。でもそれをこの状況で探し当てられて中を見られたりした場合にさ、僕も彼女もその後どういう顔をしてその場に居続ければ良いんだっていう話なんだよ。――とにかくまったく、彼女のやることはいちいち先が読めないから困ってしまうね。だから僕も少々パンチの効いたことをしなくちゃいけないわけなんだ、もちろん愛の鞭的な意味でだよ。

 とにかくそんなわけで、僕は無事珈琲を作り終えてそれを彼女の前に置いた。僕も卓袱台を挟んで彼女の正面に座り、そこで改めて今日ここにやって来た目的を聞いたんだ。すると彼女は、ここから電車で二駅くらいの場所に最近出来た大型ショッピングモールにまだ行ったことがないので一緒に行こうと言った。

 正直言うと僕は物凄く気乗りがしなかった。この段階で既にどっと疲れていたからね。でも了承しなければ彼女がこのままいつまでここに居座るか分からない状況だったから仕方なく一緒に出掛けることにした。

 まったくもって『マイナスの選択』だったよ、二日連続でさ。まぁ彼女と一緒だと大抵の選択肢はそうなるんだけどね。


                   ※


 ショッピングモールへはバスで行くことにした。電車でも行けるけど、駅からよりも停留所からのほうが目的地に近いし、時間的にも早く着けるからね。

 目的地自体は僕も初めて行く場所だったけど、停留所から建物がもう大きく見えていたから迷うことはなかった。バスを降りて一本道を歩き出す。そこは丘の上、まだ開発途中の郊外の分譲住宅地で、まだそんなに家が建っていなくて背の高い建物も少なくて、とても見渡しの良い場所だった。そのうえ空は何処までも高く青く澄んで広がっていた。だけどそれでも僕の心は晴れることなかったね。むしろそんな青空が憎たらしいような気持ちですらあったよ。何しろ上からはやたら強い陽射に、下からは焼けたアスファルトのむわっとした熱気なんだから。確かに今年は空梅雨だって言っていたけど一応梅雨のくせしてさ。そのうえ隣には鞄の中に火薬と火種を持った凶悪なテロリストもどきの頭の残念な女。最悪だって思えたね、不愉快というか愉快さの欠片もない状況で、妙に汗が出ていたような記憶がある。

 もともと僕は暑いのが苦手だから遠くの空に巨大な入道雲を発見すると夕立でも来ないかな――来れば少しは涼しくなるかもしれないのに、と漠然と考えたりした。そういえば昨日の深夜テレビの天気予報では午後から雨が降るようなことを言っていたような――なんてことも思い出していたりもした。ぁ…でも、傘を忘れている……

 何だか暗い気分に陥りそうだった。だから僕はシャツのポケットに忍ばせていた愛用の小型の携帯オーディオを取り出すと、そのイヤホンを耳に挿して電源を入れた。隣に水無月が居るけど関係ないって思ったね。僕はこの世の全てが嫌になったとき、よくこんなふうに音楽を聴くんだよ。世界がもし百人の村だったらそのうち九0人がケチな奴と下衆な奴とインチキな奴たちだと考えている僕にとって、これはもはや習慣というより癖に近いものだね。まぁとにかくこうすると、世界で僕はたった一人になれたような気分になって心が落ち着くんだ。外界と自分との間には見えない壁が出来たみたいで面白いから君も試してみるといいよ、わざと人の多い場所やBGMがある場所でやると効果は覿面になるからさ。

 でもそんな特効薬も実は即効性は無くて、だからこのときは旨く効かなかったんだ。薬を飲んで(イヤホンを耳に挿して)ほんのしばらくの後、ふいに「くぃっ」と腰の辺りのシャツの裾が引っ張られてね。「何?」と少々不満気な顔をして後ろを振り返ると、そこにある水無月の顔が何か言いたげだったんだよ。だから仕方なく僕はイヤホンを外して聞くことにした。

「十六夜くんってさ、カノジョいないでしょ? ずっと」

 唐突に何の脈略もなくそんな爆弾発言をする彼女。まったく失礼な話だよ。昔、フった女性たちの涙で公園に溜池を造ったことがあるこの僕に対してさ。それが当時、ちょうどこのときみたいな夏真っ盛りで水不足問題が在った時期なものだから、市のお偉いさん方が表彰させてくれないかって言って来たのを「よして下さい、そんなつもりで造ったんじゃないんです」って頭を下げて許してもらったこの僕に対してだよ。あまりにも酷い発言じゃないかって思うけどね……

 ――でもまぁ、このときの僕は何故か妙に冷静だった……というより水無月なんかにもうこれ以上心を乱されて堪るかと意地になっている部分もあったけどね。とにかく僕は努めて穏やかに「どうしてそう思うの?」って問い返した。すると

「歩くスピードが速すぎるの。女の子の歩く速度が分かってないし、合わせる気持ちも感じられない」

 なんて言うわけだよ。まるで少し年上の女性が年下男性に交際の礼儀を説くみたいにさ。まったく信じられなかったね、それが一人暮らしの男子の部屋をいきなり訪問して、ベッドの下を探ろうとした奴の台詞なんだろうか!

 それでも僕はまだ冷静だった。ひょっとしたら暑さのせいで怒る気力もなかっただけかもしれないけど。とにかく僕はすごく大人な態度で「ごめん、気をつけるよ」と言った。今思い出すとすごく腹が立つ記憶だ。どうせならそこから前を歩かせて十秒に一回くらいのタイミングで『膝カックン』を繰り返せば良かったなんて思ったりもするけど、そのときの僕は、ちゃんと彼女にペースを合わせて隣を歩いてやった。我ながらまったく大したものじゃないか。

 とにかくそうやってうちにショッピングモールに着いた。そこは僕がこれまでに行ったことがある商業施設の中でも一・二を争うくらいの、頭に超をつけるのが相応しい大型なもので、正直少しばかり驚いたね。野球が一度に何ゲームも出来るくらいの広大な敷地に建つ多角形の巨大かつシンプルなデザインの建物は、外装がクリーム色にも関わらず何となく無骨な要塞を思わせたよ。五階建て地下一階在りで、一階から三階までが商業施設、四・五階は屋内駐車場になっていて、地下には大型電気店が入っているみたいだった。商業施設部分は三階まで真ん中が楕円形の吹き抜けになっていて、その周囲に廊下を挟んでいろんな店が立ち並んでいて、その数の多さや多様さから、まるでここが一つの街であるかのような雰囲気だった。

 そんな建物の幾つかある入口の一つから僕たちは中へと入って、そして建物内の様子なんかを見回しつつ歩き出した。中は空調がしっかりしていて涼しかったこともあってか少しだけ気分が良くなったかもね。だから水無月が何だか下らないことを言って一人で笑っている様子を見ながら何となく適当に相手なんかをしていた。「こいつ本当に天然だなぁ」なんて考えてもいた。まぁ正直少しだけ楽しいような気分にもなっていたのかもしれないね、本当に少しだけだけど。

「――― っ! 」  

 だけど突然彼女のその笑顔が固まった。いや、凍りついたと言ったほうが良いのかもしれない。一瞬静止画像みたいになったんだ、間違いなく。そして彼女の足が止まった……

「――― ? 」

妙に思った僕が静止する彼女の視線の先を追ってゆっくりと振り向いてみると、そちらには遠く向こうの方に一人の背の高い男が立っているのが見えて、そいつはきょろきょろと少し挙動不審な動きをしながら徐々にこちらに向かって来ていた。

「あれ?」

 と、僕は漏らす。そいつの姿に僕は見覚えがあるような気がしたんだ。何処かで見たことあるんだけど……と、ほんの少しの間そいつを観察して考えて、そして気付いたよ。

 ――『森本孝』だ! 間違いない。昨夜合コンの席で同じだった奴で、クラスは違うけど同級生だ。

 そいつが挙動不審…というよりは何かを探しているといった感じで、僕たちの存在にはまだ気付いていないようだった。

 ――さて。相手は普段滅多に話すこともない顔見知り程度の男。周囲を観察してみてそいつの連れらしい姿は確認出来ない。君ならこの状況、どうする? 選択肢は二つさ。声を掛けるか無視するかだよね、大きく分けてだけど。

 僕はそこで少し悩んだ。少しだけど真剣に。こいつは確か昨夜の合コンのとき、全然喋らず歌も歌わず、常に曖昧な笑みを浮かべているだけの一直線に退屈な奴だったはず。正直声を掛けたくないとさえ思ったよ。世間話を始めても盛り上がらず最終的に気まずくなりそうな予感があったからね、なんとなく。

 だけど人生とは時に残酷なもので、僕が決断を下す前に森本のほうが僕たちに気付いてしまった。そうなると選択肢はもう一つしかないよね……

「ゃ、やぁ……」

 出鼻を挫かれたせいかな? その距離で聞こえるのかどうかも分からないくらいの情けない声しか出なかった、格好悪いけど本当に。

 でもまぁそれでも、結局のところ声を掛けたのが正解だと思ってるよ。僕は王子様であろうと常日頃心掛けている男だからさ、皆に平等に優しくしなくちゃいけない。王子様は実在しない空想上の生物だから、演じるためにはファンタジーに徹しなきゃいけないんだよ、悲しいことに。

 とにかくまぁそうして僕は森本に声を掛けて軽く手を上げて、社交辞令程度の挨拶の一つでも交わそうかと奴に歩み寄ろうとしたわけなんだ。だけど奴は僕たちの姿を確認して一瞬固まったかと思ったら、次の瞬間その場から走って逃げ出したんだよ、一目散さ。まったくもって失礼な奴だよ。こちらは声を掛けて手まで上げたというのにさ、格好悪いったらなかったね、まったく……


 そんな奴の奇行を目の当たりにして、僕のほうも一瞬固まってしまっていたよ、手を上げたその格好のまま。それでもすぐに気を取り直して遊覧を再開することにした、折角やって来たんだしさ。自分で言うのも何だけど珍しくそういう気分だったんだ。そう、少しだけどね。水無月もほんの少しの間考え事としているような難しい顔をしていたけど、すぐにいつもの間抜面に戻っていたよ。

 でもそんな中、再び僕の気分を害するような事態が起きたんだよ。人生ってのは結構残酷なもんだね。その瞬間はエスカレーターを一度使っただけ、ほんの少しの休息の後にやって来たんだから。

 それは二階に着いて廊下を歩き出してすぐのことだったよ。

「あっ!」

 と、僕たちの前方からその声はした。思わず反射的にそちらを見て、そして激しく後悔する。そこに立って居たのは立待ゆかり他三名の女子――つまり前日の合コンに参加していた竹本明日香・御手洗昭子・伏見静花だったんだ。正直、思わず「うわっ!」って叫んでしまいそうになったよ。こんな偶然てあるもんなんだね、まったく酷い話さ。別に後ろめたいことは無いわけだよ、僕は成り行きで水無月に付き合わされただけなんだから。でも前日の夜に合コンに参加しておきながら、翌日の昼頃まったく別の女と歩いているのって「いったいどれだけ女好きなんだ」と人格を疑わないかい? あぁまったく何でこんなことに……。どうやら神様は僕にゾッコンらしいって光栄の極みの身震いがしたよ、このときは本当に。

「ちょうど良かった」

 と、立待ゆかりは言った。まったくとことんこいつとは気が合わないんだ、僕はその正反対の気持ちだったんだから。

「話があるんだけど。ちょっと顔貸してくれない?」

「ゆかりちゃん……」と、伏見静花がそれに口を出した。

「それはわたしが――」

「いいから。わたし、彼とは少し縁あって以前からちょっとした知合いだから……あくまでちょっとした。――大丈夫だって。心配しないで静花は二人とそこらへん適当に見て来なよ」

 伏見の言葉を遮って立待ゆかりは勝手に話を進めて行く。「おいおいちょっと待て。おかしいだろ、それは!」と言ってやりたかったね、言わなかったけどさ。つまり、普通はこちらの都合を先に考えるべきじゃないのかってことなんだ。それに僕一人ならともかく、こちらには女子の連れがいるんだよ、少しは気を配るべきだろ。こいつのこういう身勝手なところや、それに本人が気付いていないところなんかが僕は嫌いなわけだよ。押し付けがましい自己満足な親切心とかもさ。個人的脳内ランキングでいうなら『自分のことを男子が構ってくれて当然だと思ってる勘違い女』の前くらいに嫌いなんだよ、まったく。

 でもここで意外だったのは水無月だった。彼女の行動さ。正直ちょっとびっくりしたよ。立待サイドの話が纏まると、彼女は僕に「先に行くね、角の本屋さんで待ってるから」と言い残してその場をそそくさと去ってしまったんだよ。いやはや彼女にそんな気が利く面があったなんてね。「どうしていつもはそうじゃないのさ」って言いたいところはあるけど。

 とにかくそれで、僕と立待ゆかりは、そこから窓の外の広いテラスに出て行って話をすることにしたんだ。


「一緒に居たの可愛い娘だったね。カノジョ?」

「ぁあっ?」

 言葉が癇に障った僕がそれに相応しい態度で応えると、まったくこういうことにだけ気が利いているじゃないか

「その顔、カノジョにも見せてあげたいね」

 と、皮肉を返して来た。さすがにいつもは穏便な僕もカチンと来たよ。

「そんな下らない話なら戻るぞ。僕も暇じゃないんだ」

 さっと彼女に背中を向けると店内へと足を進める。

「少し面倒なことが起きたの……」

「待て」と言う代わりに彼女はそう言った。僕は振り返って再び彼女と面と向かうことにする。

「昨日の夜。静花がスマホを落としたんだけど……」

 立待ゆかりが話を続ける。前日夜の一次会カラオケ終了後僕は帰って、そのすぐ後に三田と立待ゆかりも帰ったらしい。だから彼女も伏見さん本人から聞いた話を喋っているだけだし、それをいちいち全部説明するのは面倒だから要約して話すね。

 ――二次会は駅前から少し歩いた場所にあるファミレスで行われた。それは終始微妙な空気でつつがなく終了したらしい。三次会は無く、解散。家が同じ方向である伏見静花と御手洗昭子が帰宅のため他メンバーと別れて、駅とは逆方向に歩き出してしばらく経った頃、伏見さんが自分のスマホが無いことに気が付いた。ファミレスに居る間、一度トイレでLINEメッセージのチェックをしたというから、無くなったのはそれ以降……ということで、二人で探そうということになったらしい。

 ファミレスまで戻って、座っていた座席周辺やトイレなんかを探して、店員にも尋ねてみたけど見付からず、気付いた場所までの道の側溝なんかもくまなく覗いたらしいけど、影も形も無かった。立待ゆかり・竹本さんや針井なんかにも連絡してみたけど、皆見ていないと言う。そして近所の交番に寄って、それらしい落し物がないかの確認をした頃には夜もかなり遅くなっていた。しかたがないので今日のところは一旦家に帰ろうということになった。そして二人が別れてそれぞれの帰路についたその後だ、その面倒なことが起こったのは。なんと御手洗さんのスマホに伏見さんのスマホから電話が掛かって来た! 彼女が電話に出ると、相手は男の声で御手洗さんのことを年齢は幾つだ? 何処に住んでいる? カレシはいるのか? なんて内容をネチっこく聞いて来たという。御手洗さんは急いでそれを伏見さんに知らせ、そして一夜明けてこのつい今しがた、伏見さんは皆と連ってそのスマホを解約して来た……ということだったんだけど。

 問題なのは――詳しくは聴けなかったけど――拾われたスマホは常に電源が切られているとか何かで、位置情報を探ることや遠隔操作が出来ないこと。おまけに持主の伏見さんが電気製品の扱いに疎く、ロック機能を使用していなかったことだった。

「今の時点で、昭子以外にその男から電話が掛かって来てないわけだけど、静花のスマホにデータ登録のあった人には一言掛けて回っているところなの。昨夜の合コンメンバーで静花が番号を聞いたのはあんただけらしいから。男のあんたには関係ないだろうけど、一応ね」

「ふぅ~ん」と僕は応える。確かに感じの悪い話だよ。でもまぁ確かに男の僕にはそれほど関係ない話だろうね。だけどその内容とは別に少し納得出来ない部分が一つあった。

「――で、何でその話をキミが僕にするんだ? 伏見さん本人じゃなくてさ」

「直接だと、あんたが静花に何言うか分かったもんじゃないからよ」

「なるほどね……」

 ようやく納得出来た。僕は本当にまったくに信用が無いわけだ。

「分かった、なるべく気をつけるよ。話はそれで終わりだろ、もう行くよ。じゃぁね」

 手短に別れの挨拶を済ませると、僕は店内へ向かう。本当に話はそれだけだったらしく彼女は呼び止めては来なかった。

 硝子扉を開けて店内に入ると、そこに伏見さんが立っていて少しびっくりした。彼女は恐る恐る本当に申し訳ないといった感じで僕にスマホの件を詫びた。僕は大丈夫気にしていないからと笑って、それどころかわざわざ彼女を気遣う言葉を幾つか並べて励まして、そしてそのまま笑顔で別れた。

 僕だってね、それくらいの気は利かせられるんだよ。ってそういう話さ。



 二階角の本屋に着いてその後、水無月は簡単に見付けられたけどすぐには声を掛けなかった。彼女は幾つかの銃火器系の女子らしからぬ雑誌を熱心に見ていたし、僕も寄ったついでに見ておきたい本があったからね。

 僕は心理学系の本が置いてあるコーナーを探し出してその在庫なんかをチェックして、そしてその幾つかを手に取ったりしてみた。僕は心理学系の本を結構読んだりするんだよ。特に心理テストのが多いかな。でも心理テストが大好きなのかと聞かれたらそれは逆なんだ。実は大嫌いなんだよ、心底ね。人はそれがたとえ親兄弟であろうと自分以外の他人にはある程度嘘をついて生きてるもんだよね、意識無意識両面でさ。そうすることで自分を護り他人と上手くソリを合わせるわけだ。でも心理テストってやつはそれを興味本位面白半分に暴いてやろうとする、その必要性が特に無いにも関わらず。そう考えてみたらなんてイヤラシイんだろうって思わないかい? 下種の勘繰り出歯亀根性丸出しじゃないか。これはもう愚行の極みだって言っても過言じゃないと思うよ。だから僕はそれに負けないよう対抗策として、そういう本を見掛けたら必ずチェックするようにしているんだ。僕は決して他人より幸せになりたいっていう欲張りじゃない。ただ単に平穏に日々を暮らしたいだけなんだよ、誰にも邪魔されることなく自分が思うようにね。

 とにかくまぁそんな感じで気になる本は一通りチェックし終えて、それから水無月を迎えに行った。そのとき彼女はまだ例のコーナーに居たよ。よっぽど好きなんだろうね、そういうのが。

 二人並んで本屋を出た後、とにかく一旦何処かに座って休憩しようかということになって、周囲を見回したけど視界に喫茶店らしき店は見当たらなかった。水無月が「別にここで良いよ」というのですぐ傍の自動販売機で飲み物を買って、その横のベンチに腰を下ろした。

 一息つきながら「まだ寄るところあるの?」と尋ねると、水無月は「地下の大型電気店に行きたい」と言うので、それじゃぁしばらく休んだらそうしようということになった。

「 ……っ 」

 話が纏まったちょうどその瞬間くらいだっただろうか、僕のスマホが鳴ったのは。LINEの着信音などではなく電話の呼出音。ポケットから取り出して画面を見てみると、『公衆電話』となっている。滅多に無いことだから妙に思ったけど、一応電話に出てみる。

「もしもし……」

『  ……  』

 返事がない。もう一度呼び掛けてみる――だけど無言だった。

電波の調子が良くないのか間違いか何かと思って切ろうとしたとき、電話の向こうから声がした……

『 ――今…隣に居るその娘と…どういう関係…?  』

 それは地下のマンホールの穴の中から響いて来るような…というのかテレビなんかで時々耳にする、とにかく低くてくぐもった男の声で、ボイスチェンジャーを使っているのは明白だった。

  こいつ…まさかっ――

「おまえ誰だよっ!」

『 ―――   ブツっ…   』

僕が電話に向かって叫ぶと電話は切れた。

「くそっ!」

 まさかコイツか、例の変態男ってのはっ!

 ざっと辺りを見回す。素早く慎重に。こちらを窺っている素振りの奴が居ないどうかを見極めるために。だけどそれらしい人物の姿は見えない。隣に女の子が居るのを知っているところから考えて、絶対僕たちの姿が見える場所に居るはずなのに!

「ふざけやがって! ここで捕まえてやるっ」

 まったく僕はこのテの挑発には本当とことん弱いらしい。その十数秒前までは別段興味も湧かなかった伏見スマホの拾得者なのに、このとき一瞬にして彼にゾッコンになったんだから。大部分のプライドと少しばかりの正義感で。

 このとき僕は少しばかり頭に血が上っていたけど充分冷静だった。すぐにその他に手掛かりはないか――と考えて、呼出時の『公衆電話』の表示を思い出す。これは凄いヒントだったよ。そうなると範囲はぐっと縮まるんだ。何しろこの建物内で僕たちが見える位置にある公衆電話を探せば良いんだからね。数は限られるはずだよ、今時公衆電話なんてそんなに在るもんじゃないしさ。

 建物の中に入ってから二階の自販機前に来るまでに公衆電話は見掛けた覚えがあった。確か一階と二階に一つずつ。だけど一階からは僕たちの姿は見えないし、二階の公衆電話はここから遠いうえにとても見える位置には無かった。――と、すれば……

 僕は駆け出した。背後で水無月が何か言ってたような気がしたけど無視した。近くのエスカレーターを三段飛ばしくらいで駆け上がって三階へと飛び出した。

 そして急いで公衆電話を探す。するとすぐに公衆電話は見付かったよ。位置的に今さっきまで僕たちが座っていたベンチが見える!

 だけどそこにはもう誰も居なかったんだ。当然といえば当然、男がわざわざそこに居続ける理由なんてないんだから。

「くそっ……」

 それでもと思って周囲を見回してみたけど『それらしい人物』は見当たらなかった。

 『それらしい人物』というか……。僕はこの時点で、だいたいの犯人像みたいなのがイメージ出来ていたんだ。もちろん電話の主が、伏見スマホの拾得者と同一人物であるという前提での話だけど。

 君はもう気付いているだろうけど一応話すよ。普通ならスマホを拾って、中の登録データを見たところで、その人物が男か女かくらいしか分からないはずなんだ。だけどその男は、このショッピングモールで僕を見掛けて僕だと分かった。隣に水無月が居るのを見て関係を尋ねられるくらいだし、確実に。つまりデータの名前と実在の僕の顔とが照合出来ている――ということは、元々僕を知っている人物である可能性が高いんだ。そうなると逆に僕もほうも男のことを知っている可能性も高くなるわけさ。

 僕は物覚えは良いほうだから、一度見たり話したりしたことがある顔はだいたい判る。つまり公衆電話付近に見覚えのある男が居ればそいつが犯人だってことなんだ、高い確率で。

 その後しばらくその周辺をウロウロして探してはみたけど、それでも結局そんな奴は見当たらなかったよ、まったく残念なことにさ。


                 ※


 大型電気店に寄った後は他に用事も無かったので、僕たちはそれぞれ家に帰ることにした。水無月を駅まで送って行くため住宅地の中を歩く。その道すがら何だか薄暗いなと思って見上げると、空はいつの間にか一面濃い鼠色の雲で埋め尽くされようとしていた。再び昨夜の天気予報のことを思い出し、自分が家に帰るまでこのまま持つだろうかなんて考えたりもした。同時にそんなどんよりした灰色が自分の心の中に広がっているように思えて気分も悪かった。つい数十分前のあの変態男の電話の声がまだ耳に残っていて、それが事あるごとに思い出されて僕を漠然と不安にさせた。姿を確認出来なかったことが本当に悔やまれてならなかったよ……



 住宅地を抜けて駅に着いた。小さな駅だった。上りと下りの二本しか線路が無くて、しかも電車の到着するホームが外から丸見えだったりする、こじんまりとした大きさだったね。

 水無月は切符を買って自動改札を抜けて、「じゃぁね」と手を振ってあっさりと別れて行った。

 改札に背を向けて、僕のほうはこれから近所のバス停留所まで…と歩き出したちょうどそのときだったかな。パラパラと何処からか小さく音が響いて来たんだ。あ、不味い…と急いで外に出てみたらやっぱり駄目だったね。灰色のアスファルトの道に真黒い点がどんどん数を殖やしていく。それは圧倒的なほどの侵略スピードで、そこは瞬く間に一面漆黒に染め上げられてしまった。雨滴が地面に叩きつけられる音もバババババと激しくなって行った。時間にして十数秒の間の出来事だったと思う。

「これ夕立かな……」

 そうかもしれないけどそうじゃないかもしれない。何しろ雲の切れ間が見えない状態なので、何とも不安になる。

「やれやれまったく……」

 溜息をついて僕は駅舎の軒下を隅のほうへと移動した。なるべく雨に濡れることなくバス停に近付くためにね。バス停は十数メートル先に見えていたんだ。そこにも一応屋根はあったけどお粗末なもので、足元なんかが水浸しになりそうな気がしたよ。この日の僕は傘を持ってなかったからバス停まで走らなければならず、結局多少は濡れてしまう。どうせ濡れるんだけど駅の軒下で待ち時間を過ごして、バスが着てから走ったほうが少しはマシな気がした。駅の軒下のほうがバス停の屋根より少し広いように見えたからね。

 そう判断した僕は駅舎の壁に背を預けて携帯オーディオのイヤホンを耳に指す。そのときの僕はいつもの雅な僕じゃなくて、雨音ですら聞く気にはなれなかったんだよ。

 そんなこんなでイヤホンから音楽が流れ出す。その調べは薄汚い世の中から隔離された清く澄みやかな世界に僕を連れて行ってくれる……はずだったね、いつもなら。

それはすぐに邪魔されてしまった。誰かが僕のシャツの裾を後ろからくいくいと引っ張るんだよ。

「久しぶりっ」

 イヤホンを外して振り返ってみると、そこには何故か水無月が笑顔で立っていた。

「何でここに居るの?」

 正直驚いていた。だってさっき別れたばかりなんだよ、嘘偽り無く。全然久しぶりじゃないだろ。

「電車さっき出たばっかりだったの。で、まだしばらくは来ないから暇だなぁって思ってたら十六夜くんの姿が見えて、それで駅員のオジサンに頼んで出してもらったんだよ」

「へぇ…」と応えはしたけど僕なら間違いなく外には出ないね。

「でも抜けてるね、傘忘れたんでしょ。天気予報は見なかったの?」

 頭の中のボルトの七割が抜けてて、二割が緩んでて、残り一割が最初から無い奴にそんなこと言われて、このとき僕は少しむっとした。だから少しだけムキになって言い返したね。

「キミだって持って来てないだろ? 一緒だよ」

 駅までの道中に尋ねたんだけど、確かそう言ってたはずなんだ。でも言い返してから気付いたんだけど、それではこいつと同レベルってことで、それは相当悲しいことなんだよね。

「わたしは大丈夫よ」と彼女は胸を張った。

「後は電車に乗るだけだもん」

 やっぱりかなり悲しい奴だね……

「どうにもならないだろ。駅からはどうするのさ、駅から自宅まで。まさか駅に住んでるってわけじゃないだろ」

「ぁ、そうか迎えが……」と、解決策を自分で導き出してしまった僕だけど、彼女は首を横に振った。

「迎えは来ないよ」

「じゃぁ駄目だろ……」

 このときになってようやく、自分がすごく下らないことについて言い争い(のようなもの)をしていることに気が付いて、馬鹿らしくなった僕は再びイヤホンを耳に挿した。

 すると水無月がぱっとコードを引っ張りそれを邪魔した。

「何だよ」と少しだけイラついて零す僕。

「十六夜くんは世界の全てが嫌いなの?」

「 ………はぁ? 」

 一瞬彼女が何を言っているのか分からず、僕はそんな間抜けな声を出してしまった。でも彼女は彼女にしては珍しく真摯な顔をしていたね、真直ぐにじっと僕を見ていた。

 僕が水無月の言葉の真意を考えていると、彼女は更に続けた。

「それは『独り』になるってことだよ」

 そして僕のイヤホンを指差す。そこまで言われてようやく、僕は彼女の言わんとしていることが分かった気がした。妙なところで気が合うというか、彼女は僕と似た感性を持っていのかな、意外にも。

 つまりだよ、「わざわざ自分がやって来て『二人』になれたんだから、この時間は『二人』で過ごすべきで、『独り』になるのは良くない」とまぁそういうことなんだろうね。確かに少々無礼が過ぎていたのかもしれない。ひょっとしたら彼女が軒下まで出て来たのは僕を気遣ってのことだったのかもしれない。駅までの道中、僕は元気があったとは言えない状態だったしね。それが例え本人が望まない気遣いであったとしても、気を遣われたのならそれは「ありがとう」って気持ちで返すべきなんだよ。それは相手が誰であろうとも、本来ならね。僕も相手によってはどうしても出来ない場合もあるけど、このときは水無月に感謝したね、一瞬素晴らしい女性に見えたよ。それがこのときで最後にならないことを望むけど。

「ごめん、悪かったよ」僕は素直に謝った。この日は本当に珍しく、これで二回目だ。……で、もって彼女の質問に答えてやる。彼女は本当に知りたいと思って言ったわけじゃないかもしれないけど、ほんのお詫びのつもりで、僕には珍しく正直なやつをさ。

「全てというわけじゃないよ。好きな事や物や人も在ったりするんだ、まぁ少しだけど」

「ま、そうでなきゃ。キミと知り合いになった時点で、僕は自分の首を自らの手で絞めているよ、リアルな意味で」って、心底の本音までは言わなかったけどさ。

「――さっきの娘みたいに?」

 と、水無月が聞いた。『さっきの娘』が誰なのか分からず一瞬迷ったんだけど、すぐにそれが立待ゆかりのことなんだって気が付いたよ。この日これまでの経緯から考えると彼女しか当てはまらないからね。何を勘違いしてそんなことを言ったのかは知らないけど、別段問題も無いので正直に答えた。

「いや、彼女は嫌いだよ」

 水無月にはその答えが少し意外だったようだった。彼女は表情から心理が読み取り難いタイプだけどこのときは一瞬ポカンとしたのですぐ分かったね。

「え、でも二人で話をしたんでしょ。どうして嫌いな人と二人っきりになっていたの?」

「嫌いだからって二人っきりになることを避けられるとは限らないだろ」

「ふぅ~ん、そう」彼女はとりあえず納得したふうだったけど

「どうして嫌いなの?」

 と更に突っ込んで聞いて来た。「どうして」と聞かれてもね、そんなこと……

「分からないよ、でも嫌いなんだ」

 一応そう答えた。でもそれは嘘じゃないんだ、半分本当。ここが嫌だと思い付くところが多すぎて適当なことは言えないんだから。

「あの娘も十六夜くんのことが嫌いなのかな?」

「さぁ、どうだろうね。でも気持ちって知らず知らずに伝わるものだっていうから、こちらが嫌いなら、あちらもこちらが嫌いなんじゃないかな」

 僕たちが互いに『嫌い』であることについて確認し合ったことは今まで一度も無いんだよ、実のところは。でもそれが確信に近いものであることは何となく肌で感じるんだ、そういうものなんだよ。

「そう……」と目線を下に、少し難しいことを考えるような顔をして、ほんの数秒ほど無言になったけど、すぐに水無月は「もしも、さ……」と再び目を上げた。

「もしもの話だよ。十六夜くんがあの娘のことを嫌いでも、彼女のほうは、本当は十六夜くんと仲良くしたがっているって可能性あるのかな?」

 何だかずいぶんと突っ込んだことを聞いて来るもんだと思ったけど、べつに答えに詰まるような問題じゃないし、まぁそこそこ正直に答えてやった。この日の僕は水無月にすごく親切だったんだよ。

「あるかもしれないけど。でも、もしそうだとしても努力は足りないと思う…よ…… 」

 そこで何とはなしに線路へ向いてた僕の視界の隅に、向こうの方から走って来る電車が映り込んだ。

「電車来たよ」

妙なタイミングになったけど、僕は話を中断して水無月にそれを知らせてやった。

「…ぅ、うん」

何故か少し名残惜しそうに頷くと、彼女は手を上げ「じゃぁね」と笑って、僕に背を向け駅舎の入口へ走って行き、そして中へと姿を消した。

 その様子にほんの少し違和感を覚えたような気がしたけど、僕は特に気に留めたりはしなかった。

 しばらくして僕のほうも停留所にバスが姿を現したのでそちらへと移動した。

このときまだ雨は止まず、もちろん僕はずぶ濡れになりながら、ね。


                  ※


 一夜明けて翌日の月曜日。朝登校して教室に入り、いつものように皆に爽やかな笑顔を振り撒こうとしたんだけど、出来なかったよ。僕は愕然として顔を強張らせてしまったんだ。


 ―――   水無月が怪我をしていたっ!


 それも一目見て「大丈夫か!」って叫びたくなるほどの傷だらけだったんだよ。右手首や左膝に包帯を巻いて頬や左足には絆創膏、その他の箇所にも何らかの跡が見られた。

 まぁ学校に来ているくらいだから瀕死ってわけじゃないし、僕と水無月は普段用事が無い限りはあまり話したりする習慣がないので挨拶なんかもしないのが普通だし、だから気にはなったけどそれを聴くことは…… ――――――ごめん、それは嘘だね。僕は怖かったんだ。だから進んで聴けなかったんだよ、結局のところは。前日にあんなことがあったばかりで、嫌でも考えないわけにはいかないじゃないか。これは偶然じゃない、彼女のその怪我にあの変態電話男が関わっているんじゃないかって。あのとき僕の傍に居たせいで、彼女は変態電話男に襲われて怪我を負ったんじゃないかって。普通に考えたらそんなことはおかしいんだけど、前日の電話の男が伏見さんのスマホを拾った奴と同一だと考えると、それくらいやり兼ねないかもって思えたんだ。行動から考察すると相当イカレタ奴なのは間違いないからね。だから怪我のことを尋ねて、彼女の口からそんな真実が出て来たら僕はどうしたら良いんだって思ったら腰が引けていた。ほんと大した鶏肉野郎なんだよ僕は、恥ずかしながら。

 でも聞かなくちゃいけないことも分かっていたんだ、僕が、男としてね。だけど場合によっては重大事件になるかもしれないので、なるべく周囲に人が居ないタイミングを見計らっていたら時間はどんどんと過ぎて行き、しかも水無月の奴が何故か休み時間になると教室から姿を消すものだから僕の決心はずるずると引き延ばされて、遂には放課後になってしまった。途中、僕同様に彼女の怪我が気になった奴が居て本人に直接聞いていたようだけど、彼女と僕の席は遠いのでどんなに耳を澄ましても会話は旨く聞き取れなかった。結局彼女が荷物を纏め下校して、しばらく歩き、学校から結構離れた場所に来るまで、僕はまるでストーカーのように物陰から彼女を見守り続けていたわけだ。

 そしてまぁようやく、その瞬間がやって来た……

「やぁ、水無月さん……」

 恐る恐る背後から声を掛けると彼女は一瞬ビクッと身体を震わせた。その仕草が僕を余計不安にさせた。

「あーなんだ、十六夜くんかぁ」

 振り返って彼女は微笑む。

「どうしたの、珍しいね。こんなところで出逢うなんて」

「ぁ…ぅん、まぁ…そうだね…」口籠り、バツが悪いので自然にそうなってしまう小声で話を合わせて本題に移る。

「ところで。朝から気になっていたんだけど、その怪我どうしたの? 何かすごく痛々しいんだけど…」

「階段から落ちたの」

 彼女はあっさりとして答えた。

「何処の?」と僕は更に突っ込んで聞く。

「地元の公園」

「いつ?」

「昨日十六夜くんと別れてから」

「どうして?」

「誰かに後ろから突き飛ばされた」

「えェっ!」

 僕は思わず叫んでしまった、穴を指で塞ぎ損ねた縦笛リコーダーの音色のような掠れた情けない声で。同時に身体の重心が揺らいだような感覚に襲われる。胸に何か良くないものが溜まっていく感じもした。でもまだ僕は冷静だった。もう少し詳しく話を聞こうと思ったんだ。

 そこで前日の僕と別れた後の彼女の行動を聴き出してみる。それをすごく簡単に纏めてみたら……こうなんだ。彼女は電車に乗って自宅最寄の駅で降り、そこから歩いて帰ろうとした。でも雨が降っていたので近道をしようと、いつもは迂回する公園を横断しようとして、途中の階段で事件は起こったらしい。

「それでその誰か――犯人の顔は見たの?」

 彼女はかぶりを振った。

「……はっきりとは」

「そいつに見覚えは?」

「分からない」

「警察には行った?」

「行ってない。どうせ信じてもらえないよ」

「どうして?」

「実は以前にいろいろあって、それで……」

 目を横に逸らし少し言い難そうに、最後のほうはもごもごと小声になって聞き取れなかった。いったい何をやらかしたのかは知らないけど、まぁ彼女のことだから警察官に良い印象を持たれてなくても不思議ではないけどね。だからそこは深く追求しなかった。

「それで…その、そんなことをされたことについて身に覚えは無いの?」

「無いよ」

 って、きっぱりと言ったね、彼女は。警察にも頼れないほどのツワモノのくせしてさ。

「でもさ。どうしてそんなにこの怪我のこと知りたいの? …ぁ、もしかして十六夜くんわたしに夢中……みたいな?」

 水無月はそう軽口を叩いて少し意地悪く微笑み、下から見上げるような視線で僕の顔を覗き込んだ。

「有り得ないね」

 今度は僕がきっぱり言ったね。いや、普段なら――他の女子相手なら「どうかな?」って微笑むくらいの余裕を見せる僕だけど、このとき――水無月に対してはそんな気が起きなかったんだよ、何故だか分からないけどね。今になって少しだけ反省してる。

「 …………… 」

 その返答に気を悪くした感じは無かったけど、そこで彼女は訝しげな顔でじっと僕の顔を見た。本当穴が開くんじゃないかってくらい見詰めていたね。

「ぇ、何?…」と思わず一歩後退る僕。彼女は視線を僕の顔に固定して表情もそのままに口を開く。それは低く落としたトーンの声だった……

「十六夜くん、わたしに何か隠してるでしょう」

「えっ!」

 ドキッとした。思わず声が裏返りそうになる――いや実際はなっていたかもしれない。でもとりあえず「どうして?」と微笑んで聞いてみる。

「『女の勘』だね」

 水無月は彼女に限って冗談にしか聞こえないようなことを真顔で言った。どういう理屈でそんな答えが導き出されたのかは分からないけど、その表情に確信めいたものを感じ取った僕は「これは惚けても無駄だ」と思った。だから観念して、前日立待ゆかりから聞いた話や僕に掛かって来た変態電話のことを水無月に話して聞かせた。それは彼女も知っておいたほうが良いと判断してのことでもあるんだけどね。

「ふぅ~ん」と、水無月はそれに大仰に納得して見せて、意地悪く笑う。

「じゃぁわたしは、身に覚えの無い厄介事に十六夜くんを通じて巻き込まれたかもしれないんだぁ」

「あくまで『かもしれない』だよ。普通に考えたらおかしいだろ、そんなこと」

 ――そう。もし例の男が彼女を突き飛ばしたのだと考えると、そいつはショッピングモールから僕たちを尾行つけて来て、標的を水無月に変更し、彼女と同じ電車に乗って同じ駅で降りて、そして人気の無い場所を通るのを待って彼女を襲ったということになる。…だけど、いくらなんでもそこまでするのだろうか。イタズラや悪ふざけのレベルを余裕で超えているって話さ、普通じゃ考えられないよね。もし平気でそんな面倒な手間を厭わない奴だとしたら、そいつはよっぽどねちっこい性格の生粋の変態糞野郎ってことになる。のならありえなくもないんだろうけど、そんな奴がこの市内周辺に今も居るかもだなんて考えたくもなかったんだよ。

「十六夜くんの知り合いで、もともと十六夜くんに恨みを抱いている人が、十六夜くんを苦しめる策を模索していて、わたしはそのとばっちりを受けたとは考えられない?」

 確かにその可能性は無いとは言えないな、残念ながら。僕は人気者だから自然に反感や逆恨みを買ってしまうことが稀にあるんだよ、気を付けてはいるんだけどね。それに変態電話男は僕の姿を知っていたわけだからね、知り合いかもしれないんだ。

 でも、もしそうなら……

「キミはそいつの姿を見たんだろ? でも見覚えが無かった。僕の地元はこの市内じゃないし、学校以外に交友関係を広げていないから、もしそういう人物がいるとしたら校内だよ。それに僕は部活もしていないから顔見知りなんて同じ学年の奴くらいだ。でもそうなるとキミが分からなかったのは変だ」

「う~ん、確かにそれはそうだけど。とっさのことだから実はわたしも良く分かってないんだよね。今考えると何処かで見たかもしれないような気がするようでしないようでもあったりして…… 」

 水無月は腕を組み、少し首を傾けて考える様子を見せた。でもすぐに体勢を直し「でもさ……」と反論する。

「わたしに内緒で十六夜くんがそんな楽しい場所に出掛けて行って、知り合った女の子に連絡先を聞かれて鼻の下伸ばしてなんかいなければこんな事態にはならなかったわけだよね?」

「鼻の下を伸ばしてなんかいないよ」今度は僕が反論する。でも彼女の言うことにも一理あるんだ。だからあまり強くは言えない。

「スウィーツタカナシノモンブラン……」

 ぽつりと水無月が呟いた。

「わたし『スウィーツタカナシ』のモンブランが食べたい」

「へっ?」

 思わずそんな声が出た。数秒前までの話の流れから何故いきなりそんな単語が出て来たのか分からなかったんだよ。

「えっ、知らないの? 『スウィーツタカナシ』のモンブランにはHPとMPを大幅に回復する効果があるというリアルな噂。それを食べたらわたしきっと十六夜くんに微笑んであげられると思うの」

 (あーなるほど)

 僕は理解した。つまり彼女は今回のことは水に流してやるから、その代わりその『スウィーツタカナシ』いう店のモンブランを奢れとそう言いたいわけだ。

「分かったよ……」

 僕は了承した。真実はどうあれ、とりあえず水に流してもらえる(?)のなら、それくらい安いものだしね。

「で、いつまでに買ってくれば良いの?」

「今から。一緒に店まで行こうよ」

「オッケー」

 とにかくいろいろ考えるのは後にしようと思った。もう少し情報が出揃わないと何か手を打とうにもどうしようもないんだからさ。だからこのときの僕に出来たことといったら水無月のご機嫌取りくらいなものなんだよ、少々腹立たしいことにね。


                 ※


「ところで大丈夫なの?」

「何が?」

 僕の質問を水無月は質問で返した。そのときの彼女の顔と来たらほんと腹が立つほど素晴らしい笑顔だったよ。そこは『スウィーツタカナシ』というケーキ屋の店内に在る喫茶スペースで、彼女の手元にはご所望のモンブランと珈琲。心底幸せなんだろうね、単純な奴だよ、まったく。

「何が…ってキミの身体のことだよ。その包帯や絆創膏…全身傷だらけじゃないか」

 『スウィーツタカナシ』は、僕たちが通う高校から歩いて結構な距離があるし時間も掛かる。見るからに満身創痍の彼女が歩いて来るには辛かったんじゃないかと僕は心配したんだよ。

「大丈夫だよ」彼女は答える。

「手首は少し捻っただけ。足の包帯と絆創膏の下はただの擦り傷だし。他に所々打身はあるしまだ少し痛いけどべつに何ともないよ。一応病院で診てもらったけどお医者さんも特に問題ないって言ってた。手当てがちょっと大袈裟なんだよ。だから一週間くらいでほとんど治るんじゃない?」

「ふぅ~ん」

 僕がそれを聞いて、とりあえず一安心だと胸を撫で下ろしたそのときだったよ、彼女がまた妙なことを言い出したのは……

「だから今度の日曜日、映画を観に行こうよ」

「はぁっ?」

 彼女を診たそいつは藪医者だったんじゃないかと一瞬疑ったね、『問題ない』って一番不味い箇所を診ていないんだから。でもそれが現代医学では到底治せない箇所だってことに気が付いて、心の中で面識も無いその医者にすぐに謝罪したけどね。

「観たい映画があるの。昨日テレビで宣伝してた。今もう公開中なの」

「何でそれを……」

「今ここで僕に言うわけ?」と言い掛けて、その続きの言葉を僕は飲み込んだ。その理由はもう説明しなくても君は分かっているよね? そう、このときの僕ってのは『水無月美優』という女子にそんなに強く言い返せない立場だったわけだ。

「分かった、行くよ……」

「やった」

 すごく嬉しそうな満面の笑みの彼女に合わせて微笑みながら、でも僕は内心穏やかじゃなかったね、正直なところは。

 元々食欲なんて無かったんだけど、そのせいでそれが一気に加速したよ。僕の手元には皿の上にまだ手付かずのケーキが残っていた。僕はべつに甘いものが嫌いなわけではなかったけど、モンブランの栗独特のあの甘さはどうにも苦手だったので違うのを頼んでいたわけなんだけど、水無月がその手付かずのケーキに目を付けて「それ食べないの?」って聞いて来たとき、それを無言で彼女に差し出すくらいに参ってしまっていたんだよ、正味の話。

「ありがとう」と素直にそれを受け取る彼女を一瞥して、僕は窓の外に視線を移した。そこは窓際の席だったんだ。本当はイヤホンを耳に挿したかったけど、水無月の前でそれをやるとまた引き抜かれるかもしれないので、せめて彼女を見ないようにしたわけだ。ほんと僕にここまでさせる女性は他にはいないよ、まったく。

 夏場だから外はまだ明るかった。夕焼けに赤く染まる町並みに心を合わせて黄昏ていると、ふいに僕のスマホが鳴った。電話の呼出音だったのですぐに誰からなのか確認する。

「 ――っ! 」

 画面に出ていたのは『公衆電話』の文字…… 

 僕は急いで電話に出た。

「もしもし……」

『 ………… 』

 でも相手は何も言わなかった。無言だったんだ。

「もしもし……」

 再び僕が呼び掛けても相手は何も喋らなかった。でも確実に相手は電話の向こうに居る。そう言うと「そんなこと当たり前じゃないか」って君は思うかもしれないけど――何故かよく分からないけど気配がしたんだ、相手の息遣いみたいなものを感じ取れたんだよ。

 僕にはそれがもの凄く気持ち悪く思えてならなかった。用事があるのにそれを話さない……いや、相手はむしろ黙っていること自体に意味がある思っているのか? だとしたらその意味とは何なんなんだ……というふうに考えが向いてしまったら、その嫌な感じはますます酷くなって、背筋を何かが這い回っているような嫌悪感すら覚えて、僕は衝動的に電話を切ろうとした、その瞬間だった……


『 ―― キィィィンコーンカァーンコーン キィ…… 』


 電話の向こうから馬鹿でかい鐘の音が僕の耳に届いたんだ、頭が痛くなるくらいの!

 その音に僕は聞き覚えがあった。毎日耳にしてる音―――僕たちが通う学校の予鈴の音だ!

 途端に電話が切られた。

  ――― …ぁっ!

 僕は反射的に腕時計を見て時間を確認した。ちょうど午後六時。今のは一日の最後に鳴るやつだ。しかもあの音の大きさなら校内――しかも校内放送のスピーカーのごく近くのはず。確か校内に公衆電話はたった一つ。玄関内脇にあってしかもほぼ真上にスピーカーが在ったはず……

「ゴメン。先に帰るねっ」

 僕は立ち上がって叫ぶと机上のレシートを取って、水無月一人店内に残して店を飛び出した。


                 ※


「くそっ、閉まってる」

 ケーキ屋から走って一0分ほどで学校に到着した。僕たち生徒の下駄箱がある昇降口から校内に入ろうとしたけど、針金格子入りの重たい硝子扉は全て閉ざされてしまっていた。最後の予鈴は午後六時だけど、そこはその前に鍵が掛けられてしまうんだよ。それを思い出して舌打ちした僕は職員用の出入口に向かった。

 職員用出入口は正面玄関から左右へ伸びる廊下の片方の突き当たりに在って、実はここからのほうが昇降口より玄関脇の公衆電話に近いんだけど、ここから入って向かうには一つ大きな問題があるんだ。

 だけどこのときの僕はそんなことはまったく気にしちゃいなかった。だからというかあっさりとその問題にぶち当たったわけなんだよ。

「こらぁっ! オマエこんな時間まで何しとるんだ!」

 と、廊下を全速力で走る僕の背中にそう怒声が飛んで来た。

僕は立ち止まりさっと振り返る。そこに居たのは『田中たなか安雄やすお』という名前の定年間近のベテラン教師。白髪交じりのハゲ頭で、背が低くてずんぐりむっくりした体型をしていて、年齢以上に歳を取っているようにも見えなくもない。この学校で進路指導室の責任者をやっている重鎮だった。そう、問題ってのは職員室の前を通らなくちゃ玄関まで行けないってことなんだよ。

「下校時間はもう過ぎているぞ、オマエ何年何組の誰だ!」

 この学校の下校時間の最終期限は一応最終予鈴の午後六時。部活のためにとかの理由や許可の無い奴はそれ以上残れない。部活をやってる連中は体育系文科系とも別棟に部室が用意されていてそちらに残っているから、この時間校内に生徒が残っていないのが普通なんだ。僕の通う学校はこういうことに何故かいちいち厳しいんだよ、たぶん田中じゃなくても僕に声を掛けていたに違いないね。

 それで、僕がこの後どうしたかっていうと当然この田中をやり過ごしたわけなんだけど、それは結構旨くいったね。この田中って教師はやり方さえ間違えなければ煙に巻くのはすごく楽なんだから。

 まず僕は大袈裟に肩で息をするようなふりをして見せた。

「一年三組の…十六夜です。…すみません、教室に忘れ物をしてしまって……数学のノートなんですけど、あれが無いと明日の予習が出来ないんです……」

 すごく必死な懇願するような顔で僕は答えた。すると

「分かった。あまり遅くなるなよ」

 田中はあっさり納得して職員室へと戻った。たったこれだけ。

 実は彼は意外に面白い男なんだ。大部分物分りが悪いようで、そのくせある一部分だけ良かったりするんだよ。とにかくその一部分さえ押さえておけば良いんだ。何だかんだいっても結局は良い先生なんだろうね、『頑張っている生徒には甘い』んだから。だから君がもし僕の学校に平日私服で遊びに来て彼に出くわしたりなんかした場合、君は「自分は今すごく頑張っている」みたいなことをアピールしたら、後は適当に日本語で話せば分かってくれるんだ。…あぁそれから、聞かれてもべつに本名を名乗る必要は無いんだよ。このとき僕が本名を名乗ったのは、彼の同情を惹くためにわざわざ『一年生の数学』という彼の受け持っている授業を意識させたかっただけなんだからさ、実のところそれも適当で良いんだ。

 君は信じられないと思うかもしれないけど、この『田中安雄』って教師はね、奇跡的なくらい生徒の顔と名前を覚えないことで『天国に一番近い男』として校内で知らない奴が居ないほど有名なんだ。以前僕の知り合いが進路のことで相談があって、一週間ほど進路指導室に通い詰めたことがあったけど、彼は毎回そいつに学年・クラス・名前を尋ねたらしいんだ。嘘じゃないよ、本当の話さ。クラス担任を受け持っていないことも関係しているのかもしれないけど、周囲からはよく彼の脳の老化を危ぶむ声を耳にするよ。実際もうかなりやばいんじゃないかな?

 とにかくまぁ、そんなふうにして田中をやり過ごした僕は、足早に廊下を進んで玄関までやって来た。そして公衆電話の前に立つ。上を見上げると校内放送用のスピーカーが壁に張り付いていて、ここが現場なのは間違いなかった。

 でも奴はもうそこには居なかった。今から考えてみると当然なんだけどね。電話を切ってから一0分も経つのにまだその現場に居るはずなんてないんだ、犯罪者が。まぁ犯罪者じゃなくてもだけど。

「クソっ!」

 僕は小さく毒を吐いて傍の壁を思い切り蹴った。普段の僕なら滅多にそんな乱暴な八つ当たりはしないんだけどさ、このときは本当にカッカ来ていて冷静じゃなかったんだ。前日のショッピングモールと合わせて同様の嫌がらせを二回も受け、しかも僕自身も同じ失態を繰り返していたもんだから、自分自身に対する苛立ちも手伝ってもうハラワタが煮えくり返っていたんだ。

 周囲に誰も居なくて本当に良かったよ、まったくもう……


                ※


 無言電話のあった月曜日から何事も無く日々は過ぎていった。つまりそれは僕たちの身に何も起こらなかったのと同時に、電話男の正体も明らかに出来てないままってことなんだよ。こういうことってさ、素人が調べようと躍起になってもどうにもならなかったりするもんなんだよね。――というのも、すごく調査が難しいんだよ、実際やってみると。まず最初に何からどうやって調べ出したら良いかの取っ掛かりが分からないし、情報も少ないし、それに周囲の目とかも気にしなくちゃいけないから派手には動けないしさ。

 例えそうやって苦労してそれらしき証拠を見付けられたとしてもだよ、それは警察に提出して採用されるくらいの決定的なものでもない限り、民間人は容疑者を追い詰めたりは出来ないんだから。

 詰まるところ、僕は無力だった……ってそういうことかな。

 それで結局何も出来ないまま時間だけが過ぎて、日曜日がやって来て、僕は水無月と一緒に映画を観に出掛けたんだ。



 水無月とは昼前に最寄の駅で待合わせをして、そこから映画館までは歩いて行った。場所は一週間前とは違う別のショッピングモール――ショッピングセンターといったほうが良いのかな? 違いが有るのかは無いのか僕には上手く説明出来ないけど、前回よりも小振りな建物で内容は大して違いは無かったよ。でも敷地内にその商業施設以外にもう一つ建物があって、そちらの二階が映画館、一階が飲食街というふうになっていた。人が多くなるので僕としてはあまり嬉しくない構造だったけど、僕たちの生活圏内で映画館といえばここしか無かったから、最初からここに来るしかなかったわけだよ。

 目的地に着いてとりあえず映画館へ向かって、観る映画の上映時間を確かめて、それでまだ上映開始まで一時間弱の時間があったから、僕たちは一階の飲食街へ向かったんだ。軽くお茶しても良いし、小さいながらもゲームセンターみたいなものもあったから遊んでも良いし、とにかく時間は潰せると思ったからね。

 そうして二人でぶらぶらしているとだよ、また意外な人物に出くわしたんだ。……そう、またしても『森本孝』だったんだ!

 前回と同じで彼を見付けたとき、彼と僕たちの間には少し距離があった。でも前回と違ったのは僕が彼に声を掛けるよりも早く、今回は彼のほうから僕たちに近寄って来たことなんだ。そして微妙に緊張気味だけどフレンドリーな口調で話しかけて来た。「やぁ、ここで何してるの?」みたいなことをさ。勿論僕は正直に水無月と映画を観に来たことを伝えたわけだけど、そこで彼は更に僕たちが何を観るのかを知りたがったんだ。そして僕がタイトルを教えてやると「僕も一緒しては駄目かな?」みたいなことを言って来たんだよ。

 これには正直驚いたね。君は分かってくれてるとは思うけど、ちょっとだけこのときの僕たちの状況を想像してみてほしいんだ。もし仮に、だよ。君が一人で出掛けているときに出先で男女一組の同級生に出会うとするだろ。そのときどうする? まず挨拶はするね、顔見知りだったらそれくらいはしたほうが良いから。でもね、その二人とその後行動を共にしようなんて思うかな? 二人とも良く見知っている親友なら流れやノリでそうなることもかもしれないけどさ、僕と森本は会話さえまともにしたことない間柄なんだよ。さすがにちょっと……まぁ僕はまずやらないね、こういうことは。

 でも僕にはそれを断る理由が特に無かったんだ。それは水無月だって同じだと思った。だから『構わない』って答えたんだ。『来る者は拒まず去る者は追わず、皆に平等に優しくする』が王子様スタイルだからそうするべきだとも思ったかもね、ちょっぴりいやらしい話だけさ。

 森本は少しほっとした顔で「ありがとう」とお礼を言った。そのとき彼から見えない角度で水無月が僕のシャツの裾をくいくい引っ張ったんだけど、僕はそれを無視した。この頃彼女の奇行に僕は少しづつ免疫みたいなものが出来始めていたからね。いちいち構っちゃいられないって。



 映画の上映開始が迫り、僕たちは三つ在る劇場のうちの一つへと移動した。席は指定席で、真ん中より少し後ろの通路側三席。通路側から奥へ僕・水無月・森本の順だったんだけど、水無月が「通路側が良い」と急に我儘を言い出したから僕が換わってやった。べつに一つくらい席が隣にずれても観え方が変わるわけでもないしね。

映画は原作が推理小説で、ついこないだまでテレビドラマも大人気放送していたものの映画版オリジナルストーリー。お客の一部には主役を務めるイケメン俳優目当ての若い女の子や家族連れなんかも混じっていたけど、だいたいは落ち着いた雰囲気の人が多かったかな。

 上映時間が二時間半もある少し長めのものだったけど、それを感じさせないくらい面白い内容だったよ。でも上映時間残り三0分くらいになったあたりかな。謎解きが始まったんだけど、森本の隣に家族連れが座っていて、そこの小学生高学年くらいの女の子がイケメン俳優の口から事件の真実が告げられる度に、「そうか!」「だからか……」とかいちいち呟くんだ。それが少しばかり僕の心をギザギザにしたけど、それ以外はストレス無く見れて良かったよ。怪獣映画やアクション映画を観てたりなんかするとよく幼児が泣き出したりして、でも保護者がなかなか外へ連れ出さなかったりして、イライラすることが多々あるからさ。

 映画が終わると僕たちは一階へと降りた。呼名はフードコートで良いのかな? 何処のショッピングセンターにも必ず一箇所は在る、うどんやたこ焼きやクレープなんかの軽食が食べられるテーブルと椅子が並べられた場所。そこで休憩することにしたんだ。

 適当に食べ物や飲み物を買って三人で同じテーブルを囲み話を始めた。そしてすぐに「……で、これからどうする?」みたいな話になったんだ。というか、それは僕が言った。まだ時間は夕方には早かったし大事なことだと思うよ。すると水無月が「わたしは夕方から用事があるから帰らなくちゃ」みたいなことを言った。次に森本に聞いてみると彼も同じように「帰る」と言った。

 僕は自分から「これからどうする?」って『皆で楽しもうよ♪』的な発言をしたにも関わらず二人に「帰る」と返事されても一向に構わなかったね。いやむしろ大助かりの展開だったんだ、正直なところ。何しろこのときこの二人のツマラナイことといったら、もう最悪だったんだから。森本はほんと無口で自分からは何も話さない――冗談やツッコミも返さない――他人の話してるのを聞いて愛想笑いを浮かべてるだけのぶっちぎりに空気な奴だったし、水無月もこの日に限ってとことん無口だったんだ。だから三人も居るのに会話のキッカケは全て僕が作り出して、自分で盛り上げて、そして落とすところに落とすみたいな状態だった。独り舞台とノリの悪い糞観客みたいでもう正直疲れてしまっていたんだ。だからそういう流れになって「やっと開放される」って心底嬉しかったんだよ。



 僕たち三人はショッピングセンターを出て駅に向かった。でも僕と水無月が並んで歩き、その少し後ろを森本が付いてくるような格好で少し妙な感じだった。森本がすぐ前か後ろに来るか水無月が少し後ろに退がるかしてほしかったね。どうしてかは自分でも分からないけど、なんとなく、さ。

 とにかくまぁそんな微妙な空気のまま駅に着いた。この日は僕も水無月もそして森本も電車で帰る予定だった。でも僕と水無月は逆方向だ。森本に家の方角を聞くと水無月と同じだったので、僕は彼に「水無月さんを家の近くまで送ってあげてくれない?」と尋ねた。何だかんだ言っても基本僕は優しい奴だからさ、一週間前の事件もあるし心配だったんだよ、彼女の身が。突然の申出に森本は少し驚いた様子だったけど「良いよ」と了解してくれた。

 これで万事安全安心だ……ったはずなのにさ、本当なら。

「…ぁ、ゴメンっ。わたし急用を思い出した!」

 どんな用事を思い出したのか、突然水無月が声を大にして言った。そして彼女は「もう行かなくちゃ、じゃ…じゃあね」と手を上げて、思わずぽかんとした僕と森本を置いてあっという間に走り去って行ってしまったんだよ。

 彼女はいつだって何処かおかしい女だけど、このときの彼女はそれに輪を掛けて奇妙奇天烈な奴に見えたね。

 そんな彼女の背中が見えなくなってからふと隣の森本を見ると、彼はひどく淋しそうな顔をしていて、それが僕には何だかすごく気になったんだ……


                ※


 映画を観た翌日の月曜日の昼休みのことだったよ。

「十六夜くん、ちょっと良いかな?」

 早々に昼食を食べ終えて友人と教室で談笑している僕に声を掛けてくる人物がいた。振り向くと、そこに立っていたのは友人の『三田有馬』とそのカノジョである『香住かすみ千尋ちひろ』だった。

 僕と三田はクラスは違うけど、趣味が同じで気が合ってそれなりに話をする間柄なんだ。だけどこれまでわざわざ僕を訪ねて僕のクラスに来るなんてことはあまりしなかった。しかもカノジョ連れなんて一度だって無かったものだから少し妙に思えたんだよ。だから僕はそれまで談笑していた友人たちと離れて彼らと教室の隅に移動した。



「どうしたの?」

 僕が用件を促す言葉を口にすると、ほんの少し躊躇うような間を置いて

「ちょっと話しておきたいことがあるんだ…」と前置きをした後、三田は本題に入る。

「十六夜くんは昨日○ヶ丘のショッピングセンターに映画を観に行かなかった?」

「あぁ、行ったよ」

「どうしてそれを知っているの?」とかは聞かなかったよ、だいたい想像がつくからさ。

「実は僕たちもそこに居たんだ。キミと同じように映画を観に行ってたんだ……」

 彼も僕もDVDや映画鑑賞が趣味なんだよ。

「 ………  」

 でも僕は相槌を打たなかったよ、話が少しも見えて来なかったからね。

「……水無月さんと森本くんも一緒だっただろ?」

「うん」

「森本くんとは……結構親しいの?」

「――べつに。偶然あそこで会って同行しただけだよ?」

「そう……」と三田は呟いた。そんな何気ない一言が僕を少し不安にさせたね。たぶんこれは、人の良い三田には言い出し難い話題なんだってことが何となく分かって来たからさ。

「森本くんの噂……知ってるかな?」

「えっ? いや、知らないけど……」

 僕はそれを本当に知らなかったんだ。だから正直にそう答えた。

「 ……… 」 

 三田は再びほんの少しの逡巡の間を置いて、そして口を開いた。

「……彼は『告白魔』なんだよ」

「―― えっ? 」

 聞き慣れない単語に僕は一瞬戸惑った。

「『キス魔』ってたまに聞くだろ? 酔っ払って辺り構わず誰とでもキスするってやつ。あれの愛の告白版なんだ」

「それって単に気の多い奴ってだけじゃないの?」

 それだけではべつにどうってことないじゃないかって僕は思った。

「うん、普通ならそうだよ。でも、彼のは少し病的なんだ」

「―― ?? ……つまり?」

「一度告白してフラれてもすぐにまた同じ相手に告白を繰り返すんだ。事ある毎に何度でも何度でも。次の標的が見付かるまで」

「……それは少々ゾッと来る話だね」

 ほんと背筋が一瞬寒くなってしまったね、男の僕でもさ。確かにそれは病的だって言えるよ、間違いなく。

「実はね、入学してからしばらくわたしが狙われていたの……」

 と、そこで香住さんが話に入って来た。彼女は大人しい女子で滅多に声を聞く機会なんてなかったからこれはちょっとレアな体験だ。

「その頃の…その……が助けてくれたんだけど……」

 三田の前で言い難いのかはっきりとは言わなかったけど、助けてくれたその人物ってのはたぶん藤原のことだと思う。彼女は今年の五月の末までその『藤原陽輔』という奴と付き合っていたんだ。――君は会ったことがないと思うから、説明するね。まぁ一言で言えばとにかく最低の奴なんだ。奴の性格の良いところを探すくらいならインドの山奥で不老不死の妙薬の原材料を探すほうが百倍マシだし簡単だって本気で思えるような奴なんだよ、本当に。でもまぁ、森本が見るからに弱そうな奴ってこともあるだろうけど、藤原の奴は一応カレシとしての務めを果たしていたわけか。初めて耳にする奴の美談(?)だったよ、少々気に入らないけどね。僕は奴が大嫌いだからさ、奴が香住さんにフラれたときは「ざまぁみろ」って本気で喜んだんだよ、小躍りしてね。

 それはまぁともかく、二人の話にはまだ続きがあったんだ……

「実は今、森本くんは水無月さんを狙っているって噂があるんだよ」

「えっ?」

 それは初めて耳にする情報だった。僕はかなりの情報通だと自負していたけど、実はそれほどでもなかったのかもしれないね。ほんの少しだけ悔しかったかな、正直なところ。

「水無月さん、休み時間毎に教室を出て何処かに隠れていない? わたし屋上に上がる階段のところで時々彼女を見掛けるのよ……」

 そういえば最近休み時間、姿を見掛けないかもしれない……と、僕はそこ二週間ほどの彼女の奇行を思い返していた。

「昨日映画館で十六夜くんたち三人を見掛けたら当時のことを思い出して……。森本くんがすごく怖かったから……。水無月さんも今そうじゃないかと思って、だから知らせておこうと思って。お節介かもしれないけど…… 」

「――いや全然。お節介なんかじゃないと思うよ」

 遠慮がちに躊躇いながらの香住さんの告白に僕は微笑んで返した。僕にしては珍しくそれは本音だったね。まったくどうして優しい女性じゃないか、香住さんはさ。やっぱり藤原なんかじゃなく三田と付き合うのが正解だよ。素晴らしい、美しい、儚げっ! 僕はね、こういう物静かで控えめな女性が好みなんだよ、正直に告白すると。でも、なのにどうして、僕の周りには水無月や立待ゆかりみたいな口やかましく我先なタイプの女性ばっかり集まるんだろうね、運命って怖いものだよ。

 それでまぁ香住さんにそんなふうに言われたらさ、僕だって何かをせずにはいられないわけだよ。彼女の親切をお節介で終わらすわけにはいかないからさ。だから少し考えてみようと思ったんだ。そしてあの雨宿りをした駅舎の軒での水無月の奇妙な質問なんかを思い出し、その真意や、映画鑑賞前後の奇行や、休日毎に僕と出掛けようとしていた本当の理由なんかがすらすらと分かって来たら、そうしたら何だか「まぁ今回くらい手を貸してやっても良いかな?」なんて気分になって来てしまって、それに僕自身が抱えている例の件のほうもそっちの件と無関係ではないように思えて来たんだよ。だから……

「とにかく僕のほうから水無月さんに少し話を聴いてみるよ」

 三田と香住さんに微笑んで、僕は「大丈夫、任せて」みたいなことを続けて伝えた。

 そして彼らを送り出し、その後で僕は僕自身も教室を後にした。

 もちろん水無月を探すためだよ。

 彼女から森本のストーカー事情と併せて、もう一度公園で襲われたときのことを聴きたかったんだ。

 僕の中では『森本=電話男(犯人)』というイメージがこのときもう出来上がっていたんだよ。電話男の正体が奴ならだいたいのつじつまが合うんだからさ。

 後はとにかく証拠だけ……だったんだよ。


                    ※


 僕は水無月を探して屋上までやって来た。

 数ヶ月前まで通っていた中学校では駄目だったけど、今僕たちが通っている高校は屋上への生徒の立入が自由に許可されているんだ。もちろん危険が無いように落下防止のための背の高い金網が周囲にぐるりと設置されているけどもね。

 この日は陽射しがきつかったせいか一見して人影は疎らだった。そのおかげかすぐに水無月を見付けられた。意外に簡単だったよ。金網の隙間を抜けた先から行ける屋上の隅の給水塔のところに居たんだ。コンクリートで出来た小屋――登ってきた階段の壁や屋根にあたる部分――の鉄梯子を登って、巨大な給水タンクの陰になる場所に彼女はぽつんと一人座っていた。

 まだ僕がやって来たことに気が付かない彼女の背後へこっそりと回り込み、そしてその背中に声を掛けた。

「やぁ」

「――っ!」

 すると彼女はもの凄く驚いたようで一瞬身体をビクンッと震わせた。

「ぇ…ぁあ、なんだ、十六夜くんか。びっくりした……」

 彼女は相手が僕だと分かると明らかに安堵だと分かる顔をした。

「どうしたの? こんなところに」

「実はキミに聴きたいことがあってね」

「わたしに?」

 首を傾げる彼女に僕は微笑を絶やさないままに言った。

「キミ、僕に何か隠し事をしていないかい?」

「えっ? べつに、ないよ?」

 笑って答えたけど視線は僕からそっ…と逸らした。そういう仕草ってさ、どうしてか僕をサディスティックな気分にさせるんだよね。

「そういえばさっき森本くんがキミを探していたけど……」

「―――っ! 」

 水無月は再びビクっと身体を振るわせた。結構正直な奴だ。

「嘘だけどね」

 出来るだけ普段の微笑み以外の笑みを顔に出さないように努めながら、僕は彼女の表情を観察した。彼女は口元を微かに引き攣らせながら不細工な笑みを浮かべていたね。

「ひょっとして……十六夜くん? まさか全部知ってる?」

 彼女のほうもこちらの表情を窺いながら、恐る恐るといったふうに聞いて来た。

「うん。たぶん、だいたいね」

「……いつから?」

「ついさっき」

「……どうやって?」

「とある情報通が教えてくれたんだ。少々お節介焼きのね」

「……え?」

 意味が分からず思わずぽかんとする水無月。その顔を僕はじっと見詰めた。

「キミさ。僕になんか言うことないかな?」

「ぅ…ぁ… ぇえっと…… 」再び目を逸らす彼女。

「このところ休み時間教室に居ないのとか、休日毎に僕と出掛けるのって、森本から逃げるためだよね?」

「……ごめんなさい」

 そこまで言うと素直に頭を下げた水無月。「そうそう、それで良いんだよ」と僕は大満足だった。直接嘘をついて騙したわけじゃないけど、本当のことを何も言わず黙って僕を利用していたってことは確かなんだから、一言そう言ってもらいたかったわけだよ、筋としてね。

 まぁ君も知ってのとおり、僕は結構あっさりとした性格だから恨み言はそこで終わりだよ。次は事情を聞くことにした。

「いつ頃からなの? その、森本のストーキング行為は」

「一ヶ月ほど前からかな。何の前触れもなくいきなり告白されて、断ったんだけどその後もしつこくアタックされて。最初のほうは上手くかわしていたつもりだったんだけどだんだん難しくなって来て、もう一度はっきり断ったんだけどそれでも駄目で、休日毎にデートの約束を取り付けようとして来るの……」

「それはよっぽどキミのことが好きなんだよ。イジワルしないで一度くらいデートしてやれば良いのに」

「それは駄目っ! そんなことしたら次はどんなふうに勘違いしてくるか分からないよ!」

「ふぅん、なるほどねぇ」

 まぁ水無月の言い分も分からないでもないかな。僕の想像では『森本孝』という人物の恋愛感というやつはさ、きっとそれを聞かされた十人の男が十人とも『俺の美学に反する』って答えそうな内容だって思うんだ、この結果からすると間違いなく。

「わたしは付き合わないってはっきり言ってるのにどうして伝わらないんだろ……」

 表情をどんよりと曇らせて水無月は力無く呟いた。

 それで僕は再びあの雨宿りの日の彼女の質問を思い出した。僕の回答は確か中途半端に終わったような気がする。だから僕は僕なりの見解を話したんだ、大いに主観的になったけど。

「言葉としては伝わってるとは思うよ。でもそれと気持ちを理解するのや納得するのは別なんだろうね。彼はたぶん諦めてないんだよ。キミが自分に振り向かないのは自分の努力が足りないからだって、きっとそう思っているんだよ……」

 考えようによっては凄くガッツのある奴なんだろうね。惜しむらしくは頭が少し残念だってことかな? 方法や限度をもう少し考えなくちゃいけないと思う。

「誰かさんと同じで。迷惑な話だ…… 」

「 え? 」

 僕の呟きを拾った水無月が不思議な顔をした。

「いや、独り言……」と返して、僕は僕の本題の話に入ることにした。屋上ここにやって来た理由は水無月を励ますことだけではないんだよ、当然ね。

「――それでさ、少し話題はなしは変わるんだけど。まぁキミのその件に関係なくはない話ではあるんだけど。この前キミを突き落とした犯人のこと、まだ何も思い出せないかな?」

「森本くんを疑ってるの?」

「そうだよ」と僕は頷く。彼女にしては察しが早かったね、説明が省けて助かったよ。

「それで……どう?」

 彼女は「う~ん」唸ってかぶりを振る。

「何だかはっきりしないというか… あのときのことはよく覚えていないというか……」

「そう……」

 出来ることなら思い出してほしかった。有力な情報が欲しかった。更に贅沢を言えば森本が犯人だってはっきりと言ってほしかったかな。

「やっぱり森本くんが怪しいって思う?」

「今のところ一番ね」

 だってそうだろ。話に聞く奴の執着ぶりから考えたら、嫉妬心から僕に嫌がらせだってやり兼ねないし、水無月に裏切られたって気持ちから報復行動にだって出るかもしれない。それに森本以外に僕や水無月を怨んでいる可能性のある奴なんて思いつかなかっただから。

 正直気分の良い話ではないことは認めるよ。誰だって同級生がそんなのだって思いたくはないからね。でも僕は自衛のために覚悟を決めなくちゃならなかったんだ。だから僕は必死に『森本=電話男』の証拠がどうにか見付けられないかと考えたわけだ……


   キィィィンコーンカァンコーン… キィン…


「うわっ!」

 突然間近で響いた鐘の音に僕の静謐な思考回路はぶち壊された。思わずびっくりして声まであげてしまったね、恥ずかしい話。

「屋上にスピーカーがあるんだよ」

 もう慣れてしまっているのか水無月は平気な顔をしていた。

「もう行かなくちゃ。授業始まっちゃうよ」

 彼女に言われて時計を見ると確かに昼休み終了の鐘だった。屋上を見渡してみるともう既に僕たち以外に人は居なくなっていた。

 これは不味いと急いで鉄梯子を降りようとすると、水無月に「女性レディー優先ファーストっ!」と一喝された。

 でも意外にのんびりしてるんだよね、彼女は。一段一段時間をかけて降って行くんだ。僕はせっかちなほうだから思わず声を出してしまったよ。

「ねぇ、もうちょっと速く降りれない? 遅刻するよ、本当に」

「嫌だよ。ここ結構高いんだよ、足滑らして落ちたら怪我するもん」

 彼女の言うことにも一理あったね。見下ろすと確かに結構怖かったから。

「まったく、よくもまぁこんな場所見付けたもんだ」

 二人の会話のとおり階段の屋根でもあるこのコンクリート小屋の背は高く、その上に乗っかってる給水タンクは巨大で、鉄梯子は階段出口からぐるっと回って裏側に在り、そこに辿り着くためには金網の隅間をすり抜けなくてはならない。おまけに彼女の座っていた位置は階段出口からは死角になる。こんなところに隠れていたら滅多なことでは見付からないと思うよ。

「十六夜くんはどうしてわたしがここに居るって分かったの?」

 梯子を降り終えて、先に走って教室に戻るかと思っていたのに、意外にもその場で僕を待っていた水無月は、梯子を降りかけた僕に下から声を掛けた。高いところがあんまり好きじゃない僕はなるべく下を見ないように気を付けながらそれに答える。

「目撃者がいたんだよ。休み時間にキミを屋上へ上がる階段のところでよく見掛けるって。だからだよ」

 その情報を元に屋上へ上がり、そして『馬鹿と煙は高い所に昇る』という俗説を信じて探したら本当に居たわけなんだけど、後半のほうは言わないほうが良いと思ったので言わなかった。

「えっ! わたし見られてたの? 誰に? 何人に? たくさん?」

「いや、僕の知る限りは一人だけど……」

 と、そこまで言い掛けて、その瞬間僕は閃いた。頭の中の何かのスイッチが入ったみたいな、そんな感覚……

「そう、それ。目撃者だ!」

 僕は思わず叫んでしまっていた。どうしてそんなことに今まで気が付かなかったんだろうって不思議に思ったし馬鹿らしくも感じたよ。

 これはキッカケに過ぎない。変態電話男(犯人)のやらかした全ての奇行で『正体は森本』と証明出来るわけじゃないけど、それでもこれを切り口にそこから奴を追い詰められるかもしれない!

 それは本当に些細なことなんだけど。

 僕は梯子を途中から飛び降りて、傍で驚いている水無月を放っておいて、教室に向かって全速力で駆け出した。


                  ※


「昨日の金曜ロードショー観た?」

「うん」

「ルパン面白かったよね。水無月さんはルパン一味では誰が好き?」

「次元大介」

「えっ。水無月さんて『次元大介』好きなんだ?」

「うん。まぁ……」

「良かったぁ。この集団の中では俺が『次元大介』なんだぜ」

 そう言って「フゥ~ッ」と叫びながら股間の辺りに手を添えて、ダンサーがやりそうな、セクシー(?)なポーズをとる針井。

「そっか、『早撃ち0・3秒、クールなガンマン』なんだね」

 微笑みながらエゲツナイことを呟いて、水無月は針井の顔を引き攣らせた。それを見て楽しそうに笑う女性陣と、苦笑いの三田と森本と……

 週末の土曜日の夜。僕たち――例の合コンの参加者全員に水無月を加えたメンバーは前回と同じカラオケボックスに来ていた。新参者の水無月が一人孤立したりしないかを心配したけどそうはならなくて、針井とかが歌っている間なんかも立待ゆかりや御手洗さんあたりと楽しく喋っていて安心したよ。

 しばらくそんな感じで楽しくやっていて……やがてふいに水無月が席を立った。笑顔で隣の御手洗に何かを言って。それを見ていた森本も席を立つ。それに僕も続いた……



「―水無月さんを待ってるの?」

 女子トイレの入口横の壁際に立っている森本に声を掛けた。彼は肩を跳ね上げて驚いたけど、すぐに「え? 君は何を言っているの?」とでも言うような惚けた顔を僕に見せた。でもそれはひどくぎこちなくて贋物だと一発で分かるようなお粗末なものだったよ。

「ちょっと付き合ってくれないかな? キミに話があるんだ」

 務めて穏やかに喋ったつもりだったけど、実際の僕はいったいどんな顔をしていただろうね。このときの僕は少しばかり興奮していたんだから。

 

 とにかく僕は森本を連れ出すことに成功した。場所は前回僕が立待ゆかりと言い争いをしてしまった廊下の奥のあの場所。僕と彼は二人きりになる必要があったんだよ。

「一度キミと話しておかなきゃいけないと思ってね……」

 そこに森本と二人しか居ないのを確認すると僕は彼に向き直った。そしてじっと彼の顔を見て観察を開始する。

「キミは水無月さんと付き合いたいんだよね?」

 図星。注意深く観察する必要なんてなかったかも。びくんっと内心の動揺を表して彼の身体が揺れたんだよ、もう明らかさ。僕は努めて穏やかな声を心掛けた……

「そしてもう数回告白している。…あ、誤解しないでほしいんだ。僕は彼女とは何でも無いんだから。本当だよ」

 そう言って優しく微笑む。そしてその顔のまま……

「でもさ、この前の合コンのときは御手洗さんが好みだったらしいね」

「 ―――っ! 」 

 さり気なく…でも意地悪く言った。すると再び森本の身体が揺れる。正直に告白すると、このとき僕は少しばかり楽しくなって来ていたんだ、どうしてか分からないけど。彼の無駄に正直なところが僕のサディストな部分を刺激してしまうのかもしれないね。

「 ……… 」

 心が白くなるほど驚いたのか、それとも言い訳でも考えているのか、彼はそのどちらにでも取れる顔でだんまりを決め込んでいた。だから親切な僕は彼の言葉を代弁してやったんだ。

「『どうしてそれをキミが知っているんだ?』って思ってるよね? 実はキミには悪いけど針井から全部聞かせてもらったんだ。たとえばキミの中学時代の恋話とかさ……」

 先ほどにも増して森本は動揺していたよ。当たり前さ、そんなこと言われて平静でいられる奴なんていない。僕だって無理だと思うよ。でもだからこそ意味があるんだ……

「なんでもキミは一度に二兎追うことが出来る男って話じゃないか。中学時代、ある女子に愛の告白したその翌日に同じグループ内の別女子に同様の告白をした経験があるとかで有名だったらしいね? 大したもんだ」

 本当に大したもんだよ、そんなのなかなか出来ることじゃない。君はこの逸話を聞いて「それ、嘘でしょう?」って思うかもしれないけど本当の話なんだからしょうがないんだよ。奴は実際に一度に二兎追える人間なんだ。結果はまぁことわざのとおり一兎も得ずに終わったらしいけど、当然ね。

 でもこの事例から『森本孝』という人物が恋愛に関してハイエナのような男であることは君にも分かってもらえたと思う。水無月に対して見せた執着を同時に別女子にも展開出来るというわけだよ。この点を踏まえてこれから先の僕の話を聞いていてほしいんだ。

 僕は話を続けた。

「今日のこの会も僕が針井に頼んでセッティングしてもらったんだよ、キミと腹を割って話をしたかったからね。そんなわけだけど……だけど、彼のことを悪く思わないでやってほしいんだ。彼はキミを裏切ったわけじゃないんだから。全てはキミのためを思ってやっているんだよ。現に彼は少し前に、僕と水無月の関係を疑って悩むキミを見兼ねて、「直接聞け」と言って僕のスマホの番号を教えたりしたそうじゃないか、僕に無断で。

 ……ぁ、でもまぁそれは役に立たなかったのかな。それはキミには必要無かったんだよね。だってキミはそれ以前から僕の番号を知っていたんだから」

 僕は堪らず少しだけにやりと笑ってしまった。

「持っているんだろう? 伏見さんのスマホ」

「 ―――っ! 」

 森本の顔は動揺を通り越し、みるみる真っ青になって行く。まったく立派な正直者だよ。少し馬鹿なのが大変悔やまれるけど。

 森本は「いったい何のことを言っているんだ?」とか「憶測でものを喋ってないか?」とか、それでもしどろもどろな感じでしらばっくれてみてはいたけど、奴のその態度そのものが嘘をついていることの明らかな証拠だとも言えたね。構わず僕は続ける。

「悪いけどはっきり言ってね。僕には犯人はキミとしか思えないんだよ。ここ最近僕の周囲で起こった奇妙な事件は、伏見さんのスマホ紛失・御手洗さんへのセクハラ電話事件、僕への変態電話事件、水無月さん突き落とし事件、僕への無言電話事件の四つだけど、連続して起こるそのタイミングから犯人は同一人物の可能性が高いと考えられるんだ。そうしたら犯人の条件はすごく限られてくるわけだよ。

 犯人の条件は全部で四つ。合コンの二次会に参加して最後まで居た男、僕と顔見知りである、僕のスマホの番号を知っている、僕と同じ学校の生徒、だけどこれに当て嵌まる人間はたったの二人。針井とキミだけだ。だけど針井は動機が無く、キミには存在する。例えば事の発端の伏見さんのスマホの件にしたってだよ、その目的って御手洗さんの番号を手に入れるためだよね? 針井は立待さん狙いだったって話だし、それに彼の場合電話番号やその他連絡先が知りたいと思ったら、それがたとえ米国大統領夫人ファーストレディーにだって本人に直接聞ける男だよ。盗んだりする必要なんてまったく無いんだ、分かるだろ?」

「しょっ…証拠はあるのか!」

 強張った顔で必死になって叫ぶ森本。ははっ、『証拠はあるのか!』だって。月並みな台詞だね。それを言ってしまったら自分が犯人ですって告白してるも同然じゃないか。

「あるよ」

 僕はきっぱり断言した。

「キミは僕に無言電話を掛けたとき校舎内の公衆電話を使っただろ? 六時の最終予鈴が聴こえたから間違いない。校舎内に公衆電話は玄関内側にある一つだけなのは知っているよね? あの時間電話を終えて、そこから校舎の外に出ようとしたら職員室前の廊下を通らなくちゃいけなくなることも。六時になるまでに昇降口は閉ざされてしまうからさ。

 ――キミ。そこで先生に呼び止められただろ? 僕も捕まって言われたんだよ『何をしている早く帰れ』って。後日僕はその先生に一年生の学年章を見せて、『コレを公衆電話の前で拾ったので持主に返してあげたいのですが、あの日あの時間帯、僕の前に誰か職員室前の廊下を通りませんでしたか?』って尋ねたんだ。するとキミが通ったって、それで同じように呼び止めたって言うじゃないか。キミはあの日あの時間帯あの場所に居たんだ、目撃者がいるんだよ」

「ぅ…嘘だ、僕はそんなところには居なかった……」

「嘘じゃないよ。その先生は間違いないって言ってた、一年二組の森本だってね」

「…ぃぃいい加減にしろぉっ!」

 森本は声を荒らげた。

「そんなの作り話だろ、ありえない!」

「ふ~ん、どうしてそう思うの? その根拠は?」

が生徒一人一人の名前なんて覚えてるはずないだろ! 全部キミの作り話だ!」

「――うん、正解。キミなかなかやるね」

 僕に対してそこではっきりと敵意剥き出しの顔になった彼――鋭い森本くんに敬意を示し僕はパチパチと拍手を送った。…そう彼の言うとおり、以前にも言ったけど田中という教師は徹底して生徒の顔と名前を覚えられないボケ教師だ。だから例え本当に森本を呼び止めていたとしても覚えていなかったと思うよ。でもね……

「――でもさ。どうしてあの日あの時間にが職員室に居たことをキミが知っているのかな? 僕は『先生』とは言ったけど『田中』だとは一言も言っていないはずだよね? 田中室長は真面目な先生でね、授業時間以外はいつもだいたい進路指導室に詰めているんだよ。いつ生徒が相談しに来ても良いようにさ。滅多に外には出ないんだ。あの日はレアケースなんだよ、実は。それに進路指導室は二階――つまり一つ上の階だよ」

「 ――っ! 」

「どうしてかな? それに僕を呼び止めたのが田中だってどうして分かったの? 職員室には他にも先生は残っていたのにさ」

 つまり結局は森本の奴も田中に呼び止められ注意されてたってことなんだろうね。田中は結構規則にとても厳しいんだ。傍に生徒指導室の体育教師が居ようと関係なく、真っ先に率先して注意をするくらいなんだから。

「そっ…それは…その……」

 まんまと僕の誘導に乗ってしまった森本は、言い訳しようとしたけどしどろもどろになって出来ず、遂には押し黙ってしまった。僕は勝利を確信したね。だから最後の詰めに行くことにしたんだ。わざと小さく溜息をつくとゆっくりと口を開く。

「キミが誰のことを好きになろうとそれは構わないよ。僕が口出し出来ることじゃないし。――でもね、今回キミはやり過ぎたよ。盗みを働いたうえ三人の女の子に怖い思いをさせた、それは許されることじゃない。特に水無月さんには怪我をさせているしね。だから三人に事の次第を正直に話して謝ってほしいんだよ。そしてその結果を真に受け入れようよ……」

「そうすればきっと三人とも許してくれるよ」みたいに聞こえるような感じを狙い、僕は森本に自首を促した。…まぁ、正直に話したくらいで許されるなら警察なんていらないんだけどね、本当本音を言えば。でもそんなことは僕の知ったことじゃないんだよ。森本自身が被害者たちに謝罪することが一番筋が通ってて最良の解決方法なんだから。

 まぁ更に贅沢を言わせてもらえば、僕が巻き込まれることなくこのかたちに向かってくれればそれが一番良かったんだけどさ。正直もうウンザリしてたんだよ、この茶番劇に。どうしてこう僕の周りにはろくでなしばっかりが集まって来て、しかもそいつらは決まって僕の近くでろくでもないことをやらかすんだろうね、まったくいい加減にしてほしいよ。

 でもそんな澱んだ気分に更に拍車をかけるような一言が、次の瞬間森本の口から零れたんだ。

「違う……」

「はっ?」と思わず僕は聞き返す。一瞬自分の耳を疑ったからね。

「――違うんだ。僕はやってない! 僕は水無月さんを怪我させたりしてない」

 目を見開いて、でも何処見てるのか分からないような顔で森本は呟くように言った。正直こいつは最低だと思ったね。

「何が違うんだよ。キミは彼女にストーキング行為を繰り返していたんだろう? キミじゃなくて誰なんだよ」

 ショッピングモールでも映画館でも森本に出くわしたのだって、きっと水無月の断り文句を小さな手掛かりに、奴が行先を割り出して先回りした結果だろう。そんな男の「やってない」が信用出来るものかね? 

 確かに水無月は自分を突き落とした奴を見ていないようだったけど、でも森本にはその凶行に及ぶだけの動機があるんだ。『可愛さ余って憎さ百倍』ってやつさ。つまり一瞬恋心が憎しみに変わってしまったってことだよ。

「し、知らないよ。でも僕じゃない! 確かに彼女を何回もデートに誘ったし、どうしてこっちに振り向いてくれないのかって腹も立ったさ。だけど傷付けようだなんて……信じてよ、僕じゃない!」

……ね」

 つまりかな? 傷害罪以外の軽犯罪は。ほんとこのときほど僕が他人を軽蔑した瞬間は無かったかもしれないね。だからつい声を荒げてしまっていたよ。

「どうしてそんな下らない嘘をつくんだよ、そんな嘘が通じるとでも思ってるのか? 最低だねキミは! もう一度はっきり言わせてもらうよ。水無月美優に怪我させた豚箱行豚野郎は―― 」

「――もうそのへんで勘弁してやってくれよ」


  ――――っ !


 いきなり背中に声が掛かりびっくりしたよ。でも振り向いて今度はぎょっとしたんだ。何しろ声の主は針井だったわけだけど、そこに居たのは彼だけじゃなくて、皆に合流した水無月や立待ゆかりや三田や――その他今回このカラオケに参加したメンバー全員がそこに立っていたんだからさ。後から三田に聴いた話だと僕が部屋を出て行った後、事情をだいたい知っている針井がそわそわしていて、それを「どうしたの?」と立待ゆかりが尋ねて、針井が事情を喋り―――それでそんなこんなでこういう場面が出来上がったらしんだよ。『唸る! セクハラマシーン』と呼ばれていて、図々しいほど肝が据わっていると思っていた針井の奴も妙なところで気が小さかったんだね、まったく困ったもんさ。でもそれよりも厄介なのは、この場に立待ゆかりが来てしまったことだったんだけどね、つまるところはさ。

「こいつも悪気があってやったわけじゃないと思うんだ」

 意外に針井が友達想いだったのは良いことだったと思うよ。でもこの言葉はこのときの僕にとってあまりに間抜けな一言に聞こえてしまったんだな。

だって? まさか、冗談だろ? もうとてもそんなレベルの話じゃない!」

 僕は喰らいつくように返した。とても認められない意見だったからね、正直さ。

「こいつは犯罪者だよ! 御手洗さんや僕に変な電話を掛けて脅かし、水無月さんに怪我を負わせた! 百歩譲って僕への無言電話は単なる嫌がらせでアリだったとしても、階段から突き落とすのを悪気無く出来る奴はいないよ! そんな奴がもしいたら―― 」

「その階段での一件だけど、それ。あんたの誤解よ」

 僕の主張を立待ゆかりが言葉を被せて遮った。まったく失礼な女さ、こいつが今まで僕の話をまともに最後まで聴いたことなんて一度だってありはしないんだからさ。

「はぁっ?」と、思わずひどく攻撃的な口調で返してしまった僕に、彼女は片頬をひくりとさせた。

「だったら聞いてみなさいよ」と、立待ゆかりの奴が水無月を目で指した。

矛先を向けられた水無月は「あのね……」と、彼女にしては珍しく少々遠慮がちに口を開いたよ。

「たぶんわたしを突き落とした奴は森本くんじゃないよ。けどたぶん。同級生の顔見知りだったら、さすがに気付くと思うの」

 確かに犯人に見覚えがあるかどうかについて、水無月は曖昧な答えを返して来てはいたよ、肯定も否定も無しでさ。それは危機的状況に陥っていたため覚えてなくても仕方ないことだと僕は考えていたんだけど、このときの彼女は森本でないとはっきりと述べているわけなんだ。でもとわざわざ口に出しているんだね。そこのところを僕はこのときもっとよく考えるべきだったと後悔してたりもするんだ、今にしてね。でもこのときの僕はそこまで頭が回らなかったんだよ。まだまだ浅はかなんだってこと、僕も認めないわけにはいかないな。

「いや、だって―― 」

「それに森本くんにはそんな大それたことは出来ないんじゃない? ストーカー行為と無言電話程度が精一杯よ」

 ずいぶん失礼な意見だけど、それに針井は「そうだ、俺もそう思う」と便乗したよ。――でもさ、彼は中学のときから森本を知っていて、現在も親しくしている仲だからそんなふうにも言えるわけだけど、高校に入って初めて顔を見て、ろくに話もしていない僕はちっともそれに共感出来なかったわけなんだ。

「そんなこと信じられないよ。針井きみがどれだけ森本かれのことを知っているのか知らないけどさ、実際僕に無言電話を掛けたのは確かなんだよ。証拠だってある」

「それはきっと水無月さんとの関係を聞きたかっただけなんだと思う」

「だったらどうして何も話さず切った? どうして公衆電話から掛けてくる必要があったんだ? おかしいだろ?」

「それは……」とさすがの針井も言葉に詰まったよ。そして森本を見た。でも森本は何か言いたそうで言わずにまごまごしていた。その態度が僕をイラつかせたんだな。僕は思わず怒鳴ってしまっていたよ。

「どうなんだよ、何か言えよ! みんなこうやってこんなふうに廊下に集まっているのは全部おまえのせいなんだよ、分かっているのか!」

 でも森本の奴は「いや、その……」と口をもごもごして一向に話さないわけだよ。だからもうほんと僕のイライラはどんどん積もって行ったわけなんだ。すごく棘のある口調だったよ、今にして思うとね。

「はっきり言えよ。何なんだよ、さっきから! 気の利いた言い訳の一つでもしてみろよ!」

「ちょっと! そんな言い方しなくても良いでしょう? もう少し優しく聴いたらどうなの」

 と、いきなりここで立待ゆかりが会話に首を突っ込んで来た。……これもいけなかったかな。何しろ僕と立待ゆかりは、常にお互い警戒してないと目を外した瞬間に脛を蹴り合いかねないほどの大の仲良しなんだから。

「オマエには関係ないだろっ! いちいちいちいち口出して来んなっ、出しゃばりがっ!」

 反射的に思わずそう叫んでしまったよ、いつもの癖でさ。すると見る見るうちに彼女の両目端が醜く吊り上ってさ、もの凄く不細工な顔になったんだ、見事なほどにね。いつもならそこで「素敵な笑顔をありがとう」って言うところなんだけど、このときはそんな余裕は無かったんだ。

「アンタね。恥ずかしくないのっ? 友達をそんなふうに疑って罵ってさ! 人格を疑うわっ!」

「こんな奴友達じゃないっ! だいたいオマエに人格をどうこう言われたくないんだよっ!」

 捲し立てる立待ゆかりに売り言葉に買い言葉で思わずそう叫び返していたよ。でも正直それは全て僕の本音だった。でもここで口に出してはいけなかった言葉だと今になって後悔しているんだ。だってそうだろ? これじゃぁまるで僕が悪人のようじゃないか、しかも心の狭い小心者のさ。僕はあくまで被害者であって、そう在るべきで……。だから本当ならもっと可哀相で弱々しく惨めなふうに振舞わなくちゃいけなかったんだ。まぁある意味で可哀相ではあるけどね、こんな状況はさ。

「――だったら。そこの彼が水無月さんを突き落としたっていう証拠を見せてみなさいよっ! 無言電話の件はともかく、それに関しては被害者の彼女が違うって言ってんのよっ?」

「 ……… 」

 そこを指摘されたら、さすがの僕も歯軋りをしてだんまりを決め込まなくちゃならなくなってしまったね、正直に告白するとさ。その件に関して僕は一切証拠を手に入れていなかったんだよ。当初森本総犯人説を微塵にも疑っていなかったし、こんな妨害が入る不測の事態を想定していなかったものだから、客観的に見て証拠が無いものとかがあっても、無言電話の一件で森本の奴を徹底的に叩いて行けば、追い詰められた奴がボロを出すと漠然と信じて止まなかったんだ、本当に浅はかな話なんだけど。だからこうなってしまったら僕にはどうにもこうにも手詰まりだった。

 ほんと惨めな状況だったよ。目を上げて見回してみるとさ、立待ゆかりだけじゃなく皆一同に冷ややかな視線を僕に向けていやがるんだ。あの伏見静花でさえも――そう、僕に並々ならぬ好意を寄せていた彼女でさえ、バナナで釘が打てそうな光線を目から発射しているんだよ? 堪らなかったよ、どうにかなりそうだったな、正直さ。表現しようもない雰囲気、重苦しい無言の重圧と皆の冷ややかな視線。この世の終わりとはこういうものか、もう神様だって僕を救えないって本気で思えたくらいだよ。

「何とか言いなさいよっ!」

 沈黙を破ったのはやっぱり立待ゆかりだったね。こいつは僕の前に居るときは、たとえそれがどんな状況だって僕の心を傷付けることを言い続けなきゃ死んでしまうとでも思ってるんじゃないかな? それは僕も同じなんだけどね、実は。

 でもこの状況で意外なところから助け舟が出たんだ……

「もう、止めてよ……」

 そう立待ゆかりに声を掛けたのは、彼女の友人である御手洗昭子だったんだよ。

「もう止めてあげなよ。そんなふうに十六夜くんを追及するのは……」

「ぇ?」と不意を付かれた立待ゆかりが御手洗さんのほうを振り向いた。彼女は俯いて片手で身体を抱きしめるような仕草をして、少し弱々しい声で続けた。

「ゆかりにはたぶん分かんないよ。……ていうか誰にも分かんないの。いきなり知らない誰かから電話が掛かって来て、あっちはこっちのこと知ってて…嫌なこと聴かれたり…息づかい以外何も聴こえなかったりする怖さが……。それで四六時中誰かに見られているんじゃないかって思って…視線を感じるような気がして辺りを見回してみたら、皆が自分を見ているような気分になったり……。そういう気持ち悪い怖さって体験した人間しか分かんないものなの。だから十六夜くんの気持ち、わたしには分かるのよ」

 そう話した彼女の肩は小刻みに震えていて、これまで見せていた明るく騒がしい彼女とは違っていて、壊れそうな儚さが見てとれたんだ。

「昭子…… 」

「……ごめん」と、立待ゆかりは彼女の背中に手を回して抱きしめた。

 御手洗さんはそれ以上何も言わなかったし、立待ゆかりもそれ以上僕を追及することはなかった。そして針井が気遣いを見せ、部屋に戻って楽しくやろうみたいなことを言って皆に部屋に戻ることを促したことで、とにかくこの場は治まりがついたんだ。

 でも僕の気持ちはどうにも治まらなかったんだよ……


                  ※


 翌日、僕は御手洗さんと会う約束をしていた。場所は僕の学校のある駅の隣駅、その駅前の、裏通りに在る喫茶店。お店の名前は忘れたけど、こじんまりとした店内で雰囲気はまぁまぁだったかな。とにかく静かなところで、知り合いに出会わないような場所でゆっくりと話がしたかったんだよ。

 前日の一件の後、僕は何とか上手く立ち回り、彼女から連絡先を聴き出して、そしてその場で翌日会う約束を取りつけた。もちろん彼女に愛の告白をしようってわけじゃないよ。例の電話のことを詳しく聴こうと思ったからなんだ。この時点までで、例の変態男から電話が掛かって来ているのは彼女と僕の二人だけなんだから、結構有効な手段だと思ったからね、奴を特定する手掛かりを掴むためにはさ。

 御手洗さんがそのお店を知っていたこともあって、待ち合わせは現地集合となっていた。僕が一0分早く、彼女が五分遅れでやって来たよ。

「ごめん、待った?」と彼女が少しだけ申し訳なさそうな顔をしたものだから、僕は勿論「いや、僕も今来たところだよ」と月並みの台詞(うそ)を口に出して窓際の席で微笑んで返したね。こちらは話を立場だからそれくらいのご機嫌取りは易いものさ。

 まず最初に飲物の注文を済ませて、そして僕は彼女に昨夜の礼を述べた。こればっかりは本当に感謝していたからね。あそこで彼女がああ言ってくれなければ、あの後どうなっていたかと今更ながらにぞっとするよ。

「べつにそんな感謝されるようなことでもないから気にしないで」と、口では言いながらも少し照れくさそうにしていたかな、彼女は。

「でもちょっと酷くない? ゆかりもあそこまで言う必要は無かったと思うし、静花なんてもう他人事みたいな顔してたよ? 発端は自分なのに……」

 立待ゆかりたちを軽く非難する御手洗さんに「まぁまぁ彼女たちを悪く言うのは止してよ、僕も悪いんだからさ」と庇うような内容のことを返しはしたけど、本当は微塵にもそんなことは考えてなかったね、僕の本心は。

 でも、それよりも僕が特に許せなかったのが森本孝だね。あの一件の後すぐに、僕は一応彼に謝ったんだよ。すると彼はどんなリアクションと取ったと思う? ただ「あぁ」とか「うん」とか言うだけだったんだ。――疑いが全て晴れたわけじゃないんだよ? それでもこっちは気持ちを押し殺して百歩譲って謝ってやっているんだ。だから向こうも表面上くらいは謝って見せるのが筋ってものじゃないかな? 水無月突き落としの件に関しては証拠が無かったとしてもさ、僕に掛けて来た無言電話は奴で間違いないだろうし、あんな糞みたいな状況で追及し切れず結局曖昧になったけど、御手洗さんへの変態電話だって奴に間違いないだろうし。本人に嫌がらせの意思が無くてもこちらが迷惑被ったのは事実なんだからそうしてしかるべきだと僕は思うんだよ。ひょっとして立待ゆかりに味方してもらって、あの場で自分が逆転無罪の判決を勝ち取ったとか思っているのかね? 馬鹿なのか? いや馬鹿なんだよ、まごうことない真性のやつだよ。

 しかもこの時点で伏見スマホの行方は不明のままだった。観念して森本が全てを語るかと思っていたけど、何も語っていないんだ。こちらも場の雰囲気上、それ以上突っ込んで詳細を聴けなかったんだけどさ。こいつは……余計なことはするくせに、必要最低限のことも出来てやしないんだよ、まったく。

 今でも当時のことを思い出すと、腹立たしくて夜眠れなくなってしまうことがあるよ。あの時邪魔が入らず強引に押し切れていれば、全て白状させられていただろうしさ。

 でも、このときの僕はそれ以上に別の感情が勝っていたんだ。

「――やっぱり、その犯人を見付けようと思ってるの?」

 例の無言電話が掛かって来たときのことを聴こうとすると、御手洗さんはそう尋ねて来た。

「うん、このままじゃ終われないよ。どうにもすっきりしないんだ……」

 以前にも言ったけど犯人はたぶん僕に近しい人間のはずなんだ。ショッピングモールでの一件から考えて森本が犯人じゃなくてもその点は変わらないんだね。だって気持ち悪いだろ? たとえこの後このまま何も無かったとしても、自分の周りにそんなことする輩が潜んでいるなんてさ。誰も信用出来なくなるじゃないか――まぁもともと誰も信用していないけどね。誠実さ故に、己が傷付くことを恐れず真実を渇望する君みたいな人以外はさ。……いや、一応君が誤解しないように言っておくとだね。僕は本来お人好しなんだよ、嘘偽り無くさ。だけど僕の周りの他人ひとが僕にその資質を存分に発揮させてはくれないんだな。だから仕方なく僕はこんなふうなんだよ、悲しい話さ、とってもね。

 まぁとにかくそれで、御手洗さんから話を聞くことは出来たんだけど、それは立待ゆかりから以前に聴いた話とほぼ同じで僕にとっては何の収穫も無かったんだ。

「――でも危ないよ。あんな変質者を相手にするなんて」

 再度犯人を見付けようと思っているのかを尋ねて、その後で彼女はそう呟くように言った。

「大丈夫だよ、心配しないで。御手洗さんに迷惑が掛かるようなことはしなから」

「いや、そういうんじゃなくて。十六夜くん、今一人暮らしだって言ってなかった? 犯人がもし家にやって来たら……」

 確かにそういう危険リスクはあると思う。犯人は僕の傍に居る可能性が高いんだから。でもそれを恐れていちゃ解決出来ないのも確かな話なんだよ。だからそこんところは上手くやるしかないだろうね、必死でさ。

 とにかくここで御手洗さんを不安がらせてもしかたないと思った僕は、軽く嘘をつくことにしたんだ、すごく優しい嘘だよ。

「大丈夫だよ。誰も僕の家の場所なんか知らないよ。教えていないし、誘ったこともない。それにもし尋ねて来ても誰も部屋に入れないしね」

「え、そうなの? どうして?」

「すごく危険なんだ。男の最前線がそこには在るからね」

「……え?」

「ぁっ……」

 言った直後に後悔したよ。何処かの常識知らずのお馬鹿さんのせいで、僕のそういう感覚も馬鹿になっていたみたいなんだね。気持ちを解そうと、ただ軽めの冗談を言ったつもりだったんだ。君は分かってくれていると思うけど、僕はとてもサービス精神が旺盛な男なんだ。でも時々それが上手く作用しないことがある……これはとても悲しい事故だったよ。

 そして悲しいことに、僕の言葉の意味を理解出来てしまった大人な御手洗さん。彼女は一瞬固まったけど、でも次の瞬間いきなりブッと吹き出した。

「あははは、そうなんだ。十六夜くんってそんな冗談を言う人なんだ。意外だね」

 元々そういう話題に耐性が在るのか、もしくは針井辺りの残念な影響かな? 御手洗さんは僕の低俗な冗談を、呆れることなくそうやって返してくれたんだ。

「え、そうかな? そんなに意外だったかな」

 僕は御手洗さんのリアクションに少し戸惑ったかような小芝居を入れて、彼女の機嫌を取った。そうやって「貴女のために少し背伸びしてみました」というふうに感じさせたほうが、僕的には女性の好感を得やすいという実績があったからね。彼女とは――少なくとも犯人を特定するまでは縁を切るわけにはいかないからさ。

 御手洗さんは存分に笑った後で、まだ笑いを堪えつつ冗談を返して来た。

「う~ん、でも残念。折角わたしが手料理を振る舞いにお邪魔してあげようと思ったんだけど」

「それならいつでも大歓迎だよ。でも、何か恐ろしいことを考えていたりしない?」

「恐ろしいことっていったいどういうこと?」

「それはもう、恐ろしいことだよ。口になんか出せないよ」

「あははは」

 こういう冗談が言い合える間柄って結構良いものだと思ったね。僕の周りにもさ、こういうことを気楽に受けて流して返してくれる女性が欲しいとも本気で思ったよ。彼女と同い年の立待ゆかりにもこれくらいの包容力を持って貰いたいものだよ。彼女の場合、僕より一つ年上のくせして僕より五年は損しているんだから、そういう面ではさ。

「――そんなこと言って。いざわたしが部屋を尋ねたら、玄関を挟んで女の子とばったりご対面とかなるんじゃないの?」

「ないない、それはないよ」

 そう笑い飛ばして、少し喉が渇いていたので、運ばれて来たまま手を付けていなかった珈琲のカップを手に取り、口を付けたそのときだったね。

「ぶっ!」

 僕は思わず口の中の珈琲を吹き出すところだったよ。それはギリギリのところで持ち堪えられたから良かったんだけどさ。――一瞬御手洗さんから目が逸れて、窓から外の景色が見えたんだよ。そこは何の変哲もないただの道路の風景のはずだったんだ。でもね、道路の向かい側の電柱が在る辺りにさ、すごく見覚えのある顔があったんだ。

  ――― 水・無・月・美・優・ぅっ!

 僕はそいつの名前を心の中で叫んだよ。声に出せはしないからね。

 代わりに僕は激しく咳き込んでしまって、「どうしたのっ?」と驚いた御手洗さんを向かい側から出張させ、背中をさすって貰うはめになった。

 少し落ち着いた僕は、とりあえずもう大丈夫だということを彼女に伝えて、そしてちらりと窓の外を一瞥した。するとそこに水無月の姿はもう無かった。

「ぁ、ご、ごめん。ちょっと急用を思い出した……」

 僕はテーブルのレシートを掴んで立ち上がった。

「ほんとごめん、また何か思い出したら連絡してね」

 そう言い残し、僕は御手洗さんを置いて急いで勘定を済ませて外に出た。その間一回も彼女のほうを振り返ったりはしなかったんだけど、彼女はきっとぽかんとした顔をしていたんじゃないかと思う。


                   ※


 喫茶店の向かいの電柱の傍から奥に伸びている路地を少し進んだところに水無月は居た。僕の姿を見付けるとバツが悪そうな顔で「やぁ」と挨拶したよ。近くに人気の無い公園を発見していたので、僕は彼女の腕を掴んでそこまで引っ張って行った。

「――どういうつもり? あそこで何してたの?」

 僕がそう尋ねると、彼女はほんの少し考えて、「十六夜くんは?」と尋ね返して来た。

「僕が先に質問したんだよ」

 苛立ちを必死に押さえて、僕はトーンを落とした声でそう返した。

「 …………… 」

 まったく何て奴なんだろうね。彼女は何も答えなかったよ、数十秒の間そのままだったんだ。このままでは埒が明かないと考えた僕が仕方なく彼女の質問に先に答えてやることにした。こういうところが僕の優しいところなんだよ。我ながら少々過ぎているとは思うけどね。

「キミを階段から突き落とした犯人を捜しているんだよ」

 すると彼女は「意外だ」というような表情をして

「捜してくれているんだ……」と呟いた。

「キミのためじゃないけどね」

 吐き捨てるように僕は応えた。すると彼女は少し驚いたような顔をして僕の表情を窺うような仕草をしたよ。

「ひょっとして十六夜くん……怒ってる?」

「怒ってないよ」

「それは昨日のことで?」

「怒ってないってっ! 昨日のことなんて何とも思ってないよ」

 少し語気を荒げつつ、それでも僕は必死に冷静に努めた。

「でも仕方ないじゃん。本当のことなんだから……。あそこで森本くんを犯人に仕立て上げても何の解決にもならないでしょ?」

「そうだね。それでもキミがもっと早めにそのを話してくれていたら、僕はあんなことを言わずに済んだかもしれないね」

「だってまさか十六夜くんが、あんな行動に出るなんて思いもしなかったんだもん」

 確かに彼女の言うことにも一理ある。僕が独断で先走っていたのは事実で、それは僕自身も認めないわけにはいかないよ。でもさ、だからといって全てを受け入れて水に流すことが出来るほど僕は出来た人間じゃないんだよ、正味の話。

「ぁ、でも。きっと大丈夫だよ。みんな何とも思ってないから。それに信用なんてすぐに回復出きるって。十六夜くん、そういうの得意でしょう?」

「はぁ? 得意だって? 冗談じゃないよっ。僕がこの数ヶ月どんなに気を揉みながら小さな努力を積み重ねて今の僕の王子様的キャラを手に入れたか知らないだろ? それが一夜にして盛大に崩されたんだぞっ!」

 ……と、楽観的な水無月を大声で怒鳴りつけたい気分だったよ。でもそれはしなかったんだ。すんでのところで理性が働いたんだな。

「――もしもさ、僕に用が有るんじゃなかったら、僕はもう帰るよ。キミに構ってる余裕は無いんから」

 僕はそう吐き捨てるように言って彼女に背を向けた。そして彼女は何も言葉を返さなかったから、僕はそのまま歩いてその場を去ったんだ、一度も後ろを振り返ることなくさ。

 今にして思うと僕も相当頭に血が昇っていたんだろうね。言ってることが目茶苦茶だよ。自分で水無月を公園に連れ込んでおいて「用が無いなら帰るよ」ってさ。それに本来の目的も忘れているしね。水無月が何の目的で僕と御手洗さんを見張っていたのか―― それに彼女がどうやって僕たちがあの喫茶店で会うのを知り得たのか…とかさ。

 とにかくそういうことをさ、このときの僕はもっと冷静に考えてみるべきだったんだよ……


                   ※


 翌日登校すると水無月の姿は無かった。顔を見なくてほっとしたのが半分、後の半分は何故か罪悪感のような気持ち悪い感情だったよ。一日の終わり、夜、布団に入って公園でのことを思い返してみると、僕にもいろいろ思うところがあったわけなんだね。

 だからそれとなしに担任教師に彼女の欠席理由を聞いてみたんだ。すると病欠だったよ、頭に『ケ』のつく病気だろうけどね。

 そのままなんとなくすっきりしない気分のまま授業を受けていたんだけど、昼休みに御手洗さんからLINEメッセージが来たんだ。『話したいことがあるんだけど、放課後何処かで会えないか』というような内容だったから、僕は前日と同じ喫茶店を指定して彼女と会うことにしたんだ……



「――また電話が掛かって来たの」

 御手洗さんは張り詰めた表情をしていた。声は少し震えていたかもしれない。

「掛かって来た……って、例の男から?」

 御手洗さんは無言で頷いた。そしてスマホの着信履歴を見せてくれた。確かに前日の深夜に公衆電話からの着信が記録されていたよ。

「その……男は何か言っていたの?」

 御手洗さんは頷いて、そして呟くような声で口を開いた。

「『 俺を詮索するな 』って……」

 電話男はいったい何処で僕の情報を入手したんだろうね。僕はこの数日それらしい人物と接触は持っていなかったはずなのに。でもまぁ……

「『詮索するな』……かぁ」

 と、いうことは。僕は知らず知らずのうちに真実に迫りつつあるってことかな? それとももしくは僕以外の誰かがそうなのか――僕以外にも男を追ってる奴がいるのかな? どちらにしても男は焦り出していると考えられるわけだよ。これはこのまま闇雲に調べ続けていたら結構炙り出せたりするんじゃないか……

「――怖い。」

 ぽつりと御手洗さんが呟いた。

「わたし怖いよ。十六夜くん……」

「そうだね」と僕も頷く。

「結果的に御手洗さんを巻き込むかたちになってしまってるよね。状況は悪くなっているかも…… 御免」

 普段明るく笑顔が絶えなく、ともすれば蓮っ葉な印象さえ受ける彼女でも、やっぱり僕の一つ年上でしかないんだな、と痛感したよ。こういうことには向かない――いや元々こういうことに向く女性なんていないだろうけどね。とにかくこれはマズイなって思った。

「まだショップが閉まるまで時間があるし、今から行ってスマホの番号を変えようか?」

「それ……困らない?」

「何が?」

「その…男と繋がりが切れちゃうかもだよ?」

「仕方ないよ。確かにそれは痛いかもしれないけど、御手洗さんの身の安全が大事だしね。後は僕一人でもどうにかするよ」

「 …………  」

 御手洗さんは俯いて無言になった。でもすぐに顔を上げて、少々弱々しくはあったけどはっきりとした口調で言ったんだよ。

「……いい。わたし番号変えたりしない。このまま犯人が見付かるのを待つ」

「え、でも……」

「大丈夫。それに十六夜くんがすぐにそいつを見付けてくれるんでしょう?」

「うん。それは努力するよ、全力で。でもそれは……」

「じゃぁ。わたしから一つお願いがあります」と御手洗さんは僕の言葉を遮って、右手の人差し指を一本立てて、僕の顔をじっと見た。

「たまに夜中とか電話してもいい? 怖くなって眠れなくなるかもしれないし……」

「 ……… 」

「……駄目かな?」

「―――分かった、良いよ。そんなことなら夜中と言わず何時でも。でも注意はして欲しいんだ。何かあったら――少しでも妙なことが起こったら連絡してよ」

「分かった」と、御手洗さんは会心の笑みで応えてくれた。

 悪くない状況だったかな。僕が本当に善人なら彼女のスマホの番号を何が何でも変えさせただろうね。でも僕には打算があったんだ。こういうかたちに持って行きたかったんだよ。さすがに切れてしまうのは困るからね、犯人にくっ付いた細い糸がさ。

 僕にだって罪悪感が無かったわけじゃないんだよ。だから「少しでも妙なことが……」って伝えたんだ。それは本心なんだ。

 彼女は正直僕の好みの女性像ではないから恋慕は無かったけど、でも尊敬や親しみの感情は抱いていたよ。頼れるパートナーみたいに思い始めていたかもしれないね、だんだんと少しずつ、本当に。



 その後少し今後の話と雑談をして、僕たちはそれぞれ帰路についた。僕は家まで送ると言ったんだけど、彼女の家はそこから遠いらしく遅らせて貰えなかったよ。まぁ一応駅までは送ったんだけどね。

 僕も電車に乗ってアパートに帰り、夕飯を食べ、風呂に入り、のんびりとして、深夜になってさぁこれから寝ようとしたときだった。充電しておこうとスマホを手にすると、LINEの未読メッセージが一つ在るのに気が付いたんだ。御手洗さんと会っていたときマナーモードにしていてそのままだったから気付かなかったんだけど、夕方辺りに届いていたようだった。

 送信主は水無月で


  『  犯人をこれからとっ捕まえに行く。  』


 たった一言の文章だった。

 ――嫌な予感がした。今までに彼女に関わって嫌な予感がしなかったことは無いんだけど、したとき、だいたいは当たっているんだよ。

 僕はまず電話を掛けてみた。だけど繋がらず、LINEで『犯人って、誰?』や『今、何処に居るの』と送ってみた。でもしばらく待っても答えが返って来ることは無かった。それでも『気をつけて』や『連絡欲しい』とメッセージを送るより他、僕はどうしようも無かったよ。

 そしてそれには、既読も付かなかったんだ……


                 ※


 翌日も水無月は登校して来なかった。今度は無断欠席らしかった。

 放課後、クラス名簿で彼女の住所を探して行ってみることにした。

水無月の家はとある公営団地の一室だった。でも玄関のドアの前に立ってチャイムを数回鳴らしてみたけど誰も出て来なかった。中に人が居るような気配は無いし、ドアポストには今朝の朝刊が刺さったままになっていた。

 いよいよ嫌な予感が的中し始めたと感じたよ。胸の奥のほうに黒い何かがどんどん流れ込んで溜まって行くような……落ち着かない、嫌な感覚だったな。

 そのまま少し玄関先で彼女もしくは家の人が帰ってくるのを待ってみたけど全くの無駄で、仕方なく諦めて彼女の家を後にした。

 そして少し町を歩いてその地区の警察署までやって来た。捜索願が出されていないか――出されていなければ出すことは可能なのか――とか考えたんだよ。でも中には入らなかったんだ。踏ん切りが付かなかったんだよ、なかなか。捜索願が出されていたら関係者としてたぶんいろいろなことをねほりはほり聴かれるだろうし、出されていなかったら家族でも恋人でもない僕に――しかも誘拐や拉致の証拠も無いのに出すことが出来るのかどうかも分からない。しかも捜索願を出せば確実の大事になるし、勘違いでしたじゃ済まないしね。

 ……かといって、嫌な予感どおりならこのまま何もしなければ水無月の身が危ない。僕も相当追い込まれていたよ。

 ――と、そこでそんな僕に声を掛けて来る人物が現れたんだよ。

「……あんた、こんなところで何してんの?」

 無遠慮にそう言ったそいつは、こういう場所・状況でなくても最も会いたくない人物の脳内ランキングベスト3に常に入り続ける人物―――立待ゆかりだった。

「何でもない……」

 と、僕はその場を立ち去ろうと彼女に背を向けた。でも次の瞬間、彼女の手は僕の服の袖をぎゅっと掴んだ。

「ちょっと待って」

「待てない。僕は忙しいんだ」

 これは本当だった。僕は彼女に構っている余裕は無かったからね。

「警察の前をうろうろして……何かあったの?」

「何も無いよ」

 この状況と照らし合わせたら何ともおかしな発言だけど、このときの僕は本当に余裕が無くてそう答えてしまったんだ。

「嘘よ。今のあんたの顔――そんな顔、今まで見たことないもの」

 このときの僕はいったいどんな顔をしていたんだろうね。確かにここ数年でこれほどまでに追い込まれた状況は無かっただろうし、そこに天敵とも言える奴が現れたんだから、たぶんもう最悪な面をしていたに間違いないだろうけどさ。

「キミこそ、どうしてこんなところに居るんだよ……」

 追及を逃れたい気持ちも在って、僕はそんなふうに言った。

「ひょっとして、呼び出されて厳重注意を受けてたの? 存在自体がテロリズムだって」

「馬鹿じゃないのっ?」

 と、立待ゆかりは本気で怒っていたよ。

「父さんが今晩徹夜になるって言ってたから、着替えとかを渡しに来てたのよ。それくらい分るでしょう?」

「………」

 そうなんだ。立待ゆかりの父親は警察官なんだよ。――と、ここで君は。水無月のことをその父親に相談したら良いんじゃないかって思っただろ? でも、その立待父親本人が内々に捜査してくれるとは限らないんだ。専門外だとかで、もし誰か他人に振ったりしたら、たぶん公になる。公に捜査ってことになったら、もちろん大事になってしまう。なるべくそうしたくない僕にとっては得策とは言えないんだよ。

 内々に動いてガッツリ捜査――というのが理想なんだろうけど、そういう都合の良い話はたぶん無理だと思うんだ……

「――とにかく放してくれないか。僕はもう行かなきゃ」

 ここは一旦出直そう。そして時間を置いていろいろと考えが纏まってからもう一度来よう。と僕は考えていた。

「嫌よ」と反発する立待ゆかりの手を強引に振り払おうとすると、彼女は

「それにわたしのほうがあんたに用があるの」

 と、抵抗して離さなかった。

「ちっ」と舌打ちして、僕は「何だよ、聞いてやるから早く言えよ」と、とりあえず振り払うのを止めた。そのほうが早く開放されそうだったからね。

「ぇ、あ…そのね… その…… 」

 意外にも少しびっくりしたような顔をして、彼女はもたもた口籠った。

そのまま話し出さないので、「実は用なんか無かったんじゃないか」と感じた僕が再び彼女の手を振り払おうとしたとき……

「ごめんっ!」

 と、いきなり立待ゆかりは深々と頭を下げた。

「わたし、あなたに謝らなくちゃいけないの」

 あまりに意外な展開に僕は言葉が出ず、ただ流されるままに彼女の言うことに耳を澄ましていた。

「土曜日のカラオケで… わたし少し…ううん、かなり言い過ぎた。ごめんなさいっ!」

「 ……… 」

 正直僕はすごく驚いていたね。だって彼女は自分のミスで地球の自転が逆回転になろうと恐らく僕には謝りはしないだろうと本気で思っていたからね。そして同時に何だかすごく気持ち悪い怖さがあって、僕は「良いよ、別に気にしてない」と応えてしまったんだよ。今にして思うと彼女を精神的追い込む絶好の好機だったのにさ。それから「だけど、今更どうしたんだよ」と尋ねるのが精一杯だったんだ。

「ぇぇと、その… わたしのせいでミユちゃんと喧嘩したんだよね?」

「 ――はぁ? 」

 ミユちゃん――水無月のことだった。突然水無月の名前が出て来たもんだから、僕にはそれが何処か知らない国の意味不明の単語のように思えて、ついそんな間抜けな声を出してしまったよ。

「本当にごめんなさい。昨日偶然ミユちゃんに逢って…… それで彼女から『実は十六夜くんが自分のために、本当に血眼になって犯人探しをしてくれていたんだ』ってこと聞いて…… それでわたし、あなたのこと誤解していたんだなぁっておもっ―― 」

「彼女に逢ったのかっ!」

 最早聞いてなかったな、最初のほう以外はさ。立待ゆかりの話を遮って僕は彼女に詰め寄ったよ。

「いつ? 何処で? どんな様子だった? 何処かへ行くとか行ってなかったかっ!」 

 この瞬間の僕はまさに血眼だったと思う。立待ゆかりは完全に僕の勢いに気圧されていたよ。おずおずと僕の顔色を窺いつつ口を開いたんだ。

「ぇ、あ、…出逢ったのは昨日のちょうど今くらいの時間で……。ここから少し行ったところの駅前で……手ぶらで私服だったかな」

 ちょうどメールが届いた時間くらいだ……

「それで何処かに行くとか言ってなかった?」

「ぇえと…確か…カモカミヤマへはどうしたら行けるのか…って」

「カモカミヤマ?」

「――そう、『鴨上山』。そういう山が在るの」

 ……状況はあまり良くない。せっかくの手掛かりらしき情報なのに山中では探しようがないんだよ。

「……その周辺の土地の名前でもあるけど」

 くそっ、最悪だ! 捜査範囲がぐっと広がった。でも……

「そこにはどうやったら行けるんだ? 水無月にはどうやって教えた?」

「えっ、何っ。まさか今から行く気?」

「いいから。どうやったら行けるんだっ!」

「そこのバス停からバスに乗れば行けるけど。まだ便もあるし」

「分かった、ありがとう」

 恐らく出逢って初めて立待ゆかりに礼を述べて、彼女の指差すバス停に顔を向けて、そのまま僕は歩き出した。

「あ、待って」

立待ゆかりは僕に追いつくと横に並んだ。

「わたしも一緒に行ってあげる」

「いらないよ、余計なお世話は」

「違うわよ。わたしも『鴨上山』に用事があるの。そのついで」

「あぁ、そう。アリガトウゴザイマス」

 僕は気持ちの入っていない本日二回目の礼を述べた。


 そして僕は彼女と一緒に停留所からバスに乗って『鴨上山』に向かったんだ。


                  ※


 バスの車内で。僕が適当な窓際の席に座ると、立待ゆかりは何故か他が空いているにも関わらず、その隣に腰を下ろした。

「止せよ、知り合いだと間違われたら恥ずかしいだろ」

 って、言ってやろうかとも思ったけどそんな気分じゃなかったので止めたよ。それどころか特に話したいようなことも無いものだから、僕は黙ってただ窓の外の景色を眺めていた。彼女のほうも同じような雰囲気だったんだけど

「ねぇ……」

 と、ふいに口を開いたんだ。

「そういえばわたしたち二人だけで何処かへ行ったりするのって初めてじゃない? 知り合ってから結構時間が経っているはずなんだけど」

「あぁ、そうかもね」

 僕は適当な相槌を打った。正直そんなことどうでも良かったんだ。それが今この状況で何か重要なのか?と思ったけど、面倒臭かったので口に出すのを止めたよ。

「これからこういうことってよくあるのかなぁ……」

 放っておいたら何だかしみじみと気持ち悪いことを呟いたので

「ぞっとするね」

 少しだけ本音で応えてやったよ。

「可愛くないわね、相変わらず」

 すると彼女も本音を呟いたよ。少々呆れた感じでさ。その顔を見たら少しだけ彼女の話に付き合ってやっても良いかなって思えて来たんだよ、不思議なことに。

「べつにキミに可愛いとか思われたくないね。それにだいたい僕とキミが二人だけで行動するのってこれが最初で最後だよ。だから今日という日と『只の成り行き』って名前の奇跡に感謝してよ? 僕は今の生活を変えるつもりはない、あのアパートを出るつもりはないんだからさ」

「はいっ、ボランティアはお仕舞いっ」とばかりに僕は再び窓の外に目を向けると、携帯オーディオのイヤホンを耳に挿した。少し一人で考えたいこともあったしね。

 でもそれはすぐに立待ゆかりによってむしり取られた。「何するんだよっ」という抗議の目を向けると彼女はそれを真っ向から見返して来た。

以前まえにも言ったけど、あんたいったいいつまでそうやって逃げ続けるつもりなの? そんなの何の解決にもならないでしょう?」

 あぁ最悪、いつもの説教やつだ……

面倒臭いので僕はだんまりを決め込もうかと思っていた。でもこの日の彼女の話はいつもとちょっと違っていたんだね。

「……ねぇ、本当はどうしたいのよ? 言ってよ。内容(それ)によっては、わたしはあなたの理解者になれるかもしれないじゃない。だってわたしたちはなのよ―― 」

「――冗談じゃないっ」

 と、思わず応えてしまったよ。少しだけ気に障る単語があったんだ。だからつい、ね。

「僕とキミがだって? 馬鹿言うなっ、正反対だろ。キミら親子と僕と母親は違うんだ。キミのトコロと違ってウチはまったく心が繋がっていないんだからっ。僕はずっと昔からたった独りなんだよっ、誰とも繋がっていない。だから…… 」

 喋っている最中にはっと我に返った。そして何だかひどく惨めな気分になってしまったよ。最悪な気分でもあったね。父とはもう家族でなく、母とは別居中……。文字にしてたった二0にも満たないだろう今の自分の境遇を、不幸だとか、可哀相だとか考えて悦に浸るほど悪趣味ではないつもりなんだ。それなのにわざわざそれを強調するようなことをムキになって言ってしまって、死ぬほど恥ずかしくもあったね、正直な話。今でも後悔してるよ。

 僕は立待の奴から顔を背けると、再びイヤホンを耳に挿した。だけどそれはまたしてもすぐに彼女にむしり取られた。

「話はまだ終わっていないわっ!」

 この日は彼女もどうにかしてたんじゃないかと思うね。いつもより、より踏み込んで来たんだよ、僕の心に土足でずかずかとさ。

「『只の成り行き』だって『奇跡』だって構わない。こうやって二人で話せる機会が廻って来たんだから言わせてもらうわ。どうしてそう独りになろうとするの? いろんなことを自分で勝手に決め付けて世界まわりから孤立しようとするのよっ」

 何故だか一瞬、二週間ほど前の、水無月との雨降りの駅舎での出来事が頭の中でフラッシュバックした気がした。でもこの日は――立待ゆかりには謝らなかったね。

「キミには関係ないだろ」

「――また、それっ! どうしてそうなの、そんなこと言うのっ? どうして少しくらいわたしのことを信用しんてくれないのよっ…… 」

 ――はぁっ 信用しんる? 何言ってんだ、こいつ… 

 いつもいつも毎回毎回自ら信用それをぶっ潰している奴が何を被害者ぶってるんだ? と少々呆れてしまったよ。それをそのまま彼女に浴びせてやろうかとも思ったけど、この日の彼女はいつもほどはヒステリックな口調じゃなかったから、対する僕もいつも以上に冷静だったんだ。だから落ち着いて最もらしいことを言ったね。

「――信用そういうのは口先だけじゃなくて行動で示すもんだろ? 示して、それでキミが少しでも信用出来る人間だと思えたら話を聴いてやるよ」

ってさ。すると

「『行動で示す』って、具体的にはどういうことをすればいいのよ?」

 って、応えが返って来た。おいおい勘弁してくれよ、まったく……

「それくらい自分で考えろよ。僕が言ってしまったらそれは要望で、結果取引になるだろ」

「 ………… 」

 やっと黙ってくれたね。彼女が口を開いて閉じるまでの時間はすごく長く感じたよ。正直僕は自分の孫に子が出来てもおかしくないほど歳を取った気分だったね。

 そのまま彼女は沈黙していたよ。でもしばらくするとまた口を開いたんだ……

「……そういえば。あんた鴨上山に何の用事があるの? それはひょっとして昨日わたしとミユちゃんが出逢ったことに何か関係あるの?」

「キミには関係ないよ」

 即答したね、ばっさりと切り捨てた。水無月のことを話したら、立待ゆかりのことだから絶対大騒ぎして大事にするに決まっているんだから。そんなだから本当に必要になるまで黙っているつもりだったんだ。

「キミこそ鴨上山に何の用事があるの? 何だか知っている土地みたいだけど」

 特に興味があったわけじゃないよ、ただ何となくの疑問。それは彼女からの質問には答えず、でも我を通すかたちだったので無視されるかと思ったんだけど、意外にもちゃんと答えてくれたよ。少々不満げではあったけどね。

「――昭子のお見舞い。あのコ今日学校休んだのよ、風邪で」

「ふぅ…ん」

 ほんの少し考えて、そして僕も御手洗さんの家へ寄ってみることにしたよ……


                  ※


「ぇエっ! どうして十六夜くんが一緒にいるのっ?」

 自宅玄関までお出迎えに出て来た御手洗さんはすごく驚いていた。

「…ぁあ、うん。それはね、駅前のバス停で偶然出逢って。彼もここら辺に用があるらしいから一緒に来たの」

 僕が目的を話さなかったためだろうね、立待ゆかりは適当なことを言って御手洗さんの質問を流していた。でもさ、御手洗さんが驚くのも無理は無いと思うよ。だって彼女にしてみたら、数日前に目の前で二人が揃って自分ちに突然来訪だなんて当然考えてもみなかっただろうしさ。それを証明するかのように、彼女、パジャマのままだったよ。

 バス停から田畑を眺めながら少し歩くと川があって橋が架かっていた。御手洗さんの実家はその橋を渡ってすぐの川沿いに在った。山の傍に建つ、年季の入った立派な門と高い塀に囲まれた古い日本家屋だった。敷地内に棟が幾つかあり、背の高い白壁の蔵のような建物まで在った。「立派な家だね」と正直な感想を述べると、「この辺は田舎だから皆こんなもんよ」と言っていたよ。

 立待ゆかりは手土産のお菓子を御手洗さんに渡しつつ、小さな声で何かをぼそぼそと囁いた。すると御手洗さんは家の奥を指差し、立待ゆかりは靴を脱いで家の中へと消えて行った。

 後には僕と御手洗さんが残された。これは好都合だったね。「こんなところじゃなんだから上がって」という彼女に「いや、すぐお暇するから」と断りを入れつつ「実はちょっと話しておきたいことがあるんだ……」と前置きをして、水無月の件の話を始めた。地元民の彼女に協力を仰ぎたかったわけ。

 僕は前日の奇妙なLINEメッセージのことや彼女の家に誰もいなかったこと、そして立待ゆかりが話していたことなんかを話した。

「この辺、何か在る? 怪しい場所とは不審な人物とか」

「見てのとおりの田舎よ? 山があって田んぼがあって畑があって……。他にはわたしや静花の家があるこの集落くらいね」

「そう……」

「それで、警察には?」

「……署の玄関の前まで。中までは入ってないよ」

「そうなんだ」

「どう思う? 警察に相談したほうが良いかな」

「でも確証は無いんでしょう? もし誘拐や失踪じゃなかったら無駄に大事になるし。 それにちゃんと話を聴いてもらえるかどうか……難しいね」

「御手洗さんのほうはどう? あれから何かあった?」

 彼女は無言で首を横に振った。少しがっかりしたよ、正直な話。彼女のほうに何か変化があるのを期待してたんだ。そこから男のことを何か割り出せないかってね。

「…ぁ、ごめん。変なこと相談しちゃって。他に相談出来る相手がいなくてさ。――それで、風邪だって聞いたんだけど身体のほうは大丈夫?」

 聞けば、風邪をひいているうえに彼女を除いた家族全員がそれぞれ何かの理由で家を空けていて、この日、この広い家の中にたった一人だっていうじゃないか。お節介好きの立待ゆかりが出しゃばってくるわけだよ。

「大丈夫、だいぶ良くなったから。ごめんね、心配した?」

「うん、とても」

「ありがとう。でも、大丈夫? 十六夜くんのほうが顔色が悪いよ?」

「そうかな」と笑って誤魔化した。確かに気分はよろしくなかったね。でもそれが体調に因るものか精神的なものなのかは僕自身では判断出来なかったよ。

「心配だね、水無月さん……」

 御手洗さんは心底不安そうな顔をしてそう呟いた。

「う~ん、そうでもないかな?」

 僕はわざと明るい声でそう応えてみせた。

「えっ?」と御手洗さんが驚いて僕の顔を見た。まぁ当然のリアクションだろうね。……君は勘違いしてないと思うけど一応断っておくよ。決して僕は水無月の失踪を面白いだとか特に気にしていないとかそういうんじゃないんだよ。あくまで御手洗さんを重苦しい不安な気分から解放してやろうと思ったんだ。優しい奴だろ? 僕って男はさ。

「あぁ見えて――というか見たまんまかもだけど、彼女はじゃないよ。たとえ殺そうとしたって簡単に死ぬようなじゃない。僕たちの心配なんて明日辺りには杞憂に終わっているかもしれないね」

「そ、そうなんだ…… 」

 『驚いてしかも意外だ』と彼女の表情が感想を述べていた。でもそれ以外に、何故かさっきより沈んだ表情が窺えたんだ。こちらこそ意外だったよ。

「何だか、彼女のことよく知ってるんだね。昔からの友達なの?」

「――まさか。ここ数ヶ月の付き合いだよ、高校へ入学してからのね。僕の実家はこの辺りじゃないから、学校に同中おなちゅー仲間はあまりいないんだ」

「――そう。でもなんかすごく親しい間柄って感じに聞こえた」

「そうかな? そんなはずはないんだけど」

「ねぇ……」ふいに御手洗さんの声のトーンが変わった。

以前まえから聴こうと思ってたんだけど……。本当は十六夜くんて、あの娘と……どんな関係?」


  ……えっ 


 ふいに背筋がぞくりとした。何故そうなったのか……は、一瞬遅れで理解出来た。何だか今まで疑問だった物事の大まかな部分がそれで合致したんだよ。それはもう感覚的なものだったね。

「ただの、クラスメイトだよ」

 務めて冷静を装いながら僕は御手洗さんの顔色を窺った。彼女は少し意地悪く微笑んでいたかな。

「そうなの? すごく必死な感じがしたから」

「当然だよ。彼女の失踪は僕のせいかもしれないからさ。あの変態電話の男を探し出せていない僕の責任なんだろうね」

「そんなふうに考えないで。後ろ向きになっても何も解決しないから」

 心配して優しい言葉をくれた彼女に「ありがとう」と応えた。そして少し目を閉じてその言葉を味わうように沈黙を作って、それから僕は少しばかり大胆な行動に出ることにしたんだ。

「――ごめん、おトイレ貸して貰えないかな?」

 さっきまでの会話の流れから一転する内容なので、御手洗さんは一瞬「え?」という顔をしたけど、すぐに「ぷっ」と笑って「どうぞ。真っ直ぐ進んで突き当りを右、その後左ね」と、玄関から廊下を指差して道順を教えてくれた。僕は礼を言って靴を脱ぎ、家の中へと入った。



 廊下を進んで右に曲がり次に左に曲がった先は、再び真っ直ぐに伸びた廊下になっていた。僕は極力間取りを頭に入れるように心掛けながら進んで行った。――いや、でもさ。ほんと広くて立派な家だったよ。廊下の窓から見える中庭なんか観光地の寺かってばかりの枯山水で、砂で地面に波紋が描かれていたりして、思わず見とれてしまうほどの雅な景色だったんだ。

 その中庭が見える廊下が終わるちょうど角のところにトイレは在ったよ。すぐに判った。でも僕はそこを素通りして左折、道なりにまだ続いている廊下を歩いて行ったんだ。

 続く廊下は母屋の北側を東西に走っていたんだけど、そこはもう、すぐ裏手が山の斜面になっていて一日中日当たりが悪そうに見えたよ。一応庭らしきものは在ったんだけど、こちらはあまり手入れがされていないようで、何だか陽の光が無くても生きていけそうな植物ばかりが群生してたりしたね。そこの一番隅っこに結構大きな蔵が在ったんだけど、正面の門のところから見えた蔵とは別の建物だった。こちらはまるで周囲の景色に溶け込むように、屋根に雑草が生え、白壁にヒビが走っていて、全体的に苔むしているようで、あまり使われていないような印象を受けたね。僕はそれを横目に見ながら通り過ぎて、そのまま離れ座敷に繋がる廊下へと足を踏み入れた。すると正面から誰かが一人こちらに向かって歩いて来ているのが見えたんだ。

「ちょっとあんた、こんなところで何してんの?」

 立待ゆかりだった。僕の顔を見て訝しげな表情をしていたよ。

「道に迷った」とあっさりとした嘘をついて、そして「キミのほうこそこんなところで何してるの?」と尋ね返した。

「昭子の部屋でずっと待ってたのよ。遅いから様子を見に行こうと思ったの」

「そう…だっ―― 」

 そこでふいに僕は天啓を得た。つまりはある作戦を思い付いたわけだ。

「ねぇ、キミ。これから玄関に戻る?」と僕は彼女に尋ねた。

「ぇ? 行かないわよ。あんたが玄関に戻ったときに――」

「じゃぁさ。このままここに居て一分後に僕のスマホに電話してよ」

「はぁ? 何のために――」

「それで僕が電話を切ったらすぐに玄関まで戻って来て。頼んだよっ」

 一方的に話を終わらせて、僕は彼女に背を向けて歩き出す。彼女はまだ何か言っていたけど僕は無視した。そのほうが旨く行くと思ったからさ。立待ゆかりという人物を相手にする場合、その理由をいちいち説明しては駄目なんだよ。きっと何かたくさんの文句を言うに決まっているんだからさ。やって欲しいことだけ伝えて、理由は後でゆっくり適当に聞かせてやれば良いんだ。それが最良の策なんだよ、大抵の場合。

 とにかくそれで僕は急ぎ足で玄関まで戻って来た。そして靴を履きながら御手洗さんに「こんな時間に長々とお邪魔して、ごめんね」と謝った。

「帰るよ」と言うと彼女は、「もっとゆっくりしていけば良いのに」と返してくれた。

「ありがとう。でもそういうわけにもいかないよ」

「そうね。また今度水無月さんが――」

「――あっ! ちょっとごめんっ」

 ドンピシャのタイミングで僕のスマホが着信音を派手に鳴り散らした。

「――はい。ぁ、はい、僕ですが。…ぁ、はい。えぇ、はい、ぇ……えぇっ! 見付かったぁっ!」僕はわざと大声を出した。

「――それで…はい、はい。えぇ、すぐに伺います。ありがとうございましたっ」

 そして電話を切った。

「ぇ…何? 何かあった?」

 御手洗さんが少し遠慮がちに尋ねて来た。

「うん。水無月が見付かったって!」

「――エっ!」

 彼女は酷く驚いていた。

「ぇ…でもどうやって? 確か警察には……」

「ぇ、あぁ、それはね……」

 少し詰めは甘かったね。でも

「ねぇちょっと。さっきの電話だけど―― 」

 運は完全に僕の味方だった。またしても良いタイミング。立待ゆかりだ! 正直僕の指示どおりかどうかは怪しいタイミングだったけど、玄関に姿を現した彼女に救われたよ。出会ってから今までで、ほんとこのときだけだね、彼女がこんなにも役に立ったのはさ。

「あぁ、ちょうど良かったっ! 水無月が見付かったんだよ!」

 僕は大声で叫んで彼女の腕を掴んだ。

「今、警察で保護してもらっているらしい」

 そしてぐいっと腕を引っ張った。

「さぁ、行こう!」

「―――え? ぇえ? ぇえっ?」

 彼女は完全に訳が分からず戸惑っていたけど、僕は無理矢理彼女に靴を履かせると、玄関の外に引っ張り出した。

「ごめんっ、また連絡するからっ!」

 御手洗さんにそう言い残して、そしてその後は一度も振り返ることもなく、立待ゆかりを強引に引き摺るようにして僕は御手洗家を後にした。


                   ※


 だけど車道に出ると、すぐに僕は元来たバス停方向へ少し戻り、次に御手洗家の塀に沿って裏手へと歩き出した。結構な早足だったんだけど立待ゆかりは後を付いて来ていたね。

「ねぇっ、いったい何なのよ! それにミユちゃんが見付かったって……。どういうことよ!」

「黙ってるか、もしくはついて来ないで」

 僕は簡潔に要望だけを伝えた。でもそれで――当然だろうけど彼女は納得しなかったな。

「ちょっ…何よ、それっ! 答えなさいよっ! 何だか知らないけどあんた今、わたしを巻き込んでるでしょう!」

 さすがにそれくらいは判るらしいね。でもこの状況で素直に話す気にはならなかったな。

「――二つ約束して欲しい」と、僕はいきなり振り返って彼女の顔をじっと見詰めた。

「ぇ…わ…わかった……」と、彼女は戸惑いながらも意外に素直に頷いた。

「一つは勝手な行動を取らないこと。もう一つは何があっても彼女(ミナツキ)の身の安全を最優先事項にすること」

 立待ゆかりは息を呑んで頷いた。

「それで今、いったいどういう状況なの? 説明してよ」

「黙ってついてくれば判るよ」

 断っておくけど説明するのが面倒臭かったわけではないよ、一応半分くらいは。ただこの状況を実は僕も完全には理解出来ていなかったんだよ。何故そんなことが起こっているのか、その原因というか根源の部分というか……。そういうのがまるでピンと来ていなかったんだ。

 不満げな気配を発している立待ゆかりを後ろに従えて、僕は御手洗家の裏口のところまでやって来た。裏口は普通のドアくらいの大きさの引戸で、鍵は掛かっていなかったよ。僕はそれをゆっくりと少し引いて、数センチの隙間から中の様子を窺った。そこから屋敷北側の裏庭が一望出来た。するとちょうど良いタイミングだったよ。母屋の廊下を歩いたときに見掛けたあのボロ蔵の扉が開いていて、中に人影が滑り込んで行くのが見えたんだ。

「よし、行こう」

 僕はなるべく物音を立てないように、立待ゆかりにも注意を促しつつ、急ぎ足で裏庭を進んで行った。


 陽は山陰に沈んで時間的には夜だったけど、外はまだ薄暗い程度だった。でも蔵の中はもう真っ暗だった。外観を見た感じでは明り取りの窓は有るようだったけど閉められていたから、たぶん日がな一日そんなふうなんだと思う。

 でも上のほうから人工的な明かりが少し漏れて来ていて、それを目指して僕たちは手探りで暗闇を進む。靴裏の感触から地面は土を固めただけのものらしく、足音は立ちにくかったけど一応注意が必要だった。両手を前方に突き出して歩いていたけど何も手に触れることは無く、内部はどうやらきちんと整理された空間のようだった。ただ独特のカビ臭い、湿った、生温かい空気が少々不快ではあったよ、不法侵入で贅沢は言えないけど正直な話ね。

 やがて明かりの下辺りまで辿り着くと、そこには急な角度の木製の頑丈な階段のようなものが在って、それはひどく控えめに暗闇に浮かび上がっていた。

そして上の方――つまり明かりの辺りから人の声らしきものが聞こえて来たんだよ。僕は階段に足を掛け、一歩また一歩と物音を立てないように注意を払いながら上って行った。


「何なの…何なの…何なのよぉ?」

 たぶん二階と呼べる空間――天井は全力で跳べば指が届きそうに低かったけど広さは結構あったかな――で、ぶつぶつとそう繰り返しながらその声の主は、足元の黒い塊を何度も何度も踏みつけていた。

「居るじゃない、居るじゃない、ここに居るじゃないのよ、ここに……」

 片手に持った大型のランタンの明かりで声の主の姿が顔が闇に浮かび上がっていた。引き攣った笑みを顔に浮かべ、震える声で呪文のように呟きながら彼女――御手洗昭子はただただ片足を上下に動かしていたんだよ。

 二階に上がった僕は今までにもまして物音を立てないように細心の注意を払いながら、彼女に背後から近寄ろうと歩みを進めた。が、そのとき……

「きゃぁっ!」

 いきなり僕の後ろ――ちょうど階段の辺りから悲鳴が聞こえた。

立待ゆかりだっ! どうやら御手洗さんの姿を見て――まぁ分からなくはないけど――驚いたみたいだった。心の蔵が口から飛び出るほどの衝撃を受けた僕は思わずそちらを振り返った。「馬鹿野郎っ!」と怒鳴りつけてやりかったよ、本当はさ。

 でも背後からじりじりとした視線を感じたものだからそんな余裕は無くてね。……僕はゆっくりと振り向いた。

 ――目が合ったよ。御手洗さんが引き攣った笑みを浮かべたまま、真正面から僕のほうをじっと見詰めていたんだ。全身のいろんなところが一気に縮み上がる感じだったよ、正直な話さ。

「どうしたの、十六夜くん? こんなところで…… 。どうして十六夜くんがここに?」

「それは……」僕がとにかく何かを喋ろうとして口を開いた瞬間だった。


『 ―― ☀☆☄☠☤☮☝☎っっ!! 』


 突如、御手洗さんの背後足元の細長くて黒い何かの塊が激しくのたうち回ったんだ。何だか訳の分からない悲鳴のような呻き声のようなものをあげながら……

「ちぃっ!」

 御手洗さんは振り返って一発蹴りを入れたけどは治まらない。

「水無月っ!」

 僕が叫ぶと、はさらに激しくのたうち回ったんだ。これはもう間違いないと確信したね。

「御手洗さん。後ろに在るを見せてくれないかな?」

「 ………… 」

 黒い布だか袋だか……、とにかくそれっぽい何かで包まれたにもう一発食らわせようと足を上げた彼女だったけど、それをピタっと止め、静かに降ろした。そしてゆっくりとこちらを振り向いた。

 その表情はいろんなものが混ざり合っていて、僕は今でもそれをどう表現したら良いのかが分からないんだ。ただ彼女は必死に冷静を装おうとしていたよ……

「えっ? こんなもの、十六夜くんが見ても面白くないものだよ」

「いや、そんなことはないと……」

「昭子っ!」

 そこで突然立待ゆかりが話に割り込んで来た。まったくこいつは目の前で誰かと誰かが話をしていたら、それがどんな内容どんな状況であろうと、とにかくそこに割り込まなくちゃ気が済まない人間なんだな。僕はいつかそれがどうして駄目なのかをこんこんと説明して、一生お日様の下を歩けないくらい恥ずかしい思いをさせてやろうと考えているんだけど、なかなか実現しそうにはないね、残念ながらさ。まぁとにかく……

「あんたいったい何をしてるのよっ! その袋の中身はミユちゃんなのっ?」

 僕が様子を窺いながら遠回しに徐々に攻め入ろうとしているところに、無遠慮ストレートに核心を突いてしまいやがったんだよ。

「えぇっ? 何のこと?」

 御手洗さんは惚けた。見ていてすごくワザとらしかったけどね。

「誤魔化さないでよっ! その後ろの―― 」

 興奮した立待ゆかりが御手洗さんに詰め寄ろうとした。でも僕は右手を突き出してそれを制した。

「キミ、ちょっと黙ってて……  …………………… 」

 そして囁いて右手で軽く突き飛ばす。彼女は二・三歩たたらを踏んで僕から少し距離をとった。そして不満気だけど指示通り沈黙した。

「――さて、御手洗さん。僕と少し話をしない?」

 僕は彼女に向き直った。そして左に一歩移動する。

「御手洗さんはさっき、どうして僕がここにいるんだって言ったね? どうしてか理由を聴きたくない?」

 彼女は無言だったよ。でも僕は話を続けた。

「実は半分以上が勘なんだよ。僕は今日ここに来るまでこういうことになっているだなんて夢にも思ってなかったんだ。たぶん御手洗さんが考えているより僕はずっと行き当たりばったりの人生を送っていると思うよ……」

 なるべく軽快な感じて行こうって思ってたよ。でなければ空気に耐えられなかったからね。

「すごく似てたんだよ。さっきの御手洗さんとショッピングモールでの電話男と。僕と水無月の関係を尋ねたときの言葉のイントネーションがさ。それでもしかして…って思ったんだ。――この蔵に見当をつけたのは、トイレを借りたとき、偶然に目に留まったここがとても気になったからだよ」

 実は得意気に話す気分にはなれなかったからわざと簡単に説明したんだ、特に場所の特定のほう。本当は家人に見付からない監禁場所なら第一候補は自室じゃないかと思ったんだ。でも離れ座敷に続く廊下で立待ゆかりに出くわし、彼女が御手洗さんの自室から戻って来たと知って違うと考え直した。そして僕自身が自由に歩かせて貰っているんだから母屋内の可能性は低い。同じ道理で離れ座敷内の何処かでもないだろうね。そうなると別棟で家人の関心の低そうな場所は……と考えたらこのボロボロの蔵が頭に浮かんで……。結果ドンピシャだったわけだね。

「でも分からないこともあるんだ。それは幾つもあるんだけど、とりあえず僕が教えて欲しいのはたった一つ…… 」

 僕は片手の指を一本立てて、御手洗さんとの視線の間に挟んだ。

「どうしてこんなことをしたの? 明朗な御手洗さんらしくない」

 

   ごとっ…


 大型のランタンが御手洗さんの手から滑り落ちて床に着地した。

「ち…違うのよ。違うのよ、十六夜くん……」

 御手洗さんは懇願するような顔で僕を伺い見た。

「……うん」と頷いて、僕は優しく微笑みを返した。

「僕もそう思うよ。何か理由があったんだよね? どうしてもこうしなければいけなくて、それで仕方なかったんでしょ?」

「そ、そう。違うの。仕方なかったの……」

 彼女は泣きそうな顔で僕に向かってゆっくりと歩みを始めた。

「うん、そうだね」と肯定の微笑みを見せながら、僕は正直この場から逃げ出したくて仕方なかったよ。本音を告白するとさ。でもそれは出来なかったな。あえて一歩こちらから彼女に近寄ったくらいさ。まったく今考えても正気の沙汰とは思えないよ、我ながら。

「僕は誤解してるだけかもしれない。キミは悪くないかもしれない……」

 そうしてもう手を伸ばせばお互いの身体に触れられるかもしれない距離まで来た。と、いうか。彼女が僕のほうへ手を伸ばして来た。

 彼女はその手で僕の頬に触れようとしていた。ゆっくりとその指先が唇に触れた……

「そう、わたしは悪くない……」

「――はず、あるか!」

「 …のぉっ! 」


     ドサッ!…


 ……と。ツッコミの声と共に両方の膝の関節を後ろから蹴られた彼女は、僕に向けた表情そのままに二つ折れになって地面に仰向けに崩れ落ちた。

「誰が何処からどう見ても、拉致監禁事件の犯人だよっ!」

「――水無月さんっ」

 軽く肩で息をしながら、床で寝ている御手洗さんを見下ろして、そこに彼女が立っていた。少し疲弊してはいるけど思ったよりは大丈夫だった。本当にじゃなかったんだね……

「十六夜くん。助けに来るの遅いよ」

「無茶言わないでよ……」それはまぁ、気持ちは分からないでもないけど、贅沢は言わないでほしいね。

「いったい、どうやって…… 」

 足元から呟き声が聞こえた。向かい合っていた僕と水無月はすぐにお互いに二歩ほど後退した。ゆっくりと立ち上がる御手洗さんをその間に挟んでね。

 水無月が少し身体を横に逸らした。すると向こうが見えて、御手洗さんはハッとする。

「ゆかり……」

 さっきまで水無月が包まれていた黒い布か袋かの傍に立待ゆかりが座って、真摯な眼差しでこちらを――事の成り行きを見詰めていた。

「視線誘導と時間稼ぎ、ご苦労さま。十六夜くん」

 にやっと笑って水無月は親指を立てた。

 立待ゆかりを軽く突き飛ばしたときに、彼女には水無月を開放するよう指示しておいたんだ。僕が御手洗さんの気を引いている間に…ってね。ぶっつけ本番だったけど全て作戦通りに上手く行って良かったよ。

「十六夜くん……」

「ごめんね、人命優先だよ」

 恨めしそうにこちらを振り返る御手洗さん。僕はまた一歩後退してしまったよ。だってその顔がものすごく怖かったんだから、思わずさ。

「十六夜くん、そいつがわたしを階段から突き落とした犯人だよ」

たぶんそうだろうね。でも……

「いつから気付いていたんだよ」

「週末のカラオケで。一緒になって歌ってたとき」

「どうやってさ。キミ確か、顔だとか言ってなかった?」

「違うよ。わたしは『分からない』としか言ってない。そのときは何処かで見たような覚えがあるような……でも頭の中に霞が掛かったみたいではっきりしなかったんだけど、今思えば突き落とされるその数時間前にショッピングモールで顔見てるんだね」

「それに……」と彼女は少し得意げに付け加える。

「わたしがそれに気付いたのは十六夜くんと似たような理由だよ。顔のことははっきりしなかったけど声は聴き覚えがあったの。コイツ、突き落とした後、わたしを見下ろして『死ねっ売女め』とか言ってたからね。声が一致したら顔の記憶もはっきりしたの」

 なるほど。それはまぁ理解出来たよ、そういうこともあるだろうさ。でもね……

「どうしてそれをあのとき――カラオケでの一件の際に話してくれなかったんだよ」

 君もそう思うだろ? それを話してさえくれていたら、こういう厄介な状況にもならなかったと考えるのが普通じゃないかね。

「それはだって仕方ないよ。そのときまだ確証が無かったんだから。――だからあの日あの一件の後、コイツの動向を気にしていたの。十六夜くんがデートに誘っているところも全部見てて、翌日、十六夜くんのアパートから尾行つけて行ったのよ」

「 ……… 」

 だからか。だから翌日僕と御手洗さんが出会っている現場の傍にコイツは居たわけか――とそれが分かったらさ、くそっ、何だかすごく恥ずかしい気分にさせられたよ。

「――でも今は在るよ、確証」

 水無月はにやっと笑って、上着のポケットから取り出した何かを後ろの立待ゆかりに向かって投げた。

「ゆかりちゃん。それ、何か分かるでしょ?」

 それを受け取った彼女は「えっ…」と息を呑んだ。

「これ…静花のスマホ。いったいどうして…… 」

「昨日コイツの部屋を訪ねたときに机の引出を漁って見付けたのよ」

 水無月は顔を立待ゆかりの方へ向けず、御手洗さんから視線を外さないように気をつけて、そう言った。

「――そんなはず…まさかっ! あのときアンタ…… 」

 動揺する御手洗さん。

「そのとおり。あのとき――見付かって取っ組み合いになったとき、窓から川へ投げ捨てたのはわたしのスマホよ」

「ざまぁみろ」といった表情ですごく得意気に水無月は言った。あぁだから昨日の晩からずっと連絡がつかなかったのかと僕は得心がいった。

「伏見さんからスマホを盗んだ犯人もコイツ。それで十六夜くんの電話番号を知って掛けて来たってわけだよ。自分に掛かって来たっていう不審者からの電話ってのは嘘だと思うよ、つまり自作自演。昨日ゆかりちゃんに確認取ったけど、コイツが不審者からの電話を受けたとき、傍に誰かが居たわけではなかったらしいし、ショッピングモールでは一人トイレに行っていた時間が在ったって。おまけに『寄るところがある』って先に一人で帰ったらしいし」

 確かに考えてみれば、怪しいところは在る。彼女から「また電話が掛かって来た」と報告が在った時、見せられた着信履歴は公衆電話からだったし、あれは別に真犯人がいる証拠にはならない。が……

「――でも、ちょっと待ってよ。あの不審者の声は男性だと感じたんだけど……」

別に御手洗さんを庇いたいわけではないよ。僕自身もその点は疑問としていたんだ。これは結構重要なことだからね。

「それって変声器ボイスチェンジャー越しの声でしょ? 今の変声器って男性の声を女性にしたり、女性の声を男性に変えられたり出来るんだよ。カラオケとかにも似たようなのあるでしょ、覚えがない?」

「確かに在るね……」

 なるほどね。それは良いよ、つじつまが合うし得心もいく。すごく単純な仕掛けに気付けずに正直悔しかったんだけど構わないよ。でも僕はこのときまだ一番重要な真実に辿り着けずにいて、それが僕の心をざわつかせ続けていたんだよ。

 それは御手洗さんを犯人とするためには絶対不可欠なものだった。

「でも、動機がないよ。伏見さんのスマホを盗むのも、僕に不審電話を掛けるのも、キミを階段から突き落とすのにも。そんなことをしても彼女に何の得も無いだろ?」

「動機ならあるよ。得もある」

 でも水無月はきっぱりと答えたんだよ。間抜けにも僕はを見誤っていたんだな。

「『恋』よっ!」

「……?」

「それが妬みになって憎しみになってそして狂気になる。まさに恋は呪い、男を野獣に女を鬼に変えるっ」

「何を言ってんだよ、キミは」

 何となく熱の篭った台詞口調の水無月に少しだけイラついた僕はそうやって冷水を浴びせた。でも彼女はそんな僕に「にたり」とした笑いを返して来たんだ。近所のオバちゃんが井戸端会議の途中にやってそうな感じの、あのイヤラシイやつを。

「あらあら、鈍いのねぇ」

 その含みのある意味深な仕草に僕は嫌な予感てやつを感じずにはいられなかった。彼女のこういう笑い方はさ、良くないことが起こる前兆なんだよ。近年のあの大型無差別テロやあの戦争だって、起きるその前日あたりには彼女がそういう関わりかたをしているんじゃないかって、最近僕は疑い出しているんだから、本気の話。

「彼女がゾッコンに恋してるのは――」

「キィイヤァっ!」

 そこで突然ヒステリックな声を出したかと思うと御手洗さんは、水無月を殺意の目で睨みつけた。

「黙れっ、この泥棒猫。アンタの口からは絶対言われたくな――」

「十六夜くんなんだよ」

 いや、人の話を聴けよ……って……


  ……えっ?


 このときの僕はきっと鳩になって豆鉄砲を食らったような顔をしていたに違いないね。正直すごく意外に感じられたんだ。

「つまりこいつは嫉妬に狂ったわけ。でも良く考えてる。伏見さんのスマホを盗んだのは、自分がGET出来なかった十六夜くんの電話番号を入手することの他に、『友達皆に迷惑掛けた』と思わせて十六夜くんへのラブアタックを自粛させる狙いがあってのことだね。まったく怖い女だよ」

「うっさい、黙れ! 不細工!」

 怒鳴り声をあげ、怒りに肩をわななかせた御手洗さんは顔を歪に――普段の明るい笑顔が嘘みたいに怪物化しようとしていた。何だか僕が良く知っているはずのこの世界もどんどん歪んで行くような気がしたよ。

「いつもいつもべったりナツキくんに引っ付きやがって目障りなんだよ! そのうえあの冴えない男(森本孝)にも求愛されている? フザケんな! それが何ぼのもんよ、悪女のつもりかっ! 勘違い女めっ!」

「いろいろ勘違いしているのはアンタのほうだと思うけど?」

 水無月は悪びれずしれっと返した。たぶん心底そう思っているんだろうね、まぁ正解ではあるんだろうけど、口に出すのは少々いただけないかもしれない。

「うっさいうっさいうっさい! わたしはナツキくんを愛しているの。この前一目見たその瞬間から、そうっ! 身体中にビリッと電気が走って『わたしの王子様はこの人しかいない』って気持ちになった。わたしはね、ナツキくんのためなら死ねる覚悟があるわ! アンタはどぉ?」

 ――もう、何と説明したら良いのかな? このときの僕の気持ち。さっき僕が見誤っていたと言ったのは、御手洗さんの性格や恋愛感のことなんだね。僕は彼女をもっとドライな感覚を持った女性だと思ってた。でも実際はもの凄くウェットだったんだ。こういう場面でそんな告白をされても僕はあまり喜べないというか正直少しばかり引いてしまっていたよ、残念ながらさ。それに引いていたのはウェットな本性ばかりではなかったかな。ほんとこのときの御手洗さんはビジュアル的にも相当凄いことになっていた。髪は振り乱して、目はカッと見開き血走っていて、口元は小刻みに震えたりしててさ。本気な話、下手なホラー映画よりも魅力的だったと言えるんだ。もちろんホラーな点で。水無月の言う『女を鬼に……』ってのもあながち出鱈目でもないかもしれないと思ったよ。

 でもそんな彼女とは対照的に水無月の返答はあっさりとしたものだった。

「え? 死ねないよ」

 即答だったね、腹立つくらいに。少し言い淀む素振りくらいサービスしろと言いたいね、正直な話。

 でも、だ。そこから「でも」と彼女は続けたんだよ。

「――でも、十六夜くんはわたしのためなら死ねると思うよ」

「死ねるか!」

 と、声を出して叫べば良かったのかもしれないね、ほんと今にして思えばだけど。でもあまりに図々しく堂々とした発言に僕は声を失ってしまっていたんだよ。だから何も言えなくて……結果それが災いしたのかもしれない。反省してる。次はもっと旨くやるよ……やれるかな?

「グぉのォッ!」

 御手洗さんが叫んだ。頭の中の大事な何かが弾け飛んでしまってるようなそんな声で。同時に彼女は動いていた。


  バチィィンッ!


 御手洗さんの平手が水無月の頬を打った乾いた音が室内に響いた。

「ィっタぁッ… 何すんのよ!」


  バチィィィンッ!


 でも即座に水無月も打ち返していた。

「よ…よくもやったわね。コノォっ」

「五月蝿いっ!」


  バチィィン!


 反撃のため、水無月の髪を掴もうと手を伸ばした御手洗さんは、逆に敵のカウンター平手をくらった。

「ヒィィヤァァッ!」

 御手洗さんのそれはもう、ヒステリックを通り越して人外の声の域にまで達していたかもしれない。呪われた野獣の霊が乗り移ったみたいな形相で再び水無月に飛び掛る……


 バチィィンッ!


 ――― でもまた、カウンターをくらった。


  バチィィィンッ!

   バチィィィンっ!

     ばちィィィンッ!  ……


 そこからは一方的だったね。水無月がひたすら右平手で御手洗さんの左頬ばかりを打ち続けたんだ。いやほんと、今思い出してもゾッと来る光景さ。何か得体の知れない凄まじいものがその場を支配しているようだった。本来なら僕はそこで水無月と御手洗さんの間に割って入ってこの行為を止めるべきだったんだろうと思うよ。目の前で起こっている女性同士の暴力事件を見過ごすなんて男性としてはちょっとアレだからね。でも出来なかった……動けなかったんだよ、正直な話。まだ事態が上手く飲み込めてないというのもあったかもしれないけど、それ以上にその異常な雰囲気というか迫力みたいなものに圧倒されてしまっていたんだ。向こうの立待ゆかりだって開いた口を塞ごうともせず、阿呆のような顔をしていたんだから、まったく。

 とにかくそれでそんな感じだったんだけどそのうちさ、水無月が妙なことを口走り始めたんだよ。

「これはスマホを盗まれた伏見さんの分っ!」

 引っ叩く前に一回一回わざわざそんな台詞を叫び出したんだ。

「これは無実の罪を着せられた森本くんの分! そんな森本くんに付き纏われて迷惑だったわたしの心の痛みっ―― 」

 時々それは関係無いだろうっていう内容もあったけど、それでもそんなことはまったく気にせず彼女はそれを続けた。御手洗さんは既に戦意を無くしていて、ただ水無月からの攻撃を防ぐことに必死だったけど、それもままならないようだったし、打たれ続けた左頬はもう真っ赤を通り越して青黒くなりだしているように感じた。

もうそろそろ潮時なんじゃないかって頃だったね。水無月はやおら高らかに握り込んだ拳を掲げて叫んだ。

「そしてこれは、アンタの仕出かしたことで迷惑している十六夜くんの分よ!」

 そして大きく振り被る。

「ふひぃぃっ!…」

 御手洗さんは下手くそが吹いた縦笛のような無様な悲鳴をあげて、両手で顔をガードした。

 でも次の瞬間……


   ドスッ…


 水無月の手はソフトボールの投手のようなフォームでアッパー気味に、御手洗さんのミゾオチに吸い込まれた。

 声も出せず崩れ落ち、悶絶する御手洗さん。

 水無月は足元のそれをただ静かに見下ろした。そのとき彼女がどんな顔をしていたのかは分からないよ、向こうを向いていたからね。でもやがてこちらに振り向いた彼女は心底嫌そうな顔をして僕に一言漏らした。

「十六夜くんってこういうキャラだよね」

「違うよ」って否定したかったけど、僕はその展開について行けず、未だ言葉が出て来なかったんだ……


                   ※


 もう深夜と言っても良いくらいの時間になっていたかな。でも頬に当たる風は生ぬるくて、昼間よりマシではあるけどはっきり涼しいとは言い難い微妙な空気だったよ。

 とある住宅地に在る何処にでもありそうな公園。広さは大したものじゃなかったね。簡単な遊具と休憩用のベンチが外灯の明かりに照らし出されて、暗闇からひっそりと浮かび上がっていた。

 そこでしばらく佇んでいると、やがて待ち人が姿を現した。彼は僕たちの姿を一目見てぎょっとした顔をしたよ。それはまぁ仕方がないだろうね……

「こんな時間に悪いね、森本くん」

 彼――森本孝はどうして僕がここに居るのか疑問に感じているようだった。

「キミの連絡先は立待さんが針井経由で入手して、それを使って水無月さんが電話を掛けた。どちらも僕が直接関わるとすんなり行きそうになかったからね、骨を折って貰ったよ」

 僕の傍にはその二人が居て、そして僕と同じように森本を見詰めていた。

「でも用事があるのは実は僕なんだ。ほんと悪いね。女子からの呼出じゃなくて、騙すようなことをして」

 森本から反応は無かった。訝っているような雰囲気だったよ。

「どうしても今晩キミに改めて謝りたいと思ってね。土曜日のカラオケでの件だよ。疑ってごめん。本当にすまなかった、このとおりだ」

 僕は森本に面と向かって深く頭を下げた。そうすると彼は「あぁ…うん」とか答えてくれたよ、ちッさい声でさ。

 戸惑いながらもそんな感じで彼からの反応が返ってきたので、僕は頭を上げた。そして彼を直視したんだ。

「実は今日、ついさっきかな。水無月さんを突き落とした犯人が見付かったんだよ」

「 ――ぇっ! 」

 森本は息を呑んだ。その様子をじっくりと観察しながら話を進める。

「そこで改めてキミに聴きたいことがあるんだ。答えてくれるよね?」

 僕はポケットから取り出したを彼に向かってゆるやかに抛った。彼は反射的にそれを受け取ったけど、自分の手に中にあるが何であるかを確認して、固まってしまったよ。

……見覚えあるだろ? 伏見さんのスマホだよ」

 それは水無月が、自分のスマホの尊い犠牲と引き換えに手に入れてくれた重要証拠だった。正直少しだけ感謝してたよ、今こういう状況に至るのは彼女のお陰だって、本当にね。

「 ……… 」

 森本は何も答えなかった。でも僕は更に話を続けた……

「犯人はなんと御手洗さんだったんだ。その事実をキミ、実は気付いてたんだろ?」

「――― ぃ、ぃや…… 」

 ほんと小さい声だったけど彼は否定した。でもそんなわけはないんだよ……

「それはないね、気付かないはずがない立場だよ、キミは。御手洗さんが全て話してくれたよ。そのスマホを手に入れたときのを。それ、キミが拾ったんだってね、ファミレスで。それが誰のものか分かっていながら本人に返さず、御手洗さんに渡したんだよね?」

「 ……… 」

 再び沈黙する森本。でも構いやしないさ……

「それはどうして? 彼女と話すキッカケが欲しかったから? でもその事実を口止めされたとき妙だとは思わなかったの? 彼女に対していい格好がしたかったのかい? 僕たちの周囲で妙なことが起こっていたのを知って、犯人が誰なのか気付いたけど、黙っていたのは何故だい?」

 それでもまだ森本は黙っていたよ。顔は全体的に引き攣っていて目は完全に泳いでいたし、伏見スマホを持つ手は小刻みに震えているようだった。でもまだ口を開かないんだな……

「あのさ、一言言わせて貰えるかな? 僕はさっき筋を通して謝っただろ? だから君にも筋を通して欲しいんだよ」

 僕は背中を押すような気持ちでそう言ったんだけど、彼の態度は変わらなかったよ。

 そんな彼に僕はイラついた、正直に告白すると少しだけ。だから次に僕が喋った内容は余計なことだったかもしれないけど、君は僕のことを嫌な奴だって思わないで見逃してほしいんだよ。僕だって人間なんだから。

「――これはとある情報通から聴いた話なんだけど。キミ、二つ歳の離れた弟がいるらしいね。彼は頭脳明晰・容姿端麗・スポーツ万能。おまけに性格も良いと来て、何処へ行っても人気者だっていうじゃないか。家族の中でもいつも話題の中心に居るに違いないね。カノジョを家に連れて来たりなんかしたら両親に『孝にはカノジョ居ないの?』とか比べられて尋ねられただろ。――つまりキミが女子なら誰彼構わず告白するのってさ、その弟への劣等感から来る対抗意識に因るものだよね? まぁ、分からないでもないよ、キミの気持ち。すごく焦燥感が募っていると思う。兄としての面目を保ちたいだろうね。でもさ、さすがにこれはないんじゃない?」

 情報源は三田。自分の彼女が狙われたこともあって、森本と同じ中学出身者に聴いて回ったらしい。結果、どうも森本孝という男は『普段は大人しい人物なのに、恋愛とそれに関するイベントのときにだけ阿呆になる』と評判だと。確かな情報らしいよ。

「ひょっとして、キミが全て分かっていて黙っていたのってさ。黙ってさえいれば僕と御手洗さんがくっ付いて、残った水無月さんと自分が付き合える……なんて考えていたんじゃないだろうね? 悪いけどそういう問題じゃないんだよ」

 例え僕が傍に居なくても、水無月は彼のことを『キモチワルイ男』と見ていたと思う。もともと僕と彼女の関係はそんな甘ったるいもんじゃないからね。

 相変わらず森本は沈黙していたよ。だから遂に僕は痺れを切らしたんだな……

「――キミさ、僕に何か言うことない? いや、僕以外にも。彼女たち二人にも何か言わなきゃいけないじゃないの?」

 実のところ僕の目的はそれだった。夜中にわざわざ森本の家の近くの公園にまでやって来て、彼に詰め寄っている理由はたった一つ。たった一言のを彼に言わせたいだけだったんだよ、詰まるところはさ。


「  ……………………  」


 でも森本の奴は何も言わなかったんだ。さっきまでの僕のイヤミに逆切れしてそうしているんじゃないよ。ただ俯いて固まっているんだね。今更ながら自分の仕出かしたことの重大さに気が付いて、怖くて、今この場所を逃げ出したいだけ。そして全てを無かったことにしたいけど自分一人の力じゃどうにも出来ないのが分かっていて、黙っている、動かないんだ。待っていたって助けはやって来ないのにさ。

 こういうときとりあえずどうすれば良いかってこと、たぶん幼稚園児だって分かっていると思うんだ。でもそれをすれば認めてしまうことになって、責任を取らなくちゃいけなくなるわけさ。そういうところだけは、妙に冴えているんだね……

 森本の心を察しようとすればするほど、僕は何だかもうやるせないような気分にさせられたよ。そしてこんな奴にここまでやっても未だにが言わせられない自分を情けないとも感じたし、それにこいつにまでする価値があるのかも本気で疑い出したね。

 そのまま黙ってしばらく考えていた僕は、そうしてやがて答えを導き出したんだ……

「――もういいよ」

 溜息と一緒に僕はその答えを吐き出した。

 当然悔しさはあったし納得出来てもいなかった。だけど同時にもうどうでもよくなったんだよ。

「帰っていいよ。夜遅くに悪かったね…… 」

「○○と言えっ!」と、僕が口に出しても意味がないんだ。でもたぶんこのまま待っていてもこいつはその一言を言わないだろうね。だったら時間の無駄じゃないか……ってさ。

 僕の言葉を受けて森本は、様子を窺いつつも免罪符を手に入れたとばかりにそそくさと立ち去ろうとした。

 でも……

「ちょっと待ってっ!」

 そんな僕と森本の間に割って入った奴がいた。――そう、立待ゆかりだよ。こういうことはいつだってこいつなんだよ。きっとそれが生甲斐なんだろうね、おかしな奴さ。

 彼女は僕の方を向き直り、そしていきなり頭を下げた。

「この間はごめん。ミユちゃんのことや、あなたたちの事情も何も知らないであんな酷いこと言って……本当にごめんなさいっ!」

 しかも更に深々と下げるものだから僕は呆気に取られてしまったよ。まったく訳が分からなかったんだ、それは数時間前に一度聴いているんだから。ちらりと水無月の方を見てみると、彼女もぽかんとした間抜け面をしていたね。

 でも困惑した僕が「どういうこと?」と尋ねるより先に、立待ゆかりは今度は森本の方に顔を向けたんだ。

 そして――


「 謝りなさいよ…… 」


  ――と言った。じっ…と真摯な眼差しで、低く抑えた声で。

「理由はどうあれ、事の発端を作って誤解を招くような真似をしたのは事実なんでしょう? だったら謝るべきだわ。違う?」

「 …………… 」

 それでも森本はしばらく黙っていた。でもやがて……

「 …………… ごめん ……  」

 と、呟くようにそう言ったよ。でもそれで終わりじゃなかったんだな。

「……でも、聞いて欲しいんだ。僕は…最初からそんなつもりじゃ……… 」

 懇願するような顔で森本は話を続けようとしたんだ。でもその瞬間だったね――

  ―― ひゅんっ… とまず風切音がして……


   ぱぁんっ!…


 と、乾いたド派手な音がしたんだ。

 ほんとほんの一瞬の出来事だった。それは立待ゆかりの平手が森本の頬を打った音だったんだよ。そして思わず地面に膝を付いた森本を見下ろし、彼女は叫んだ。

「いいっ? 今後一切、わたしのにちょっかいを出したら許さないッ! 」

 森本の奴、俯いて、もう半泣きだったよ……


                   ※


 決着がついたあの日から二週間ほど経った一学期最後の日。終業式を終え、昼頃。

 下校しようと昇降口まで来て、僕は軒下から外を見上げる。空は遠くのほうまで濃い鼠色に覆われ、降り注ぐ雨粒が視界を白く霞ませていた。

「やれやれ、夕立だと良いんだけど」

 僕は誰に言うでもなくそう呟いた。このときは珍しく僕の周囲には誰も居なかったんだ。でも……

「あーぁ、また降られるね。わたし今日傘持って来てないのに」

 ふいに背中に声が掛かった。振り返るとそこには水無月が一人立って笑っていた。

「さっきまで晴れてたと思ってたのに。ひょっとして十六夜くんって雨男?」

「そうかな? キミかもしれないよ、雨女は。こないだも一緒のときに降られたからね」

 何となく僕のせいみたいに言われることが気に障り、そう言い返した。

「雨女って呼名はどうだろうね、雪女の親戚みたいに聞こえるんだけど」

「う~ん、どうかな」と面倒臭いので適当に返す。と、いうのも。あれから期末の試験やら何やらで忙しく、水無月と二人きりでゆっくり話すのはどうも久しぶりのような気がして、だからどうしても例の事件の全貌や、御手洗さんや森本との揉め事なんかを思い出してしまって……そんなやさぐれた気分になってしまったんだよ。

「……ぁ、そうそう。森本くんのこと聞いた?」

 ふいに水無月がそう言った。彼女も僕と同じようなことに想いを巡らしていたのかもしれないね。でも彼女の言う『森本くんのこと』に僕は見当が付かなかったので「何の話?」って尋ねた。

「えっ、聞いてないの。すっごいビッグニュースだよ。最近森本くんさ、女子と付き合い出したんだって!」

「ぇっ! 付き合う……って、男女交際ってこと?」

 興奮気味の水無月の熱に当てられたのか、僕はそんな間抜けな質問をしてしまった。

「……で、誰と?」

 それはすごく重要なことだ、興味をそそられる。君だってそう思うだろ? 君が相手だけどあえて本音を言うよ? その交際相手の女子に『アイツの何処が良かったの?』って聴いてみたい気分に駆られたんだ。だってそうだろ? 『将来有望なストーカー』にして『百戦錬磨のハートブレイカー』と、皆に一目置かれる森本孝一六歳だよ。正気の沙汰とは思えなかったよ。

「それがね、あの竹本さんとなんだったって!」

「はぁっ?」

 名前を聞いて一瞬「誰?」って思ったけど、合コンの時の女性側幹事の『竹本明日香』だとすぐに気付いた。ここまであまり絡んで来なかったから忘れかけていたんだ。

 もちろんそのことも在って、このときの僕はたぶん自分でも間抜けだと思う顔と声をしていたはずだね。でもそんなこと以上に我が耳を疑ったんだよ、水無月の口から語られた『森本孝男女交際成功!』っていう情報にさ。

「それ本当? いつ、誰から聴いた情報?」

「ゆかり姐さん。昨日メールで」

 彼女はあの夜の出来事以来、立待ゆかりのことを『ゆかりちゃん』ではなく『ゆかり姐さん』と呼ぶ。しかもわりと頻繁に連絡しているほど親しくなっているみたいだった。

「――彼女、何も言ってなかった?」

「言ってたよ、もう散々。『止めときなさい』って反対はしたんだけど、事件の真相を話していないせいでいまいち説得力に欠けるとか言ってたよ。それに御手洗さんとも気まずいみたいで大変らしいよ」

 ――なるほど。確かに僕も立待ゆかりに、『事件のことは皆に話さないつもりでいる』とは聞いてはいたけどね。それがこういう結果になるとはさすがに予想がつかなかったな、お互いに。

「なんでもあのカラオケの一件の晩にお互い連絡先を交換してたらしいの。それで公園ビンタの後くらいに森本くんから連絡して……。それでそういうふうになったらしいの」

「嘘だろっ? カラオケの一件を見て分からなかったのか? 詳しい事情は知らなくても、ヤバい奴ってくらい、想像つくだろっ!」

 さっきも言ったけど『正気の沙汰じゃない』って思ったんだ。

「それがね。結局は誰でも良かったみたいなの」

「はぁ?」

「『全てはタイミングよ』って言ってたらしいの、竹本さん」

「……ぁ、そう 」

「どうする? 今からでも全てを話してあげる?」

「まさか…… 」

 彼女が不幸になるのが我慢出来ないほど、僕は竹本さんと親しくないし。ましてや目先のことしか考えられない人間が自爆しようとしているのを止めるほど、お節介でもないつもりなんだ。

「黙っておくよ、もう関わりたくないしね」

 それが本音だった。

 水無月も「ふぅん」と呟いて、どうやら納得したようだった。

「――ところで」

 と、いきなり水無月が話題を変えた。森本が竹本さんと付き合うことになって、己の身の安全が確保されたこともあってか、彼女も僕と似たような心境なのだろう。とにかくそうやって切り替えて来たよ。

「何かいろいろあったのが終わってすっきりしたし、明日から夏休みだし、今日これから慰労会というか打上というか、そういうのやらない? もう帰るんでしょ?」

「うん、まぁ。少しだけなら行けるけど。夕方から予定があるから、あまり遅くまでは無理だよ、悪いけど」

「あぁそうか! そういえば昨日LINEで姐さんが一緒に出掛ける予定があるって言ってた。何かご機嫌だったよ、姐さん」

「そう……」

 僕は不機嫌だね、どっちかって言うと。

「ねぇ、そのデートって。どんなとこ行くの?」と、無遠慮に水無月は聴いて来た。

「デートじゃないよ。彼女の父親に会うんだ」

「えっ、何それ? まさか二人はゴールイン…って、まさかそういうこと?」

 こいつ… まさか全て知っててボケているんじゃないだろうな……

「――違うよ。逆だよ、全く逆。その父親に僕が頼まれるんだ、『お母さんを僕に下さい』って」

「ぅわぁ。すごいシュールだね…… 」

 全くそのとおりだ。だから気が重いんだよ、正直さ。でも自分から言ったんだから仕方がないんだよ。『少しでも信用出来る人間だと思えたら話を聴いてやる』って、彼女にね。あの公園ビンタの夜、あの瞬間、不覚にも何故か一瞬そう思えてしまったんだからさ。

 あぁ…どうしてあんなこと言ってしまったのか、このときになって僕はすごく後悔したよ。まったく正直者は幸せになれないよね。


   …………………… 


 そんなこんなでほんの少し物思いにふけった僕と、そんな僕の顔を興味深そうに眺める水無月と。共に妙に静かになってしまって、二人の間にはしばらく雨音だけが流れていた。

「雨、止まないね……」

 最初に口を開いたのは水無月だった。

「そうだね」と返して、そこで僕はふと思い出したことがあった。いや、ほんと下らないことだったんだけどね。

「そう言えばさ。この前のショッピングモールの帰りも雨だったよね。駅からどうやって家に帰ったの?」

 あの日のこと。確か僕はバス停までずぶ濡れになりながら走った記憶があって、彼女は傘も持たず迎えも来ないのに「自分は何とかなる」みたいなことを言ってたのを思い出したんだよ。

「あぁ、あれね…」と、彼女はすごくあっさりとしたふうに答えてくれたよ。

「駅前のコンビニの入口に、親切な人が置いてくれている愛のカケラを拾ったの」

「――はぁ?」

「ほら、世間ではよく言うじゃない。傘は天下の……ぁれ? 何だったけ?」

「……回り物じゃないよ」

 力無く答えて、僕は大きく溜息をついた。そうか、それなら確かに大丈夫なわけだ。代わりに道徳的や法的な部分では大丈夫でなくなっているけども。

 ひょっとしたら彼女は普段からそんな悪さをばかりを繰り返しているんじゃないのか? だとしたら、あの日階段から突き落とされても警察に行かずに泣き寝入りしたのは、やっぱり彼女の言うとおり「信じてもらえない」って理由なんだろうね。でもまぁそういうのを『自業自得』っていうのかな。さすがに彼女も今回の事件で信用の大切さみたいなものを知っただろうし、反省して、自らの行いを正すんじゃないかって思った………僕が馬鹿だった。

「どうにかなるもんでしょ?」

 悪びれずに、まだそんなことを彼女が言うもんだから僕は呆れてしまったね。

「……キミ、誕生日はいつだっけ?」

「え? 先月だけど……それがどうしたの?」

「まぁ…いいや。近いうちに折り畳み傘をプレゼントするよ。それで今後、人様の傘をパ●るような真似はしないように」

「………? どうして、そんなことしてくれるの?」

 確かに、水無月の立場からしたらそう想うだろうね。

「僕はキミに、そんじょそこらの馬鹿者と同じレベルになって欲しくないんだよ。だからさ」

「………」

 水無月は初めポカンとした顔をしていたけど、すぐに「分かった」と頷いた。

「十六夜くんがそう言うなら、そうするね」

 良かった、どうやら分かってくれたみたいだったよ。

「――それで、今日はどうするの?」

 先生が生徒に、注意内容の確認するみたいに僕がそう聞くと、「十六夜くんはどうするの?」って彼女は返して来た。

「今日は持って来てるんだよ」

 彼女が絡んで来なければいつだって僕はパーフェクトなんだよ。僕は誇らしげに鞄から折り畳み傘を取り出し彼女に見せた。

すると彼女はにんまりと笑って

「どうにかなったみたいだよ」

 と、自分と僕と僕の傘を順番に指差したんだよ。

「……なるほどね」

 少し呆れて、僕はそう呟いた。

 いずれ彼女には、世の中の厳しさというものを身体の芯に刻み込んでやらなくちゃいけないとも想ったよ。でもそれは、正直、僕以外の誰かにお願いしたいな……

 あぁ、君は今僕のことを鶏肉野郎だとか思ってるかもしれないね。でも少し僕の言い分も聞いて欲しいんだ。僕にとって水無月美優という存在は云わば災厄の種なんだよ。どうも彼女に出会ってからの僕は大切なものを幾つも失い、その代わり余計なものをたくさん背負い込んでいるような気がしてならないんだ。きっと悪い星が廻り合わせた相手なんだろうね。前世で何か良くない因縁があったのかもしれない……いや、たぶんそうなんだよ、間違いない。

 僕は最近、あの夜の彼女が言ったとおりに、そのうち彼女のために命を懸けるような事態に陥りやしないかを本気で心配しているんだよ。いやいや冗談抜きの話で。今回だって結構ヤバかっただろ?

 だからまぁ僕としては、こと彼女に関しては――他の誰に対してよりも――出来るだけ事なかれ主義で行こうと思ってるわけなんだよ、これまでどおり、安全第一に考えてさ。

 だから折り畳み傘のことは……たぶん、少し余計な話だったね。

「駅までなら良いよ」

 吐きたい溜息も飲み込んで僕はそう返事をした。とにかく可能な限り言うとおりにしてさっさと開放してもらおう、たぶんそれが最良の策だと思ったから。彼女の起こす摩擦によって発生し降りかかる火の粉から逃れるためにはね。


 そんなわけで二人仲良く(?)相合傘で校舎を後にしたわけなんだけど、雨は校門を出た辺りで小降りになり、その後すぐに止んでしまったんだ。何だか上手く説明出来ないけどすごく納得がいかない結果だった。今でも心の中にシコリみたいに残ってる感じがするよ。

 あぁ、まったく。水無月が関わるとすっきりした気持ちで終わることがないんだから。










 ―――と、まぁ。僕の話はこれで終わり。どうだった? まったくろくでもない話だっただろ? 話してる僕のほうが気を滅入らせてしまうくらいなんだから、本気で。

 実は、僕が知っているのはこれで全部なんだ。だからこれ以上話しても、決定的な事実や証拠は出て来ないよ。長々と話を聴いてくれたのに申し訳ないけど。

 まぁ、僕が話した内容から推理することくらいは出来るかもしれない。本人から直接聴ければ良いんだけど、たぶん話さないと思うよ。恥ずかしくて言えないのかもしれないね。

 でも正直。「関わりたくない」って言っておきながら、僕も少しは知りたいと思っているよ。



  一昨日、君のお兄さんが顔を腫らして帰宅した理由ってやつをね……





                                《終わり》

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十六夜物語 下原智 @simohara

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