第4話「鏡の中の影」
寺への帰路、響と詩織はほとんど言葉を交わさなかった。
レンタカーのヘッドライトが暗い道を照らし、時折、森の木々が不気味な人影のように見えた。
響は何度もバックミラーを見ていた。自分の顔が正常に映っているか確かめるように。
「あの儀式...成功したと思う?」詩織が沈黙を破って尋ねた。
響はハンドルを握る手に力が入った。「わからない。でも、あの"何か"は消えたように見えた」
「私の中にいたものも...いなくなったように感じる」詩織はそう言ったが、その声には確信がなかった。
響は詩織を横目で見た。確かに彼女は人間らしさを取り戻していた。顔色は悪いが、目には生気があり、動きも自然だった。
「あなたの双子の妹...本当に会いたかったの?」響は尋ねた。
詩織は窓の外を見つめたまま答えた。「ええ...私が生きていて、彼女が死んだという事実が...ずっと私を苦しめていた」
「でも、それは罪悪感じゃない。知りたかったの。死後の世界が本当にあるのか。彼女はどうしているのか」
響はうなずいた。操霊師として、彼女は死者の声を聞くことができる。しかし、それは断片的なものでしかなく、死後の世界の全貌を知ることはできなかった。
「科学者として証明したかった」詩織は続けた。「でも...結局、科学を超えたものに手を出してしまった」
車は高速道路に入り、東京への帰路についた。
「あの研究所では、何をしていたの?」響は尋ねた。
「最初は正当な研究だった」詩織は答えた。「脳死後の意識の存続について。でも、ある日、古い文献を見つけた...」
「冥界の門の儀式?」
「ええ。最初は迷信だと思った。でも、研究を進めるうち、それが実際に機能する可能性があることに気づいた。私たちの研究グループは...実験を始めた」
「私たち?他にも協力者がいたの?」
詩織は暗く頷いた。「五人のチームだった。でも...儀式の後、私以外は全員消えた」
響は眉をひそめた。「あのビジョンで見た、黒いローブの人たち?」
「そう。みんな科学者のはずだったのに...最後は呪術師のようになっていた」
突然、高速道路上で、車のエンジンが止まった。
「何...?」響はパニックになりながらステアリングを握った。
車は慣性で少し進んだが、すぐに減速し始めた。周囲の車が警笛を鳴らして追い抜いていく。
響はハザードランプをつけ、何とか路肩に車を寄せた。
「どうしたの?」詩織は不安そうに尋ねた。
「わからない。ガソリンはまだ...」
響が計器板を確認していると、突然、車内のライトが消えた。真っ暗になった車内で、二人は息を呑んだ。
「響さん...」詩織の声が震えていた。
車外の街灯の光で、かろうじて互いの姿が見える。しかし、その光も不自然に暗くなり始めた。まるで何かが光を吸収しているかのように。
「何かいる...」響は小声で言った。
フロントガラスの向こう、道路上に何かが立っていた。人の形をしているが、異様に長く、そして薄い。それは街灯の光に照らされておらず、黒い影のようだった。
「あれは...」詩織が息を呑んだ。
影は車に向かってゆっくりと近づいてきた。その動きは不自然で、まるでフィルムをコマ送りしているようだった。
「逃げなきゃ」響はドアを開けようとしたが、ロックが解除できなかった。
詩織も同様だった。「開かない!」
影はフロントガラスの前に立った。それは確かに人の形だったが、顔はなく、ただ黒い空洞があるだけだった。
その瞬間、影はガラスに手を置いた。その手は異様に長く、指が鋭く尖っていた。
ガラスが凍るように白く曇り、そこに文字が浮かび上がった。
『まだ終わっていない』
響は護符を取り出し、フロントガラスに押し付けた。
「退け!私たちの世界から出て行け!」
護符が光を放ち、影は一瞬ひるんだ。しかし、すぐに再びガラスに触れた。
『あなたたちは私たちのもの』
「違う!」響は叫んだ。「私たちはあなたたちを封じた!」
『封じた?』ガラスに新たな文字が現れた。『違う。あなたたちは門を開いた』
「嘘よ」詩織が震える声で言った。「あの儀式は...」
『あの儀式は完成した。そして今、私たちはここにいる』
影はガラスから手を離し、車の屋根に上った。屋根がへこむ音がした。
そして、影の手がサイドウィンドウを通して車内に伸びてきた。それは黒い煙のようで、しかし実体があるようだった。
響は咄嗟に短剣を取り出し、その手を切りつけた。
影が悲鳴を上げ、手を引っ込めた。そして、突然、車内のライトがつき、エンジンが再び動き出した。
「今のうち!」響は叫び、アクセルを踏み込んだ。
車は猛スピードで走り出した。バックミラーで見ると、影はまだ道路の上に立っていた。それは彼らを見送るように手を振っていた。
* * *
東京に戻るとすぐ、二人は寺に向かった。
綾乃は本堂で不安そうに待っていた。詩織を見ると、彼女は泣きながら姉に駆け寄った。
「姉さん!本当に...姉さんなの?」
詩織は微笑んだ。「ええ、私よ。ごめんね、心配させて...」
住職は二人の帰還を静かに見つめていた。「成功したようだな」
響は住職に近づき、低い声で言った。「本当に成功したのでしょうか。帰り道で...」
彼女は高速道路での出来事を説明した。住職は重々しくうなずいた。
「予想していたことだ。あの世界の者たちはそう簡単には諦めない」
「でも、儀式は...」
「儀式は一時的に彼らを押し返しただけかもしれん。あるいは...」
住職は言葉を切った。
「あるいは?」
「あるいは、彼らはすでにこの世界に入り込んでいる。お前たちの中に」
響は身震いした。「どういう意味ですか?」
「影喰らいは、人の体を乗っ取る。最初は影から始まり、やがて体全体を支配する」
「じゃあ、私たちは...?」
「確かめる方法がある」住職は言った。
彼は二人を本堂の奥へと導いた。そこには大きな古い鏡があった。
「この鏡は霊鏡といって、本当の姿を映し出す」住職は説明した。「もしお前たちの中に"彼ら"がいるなら、それが見えるだろう」
響と詩織は不安げに鏡の前に立った。
鏡に映ったのは、一見普通の二人の姿だった。しかし、よく見ると、彼らの影が少し濃く、少し大きく映っていた。
「これは...」響は不安げに言った。
住職は眉をひそめた。「完全には消えていないようだ。しかし、まだ支配はされていない」
「どうすればいいんですか?」詩織が尋ねた。
「浄化の儀式を行おう」住職は言った。「本物の浄化の儀式を」
響は胸騒ぎを感じた。「本物の...?あの儀式は偽物だったんですか?」
住職は答えなかった。「準備をする。今夜、満月の下で行う」
* * *
夕方、響は本堂の一室で休んでいた。疲労が彼女を襲い、彼女はまどろみに落ちた。
彼女は夢を見た。
夢の中で、彼女は鏡の迷路にいた。どこを見ても自分の姿が映っていた。しかし、よく見ると、鏡に映る自分は少しずつ違っていた。
ある鏡の中の響は目が真っ黒だった。別の鏡の中の響は口が耳まで裂けていた。また別の鏡の中の響は皮膚が灰色で、血管が浮き出ていた。
彼女は恐怖に駆られて走った。出口を探して。
そして、迷路の中心に辿り着いた。そこには一つの大きな鏡があった。
鏡の中に映ったのは詩織だった。
「詩織さん...?」
詩織は微笑んだ。「響さん、こっちに来て」
響は鏡に近づいた。詩織は手を差し伸べた。
「一緒にいましょう」
響が鏡に触れようとした瞬間、詩織の顔がゆがみ、その下から別の顔が現れた。それは人間の顔ではなかった。目は無数にあり、口は螺旋状に渦巻いていた。
『来なさい』それは言った。『あなたは私たちのもの』
響は悲鳴を上げて目を覚ました。
部屋には誰もいなかった。彼女は冷や汗をかきながら起き上がり、顔を洗おうと洗面所に向かった。
鏡に映った自分の顔を見て、響は息を呑んだ。
一瞬、彼女の目が真っ黒に見えた気がした。
「気のせい...」彼女は自分に言い聞かせた。
しかし、もう一度鏡を見ると、今度は確かに彼女の目は通常の茶色だった。
響は深呼吸をした。疲れているだけだ。恐怖から幻覚を見ているだけだ。
部屋に戻ると、窓の外は夕日が沈みかけていた。間もなく満月が昇る。
そのとき、ドアがノックされた。
「どうぞ」
ドアが開き、詩織が入ってきた。
「響さん、大丈夫?」彼女は心配そうに尋ねた。
「ええ、ちょっと悪夢を見ただけ...」
「私も」詩織は言った。「あの場所の夢を...」
二人は黙ってうなずき合った。
「住職は準備ができたって」詩織は言った。「庭に来てほしいそうよ」
* * *
寺の庭には、地面に大きな円が描かれていた。塩で描かれたそれは、複雑な模様と文字で埋め尽くされていた。
円の中央には五芒星があり、その周りに五つの小さな祭壇が配置されていた。各祭壇には蝋燭と香炉が置かれていた。
住職はすでにそこにいた。彼は白い装束を着て、手に経典を持っていた。
綾乃も側にいた。
「準備ができた」住職は言った。「まず、お前たちの影を切り離す儀式を行う」
「切り離す?」響は不安げに尋ねた。
「影喰らいはお前たちの影に寄生している。それを切り離し、浄化するのだ」
住職は二人を五芒星の中央に立たせた。
「この円から出てはならない。何があっても、決して出てはいけない」
住職は経典を開き、読み始めた。その言葉は古い日本語で、響にもほとんど理解できなかった。
蝋燭の炎が風もないのに揺れ始めた。
響は自分の足元を見た。彼女の影が不自然に濃くなっていた。そして、それは彼女の動きに合わせず、わずかに遅れて動いているように見えた。
「住職...」響は不安げに言った。
「続けるぞ」住職は言った。「影を見るな。私を見ていろ」
住職は読経を続けた。その声が次第に大きくなる。
突然、響の体に激しい痛みが走った。まるで彼女の体から何かが引きはがされるような痛み。
詩織も同様に苦しみの表情を浮かべていた。
「あ...」響は声にならない悲鳴を上げた。
彼女の足元の影が、まるで液体のように地面から浮き上がり始めた。詩織の影も同様だった。
二人の影は濃い黒い霧のようになり、彼らの足元からゆっくりと立ち上った。
それは次第に人型を形成し始めた。響の影は響自身の形に、詩織の影は詩織自身の形になった。
しかし、それらは歪んでいた。目は空洞で、口は大きく開いていた。
『止めろ...』影の響が囁いた。『私たちを切り離すな...』
影の詩織も同様に呟いた。『私たちはあなたたち...あなたたちは私たち...』
住職は読経の速度を上げた。
影たちは苦しげに体をよじらせ、円の外に逃げようとした。しかし、塩の円に触れると、彼らは悲鳴を上げて後退した。
「今だ!」住職が叫んだ。「お前たちの真の名を言え!」
響は混乱した。「真の名?」
「お前の中にある闇の名前だ!心の中で聞こえているはずだ!」
響は閉じた。確かに、彼女の心の中で、奇妙な言葉が響いていた。それは人間の言語ではなかったが、彼女には理解できた。
「アズマエル!」響は叫んだ。
同時に詩織も叫んだ。「ネハマー!」
二つの名前が発せられた瞬間、影たちは激しい悲鳴を上げた。彼らの体が波打ち、形が崩れ始めた。
住職は最後の呪文を唱えた。
「汝、此の世のものにあらず。還れ!」
激しい風が吹き、蝋燭の炎が大きくなった。影たちは渦を巻きながら空中に舞い上がり、やがて夜空の闇に溶け込んで消えた。
風が止み、静寂が訪れた。
響と詩織は、疲れ果てたように円の中に座り込んだ。
「終わったのか...?」響は息を切らしながら尋ねた。
住職はうなずいた。「影喰らいは去った。しかし...」
「しかし?」
「これは始まりに過ぎない。門は開いたままだ。彼らはまた来るだろう」
響と詩織は顔を見合わせた。
「どうすれば...?」
「門を完全に閉じるには、それを開いた場所に戻らなければならない」住職は言った。「イノセンス研究所だ」
「でも、あそこは...」
「知っている」住職は言った。「危険だ。しかし、それが唯一の方法だ」
響は決意を固めた。「行きます。もう一度」
「私も」詩織が言った。
「私も行く」綾乃が突然口を開いた。「姉さんをもう一人にしたくない」
住職は彼女たちを見つめた。「よい。しかし、この先は更に危険になる。自分自身を見失わないよう気をつけろ」
三人はうなずいた。
「明日、出発する」住職は言った。「今夜はゆっくり休め」
* * *
深夜、響は再び悪夢にうなされていた。
夢の中で、彼女は暗い廊下を歩いていた。廊下の両側には無数のドアがあった。
彼女は一つのドアを開けた。中には詩織がいた。しかし、詩織は壁に逆さまにはりついていた。彼女の首が不自然に回転し、響を見た。
『まだ終わっていない』
響は慌ててドアを閉め、別のドアを開けた。そこには綾乃がいた。彼女は床に座り、何かを抱きしめていた。近づくと、それは人間の頭部だった。詩織の頭だった。
『彼女はもういない』綾乃は言った。『あなたのせいで』
響は悲鳴を上げ、次のドアに逃げた。そこには住職がいた。彼は天井から逆さまにぶら下がっていた。
『お前は既に私たちのもの』住職は言った。彼の口から黒い液体が滴り落ちた。
響は最後のドアに向かった。そこには...彼女自身がいた。
もう一人の響は微笑んだ。しかし、その笑顔は耳まで裂けていた。
『ようこそ、私の世界へ』
響は悲鳴を上げて目を覚ました。部屋は真っ暗で、月明かりだけが窓から差し込んでいた。
彼女は冷や汗をかき、震えていた。
「ただの夢...」彼女は自分に言い聞かせた。
しかし、部屋の隅に何かが動くのが見えた。
「誰...?」
返事はなかった。しかし、確かに何かがいた。
響はベッドから出て、震える手で電気のスイッチを探した。
スイッチを入れると、部屋が明るくなった。
部屋には誰もいなかった。しかし、壁に映る彼女の影だけが、彼女とは別の動きをしていた。
影は彼女に向かって手を振り、そしてゆっくりと口の形で言った。
『すぐに会おう』
響は恐怖で声を失った。
影は壁から離れ、床に落ちた。そして、インクのように床を這い、ドアの下から部屋を出ていった。
響は凍りついたように立ち尽くしていた。
その夜、彼女は二度と眠れなかった。
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