操霊師 〜屍の囁き〜
ソコニ
第1話「死者の手紙」
寒い。
死者の気配を感じると、いつもこうして体温が奪われる。
響は自らの両腕を抱きしめた。寺院の地下室に鎮座する仏壇の前で、彼女はただじっと正座を続けていた。薄暗い部屋に立ち込める線香の煙が、どこか人の形に見えて仕方がない。
目の前の遺影写真に映る老婆は、少し前まで北区に住む商店街の評判だった。しかし三日前、突然姿を消してしまった。家族によると、認知症の症状が現れ始めていたという。しかし遺体はまだ発見されていない。
「川堀さん......あなたはどこにいるんですか?」
響の前には、老婆の遺品——手帳と白い手袋が置かれていた。
「ご家族が心配しています。どうか私に教えてください」
そう囁くと同時に、響は自分の指を噛み、微かな血を手袋に滴らせた。それは「操霊師」として代々受け継がれてきた儀式の一つだった。
死者の持ち物に自らの血を混ぜることで、その魂を呼び寄せる——。
彼女の家系で受け継がれてきた特殊な能力。それは普通の霊媒師とは違う。死者の魂を"操る"能力だった。
しかし、それは死者に無理強いするものではない。あくまで、死者の言葉を聞き、伝えることが彼女の役目だった。
「川堀さん...」
その瞬間だった。
カタン、と何かが落ちる音がした。
振り向くと、仏壇の上に供えられていた老婆の写真が床に落ちていた。写真の中の老婆は、さっきまでとは違う表情をしているように見えた。
響の背筋を冷たいものが走った。
写真の中の老婆が、微かに口を動かしている。
「私は......川......の......」
突然、響の頭の中に声が響いた。しかしそれは完全な言葉ではなく、途切れ途切れの言葉だった。
「川...の下...に......」
響の全身を震えが襲った。
「私は...生きて...いる...」
響は息を呑んだ。遺体が見つかっていないのに、なぜ死者を呼ぶ儀式に応じたのか。その矛盾に彼女は今気づいた。
「生きている...助け...て...」
響はすぐに儀式を中断しようとした。しかし、手袋が彼女の手にピタリとくっつき、離れなくなった。
「助けて...助けて...助けて...」
その声は次第に大きくなり、響の頭の中で反響した。そして——
唐突に、すべての声が消えた。
手袋はいつの間にか床に落ちていた。
響はすぐに携帯を取り出し、警察に連絡した。「川の下」という言葉から、近くの暗渠を捜索するよう依頼した。
——その夜遅く、警察から連絡が入った。近隣の地下河川で、川堀さんが発見されたという。意識はあり、命に別状はない。どうやら徘徊中に誤って落ちてしまったようだった。
響は安堵のため息をついた。しかし同時に、一つの疑問が浮かんだ。
死んでいない人の声を、なぜ彼女は聞くことができたのか。
「操霊師」は死者の声を聞く者。生きている人の声を聞くことはできないはずだった。
* * *
それから数日後、響は寺院の一室で瞑想していた。
響は、街外れの古いお寺の一角を借りて住んでいた。寺の住職は彼女の力を理解し、協力的だった。彼女の仕事場も兼ねたその部屋は、和紙の障子から柔らかな光が差し込み、遠目には普通の和室に見えた。
しかし部屋の奥には、代々受け継がれた道具が並ぶ棚があった。さまざまな形の小刀、古い経典、そして水晶の玉。それらは皆、死者と対話するための道具だった。
寺の住職の勧めもあり、響は「スピリチュアル・カウンセラー」として生計を立てていた。しかし実際は、死者からのメッセージを欲する人々に応じる「操霊師」としての仕事が多かった。
突然、寺の鐘が鳴った。誰かが訪ねてきたようだ。
響が玄関に向かうと、二十代後半と思われる女性が立っていた。黒いコートを着た彼女は、疲れた表情を浮かべていた。
「響さんですか?」と女性は問いかけた。「私、緒方綾乃と申します。ご相談があって...」
「どうぞお入りください」と響は答え、彼女を案内した。
部屋に入ると、綾乃は響の前に一通の封筒を差し出した。
「これは...姉からの手紙です」
響は首を傾げた。「お姉さまからの...?」
綾乃は深く息を吐いた。「はい。でも、姉は半年前に行方不明になったんです。死亡認定さえされています」
響は目を見開いた。死者からの手紙。
封筒は一見何の変哲もない白い封筒だった。しかし、それを手に取った瞬間、響の指先がピリピリと痺れた。
「開けてもいいですか?」と響は尋ねた。
綾乃はうなずいた。
封を切ると中から一枚の便箋が出てきた。そこにはきれいな字で、たった一行だけ書かれていた。
『響さん、お願い......私を見つけて』
響は息を呑んだ。書かれた文字を見つめるうち、彼女の耳に微かな囁き声が聞こえた。それは便箋から発せられているかのようだった。
「緒方さん...この手紙はいつ届いたんですか?」
「三日前です。切手も消印もなく、ただ私のアパートのポストに入っていました」
綾乃は続けた。「姉の名前は詩織——緒方詩織といいます。半年前、出張先の名古屋で行方不明になりました。警察は捜索しましたが、手がかりさえなく...」
綾乃の目に涙が浮かんだ。「先月、ようやく死亡認定が下りたんです。なのに、こんな手紙が...」
響は再び手紙を見つめた。その字は確かに人間の手で書かれたものだった。しかし、そこからは生者のエネルギーは感じられなかった。
「お姉さまの字に間違いありませんか?」と響は確認した。
「間違いありません。あの独特な『て』の書き方...」綾乃は手紙を指さした。「これは間違いなく姉の字です」
響は沈黙した。死者が書いた手紙。それは彼女の経験でも前例のないことだった。
「手紙以外に、お姉さまについて何か変わったことはありませんでしたか?」
綾乃は首を横に振った。「いいえ、特には...」
そう言いかけて、彼女は思い出したように顔を上げた。
「そういえば...最近、夢で姉を見るんです。姉が何かを言おうとしているけど、声が聞こえなくて...」
響はゆっくりとうなずいた。「少し調べさせてください。お姉さまの持ち物など、何か残っているものはありますか?」
「はい。姉のアパートはそのままにしてあります。家賃はまだ払い続けているんです。引き払うのが...現実を受け入れることになるようで...」
響は立ち上がった。「そのアパートに行かせてもらえますか?」
* * *
綾乃が案内してくれたのは、都内の小さなワンルームマンションだった。6階の角部屋、402号室。
ドアを開けると、部屋はきれいに片付けられていた。まるで持ち主がちょっと出かけただけで、すぐに戻ってくるかのように。
「お姉さまはどんな方でしたか?」と響は尋ねた。
綾乃は微笑んだ。「真面目で、几帳面で...でも、とても優しい人でした。民間の研究所で働いていて、忙しかったけれど...」
響は部屋を見回した。壁には写真が飾られていた。そこには綾乃と、彼女によく似た女性が映っていた。それが詩織だろう。
特に変わったものは見当たらない。普通の女性の部屋だった。
「最後に連絡があったのはいつですか?」
「行方不明になる前日です。『名古屋での仕事が終わったら帰る』というメールがありました」
響は詩織のデスクに近づいた。引き出しにはきちんと文具が整理されていた。何冊かのノートが重ねられていたが、どれも研究に関する専門的な内容ばかりだった。
と、その時、響は感じた。
誰かが彼女を見ている。
振り向くと、そこにはデスクの上に置かれた小さな鏡があった。響は思わず身震いした。
鏡に映る自分の姿。しかし、その背後に微かに別の影が見えた気がした。
「何かありましたか?」と綾乃が尋ねた。
「いいえ...」響は答えたが、もう一度鏡を見た。今度は何も映っていなかった。気のせいだったのだろうか。
響は部屋の奥に進んだ。クローゼットには詩織の服が整然と掛けられていた。
「失礼します」と言って、響はクローゼットの中を探った。
すると、奥の方から、何かが滑り落ちた。
一冊の手帳だった。
響がそれを開くと、最後のページに不思議な図形が描かれていた。五芒星を基にした複雑な図形。その周りには、響には読めない文字が書かれていた。
「これは...」
その瞬間、響の視界がゆがんだ。図形が目の前で揺れ動いているような錯覚に襲われた。
そして彼女の耳元で、かすかな声が聞こえた。
『響さん、助けて...』
響は手帳を閉じた。冷や汗が背中を流れた。
「お姉さま...何を研究されていたんですか?」
綾乃は首を傾げた。「神経科学です。脳の研究を...」
響は手帳を開き直し、綾乃に見せた。「これは何かご存知ですか?」
綾乃は図形を見て顔色を変えた。「これは...姉が最近興味を持っていた古代のシンボルだと思います。霊的な何かについて調べていると言っていました」
響は唇を噛んだ。これは「操霊師」の世界でも知られている危険な印だった。「死者を縛る鎖」と呼ばれるもの。
「緒方さん、お姉さまは操霊や霊的な事柄に興味があったんですか?」
綾乃は少し考えてから答えた。「特にそういうことはなかったと思いますが...ただ、失踪する数ヶ月前から、何か秘密の研究をしているようでした」
響は再び部屋を見回した。そして、ベッドの下に何か黒いものが見えることに気がついた。
かがんで手を伸ばすと、それは小さな布袋だった。中には赤黒く変色した何かが入っていた。
「これは...」
それは乾いた血のついた髪の毛と爪だった。霊的な儀式で使われる類のものだ。
「緒方さん、これはご存知ですか?」
綾乃は青ざめた顔で首を振った。「いいえ、初めて見ます...」
響はベッドの下をさらに探った。そして、壁との隙間から一枚の写真を見つけた。
それは詩織と思われる女性の写真だった。しかし、その顔はペンで乱暴に塗りつぶされていた。裏には一行の文字。
『逃げられない』
響は全身に悪寒を感じた。詩織は何かの儀式に手を出していた。そして、それが彼女の失踪、そして死に関係しているのだろう。
「緒方さん、少し時間をください。お姉さまの言葉を聞いてみます」
響は持ってきた道具を広げた。小さな鈴と、銀の小刀。そして、白い紙。
紙の上に詩織の写真を置き、小刀で自分の指先を切って、一滴の血を滴らせた。
「緒方詩織さん、私はあなたを呼びます。あなたの妹さんが心配しています。どうか答えてください」
響は目を閉じ、詩織の魂を呼び寄せようとした。
しかし、いつものような死者の気配はなかった。代わりに、部屋の温度が急激に下がった。
そして——
「響...さん...」
かすかな声が聞こえた。しかし、それは部屋のあらゆる方向から聞こえてくるようだった。
「詩織さん?どこにいるんですか?」
「私は...どこにも...いない...」
声は途切れ途切れだった。
「あなたはどうして行方不明になったんですか?」
長い沈黙の後、声が続いた。
「儀式...失敗...私は...もう...」
突然、響の前に置かれた写真が激しく震えた。そして、紙の上に黒い液体が染み出してきた。インクではない。それは血のように見えた。
「詩織さん!」
しかし応答はなかった。代わりに、部屋が揺れ始めた。
「あの...何が起きているんですか?」綾乃が恐怖に震える声で尋ねた。
響は儀式を中断しようとしたが、写真が彼女の手にくっついて離れなくなった。
そして、写真の中の詩織の顔が、ゆっくりと響を見つめた。
それは詩織の顔だったが、表情はどこか違っていた。目が...生きていなかった。
「違う...これは詩織さんじゃない...!」
響は叫んだ。
写真の中の「詩織」は口を開いた。歪んだ笑みを浮かべ、そして——
「見つけてくれてありがとう、響さん」
その声は詩織のものだったが、同時に何か別のものが混じっていた。
「次はあなたです」
その瞬間、写真が燃え上がった。響は思わず手を離し、写真は床に落ちた。
しかし、火はすぐに消え、写真は灰になった。
響は震える手で灰を見つめた。
彼女は確信した。
詩織は死んでいた。しかし、彼女の魂は解放されていない。
何かが彼女を縛り、操っていた。
そして今、それは響を探していた。
「綾乃さん...」響は震える声で言った。「お姉さまは...何かに囚われています」
部屋の隅で、鏡が微かに揺れていた。そこに映ったのは、響と綾乃の姿。
しかし、よく見ると、響の影だけが不自然に伸び、壁に向かって手を伸ばしているように見えた。
その影が、ゆっくりと振り返り、微笑んだ。
誰も気づかないうちに——。
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