第2話 闇の連鎖
息ができない。
灯は暗闇の中で藻掻いた。小さな手が足首に絡みつき、冷たい指が首に回る。そして耳元で囁く声。
「一緒に、ずっと一緒に」
悲鳴を上げようとしても声が出ない。
その時、突然、まぶしい光が部屋に差し込んだ。
「灯さん!どうしたんですか!?」
夜灯遺品整理の社長・黒木啓介の声だった。ドアが開き、廊下の光が部屋を照らす。灯の足首や首に絡みついていた感触は消え、澤村も部屋の隅で呆然と立ち尽くしていた。
「社長…」
灯は震える声でそう呼びかけた。
「二人とも顔色が悪いぞ。今日はもう引き上げよう」
灯と澤村は無言で頷き、急いで部屋を出た。だが、灯は確かに感じていた。出る瞬間、背中に突き刺さる視線を。
そして扉を閉める直前、部屋の奥から聞こえた囁き声を。
「また、来るよね?」
***
夜灯遺品整理の事務所は、古いビルの五階にあった。かつては多くのスタッフがいたという会社も、今では社長の黒木と、灯、澤村、そして経理担当の高橋の四人だけ。
「今日の303号室の件だが」
黒木は眉間にしわを寄せて言った。彼は50代半ばの男性で、遺品整理のベテラン。額の傷跡が彼の顔を一層険しく見せていた。
「あそこは特殊な案件だ。警察から直接依頼されたこともあって、詳細は言えないが…」
黒木は言葉を選びながら続けた。
「佐伯政夫という男は、昭和40年代に起きた『消えた子供たち』の事件と関わりがある。被疑者とまでは言われなかったが、担任教師として疑惑の目を向けられていた」
灯は息を呑んだ。黒木の話は、彼女が部屋で見た新聞記事と一致している。
「俺たちの仕事は遺品を整理することだ。しかし、時に警察が見逃した証拠を発見することもある。あの部屋には、何か手がかりが残されているはずだ」
黒木の目が真剣さを増す。
「ところで、部屋の中で何か異常なことはなかったか?」
その問いに、灯と澤村は顔を見合わせた。言うべきか、言わざるべきか。
「何もありませんでした」
先に口を開いたのは澤村だった。その声には微かな震えがあった。
灯も同調するように頷いた。しかし、彼女の心の中では、あの写真のこと、不可解な電話、子供たちの手のことが渦巻いていた。
「そうか…」
黒木は二人の顔を交互に見た。彼は二人が何かを隠していることを感じ取ったようだったが、それ以上は追及しなかった。
「明日も同じ現場だ。準備をしておけ」
***
帰宅した灯は、自分のアパートのドアを開けながらも、まだあの部屋のことが頭から離れなかった。
シャワーを浴びて、髪を乾かしながら、彼女はふと鏡を見た。
そこに映る自分の後ろに、黒い影が見える気がした。
「!?」
振り返るが、そこには何もない。
「気のせい、よね…」
灯は震える手で電気のスイッチを押し、部屋を明るくした。いつもの自分の部屋。特に変わったところはない。
彼女はベッドに横たわり、目を閉じた。しかし、瞼の裏には303号室の光景が焼き付いている。それは彼女が最初に見た、異様に整然とした部屋の姿だった。
そして、灯は気づいた。
あの部屋の配置が、彼女自身の部屋と鏡写しのように似ているということに。
「まさか…」
灯は飛び起きて、自分の部屋を見回した。確かに、家具の配置、窓の位置、すべてが303号室と左右逆になっているだけで、ほぼ同じだった。
そして彼女の目は、部屋の隅に置いてある小さな箱に止まった。
母から譲り受けた、古い宝石箱。灯が幼い頃からずっと持っていたもの。
しかし、その箱が、今、わずかに開いている。
灯は震える足で箱に近づいた。そして、それを開けた。
中から現れたのは、小さな人形だった。灯が持っていたはずのない、古びた布製の人形。その顔は黒い糸で塗りつぶされていた。
人形の下には一枚のメモ。
「あかりちゃん、一緒に遊ぼう」
その文字を見た瞬間、部屋の電気が一斉に消えた。
***
翌朝、灯が目を覚ますと、彼女はベッドの上にいた。あの人形も、メモも、どこにも見当たらない。
「夢…だったの?」
しかし、彼女のスマートフォンに新たに届いたメッセージが、それが夢ではなかったことを証明していた。
「不明」からのメッセージ。
「今日も来てくれるね。みんな、待ってるよ」
灯は恐怖に震えながらも、会社に向かった。いつもの通勤電車の中で、彼女は考えた。あの部屋で何が起きているのか、そして自分はなぜ標的にされているのか。
会社に着くと、異様な空気が漂っていた。
高橋が泣きながら電話をしている。黒木は険しい表情で壁に寄りかかっている。
「何があったんですか?」
灯が尋ねると、黒木が重い口調で答えた。
「澤村が…自殺した」
空気が凍り付いた。
「どういうことですか…?」
「今朝、自宅のバスルームで。首を…」
黒木は言葉を詰まらせた。
「警察からの連絡では、鏡に何か文字が書かれていたらしい。『次はお前だ』とな」
灯の頭に昨夜の出来事が甦る。部屋の電気が消え、現れた人形、そしてメッセージ。
「それより、これを見てくれ」
黒木は一枚の紙を灯に渡した。それは警察からFAXで送られてきた報告書だった。
「澤村の体には、複数の引っかき傷があったという。まるで子供の爪で引っかかれたような傷がな」
灯の体から血の気が引いた。
「行かなきゃ」
「どこへ?」
「303号室です。何かがあの部屋で起きています。澤村さんは何かを見た。そして…」
黒木は灯の肩を掴んだ。
「落ち着け。警察の調査が終わるまで、あの部屋には近づかない方がいい」
しかし、灯の決意は固かった。澤村の死は、彼女と同じようにあの部屋で「何か」を見たからに違いない。そして次は自分の番かもしれない。だったら、真相を突き止めなければ。
「行きます。私一人でも」
***
ロックが壊された303号室のドアは、わずかに開いていた。警察の封鎖テープが横切っているが、灯はそれを無視して中に入った。
昼間の光が窓から差し込み、部屋は昨日よりも明るく見える。しかし、空気は一層重く、淀んでいた。
灯が一歩踏み込むと、床が軋んだ。
「佐伯さん…ここにいますか?」
応答はない。部屋は静寂に包まれていた。
灯は恐る恐る部屋の中央へと進んだ。昨日と同じく、部屋は荒れた状態のままだ。しかし、よく見ると、床には白い粉が散らばっている。
「これは…塩?」
灯が屈んで粉に触れようとした瞬間、背後で声がした。
「触らない方がいい」
振り返ると、そこに立っていたのは黒木だった。
「社長…」
「話を聞いてくれなかったからな。仕方ない、付いてきた」
黒木は部屋に入り、周囲を見回した。
「ここは単なる遺品整理の現場ではない。おそらく、儀式の場所だったんだ」
「儀式?」
「佐伯政夫は教師だっただけではない。戦後の混乱期、この地域では『子守り屋』と呼ばれる存在がいた。貧しい家庭から子供を預かり、裕福な家庭に『養子』として売る仲介業だ」
灯は息を呑んだ。
「しかし、すべての子供が養子になれるわけではない。中には『商品価値がない』と判断された子供もいた。そして彼らは…」
黒木の言葉が途切れた。
「消された?」
黒木は無言で頷いた。
「警察の調査では、佐伯の関与は証明されなかった。しかし…」
黒木はその言葉を最後まで言わなかった。代わりに、彼は部屋の奥、和室のふすまに向かって歩き始めた。
「社長、そこは…」
灯の警告を無視して、黒木はふすまを開け放った。
中は真っ暗だった。昼間にも関わらず、和室の中には光が届いていないかのように見える。
「これは…」
黒木が一歩踏み込んだ瞬間、部屋全体が揺れ始めた。まるで地震のように。
「出て!」灯は叫んだ。
しかし遅すぎた。ふすまが突然閉まり、黒木の姿が闇に飲み込まれた。
「社長!」
灯が駆け寄ろうとした瞬間、床に描かれた白い粉の線が光り始めた。それは魔法陣のような形を形作っている。
そして、ふすまの向こうから、黒木の悲鳴が聞こえた。
「助けて!ここには子供たちが…彼らはみんな…!」
その声は突然途切れ、代わりに子供たちの笑い声が響き始めた。
灯は恐怖で足がすくみ、動けなかった。そのとき、彼女のスマートフォンが鳴った。
震える手で画面を見ると、「不明」からの着信。恐る恐る電話に出る。
「もしもし…?」
「ようこそ、遺品整理屋さん」
それは佐伯の声ではなかった。澤村の声だった。
「次は、あなたですよ、灯さん」
電話を切った瞬間、ふすまが再び開いた。そこから現れたのは黒木ではなく、真っ赤な血に染まった一枚の写真だった。
灯がその写真を拾い上げると、そこには7人の子供たちと、中央に立つ佐伯政夫の姿があった。しかし今回は、子供たちの顔は塗りつぶされておらず、はっきりと見える。
そして、その写真の隅には、もう一人の大人がいた。
それは、若かりし日の黒木啓介だった。
その瞬間、灯の頭に激痛が走った。彼女の視界が歪み、部屋が回転し始める。そして、床から何かが這い上がってくる音が聞こえた。
灯は最後の力を振り絞って、部屋から逃げ出そうとした。しかし、ドアに手をかけた瞬間、背後から誰かに髪を掴まれた。
振り返ると、そこには黒木がいた。しかし、彼の目は虚ろで、口からは黒い液体が流れ出ていた。
「灯さん…みんなに会わせてあげる…」
その声は黒木のものではなかった。
灯の悲鳴は、303号室の壁を超えて、誰にも届かなかった。
(第二話 終)
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